庭(1)
文字数 2,257文字
電話の音で美緋絽は目を覚ました。しかしすぐに起き上がって階下へ電話をとりに行こうという気にはなれなかった。体も頭も重たくて、寝返りを打つのでさえ億劫だった。電話はその後10回ほど鳴って止まった。
5分ほどぼうっと横になっていたが、枕元にある時計に手を伸ばし時刻を確認した。11時12分だった。寝起きの悪い美緋絽だったがさすがに11時過ぎまで寝ている事は珍しかった。昨晩の妙にリアルな夢のこと、フリーズしたパソコンの画面などが頭の中に浮かんでなぜか落ち着かない気分だった。
何かいつもと違う感覚が体から離れなかった。するとまた電話が鳴った。よほど急ぎの用事なのだろうか?美緋絽はベッドから出ると重たい体を急がせて電話の元へ走った。慌てて受話器を取ると、おばあちゃんからだった。
「もしもし?美緋絽?」
「はい、美緋絽です。」
「具合、悪いの?」
「うん、ちょっと頭が痛くて。」
「さっきお母さんから電話があってね。熱は?」
「熱はないと思うけど。」
「そう。じゃあ大丈夫そうだね。お母さん、お客さんが立て込んでて電話がなかなかできないらしくて。代わりに様子聞いてほしい、てお母さんから。体調なかなか安定しなくて美緋絽もつらいだろうけど、まぁ思春期、ていうこともあると思うから。あんまり細かいこと気にしないようにして、体動かすようにしてみたら?特にスポーツとかじゃなくても、家の手伝いとかでもいいと思うわよ。ほら、葵も忙しいから美緋絽がちょっとしてあげるとそれだけでお母さん大助かりだと思うし。」
おばあちゃんの声はゆったりとしていて心地よかった。美緋絽はいつになく素直になれた。
「うん、そうしてみる。」
小学校の頃おばあちゃんの家で毎年のように夏を過ごしたとき、規則正しい生活をすることに厳しかったことを思い出した。
同時にあの頃も本当は朝起きるのが辛かったことを思い出した。夏休みのちょうど真ん中、友達が誘い合ってプールに行ったり、家族旅行に行っている時に美緋絽は家から離れておばあちゃんの家で過ごした。もちろん1日中1人でいることに比べればずっといいに決まっている。でも・・・と美緋絽が思いかけたとき、また電話がなった。まだ何か言いたそうだったからおばあちゃんかもしれない。美緋絽が受話器を取るとそこには葵がいた。
「美緋絽、起きたの?あなた、どこか具合悪いんじゃないでしょうね。」
開口一番葵の心配そうな言葉が飛んできた。
「大丈夫。特に悪いところはないよ。」
「そうなの?良かった。今朝、何だかぐったり寝ていたから心配だったのよ。でも熱はなさそうだったからそのまま仕事にきたんだけどね。」
「何か用?」
美緋絽はわざとつっけんどんに言った。
「え・・何て、心配だったから電話したんでしょう?」
葵はイライラした調子で言ったあと小さなため息をついてから言葉を続けた。
「今朝学校の水川先生から電話があったの。文化祭でクラスごとに合唱をやるんですって。家でもいいから練習して文化祭では一緒に歌いましょう、て。」
無言の美緋絽に葵は続けた。
「中学の文化祭の合唱、初めてだから・・・合唱、出られるといいんじゃない?」
言葉を選ぶように、ぎこちなく話す葵の様子に美緋絽の心にさざ波が立った。
「ママ、出てほしいの?」
「え?出てほしいなんて・・そんなこと言ってないじゃない。せっかくの文化祭なんだもの。中学の合唱はまた違うでしょ?だから出てみたら、て言ってるだけじゃない。」
「・・・」
「もしもし?もしもし?美緋絽?」
「・・・」
「美緋絽、聞いてるの?何か言いなさい。あなた、いつもだんまりで。ちゃんと言葉で伝えなさいよ!」
いつになく語気を荒くしながらも最後の方は少し涙声になっていた。電話の向こうでチャイムの音がした。事務所に誰か来たようだった。
「なるべく早く帰るようにするから。」
小声でつぶやくように言って葵の電話は切れた。
美緋絽はゆっくりと受話器を置いた。なぜか涙がこぼれた。涙の理由は明確にはならなかったけれど、体の中に膨らんできた何かに押しつぶされそうになってその場にうずくまってしばらく泣いた。
葵が朝食に用意していった食事を摂って顔を洗うと気分は少し良くなった。時刻はすでに2時をまわっていた。部屋にもどって何気なく外を見ると相変わらずマユミが庭仕事をしていた。夏の植物を取り除いて、スッキリとした花壇を囲う柵を直していた。マユミは手慣れた様子で花壇の周りを掘ってそこに改めて柵を埋め戻していた。しばらくその様子を見ていた美緋絽だったが急にテーブルの上のパソコンを思い出した。
(もう一度見てみよう。)
パソコンを立ち上げ《思い出の花束 マドレーヌ レシピ》と入れると昨日のホームページがあらわれた。
美緋絽は少し緊張しながらホームページに入るとあの数字がちりばめられたページになった。しかし今日は点滅している数字はなかった。適当に番号を選び、読んでみたものの、これがマユミのものかどうかよくわからなかった。
昨夜の不思議でリアルな夢が美緋絽をソワソワさせた。あのとき、あの夢の中であの少女が【椿子】と呼ばれたとき、ちょっとがっかりしたことは確かだった。【マユミ】と呼ばれるのではないかと少なからず期待していた自分がいたからだ。
(じゃあ、あの子は誰だったの?)
