妖精(2)
文字数 3,585文字
私はあまりに突拍子もない言葉に驚いて、ただ椿子さんを見つめていた。
『そうよね。驚いて、いえ、あきれて言葉が出ないわよね。そう思うから私は今まで誰にも話したことがなかった。マユミちゃんにでさえね。自分でも時間が経つにつれて夢だったのかもしれないと思うようになってね。忘れることも多くなっていったわ。
でも時々ふと、あれは夢じゃなかったかもしれない、て思うの。なぜならずっと見たかったカラスウリの花をあの年私は見たんだわ。初めてお母さんに、〈一人で残ってカラスウリの花を見てから帰りたい〉と言うことができたの。そんな勇気を出してお母さんに言えたのは妖精が私に力をくれたからだと思うの。』
大きな息をついて椿子さんは静かにお茶を飲んで意を決したように言った。
『じゃあ、どうして今さらマユミちゃんに話そうと思ったのか。それはね、その妖精をまた見つけたからなの。ああ、夢じゃなかったんだ!て。マユミちゃんにも妖精を見てもらいたくて!だからすぐに電話したの。』
私はにわかには信じがたくて。だってここには花なんて咲いてないし。
『妖精は・・・どこにいるの?』
いぶかしげに尋ねる私に少し困ったように
『マユミちゃんが想像している妖精とはちょっと違うかもしれないけどね。多分、もうすぐ来るわ、帰ってくる時間よ。』
(帰ってくる?)
どう気持ちを寄せればいいのかためらっていると
『あ、来たわ。帰ってきた。』
頬を赤らめ上気した様子で椿子さんは期待を込めた表情で、歩いてくる一団を見つめた。
それは、ランドセルをかついだ小学校高学年くらいの4人の女の子だった。
(え?妖精?)
と私は思ったけど、椿子さんは真剣なまなざしでジッと見ていた。
すると4人は向かいの家の門扉の前で立ち止まった。一瞬の間があってその中の背の高い子が一人の女の子の前に立ちはだかった。すぐにほかの子たちもその横に並んで立ち、あっと言う間に1対3になった。そしてすぐに3人は去っていった。
私は何が起こったかすぐに想像がついた。むろん、椿子さんもそうだったと思う。しばらく私たちは身じろぎもせず見つめていたんだけど、座椅子から身を乗り出すようにして不安そうに成り行きを見ていた椿子さんの呼吸がとても速くなっていることに気が付いて、私はすぐに隣の部屋にある布団に椿子さんを寝かせたの。
美緋絽は思い出した。あの時のことを!そう、冬の寒い日だった。あの日学校の帰りに家の前で友人から別れ際に言われた言葉に打ちのめされた。それ以上に傷ついたのはそのとき茜里が何も言ってくれなかったこと。そしてそのまま振り向きもせずに去っていったこと。ほかの子が言ったことはショックでないといえばうそになる。でもそれよりも茜里がとった態度が深く美緋絽の心をえぐった。
小さくなっていく茜里の後ろ姿を見送るうちにひとつぶ、涙がこぼれおちた。最初のひとつぶが落ちるとその次の涙がこぼれてくるのはとても簡単だった。涙はやがてつながって川の流れのようにとめどなく流れ、そこへ鼻水も加わり大洪水になりかけた。その時、美緋絽は目が合った。向かいの垣根の向こう、縁側からそっと見ている人がいた。見られた、と思うと美緋絽は門扉を開けてサッとその内側に身を隠した。向かいの人にも葵にも気づかれたくなくて、門扉の陰に隠れた。そして何度も涙を拭い鼻をすすりあげた。ポケットにハンカチがあることを思い出して今度はハンカチで何度も顔中をこすった。ようやく少し落ち着いてきて息をひとつ大きく吐いた。そっと門扉の端からうかがうと、まだ向かいの人が探すように見つめているのが見えた。
(あれは・・・娘さん?)
