椿子(1)

文字数 3,831文字

 椿子さんと私は私が小学校3年生、椿子さんが6年生のときに出会ったの。私の父は転勤族でその前の年、私が2年生のときに引っ越してきて父方の祖父母の家で暮らしていたの。その向かいに大きな家があって。その家はもともとは酒造りをしていたと聞いたけど、私が引っ越してきた頃はもうほとんどそういう仕事はしていなかったみたい。それでも遊びに行くとまだ大きな樽がいっぱいならんでいたけど。
 椿子さんはその家のお孫さんで、父方のおじいさんの家だったの。椿子さんは都会の子でね、体が弱くて学校が長いお休みになるとお母さんと一緒にやって来てその家で過ごしていたの。初めて会ったときの椿子さんは、白いレースのワンピースを着て一つにまとめて三つ編みにした髪を後ろに垂らしていてすごく大人びてみえた。
 その頃椿子さんのおじいさんの家にはおじいさんとおばあさん、椿子さんのお父さんのお兄さんと奥さん、それに一番下の弟さんの桂太さんとその奥さんの千陽(ちはる)さんが住んでいて、そこへ椿子さんのお母さんと椿子さんが加わるので総勢8人という大所帯。でもね、子供は椿子さんだけだったから向かいに住むようになった私に一緒に遊んでやってね、とあいさつに来たのよ。
 そのあたりでは見たこともないくらい色が白くて、まるでテレビに出てくる人みたいなステキ服を着てお人形さんみたいに表情を動かさない椿子さんに、私は最初ちょっと引いていたんだけど。でも二人だけになったら

『マユミちゃんの手ふかふかであったかいんだね。』

て、優しい笑みで私に話かけてきたの。出会ったときに固まっていた私に、周りの大人たちが気を利かせたつもりで握手をさせていたの。でも椿子さんのその言葉、私すごくうれしくて。だってちょっとぷっくりしていた私は、いつも「太っちょ」とか「デカパン」とか言われて男の子たちにからかわれていたから。

「わたし、やせっぽちでしょ?」

そう言うと椿子さんは両手をグンと伸ばして肩をすくめながら困ったような顔で私を見たの。私は頭をブンブンふって

『そんなこと、ぜんぜん、ぜんぜんないと思う。』

て一生懸命に否定した。

『ありがとう。』

椿子さんはうれしそうに言ったわ。
 それから仲良くなるのに時間はかからなかった。椿子さんは3つも下の私に同年代の友達と同じようにしてくれて、子ども扱いなんてぜんぜんしなかった。それにどちらかというと外で遊んでいるときは私の方がおねえさんみたいなことが多くて、なんか可愛いな、なんて思ったくらい。
 椿子さんと友達になって向かいの家に行くことが増えて知ったことは、桂太さんは都会の農業の大学に行っていたんだけど、その奥さんの千陽さんもその大学の同級生で、二人は家の近くの元々はお酒を造るために米を作っていた田んぼを畑にして最初はそこで野菜を作っていたの。千陽さんはその奥で花も栽培していて。でも、どんどん花畑を広げていってやがてその広い田んぼを全部お花畑にしたの。
 そのお花畑を初めて見たときはもう声が出ないくらいきれいな景色で。自分の家のすぐそばにこんなにきれいなものがあったなんてちっとも知らなくて。感激だったわ。多分お花も出荷はしていたんだろうけどね、ほら、昔のことでしょ?個人がお花を都会まで輸送するすべなんてほとんどないし、田舎の人が花を必要とすることなんてね。なんなら自分の家で育てられるわけだから。だからほとんど趣味みたいなものだったのかもね。
 でも、私はすぐにとりこになって、椿子さんと毎日のように千陽さんの花畑に通ってね。そんな私たちに千陽さんはお花の話をいっぱいしてくれたの。最初はただ千陽さんが仕事をしている周りをウロウロして遊んでいただけだったんだけど、そのうち千陽さんのやっていることを自分たちもしてみたくなって、いろんなことを手伝わせてもらったの。
 手伝うといっても子供だからね、1時間くらいちょっとしたことをね。花がら摘みをしたり草取りをしたり水をまいたり。ときどき椿子さんが調子の悪い日があって、家から出られないときは私一人で出かけて行ってね。それでも楽しかったわ。
 そのうち椿子さんが都会へ戻る日が来てしばらくお別れになった後も私は千陽さんのお花畑に行って、いろんなことを教えてもらったの。そしてまたお休みになると椿子さんがやって来て、一緒に遊んだり花畑の手伝いをしたりして。夏にはシャワーを浴びたみたいに汗をかきながら木陰で冷えたスイカとほくほくと湯気の立つゆでたてのトウモロコシをみんなで食べたりして・・・懐かしくてキラキラした私の思い出よ。