幼いころ自転車に乗っていて転んだ話や旅行先での失敗談など、どれも取り留めのないものばかりで誰の思い出にもあるようなことだった。五つほど話を読んで美緋絽は立ち上がって窓からマユミの庭を眺めた。
5分ほどぼうっと横になっていたが、枕元にある時計に手を伸ばし時刻を確認した。11時12分だった。寝起きの悪い美緋絽だったがさすがに11時過ぎまで寝ている事は珍しかった。昨晩の妙にリアルな夢のこと、フリーズしたパソコンの画面などが頭の中に浮かんでなぜか落ち着かない気分だった。
何かいつもと違う感覚が体から離れなかった。するとまた電話が鳴った。よほど急ぎの用事なのだろうか?美緋絽はベッドから出ると重たい体を急がせて電話の元へ走った。慌てて受話器を取ると、おばあちゃんからだった。
「もしもし?美緋絽?」
「はい、美緋絽です。」
「具合、悪いの?」
「うん、ちょっと頭が痛くて。」
「さっきお母さんから電話があってね。熱は?」
「熱はないと思うけど。」
「そう。じゃあ大丈夫そうだね。お母さん、お客さんが立て込んでて電話がなかなかできないらしくて。代わりに様子聞いてほしい、てお母さんから。体調なかなか安定しなくて美緋絽もつらいだろうけど、まぁ思春期、ていうこともあると思うから。あんまり細かいこと気にしないようにして、体動かすようにしてみたら?特にスポーツとかじゃなくても、家の手伝いとかでもいいと思うわよ。ほら、葵も忙しいから美緋絽がちょっとしてあげるとそれだけでお母さん大助かりだと思うし。」
おばあちゃんの声はゆったりとしていて心地よかった。美緋絽はいつになく素直になれた。
「うん、そうしてみる。」
小学校の頃おばあちゃんの家で毎年のように夏を過ごしたとき、規則正しい生活をすることに厳しかったことを思い出した。
同時にあの頃も本当は朝起きるのが辛かったことを思い出した。夏休みのちょうど真ん中、友達が誘い合ってプールに行ったり、家族旅行に行っている時に美緋絽は家から離れておばあちゃんの家で過ごした。もちろん1日中1人でいることに比べればずっといいに決まっている。でも・・・と美緋絽が思いかけたとき、また電話がなった。まだ何か言いたそうだったからおばあちゃんかもしれない。美緋絽が受話器を取るとそこには葵がいた。
「美緋絽、起きたの?あなた、どこか具合悪いんじゃないでしょうね。」
開口一番葵の心配そうな言葉が飛んできた。
「大丈夫。特に悪いところはないよ。」
「そうなの?良かった。今朝、何だかぐったり寝ていたから心配だったのよ。でも熱はなさそうだったからそのまま仕事にきたんだけどね。」
「何か用?」
美緋絽はわざとつっけんどんに言った。
「え・・何て、心配だったから電話したんでしょう?」
葵はイライラした調子で言ったあと小さなため息をついてから言葉を続けた。
「今朝学校の水川先生から電話があったの。文化祭でクラスごとに合唱をやるんですって。家でもいいから練習して文化祭では一緒に歌いましょう、て。」
無言の美緋絽に葵は続けた。
「中学の文化祭の合唱、初めてだから・・・合唱、出られるといいんじゃない?」
言葉を選ぶように、ぎこちなく話す葵の様子に美緋絽の心にさざ波が立った。
「ママ、出てほしいの?」
「え?出てほしいなんて・・そんなこと言ってないじゃない。せっかくの文化祭なんだもの。中学の合唱はまた違うでしょ?だから出てみたら、て言ってるだけじゃない。」
「・・・」
「もしもし?もしもし?美緋絽?」
「・・・」
「美緋絽、聞いてるの?何か言いなさい。あなた、いつもだんまりで。ちゃんと言葉で伝えなさいよ!」
いつになく語気を荒くしながらも最後の方は少し涙声になっていた。電話の向こうでチャイムの音がした。事務所に誰か来たようだった。
「なるべく早く帰るようにするから。」
小声でつぶやくように言って葵の電話は切れた。
美緋絽はゆっくりと受話器を置いた。なぜか涙がこぼれた。涙の理由は明確にはならなかったけれど、体の中に膨らんできた何かに押しつぶされそうになってその場にうずくまってしばらく泣いた。
葵が朝食に用意していった食事を摂って顔を洗うと気分は少し良くなった。時刻はすでに2時をまわっていた。部屋にもどって何気なく外を見ると相変わらずマユミが庭仕事をしていた。夏の植物を取り除いて、スッキリとした花壇を囲う柵を直していた。マユミは手慣れた様子で花壇の周りを掘ってそこに改めて柵を埋め戻していた。しばらくその様子を見ていた美緋絽だったが急にテーブルの上のパソコンを思い出した。
(もう一度見てみよう。)
パソコンを立ち上げ《思い出の花束 マドレーヌ レシピ》と入れると昨日のホームページがあらわれた。
美緋絽は少し緊張しながらホームページに入るとあの数字がちりばめられたページになった。しかし今日は点滅している数字はなかった。適当に番号を選び、読んでみたものの、これがマユミのものかどうかよくわからなかった。
昨夜の不思議でリアルな夢が美緋絽をソワソワさせた。あのとき、あの夢の中であの少女が【椿子】と呼ばれたとき、ちょっとがっかりしたことは確かだった。【マユミ】と呼ばれるのではないかと少なからず期待していた自分がいたからだ。
(じゃあ、あの子は誰だったの?)
幼いころ自転車に乗っていて転んだ話や旅行先での失敗談など、どれも取り留めのないものばかりで誰の思い出にもあるようなことだった。五つほど話を読んで美緋絽は立ち上がって窓からマユミの庭を眺めた。