和解(1)

文字数 3,252文字

 年が明け、マユミが引っ越す日に向かって毎日が過ぎていった。美緋絽は結局あの不思議な出来事をマユミに話すことはなかった。
 寄付される家は集会所として使われることになり、取り壊される心配はなくなった。町内でイベントをするときや児童館のように使えたら、という提案があったのだ。今はこの建物と庭を維持するためにどうするかの話し合いが行われているらしい。
 この家が無くならなくなったことはうれしかったが、マユミがいなくなることに変わりはなく、美緋絽の気持ちは晴れなかった。
 相変わらず学校へは行ったり行かなかったりを繰り返していたが、晴れた日にはマユミの庭仕事を手伝った。マユミがいなくなるとわかっていても、この庭にいるとなぜか気持ちが落ち着き穏やかになれた。
 その日も学校を休んだ美緋絽はマユミの庭にいた。マユミに声をかけることもなく草取りを始めた。
 昨晩どうしても寝付けず、朝方までベッドの中で寝返りを繰り返していた美緋絽は疲れ果てていた。

(これって拷問だな。)

眠りたいのに眠れない。寝たい、寝たい、寝たい。一晩中頭の中から離れないこと。

〈他の違うことを考えたらいいよ。気にしすぎなんだよ。〉

〈もっと体を動かしたらいいよ。何か運動でもしたら?〉

眠れないというと、みんな同じことを口にする。

(そんなこと簡単に言わないで!)

焦りと怒りの感情が入交り自分にいら立ち、時間ばかりが気になって空が白み始めてくる恐怖が美緋絽を襲う。そして明け方近くようやく眠りに落ち、次に気づくと葵はすでに出かけていてシンとする空気の家の中に美緋絽は一人残されているのだ。
 こんな朝を自分は一体何回迎えてきたのだろう。ぼぅっとする頭の中でそんなことを考えながら美緋絽は草を抜いた。
 成長したパンジーの葉に隠れた、株の根元に伸びる雑草を丁寧に抜いた。思っていた以上に隠れた雑草が多く、抜いた草がこんもりと一山になった。パンジーの花壇をやり終えると、ふぅーと小さな息をついて立ち上がり腰を伸ばした。

「ヒロ!」

急に声をかけられ驚いて振り向くと、そこには茜里が立っていた。

「茜里・・どうしたの?」

「ヒロこそ、そんなところで何してるの?」

少し責めるような強い口調で茜里が言った。

「え・・何、て・・別に茜里には関係ないことだよ。」

美緋絽はどぎまぎしながらも言い返した。

「そうだけど・・でも、今日学校でしょ?」

語気を弱めながらも茜里の口調は変わらなかった。

「茜里だって今日は学校なんじゃないの?」

平静を装って美緋絽が返した。

「私は今日、創立記念日で学校は休みなのよ。」

一瞬言葉を失った美緋絽だったが、すぐに勢いを取り戻して

「じゃ、じゃあ、なんでこんなところにいるの?なんか用事でもあるの?」

「それは・・私・・・ヒロと話して・・・
 ヒロに謝らなくちゃいけない・・と思って。」

言葉に詰まった茜里が途ぎれ途ぎれに発した意外な言葉に美緋絽は戸惑った。
 ちらっとお互い目を合わせた後、しばらく二人は無言のまま伏目がちに宙を見つめていた。美緋絽が茜里の言葉の真意を量りかねていたそのとき

「あら、お客さん?」

縁側からマユミの明るい声が響いた。

「こんにちは。」

すぐに反応したのは茜里だった。

「私、ヒロ・・美緋絽の友達の茜里です。通りかかったらヒロがいたので、その・・ちょっと声をかけたんです。・・すみません。」

軽く会釈をしながらいつもの笑顔で答えた。

(うそ。通りかかったなんて、うそでしょ?)