40代くらいのその人は見たことがない人だった。向かいのおばあさんに少し似ている気がした。向かいの人はおばあさんしか見たことがなかったが歳回りからしておそらく娘さんであろうと思われた。色が白く小柄で上品そうなその人は美緋絽と目が合うとその澄んだ瞳で美緋絽を見据えた。ハッとして美緋絽は再び門扉に身を隠した。
どれくらいの時間そうしていたのか、気が付くと美緋絽の顔はぬぐった涙と鼻水が乾いてガワガワとした感じになっていた。
(あんまり遅いとママに気づかれるかも)
葵は意外とそういうところが鋭いことを美緋絽は知っていた。そっと首を伸ばして向かいを見ると、縁側にはもう誰もいなかった。それでも美緋絽は体をかがめたまま静かに門扉を閉めると立ち上がり玄関ポーチに立った。背筋を伸ばし小さな息をひとつ吐くとドアを開け「ただいま!」と言った。靴を脱ぎながら、ああ、ちょっと元気よすぎたかな・・・と思ったがリビングからは
「おかえりー」
といつもの調子の葵の声がしただけだったので美緋絽はほっとした。そして何も特別なことはなかったように振る舞い続け、日々は過ぎていったのだ。
あの時、マユミさんもあの縁側に居たなんて!あまりのことに言葉が出なかった。それでも、一生懸命に美緋絽は気持ちを落ち着かせいろいろなことを思い出そうとした。そうだ、娘さんが亡くなったのは、確かそれから数カ月後のことだった。
「あの・・その・・椿子さん?が亡くなる前の夜、うちに来ていたかもしれない、てママが言ってました。」
マユミは驚きで声が出ない様子で目を大きく見開いた。
「ママがお風呂に入っていたら窓の外からう、う、ていう声を聞いた、て言って・・すごく怖がっていたんです。そしたら次の朝向かいの家に人がいっぱい集まっていて・・救急車とかも止まってて・・何日かして娘さんが亡くなった、て聞いたんです。近所の人が自殺だって・・」
思い出したことをぽつりぽつり話す美緋絽の言葉をじっと聞いていたマユミの表情がみるみるうちにゆがんだ。怒りとも悲しみとも見える顔で
「うそ!うそよ、そんなこと。椿子さんが自殺だなんて!そんなこと絶対ない、ありえない!」
叫び声のように言葉を発した後、マユミは顔を背けた。小刻みに肩が震え、激しく動揺しながら否定したマユミに、美緋絽は驚くと同時に緊張で体が固まった。こんなマユミを、こんなにも取り乱したマユミを見たのは初めてだった。何気なく口にした言葉があの穏やかで陽だまりのようなマユミの気持ちをこんなにかき乱してしまったということに、美緋絽もまた困惑し平静を失った。
しばらくの沈黙の後、美緋絽はようやく消え入るような声で謝りの言葉を口にすることができた。
「・・ごめんなさい・・・」
その言葉にマユミはハッとして我に返ったようだった。
「私こそ、ごめんね。怖かったわね。」
美緋絽に向けた顔はいつものように笑顔だったがその表情のそこここは悲しみに満ちていた。
「わたし・・・わたし・・あの・・・あ・・」
言葉がつながらず、気が付くと美緋絽は手の甲にこぼれた涙を無意識に握りしめていた。
それに気づいたマユミは美緋絽の手を自分の手で包んだ。
「違うの、ヒロちゃんじゃないの。ヒロちゃんじゃないの。謝るのは私なの。」
そう言いながらマユミはその瞳から流れる涙をぬぐおうともせず美緋絽の瞳に語った。
「椿子さんと約束したの。春になったら必ず行くからね、て。その時はマドレーヌを百個焼いて、スイートピーの花束を持って、今度はお別れじゃなくて、椿子さんの花畑を私が花でいっぱいにして、椿子さんが椿子さんのおうちに帰れるその日まで、私がお庭のお世話をするからねって・・・」
美緋絽に向かって発していた言葉は、いつしか美緋絽の瞳の向こうに通り抜けていったようだった。
「それなのに、私は…私はその約束をひとつも守れなかった。私は椿子さんがそこまできびしい体調だったと気づくことができなかったの。」
マユミの瞳からはとめどなく涙が流れた。涙をぬぐうこともせずあとからあとから流れ落ちる涙は、マユミの洗いざらしのコットンシャツに滲んだ。
「そう、ヒロちゃん、もうわかったわよね。椿子さんはヒロちゃんのことを妖精だと思っていたの。小さかった頃、花畑で会った少女の記憶がヒロちゃんと似ていたんだわ。でもね、あの日以来椿子さんはヒロちゃんのことを心配するようになってね。葵さんのこともよ。体調がいいときにはこの縁側にいて、ヒロちゃんと葵さんの姿が見えるとホッとするんだと言っていたわ。」
美緋絽は椿子が自分たちに気持ちを寄せていたことを知り、少なからず動揺した。そしてマユミの話を聞きながら、あの夜ホームページから入っていった不思議な空間のことをマユミに話すべきかずっと迷っていた。なぜ自分のことを妖精だと思ったのか、あのホームページの出来事がその真実なのだとしたらそのことをマユミに知らせるべきなのか。
「でもね、私ちょっぴりうらやましかったの。だって、椿子さんは妖精に会えたんだもん。」
涙でぐちゃぐちゃになった顔に微かに笑みを浮かべながらマユミはつぶやいた。
『そうよね。驚いて、いえ、あきれて言葉が出ないわよね。そう思うから私は今まで誰にも話したことがなかった。マユミちゃんにでさえね。自分でも時間が経つにつれて夢だったのかもしれないと思うようになってね。忘れることも多くなっていったわ。
でも時々ふと、あれは夢じゃなかったかもしれない、て思うの。なぜならずっと見たかったカラスウリの花をあの年私は見たんだわ。初めてお母さんに、〈一人で残ってカラスウリの花を見てから帰りたい〉と言うことができたの。そんな勇気を出してお母さんに言えたのは妖精が私に力をくれたからだと思うの。』
大きな息をついて椿子さんは静かにお茶を飲んで意を決したように言った。
『じゃあ、どうして今さらマユミちゃんに話そうと思ったのか。それはね、その妖精をまた見つけたからなの。ああ、夢じゃなかったんだ!て。マユミちゃんにも妖精を見てもらいたくて!だからすぐに電話したの。』
私はにわかには信じがたくて。だってここには花なんて咲いてないし。
『妖精は・・・どこにいるの?』
いぶかしげに尋ねる私に少し困ったように
『マユミちゃんが想像している妖精とはちょっと違うかもしれないけどね。多分、もうすぐ来るわ、帰ってくる時間よ。』
(帰ってくる?)
