椿子(2)

文字数 2,512文字

千陽さんのお葬式から後のことはほとんど記憶がなくてね。椿子さんとも話した記憶はない。話すとそこに必ず千陽さんがいることがわかっていたから、私は悲しすぎて言葉を交わすことができなかったんだと思う。それは椿子さんも同じで、私たちは互いにいたわりあって話すこともなく別れたんだと思う。
 その年の夏、私は父の仕事の都合で都会へ引っ越しをしたの。小学生の時期のほとんどを過ごした家だったけど、その地を離れることに私は少しほっとしていた。その時もしかしたら椿子さんともう会うことはないのかもしれないと思って、それはちょっぴり寂しかったけどね。
 でも、予想に反して翌年の夏、椿子さんから私の引っ越した家に暑中お見舞いのはがきが届いたの。母から椿子さんのはがきが届いていると聞いたとき、心臓がトクンと鳴ったのを覚えている。でも、一年ぶりに届いた椿子さんの便りに私は思ったより動揺しなかった。自分の体調が良いこと、私が引っ越したことで家が近くなったからいつか会えたらうれしい、と書かれていて田舎のことは何も書かれていなかったから正直ほっとした。
 だから返事もすぐに書けた。会いたいね、と。ただ同じ地域とはいえ、電車で一時間ほどの距離にいた私たちは結局ずっと会うことはなかった。でも頻繁ではなかったけれど、手紙のやり取りや電話でいろんな話をして楽しんでいた。
 椿子さんから初めて(たつき)さんの話を聞いたのは私が高校生の頃だった。樹さんは町に古くからあるおじいさんの代からの医院の息子さんで、椿子さんのお母さんの遠い親戚だと伺ったわ。椿子さんはそのお宅に小さい頃何度か行ったことがあって、その時七つ上の樹さんがとってもやさしくて大人っぽくてあこがれたというか・・まあ、恋心が芽生えていたのね、きっと。
 高校生の時にその医院のおじいさんが亡くなってお葬式に行ったときに、椿子さんは当時医学生だった樹さんと再会したの。幼いころの記憶のままの穏やかで優しさに満ちた彼に、ほとんどまともに話が出来なかった、と電話で話してくれた。
 そのとき自分を気遣って話かけてくれたことや体調を心配して控室で休ませてくれたこととか、電話だからもちろん顔は見えないんだけど、息づかいや声を聞いているだけで、頬を紅潮させながら話す上気した椿子さんの顔を想像して私までドキドキしちゃった。
 それからときどき樹さんは勉強を教えに椿子さんのおうちに来るようになって、一緒にお出かけすることもあって、どんどん樹さんを大好きになっていったけど・・でも、椿子さんは自分が樹さんと結婚できるとは思ってなかった。
 椿子さんは生まれたときから心臓が悪くて。今なら手術とか手段はあるのかもしれないけど、椿子さんが小さい頃はまだ手術を受けたくてもなかなか難しかったらしくて。だから症状が出ないように薬を飲んだり運動を制限したりしないといけなかったの。
 私たちが激しい運動をしたりするとハアハアして苦しかったり、そのあと疲れたりするでしょ?椿子さんにとっては少しの運動が私たちが激しい運動をしているときと同じように体に負担をかけることになるの。だから体育の時間はいつも見学だし、遠足にも行ったことがなかったそうなの。ずっと薬も飲んでいたし、定期的に病院で検査をしたりして。そんな自分が就職して仕事をしたり、結婚して家事や出産できるとは思えなかったのよ。

(そんな・・)

美緋絽にはまだ先の話だったが、漠然と将来は仕事をして結婚するのは当たり前のことなんだろうな、という感覚があった。でも、それが当たり前ではない人がいる、まして自分のすぐそばにいたことに小さな驚きを感じた。

 そんな椿子さんは21歳になったとき、一つの大きな決断をしたの。それは手術を受けること。子どもの頃はまだ治療の主流ではなかった手術が、だんだんできるようになっていたの。
 でも、手術をしたからといって完治するものではないこと、成功率も高くはなかったからずっとやろうとしなかったんだけど、もし手術が成功したら、自分もほかの人と同じようになれるかもしれないと椿子さんは思うようになったの。
 そして椿子さんは手術に臨んで、手術は成功。私、居ても立っても居られなくて。面会が可能になった、て聞いて飛んでお見舞いに行ったの。まだなかなかたくさん歩くのは難しかったけど、起き上がってベッドに座っている椿子さんに会ったときはすごく驚いたの。だってとっても顔色が良かったから。
 私、ホッとしたわ。もちろん手術が成功したことや元気になったこともだけど、これで樹さんと結婚できる、て思ったの。そして、仕事をしたり赤ちゃんを産んだり、今までやりたくてもできなかったこと全部やるんだ、って。自分のことのようにやる気を感じていたように思う。
 椿子さんは順調に回復して退院して、少しずつ体力がついて仕事も始められて。友達も増えて、おしゃれしてお出かけして、お酒も楽しんだり・・でも、でもね、そんなに簡単なことじゃなかったの。確かに以前よりはやれることは増えた。薬を飲んだり経過観察を受けたりしながらだけど、仕事をしたり遊びに行ったりして・・前みたいな制限は減ったけど‥減ったんだけど、赤ちゃんを産むことは難しいと言われていてね。出産、ていうのは本当にすごいことなのよ。人をこの世に生み出すんですもの。
 お産は病気じゃないからとよく言われるけど、お母さんの体にとっては一大事がおきているのよね。おなかの中で10カ月赤ちゃんを育てているときも、そしてその赤ちゃんを生み出すときにもすごく大きなエネルギーが必要で。そのエネルギーとダメージに椿子さんの体は持ちこたえられないと主治医の先生に言われたの。その時の椿子さんの悲しみの心は私の想像なんかではとても量れないものだったのだと思う。」

 美緋絽はまたしても口をつぐんだ。出産することがそんなに大変なことだと思っていなかった。いや、思っていた。テレビや周りのお母さんたちが話しているのを聞いて、出産て大変なんだなぁと。でもそれは何となくそう思っていただけだった。今「大変なこと」の本当の意味が少しわかった気がした。
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