買い弁(2)

文字数 2,257文字

「ひ、さ、し、ぶ、り!」

 茜里は幼稚園の頃からの友達だった。母親同士も仲が良く、幼稚園に通っていた時にはよく一緒に公園へ行ったものだった。小学校の4年生までは同じクラスだったがそれ以降は別のクラスになり、しかも茜里は中学からは私立の有名女子校に行ったので最近は会うこともなかった。

「茜里!今帰り?」

濃紺に白い襟のセーラー服、水色のプリーツスカートが人気の制服姿だ。

「うん。ヒロはお弁当?」

「そう。今日ママ仕事なの。」

「おばさん、すごいよね。かっこいいもんね。うちのママとは大違いよ。」

確かに違う、と美緋絽は思った。
 茜里の母親は専業主婦で見かけも年相応の中年の女性だった。幼い頃葵が仕事で幼稚園に迎えに来られなかったときに、よく茜里の家にあずかってもらっていたことがあった。一緒に折り紙をしてくれたり、トランプをしたこともあった。
 美緋絽が一番記憶に残っているのはホットケーキを焼いたことだった。混ぜて焼くだけ、ただそれだけのことだったけれど、ホットケーキのたねをプレートに流しいれプツプツと泡が出てくるのを息をころして見ているとやがて甘いにおいが漂ってきて、食べるより焼くのが楽しくて茜里と2人で何枚も焼いた。

(あのとき茜里のママはボールに入った粉をおぼつかない手つきで混ぜる私を笑いながら見ていたっけ。)

懐かしい、と美緋絽は思った。

(茜里は1人で夕飯食べたことなんかないだろうな・・・)

美緋絽の心が少しかげった。
 小学校4年の2学期だった。いつものように学校の帰り道、公園で待ち合わせの約束をしようとしたとき、茜里はもう今までと同じようには遊べないと言った。私立中学を受験するから隣の駅の塾に通うのだと告げられた。
 3年生の終わり頃に美緋絽も葵から私立中学の受験をしないかと聞かれたことがあった。たくさん勉強をしなければならないけど、大きくなったらとってもいいことがある、と言われたことを思い出した。

「茜里、勉強好きだっけ?」

美緋絽の言葉に茜里は一瞬言葉に詰まったが

「今頑張って勉強しておくと後でいいんだよ。それに、ここの中学の制服きらいだもん。あんなの着たくないから。」

口をとがらせて言う茜里の言葉は美緋絽にはあまりよくわからなかった。

(確かにあの制服は着たくないけど・・・)

 それから茜里と遊ぶのは週に2日になった。時には茜里のママと3人で映画に行くこともあったけれど、今までのようにそのあと一緒にご飯を食べたりすることはなかった。
 5年生になってクラスが離れると学校で顔を合わせたとき以外に話すことはなくなっていった。6年生の3学期に入ると茜里は試験に備えて学校には出てこなくなり、学校で茜里を見かけることすらなくなってしまった。そんな茜里を美緋絽はただ空気のように見ているだけだった。 
 あの3年間と引き換えに手に入れた可愛らしい制服に身を包み、満面の笑みで今自分の前に立っている茜里は満足そうに見えた。

「ねぇ、あの人。ヒロの家の向かいの人でしょ?確か・・・比良さん。」
茜里の視線の向こうに自転車から降りて立ち話をしているマユミの姿があった。

「あの人、お菓子作るのすごく上手なのよね。」

「え?」

美緋絽はなぜ茜里がそんなことを知っているのか驚いた。

「夏休みにね、コミニュティセンターで比良さんの講習会があったのよ。私、ママと一緒に参加したんだけど、そのクッキーのおいしいことって言ったら!もう最高なのよ!」

茜里は興奮しながら言った。

(クッキー?)

「材料も特別じゃなくて普通なんだけどね、なんていうか・・・素朴っていうの?昔の外国ってこんなクッキーだったんじゃない?みたいな。もうママと感動しちゃって。その後2回も作ったのよ!」

美緋絽はなんだか嫌な気分になっていた。茜里の妙に浮かれた様子や、

なんて日ごろ使いもしないような言葉を使ったり、昔の外国のことなんて知りもしないくせに感動?そして何よりマユミさんの絶品が【クッキー】ということに納得がいかなかった。

(クッキーじゃなくてマドレーヌでしょ。)

「今度遊びにおいでよ。ママとまた作るからさぁ。ぜったい美緋絽も食べるべきよ!」

「お待ちの34番の方~」

そのとき、弁当屋の店主が大声でさけんだ。

美緋絽の番号だった。

「じゃあね、茜里。この後私、まだ寄るところがあるから。」

「そうなの、じゃあまたね。今度うち来てね、絶対よ~」

茜里は手を振りながら雑踏の中に消えていった。
 弁当屋を出て、美緋絽はハタと立ち止まった。寄るところなんて本当はなかった。ただ茜里と一緒に帰りたくないための嘘だった。

(茜里の作ったクッキーなんて。マユミさんの偽物じゃない。)

イライラとした気分になりかけたがふと美緋絽は思った。茜里はマユミさんのマドレーヌを食べたことがない。だからクッキーが一番だなんて思うんだ。
 見るとマユミはまだ道の向こうで話し込んでいた。自転車の前かごに入ったエコバッグはパンパンにふくらんでいた。美緋絽の中でまたマユミに対する好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。マユミは隣家に越してくるまでどこに住んでいたのか。家族は?仕事は?なぜいつも、だれにでもあんな屈託のない笑顔を向けられるのか。
 マユミはジェスチャー混じりの会話に夢中だ。左手の人差し指と中指をそろえて伸ばしたそのすぐ下に、右手の指をそろえて手のひらを上にして斜めに上から下へずらすしぐさをして見せていた。木の剪定だろうか。

(買い物が終わったらすぐ帰らなきゃね。)

美緋絽は家へとゆっくりと歩き始めた。


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