和解(3)
文字数 2,397文字
「あの日・・・私はもうヒロが私と口をきいてくれないんじゃないかと思っていた。それがこわくてこわくて、夜中に何度も目が覚めて眠れなかった。でも翌日、ヒロはそれまでと同じように、何事もなかったように、普通におはよう、て。その時どんなにほっとしたか!良かった。私が言ったわけじゃないし、私はヒロのこともヒロのママのこともよく知ってるんだから、今までとおんなじだ、て。
でも、・・・おんなじじゃなかったんだよね。ちえちゃんからヒロが学校に来ていない、て聞いたとき・・・あの事だ、て思った。おんなじはずが無いのに、私はヒロの気持ちに気づかないふりをして、あのことも忘れたふりをしてずっとずっとヒロの気持ちを無視してきたことに気が付いたの。・・・遅いね、遅すぎるね。」
美緋絽はあのあと茜里が2人きりの時に何か言ってくるのでは、と思っていた。が、何一つ素振りですら変化のない茜里の様子に困惑した。でも、自分から口にすることがためらわれ、気にしないようにしようとずっと自分に言い聞かせてきたのだ。でも、心の中には〈どうして?〉という声がこだまのように響いて消えなかった。
「一つだけ、茜里に聞きたいことがあるの。」
茜里は美緋絽の目をまっすぐに見つめ、しっかりとうなずいた。
「どうしてあのとき、やっこ達と一緒に帰ったの?どうして振り向きもしないで去っていったの?」
茜里の瞳はみるみるうちに涙でいっぱいになった。
「私は・・ヒロみたいに特別な子じゃないから。」
「何それ。何言ってるの?私のどこが特別なの?」
歯を食いしばるように美緋絽は言った。どうして茜里までもが自分を特別だと言うのか。
「だって、ヒロは小さい時からなんでも出来て・・幼稚園の時もカルタ会ではいつもたくさん取って、劇のときのセリフも間違いなく覚えて、ヒロのママが迎えに来られなくてうちに来ていた時もずっとニコニコしてて。ママがいつも言ってた。美緋絽ちゃんはえらい、すごい、いい子だって。小学校に行ってからもテストはいつも満点で、クラスに貼ってある九九や漢字達成表ではいつもトップを争っていたよね。」
(茜里はなんにもわかってない。カルタも劇のセリフも私がやりたかったわけじゃない。テストだって・・ママが。)
「・・・4年の最初の参観日の次の日、初めて同じクラスになったやっこたちに聞かれたの。
『茜里ちゃん、美緋絽ちゃんと幼稚園一緒だったから仲いいのよね。』
て。
『美緋絽ちゃんて、なんか特別な感じがするけどどんな子なの?ママはお仕事してるの?』
私、ヒロのママはヒロが小さい時からバリバリ仕事をしていて忙しい時はよく美緋絽がうちに来ていたこととか、勉強もできるし、劇でたくさんセリフのある役とかしてすごいんだよ、なんてちょっと自慢げに話したの。そうしたら
『茜里ちゃんとは違うんだね。』
て言われて。すごく嫌な気持ちになった。
それから時々やっこ達は私にヒロの悪口を言うようになったの。私、その度にそんなこと聞きたくない、て思ったけどどうしても『やめて』て言えなかった。・・・怖かったの。もしそんなこと言ったら今度は私の悪口を言うんだろうな、て思った。
4年生になる少し前、ママからがんばって中学受験しよう、て言われて。その時はぜんぜん乗り気じゃなかった。だって学校が終わってからまた塾に行って勉強するなんて絶対イヤだ、て思ったから。私、成績は普通だし勉強もそんなに好きじゃなかったから、最初はママに言われてなんとなく塾に通いだしたんだけど。
でも・・・ヒロは5年からやっこ達とはクラスが離れたけど、私はずっと一緒だったから、どうしてもやっこ達から逃げたかった。合格して別の中学に行けば、やっこ達とも離れられる。だから絶対合格するんだ!て・・・」