でも、こんな時にもすぐに笑顔で対応できる茜里がとても大人びて見えた。
(茜里はどんどん成長している。なのに私は・・)

美緋絽は自分がずっと同じ場所でうずくまっている子供のように感じた。

「ヒロちゃんのお友達?まあ、いらっしゃい、どうぞ。みんなでお茶会しましょう!ちょうど焼きあがったところなのよ。マドレーヌ。」

いつものウィンクをしながらウキウキした様子で縁側の戸を開け放した。

「あの、私、比良さんの【親子でクッキーづくり】の会に参加させてもらったことがあるんです。」

「え?ああ、夏休みの親子教室かしら?」

「はい。あのクッキーがすごく美味しくて、ママとそのあと2回も作ったんです!」

少しほほを赤らめながら茜里が言った。

「まあ、ありがとう。2回も作ってくれたの?うれしい!気に入ってもらって。マドレーヌはもぉーっとおすすめだから期待してね。あ、ヒロちゃん外水栓で手、洗ってきてねー。」

そう言い残すとマユミはバタバタと家の中に入っていった。
 無言で目を合わせた2人だったが、10分後には並んで縁側に座っていた。

(マユミさんマジックだな。)

茜里との気まずさは続いていたが、美緋絽には不思議と穏やかな気持ちが広がっていた。茜里が何を言おうとしていたのかは気になったけれど、とりあえずマユミのマジックにかかって心を落ち着かせようと思った。
 美緋絽たちはテキパキと準備するマユミを手伝って、あっという間にお茶会のテーブルをセッティングした。いつものようにバスケットに入ったマドレーヌと薫り高く湯気の上がる暖かい紅茶が愛らしく並んだテーブルを前に、茜里は目を見張りながら少し緊張しているように見えた。
 その様子を見ながら自分が初めてこの縁側に招かれた日のことを美緋絽は思い出していた。

「さあ、どうぞ召し上がれ。ヒロちゃんにはもう珍しくないだろうけど。」

そうなの?というような顔で茜里は一瞬美緋絽を見遣ったがすぐに視線をテーブルに戻すと

「いただきます。」

とマドレーヌを手に取った。そして一口かじった途端、その目は大きく見開かれた。

「美味しい、美味しいです!これ。」

「でしょう?」

マユミは自分もマドレーヌをほおばりながら満足げにうなずいた。茜里はニコニコしながらあっという間に1つ目をたいらげ

「もう1ついただいてもいいですか?美味しすぎてもう止まらない感じです。」

とバスケットに手を伸ばしながら言った。

「もちろん、どうぞどうぞ。まだキッチンにもあるのよ。」

「お店で買ったみたい。いえ、買ったのより美味しいです。すごい、こんなの家で作れるんですね!」

マドレーヌにかじりつく茜里を見るマユミはとても楽しそうだった。

(茜里はいつも自分を隠さない)

あの日の自分は今の茜里と同じようにこのマドレーヌの美味しさに感動したくせに〈おいしい、もっと食べたい〉という思いを口に出すどころか、その感情を気づかれないようにしていた。そんな自分が卑屈で哀れで居たたまれない気持ちになった。あのとき、マユミさんは自分のことをどう思ったのだろうか。いま、こんなにも素直に美味しいと言う茜里を見てマユミさんは・・・

「あら、ヒロちゃん食べてる?もう食べ過ぎて飽きちゃった?そんなことないわよね。あ、茜里ちゃんにめちゃくちゃ自慢する私のこと、あきれてるんでしょ。」

マユミは笑いをこらえながら空いたティーカップに紅茶を注ぎ、茜里に差し出した。

「ヒロ、そんなに食べてるの?」

「ええ、もう、飽きるくらいね。」

美緋絽が答える前に、大げさにセリフを言うようにマユミが答えた。

「いいな・・私も草とりのお手伝いに来ようかな・・」

茜里はチラッと美緋絽をうかがうように言った。

「まぁ、お手伝いしてくれる人が増えるなんて、私のマドレーヌはやっぱりすごいわ。」

そう言いながらマユミもそっと美緋絽に視線を向けた。美緋絽は自分が口をはさむことではないと無言でマドレーヌを食べていたが、もし茜里が来て一緒に庭の手入れをすることになっても、また茜里といろんな話ができるようになるのかどうか分からない、と思った。

「ヒロちゃん、私今日、銀行に行かなくちゃいけなくて。そんなに長くはかからないけど縁側開けていくからお留守番お願いしてもいいかしら。」

「はい、大丈夫です。もう少し草取りしようと思っていたから。」

「そう、じゃあお願いね。茜里ちゃん、ゆっくりしていってね。」

「はい、ありがとうございます。」

 それからすぐにマユミは玄関のカギをかけ自転車に乗って出かけて行った。


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