どう気持ちを寄せればいいのかためらっていると
『あ、来たわ。帰ってきた。』
頬を赤らめ上気した様子で椿子さんは期待を込めた表情で、歩いてくる一団を見つめた。
それは、ランドセルをかついだ小学校高学年くらいの4人の女の子だった。
(え?妖精?)
と私は思ったけど、椿子さんは真剣なまなざしでジッと見ていた。
すると4人は向かいの家の門扉の前で立ち止まった。一瞬の間があってその中の背の高い子が一人の女の子の前に立ちはだかった。すぐにほかの子たちもその横に並んで立ち、あっと言う間に1対3になった。そしてすぐに3人は去っていった。
私は何が起こったかすぐに想像がついた。むろん、椿子さんもそうだったと思う。しばらく私たちは身じろぎもせず見つめていたんだけど、座椅子から身を乗り出すようにして不安そうに成り行きを見ていた椿子さんの呼吸がとても速くなっていることに気が付いて、私はすぐに隣の部屋にある布団に椿子さんを寝かせたの。
美緋絽は思い出した。あの時のことを!そう、冬の寒い日だった。あの日学校の帰りに家の前で友人から別れ際に言われた言葉に打ちのめされた。それ以上に傷ついたのはそのとき茜里が何も言ってくれなかったこと。そしてそのまま振り向きもせずに去っていったこと。ほかの子が言ったことはショックでないといえばうそになる。でもそれよりも茜里がとった態度が深く美緋絽の心をえぐった。
小さくなっていく茜里の後ろ姿を見送るうちにひとつぶ、涙がこぼれおちた。最初のひとつぶが落ちるとその次の涙がこぼれてくるのはとても簡単だった。涙はやがてつながって川の流れのようにとめどなく流れ、そこへ鼻水も加わり大洪水になりかけた。その時、美緋絽は目が合った。向かいの垣根の向こう、縁側からそっと見ている人がいた。見られた、と思うと美緋絽は門扉を開けてサッとその内側に身を隠した。向かいの人にも葵にも気づかれたくなくて、門扉の陰に隠れた。そして何度も涙を拭い鼻をすすりあげた。ポケットにハンカチがあることを思い出して今度はハンカチで何度も顔中をこすった。ようやく少し落ち着いてきて息をひとつ大きく吐いた。そっと門扉の端からうかがうと、まだ向かいの人が探すように見つめているのが見えた。
(あれは・・・娘さん?)