そう言うと茜里は両手で顔を覆った。
「私・・・ヒロが強い子だ、て・・・勝手に・・・きめてたの・・かも・・しれない。」
茜里はしゃくりあげながら切れ切れに言った。
「私、本当は分かっていた。ヒロがなんでスマホでつながってくれないのか。・・それが私への答えなんだ、て。」
美緋絽は茜里もまた傷を負っていたことをこの時初めて知った。確かに茜里は自分を守るために逃げたのかもしれない。でも、がんばって難しい中学に合格した。そして今、勇気を出して自分に謝りに来た。そんな茜里を責めることを自分がしていいとは思わなかった。そしてもっと早く茜里の苦しい、つらい胸の内を知ることができていたなら・・・
実は美緋絽はスマホを持っていなかった。以前持っていたものを手放していた。ある時スマホの中で繰り広げられる欺瞞や悪意に満ちた攻撃を目にしてから開くことが怖くなった。そしてスマホが鳴ると冷汗が出たり呼吸ができなくなったり、不安を感じるようになったのだ。
葵に連れられて行った病院の医師にスマホの使用を制限してみたらどうかと言われたとき、美緋絽がスマホを手放すことは簡単だった。だれともつながりたくなかったからだ。でも、今は茜里とつながらなかったことがとても悔やまれた。
「・・・茜里、話してくれてありがとう。私も・・茜里のことなんにもわかってなかったみたい。」
美緋絽の言葉に茜里は顔を上げた。
「もうすぐこの家、マユミさんが引っ越して集会所になるの、茜里も知ってると思うけど。」
こくんと茜里がうなずいた。
「それまで、私は今まで通りこの庭のお世話を手伝うつもりなの。その・・もし茜里にその気があったら・・土曜日とかね、茜里も一緒にやらない?」
茜里の表情がパッと明るくなったのがわかった。
「うん!いいの?私が来ても。」
「マユミさんに聞いてみないといけないけど、マユミさんはダメなんて絶対言わないと思うわ。」
茜里の笑顔を見ながら、美緋絽はまた前みたいにきっといろんな話ができると思った。
ちょうどその時、門扉の前でマユミの自転車の乾いたブレーキの音がした。
でも、・・・おんなじじゃなかったんだよね。ちえちゃんからヒロが学校に来ていない、て聞いたとき・・・あの事だ、て思った。おんなじはずが無いのに、私はヒロの気持ちに気づかないふりをして、あのことも忘れたふりをしてずっとずっとヒロの気持ちを無視してきたことに気が付いたの。・・・遅いね、遅すぎるね。」
美緋絽はあのあと茜里が2人きりの時に何か言ってくるのでは、と思っていた。が、何一つ素振りですら変化のない茜里の様子に困惑した。でも、自分から口にすることがためらわれ、気にしないようにしようとずっと自分に言い聞かせてきたのだ。でも、心の中には〈どうして?〉という声がこだまのように響いて消えなかった。
「一つだけ、茜里に聞きたいことがあるの。」
茜里は美緋絽の目をまっすぐに見つめ、しっかりとうなずいた。
「どうしてあのとき、やっこ達と一緒に帰ったの?どうして振り向きもしないで去っていったの?」
茜里の瞳はみるみるうちに涙でいっぱいになった。
「私は・・ヒロみたいに特別な子じゃないから。」
「何それ。何言ってるの?私のどこが特別なの?」
歯を食いしばるように美緋絽は言った。どうして茜里までもが自分を特別だと言うのか。
「だって、ヒロは小さい時からなんでも出来て・・幼稚園の時もカルタ会ではいつもたくさん取って、劇のときのセリフも間違いなく覚えて、ヒロのママが迎えに来られなくてうちに来ていた時もずっとニコニコしてて。ママがいつも言ってた。美緋絽ちゃんはえらい、すごい、いい子だって。小学校に行ってからもテストはいつも満点で、クラスに貼ってある九九や漢字達成表ではいつもトップを争っていたよね。」