 遠くを見つめながら穏やかな表情を浮かべるマユミは幸せそうだった。同時に美緋絽はあの椿子という少女と出会った花畑を思い出していた。

 そんなことが何年か続いたある夏の盛りに千陽さんが隣の市の病院に入院した、て聞いたの。夏のはじめ頃、赤ちゃんができたから外仕事は気を付けないと、と大人たちが言っているのを聞いていた私は、赤ちゃんを産むから入院したんだと思ったの。入院したらお花の世話をする人がいなくなると思って、私すぐに花畑に行ったの。そうしたら夕暮れの薄暗い畑に桂太さんがいて一人でしゃがんで何かしていたから、

『おじさん、私手伝います!』

て声をかけたら桂太さんは振り向きもしないで

『いい。大丈夫だから帰れ。』

て小さな声で言ったの。

『おばさん入院した、て聞いたからおばさんがいない間しばらく私手伝うから・・・』

私の言葉が終るか終わらないうちに桂太さんが

『いい、て言ってんだろ!暗くなるから帰れ!』

怒鳴るように言ったその声があまりにも大きかったから、私はすごくびっくりして慌てて帰ったのを覚えてる。
 そのことがあってから私はなんだか花畑に行けなくなってしまって、千陽さんが帰ってくるのを待とうと思ったの。桂太さんは悪い人でも怖い人でもなかったけど、もともと口数が少なくてぶっきらぼうなところがあったから私がいるのがめんどうくさいと思ったのかな、さびしいな、手伝いたいな、て思ったけどあきらめることにしたの。
 それから年が明けても千陽さんは戻ってこなくて、どうしたのかなとちょっと心配もあったけど、私のおばさんが赤ちゃんを産んだとき、しばらく自分の実家で休んでから戻ってきたことを思い出して、きっと千陽さんもそうなんだろうと思うようになった。
 それでも冬とはいえ、夏の花が終わった後もそのままになって枯れた花が残った荒れた畑を見るのがつらくて、私もだんだん花畑から足が遠のいていった。
 あるとき、私の心の中の折り合いのつかない感覚を抑えられなくなって母に聞いたことがあったの。

『赤ちゃんはどれくらいで生まれるの?』

突然の私の問いかけに最初母はよくわからなかったと思うんだけど、すぐに千陽さんのことだと気づいたのね、

『がんばってるからね。』

質問の答えになっていなくて少し不満だったのだけど、それ以上聞いてはいけない気がして、私は口をつぐんだ。
 前に話したと思うけど私の家にはね、庭に梅の木があってその芽が少しずつ膨らんできて、ある朝薄桃色の花が咲いているのを見つけたの。

『ああ、もう梅が咲く頃なんだ。』

と思ったその瞬間、

『おかしい!変だ!絶対変だ!』

私は悪いように考えたくなくて自分をだましていたことに気がついたの。
 千陽さんはお産なんかじゃない!でも、じゃあ何なの?わからないけど、でも、でも赤ちゃんを連れて帰ってきたりしないんじゃないか?もう帰って来ないんじゃないか?て。
 私の頭の中は狂ったみたいにぐちゃぐちゃになって千陽さんは帰って来ない、ということだけがぐるぐる回っていたの。でも、一方でそれは私みたいな子どもが口に出してはいけないことなんだと思って、ギシギシと軋む心を持ちながらも周りの大人の誰にも聞くことができなかった。そしてただただ時は過ぎて、その間私はずっと不安の中にいたの。
 強く風が吹くようになって春が近づいていることが感じられ、いつもなら春休みになって椿子さんが来る日を指折り数えて待ち遠しい頃なのに、気持ちは沈んだままだった。久しぶりに見に行った千陽さんの花畑は茶色い土が風に舞う荒れ果てたままの姿だった。
 それから何日かしてあと二日で春休みだという夕方、おばあちゃんに呼ばれて玄関に行ったらそこに椿子さんのお母さんとうつむいた椿子さんがいたの。まだ春休みは始まっていないのにどうして・・・私は胸がざわざわして心臓の鼓動が体中に響いて、おそるおそる椿子さんの顔を覗き込んだの。椿子さんの目は真っ赤でまぶたも腫れていて口を真一文字に結んだまま、久しぶりに会った私のことを全然見ていなかった。

『千陽さん・・・亡くならはったんやって。』

私を気遣うようにおばあちゃんは私の背中に手を当てて小さな子供に言って聞かせるように言った。

(亡くならはった。)

わたしの頭の中で暗い暗い海の中に、大きな鉛の錨が深く深く沈んでいった。この錨は何年たっても、今も、引き上げることはできていない。
 翌日母は朝食の片づけをした後、黒のカーディガンを羽織って葬儀の手伝いに出かけて行った。そのカーディガンは一週間ほど前に隣の市へ出かけて買ってきたもので、母がわざわざ出かけて洋服を買ってくるなんて珍しいと思っていたものだったから、私はその時全てがわかった。桂太さんが畑で泣いていたこと、畑に花がなくなったこと、千陽さんががんばっていたことを。


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