40代くらいのその人は見たことがない人だった。向かいのおばあさんに少し似ている気がした。向かいの人はおばあさんしか見たことがなかったが歳回りからしておそらく娘さんであろうと思われた。色が白く小柄で上品そうなその人は美緋絽と目が合うとその澄んだ瞳で美緋絽を見据えた。ハッとして美緋絽は再び門扉に身を隠した。
どれくらいの時間そうしていたのか、気が付くと美緋絽の顔はぬぐった涙と鼻水が乾いてガワガワとした感じになっていた。
(あんまり遅いとママに気づかれるかも)
葵は意外とそういうところが鋭いことを美緋絽は知っていた。そっと首を伸ばして向かいを見ると、縁側にはもう誰もいなかった。それでも美緋絽は体をかがめたまま静かに門扉を閉めると立ち上がり玄関ポーチに立った。背筋を伸ばし小さな息をひとつ吐くとドアを開け「ただいま!」と言った。靴を脱ぎながら、ああ、ちょっと元気よすぎたかな・・・と思ったがリビングからは
「おかえりー」
といつもの調子の葵の声がしただけだったので美緋絽はほっとした。そして何も特別なことはなかったように振る舞い続け、日々は過ぎていったのだ。
あの時、マユミさんもあの縁側に居たなんて!あまりのことに言葉が出なかった。それでも、一生懸命に美緋絽は気持ちを落ち着かせいろいろなことを思い出そうとした。そうだ、娘さんが亡くなったのは、確かそれから数カ月後のことだった。
「あの・・その・・椿子さん?が亡くなる前の夜、うちに来ていたかもしれない、てママが言ってました。」
マユミは驚きで声が出ない様子で目を大きく見開いた。
「ママがお風呂に入っていたら窓の外からう、う、ていう声を聞いた、て言って・・すごく怖がっていたんです。そしたら次の朝向かいの家に人がいっぱい集まっていて・・救急車とかも止まってて・・何日かして娘さんが亡くなった、て聞いたんです。近所の人が自殺だって・・」
思い出したことをぽつりぽつり話す美緋絽の言葉をじっと聞いていたマユミの表情がみるみるうちにゆがんだ。怒りとも悲しみとも見える顔で
「うそ!うそよ、そんなこと。椿子さんが自殺だなんて!そんなこと絶対ない、ありえない!」
叫び声のように言葉を発した後、マユミは顔を背けた。小刻みに肩が震え、激しく動揺しながら否定したマユミに、美緋絽は驚くと同時に緊張で体が固まった。こんなマユミを、こんなにも取り乱したマユミを見たのは初めてだった。何気なく口にした言葉があの穏やかで陽だまりのようなマユミの気持ちをこんなにかき乱してしまったということに、美緋絽もまた困惑し平静を失った。
しばらくの沈黙の後、美緋絽はようやく消え入るような声で謝りの言葉を口にすることができた。
「・・ごめんなさい・・・」
その言葉にマユミはハッとして我に返ったようだった。
「私こそ、ごめんね。怖かったわね。」
美緋絽に向けた顔はいつものように笑顔だったがその表情のそこここは悲しみに満ちていた。
「わたし・・・わたし・・あの・・・あ・・」
言葉がつながらず、気が付くと美緋絽は手の甲にこぼれた涙を無意識に握りしめていた。
それに気づいたマユミは美緋絽の手を自分の手で包んだ。
「違うの、ヒロちゃんじゃないの。ヒロちゃんじゃないの。謝るのは私なの。」
そう言いながらマユミはその瞳から流れる涙をぬぐおうともせず美緋絽の瞳に語った。
「椿子さんと約束したの。春になったら必ず行くからね、て。その時はマドレーヌを百個焼いて、スイートピーの花束を持って、今度はお別れじゃなくて、椿子さんの花畑を私が花でいっぱいにして、椿子さんが椿子さんのおうちに帰れるその日まで、私がお庭のお世話をするからねって・・・」
美緋絽に向かって発していた言葉は、いつしか美緋絽の瞳の向こうに通り抜けていったようだった。
「それなのに、私は…私はその約束をひとつも守れなかった。私は椿子さんがそこまできびしい体調だったと気づくことができなかったの。」
マユミの瞳からはとめどなく涙が流れた。涙をぬぐうこともせずあとからあとから流れ落ちる涙は、マユミの洗いざらしのコットンシャツに滲んだ。
「そう、ヒロちゃん、もうわかったわよね。椿子さんはヒロちゃんのことを妖精だと思っていたの。小さかった頃、花畑で会った少女の記憶がヒロちゃんと似ていたんだわ。でもね、あの日以来椿子さんはヒロちゃんのことを心配するようになってね。葵さんのこともよ。体調がいいときにはこの縁側にいて、ヒロちゃんと葵さんの姿が見えるとホッとするんだと言っていたわ。」
美緋絽は椿子が自分たちに気持ちを寄せていたことを知り、少なからず動揺した。そしてマユミの話を聞きながら、あの夜ホームページから入っていった不思議な空間のことをマユミに話すべきかずっと迷っていた。なぜ自分のことを妖精だと思ったのか、あのホームページの出来事がその真実なのだとしたらそのことをマユミに知らせるべきなのか。
「でもね、私ちょっぴりうらやましかったの。だって、椿子さんは妖精に会えたんだもん。」
涙でぐちゃぐちゃになった顔に微かに笑みを浮かべながらマユミはつぶやいた。
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