(茜里はなんにもわかってない。カルタも劇のセリフも私がやりたかったわけじゃない。テストだって・・ママが。)
「・・・4年の最初の参観日の次の日、初めて同じクラスになったやっこたちに聞かれたの。
『茜里ちゃん、美緋絽ちゃんと幼稚園一緒だったから仲いいのよね。』
て。
『美緋絽ちゃんて、なんか特別な感じがするけどどんな子なの?ママはお仕事してるの?』
私、ヒロのママはヒロが小さい時からバリバリ仕事をしていて忙しい時はよく美緋絽がうちに来ていたこととか、勉強もできるし、劇でたくさんセリフのある役とかしてすごいんだよ、なんてちょっと自慢げに話したの。そうしたら
『茜里ちゃんとは違うんだね。』
て言われて。すごく嫌な気持ちになった。
それから時々やっこ達は私にヒロの悪口を言うようになったの。私、その度にそんなこと聞きたくない、て思ったけどどうしても『やめて』て言えなかった。・・・怖かったの。もしそんなこと言ったら今度は私の悪口を言うんだろうな、て思った。
4年生になる少し前、ママからがんばって中学受験しよう、て言われて。その時はぜんぜん乗り気じゃなかった。だって学校が終わってからまた塾に行って勉強するなんて絶対イヤだ、て思ったから。私、成績は普通だし勉強もそんなに好きじゃなかったから、最初はママに言われてなんとなく塾に通いだしたんだけど。
でも・・・ヒロは5年からやっこ達とはクラスが離れたけど、私はずっと一緒だったから、どうしてもやっこ達から逃げたかった。合格して別の中学に行けば、やっこ達とも離れられる。だから絶対合格するんだ!て・・・」
そう言うと茜里は両手で顔を覆った。
「私・・・ヒロが強い子だ、て・・・勝手に・・・きめてたの・・かも・・しれない。」
茜里はしゃくりあげながら切れ切れに言った。
「私、本当は分かっていた。ヒロがなんでスマホでつながってくれないのか。・・それが私への答えなんだ、て。」
美緋絽は茜里もまた傷を負っていたことをこの時初めて知った。確かに茜里は自分を守るために逃げたのかもしれない。でも、がんばって難しい中学に合格した。そして今、勇気を出して自分に謝りに来た。そんな茜里を責めることを自分がしていいとは思わなかった。そしてもっと早く茜里の苦しい、つらい胸の内を知ることができていたなら・・・
実は美緋絽はスマホを持っていなかった。以前持っていたものを手放していた。ある時スマホの中で繰り広げられる欺瞞や悪意に満ちた攻撃を目にしてから開くことが怖くなった。そしてスマホが鳴ると冷汗が出たり呼吸ができなくなったり、不安を感じるようになったのだ。
葵に連れられて行った病院の医師にスマホの使用を制限してみたらどうかと言われたとき、美緋絽がスマホを手放すことは簡単だった。だれともつながりたくなかったからだ。でも、今は茜里とつながらなかったことがとても悔やまれた。
「・・・茜里、話してくれてありがとう。私も・・茜里のことなんにもわかってなかったみたい。」
美緋絽の言葉に茜里は顔を上げた。
「もうすぐこの家、マユミさんが引っ越して集会所になるの、茜里も知ってると思うけど。」
こくんと茜里がうなずいた。
「それまで、私は今まで通りこの庭のお世話を手伝うつもりなの。その・・もし茜里にその気があったら・・土曜日とかね、茜里も一緒にやらない?」
茜里の表情がパッと明るくなったのがわかった。
「うん!いいの?私が来ても。」
「マユミさんに聞いてみないといけないけど、マユミさんはダメなんて絶対言わないと思うわ。」
茜里の笑顔を見ながら、美緋絽はまた前みたいにきっといろんな話ができると思った。
ちょうどその時、門扉の前でマユミの自転車の乾いたブレーキの音がした。