花畑(1)

文字数 3,010文字

 閉じていた目を少しずつ開くと、そこは薄暗い空間だった。目を凝らして見るとどうやら部屋の真ん中にいるようだった。と言っても、今まで居た美緋絽の部屋とは全く違っていた。天井は低く、古めかしい引き戸のはまった六畳ほどの小さな部屋だった。

(何?)

何がどうなったのか全く理解できず、美緋絽はパニックの中にいた。身動ぎもできず固まったまま早鐘のように打ち続ける心臓の鼓動が体中に響いていた。どのくらい固まっていたのか・・・ふとあることに気がついた。匂いだ。この独特な匂い。どこかで嗅いだことがあるような気がする。少しずつ肩から力が抜けて背が少し丸まったその時、美緋絽は思い出した。

(おばあちゃんの家の匂いに似ている。)

幼いころ、葵の仕事が忙しくなってきた頃から夏休みのほとんどを過ごしてきたおばあちゃんの家だ。その家は葵が小学生の頃建てたと聞いていたからせいぜい築3、40年というところだろう。しかし、今美緋絽が立っている家は匂いこそ似ているがもっともっと古めかしく、小学校の社会科見学で行った古い農家に似ていた。
 数秒の後、美緋絽はゆっくりと目だけを動かし辺りをさぐりはじめた。最初に目に入ったのは正面の、多分押し入れであろうふすまで、それはずっしりと重たそうでおよそ見たこともないデザインだった。その部屋は6畳ほどと思われるが圧迫感があるのは天井がかなり低いせいだろうか。
 今度はこわごわゆっくりと首を右にまわすと、そこには別の引き戸があった。反対の左側、そして後ろにも目を向けてみたがそこは壁でこの部屋には窓がなかった。どうやら右側にある、中央に細かな模様のあるガラスがはめこまれている引き戸が隣の部屋に通じる襖らしかった。そのガラスの向こうも薄暗く、あかりは見えなかったが、美緋絽はゆっくりとその襖に近づいた。踏み出した一歩に少しひんやりとした乾いた感触が伝わり、その部屋が畳であることと自分が素足であることに気がついた。
 美緋絽はこれが夢の中だと思っていた。以前にも夢の中でこれが夢だと実感したことがあったからだ。だからまたあの夢なのだろう、と思ったのだ。いや、思いたかった。しかし、今自分の足から伝わってくる感覚があまりにも生々しくリアルなことにたじろぎ、足が震えた。

(夢よね。夢のはずよね?だって私、自分の部屋でマユミさんの・・・)

震える足でふすまにたどり着いた美緋絽はゴクリとツバを飲み込み、そっとふすまに手をかけ細く開けて隣の部屋をさぐった。
 そこは長方形の広い空間だった。美緋絽の家のリビングを2つ合わせたほどの広さだろうか。今美緋絽のいる圧迫感のある部屋に比べると広々としてスッキリとしていた。
 しかしその様子はかなり変わっていた。美緋絽が今まで行ったどの家にもないような部屋だった。広い部屋には家具らしきものはほとんどなく、部屋の左側には長方形の座卓が二つつなげて置かれていた。正面の壁に低く横に長い和風の食器棚のようなものと、扇風機が置かれていて、右側の奥に箱型の古めかしい家具があり、その上に黒い塊があった。

(電話?)

それは以前テレビで見た古い電話に違いなかった。まるで映画か博物館にでもあるような昔の部屋が、すぐ目の前に広がっていることをどう説明すればいいのか思いつかず、ただただ見入るばかりだった。「茶の間」という言葉が頭に浮かんだ。
 ガタガタッという音で美緋絽はハッとした。
一体どれくらいそのすき間をのぞいていたのか、いつのまにか隣の部屋は光で満ちていた。明るい中で改めてもう一度見てみると正面は食器棚の置いてある壁は一部で、その横には細長い台所があった。
 そう、それはまさしく「キッチン」ではなく「台所」というのにふさわしい感じのものだった。大きなタイルが張られ蛇口のついた洗い場が真ん中に備わっていて横にはガスコンロがあった。さらにその横には調理台なのだろうか、四角い台があったがそれは、見慣れた感じのステンレスではなく、すべて木で作られていた。

「あっ。」

次の瞬間、目の前をさっと通り過ぎた人影に驚いて美緋絽の口から声が漏れ出た。慌てて口を押さえたがもう遅かった。見つかった!思わず目を閉じ、体を丸め固まった美緋絽だったが目の前の襖が開かれることはなかった。恐る恐る薄目を開けて見ると、横切ったと思われる中年の女性は台所でやかんに水を入れていた。
その女性が美緋絽の声に気づかなかったことにホッとしたと同時に拍子抜けした。そしてやっぱり夢なのだ、と思った。しかしそう思いながらもその部屋から出ることができず、相変わらず細いすき間から観察を続けた。
 その女性はとても手際よく食事の支度をすすめた。やがてご飯の炊ける匂いやみそ汁の香り、魚の焼ける香ばしい匂いで辺りは満ち溢れた。そこへ1人の老婆が入ってきた。

「おはよう。」

老婆が声をかけると食事の支度をしていた女性も挨拶をした。

「おはようございます。」

それっきり言葉を交わす事はなく、ふたりはあらかじめ決められている作業かのように黙々と動き続けた。
 そして美緋絽の左手にある座卓に食事の用意が整えられた頃、次々と人が集まってきた。初老の男性、30代くらいの女性と少女。その女の子は美緋絽と同じくらいの歳に見受けられた。全員が席に着き、ごはんとみそ汁が行きわたってちょうど食べ始めたころ、遅れてもう1人若い男性が入ってきた。黙って空いている席に着くと中年の女性がさっと席を立ち台所へ向かった。

「遅れて来て、なんか一言くらいあるやろう!」

初老の男性の強い語気に美緋絽は思わず後ずさりした。しかしすぐにまたすき間を覗き込むとその若い男性がちょうどご飯茶碗を受け取っているところだった。

「おはようございます。」

拍子抜けするほど気の抜けた声で若い男性が言うと初老の男性は一瞬あきれたような表情を見せたが、すぐに眉間にしわを寄せたまま黙々食事を続けた。

(なんだかお通夜みたい。)

と美緋絽は思った。

(わたしとママでも、もう少し話はすると思う。この人たちは何なのだろう。)

しばらくして静かな食事が終わると皆一様に合掌をして、自分の使った食器を流しに運ぶと部屋を出て行った。
 食事の支度をした中年女性が立ち上がって片づけを始めると後から来た30代くらいの女性もすっと立ち上がり、後片付けの手伝いを始めた。こちらの2人は多少会話をしているようだったが美緋絽からは少しはなれているのと、小声だったせいで話の内容までは聞き取れなかった。
 人がいなくなったことで美緋絽の緊張は少し解け、これは朝食なのだなぁと思ったその時、美緋絽はハッとした。あの、美緋絽と同じくらいの歳の少女がこちらをじっと見つめているのだ。まばたきもせず、目を凝らすかのようにじっと見られている。一瞬気のせいかとも思ったが、その視線はしっかりと合っている。
 何秒くらい見合っていたのか、ふとその少女は視線をはずし立ち上がった。そして部屋を出て行こうとしてもう一度ちらりと美緋絽を見遣ってからゆっくりと歩き出した。“来て”と言われたような気がした。台所の2人はこちらに背を向け話しながら後片付けをしている。美緋絽は勇気を振り絞ってゆっくりと襖を開けた。そして素早く「茶の間」に出ると少女が行った方に向かった。

「あら、あそこの襖あいてたかしら?」

ふと気配を感じて振り返った中年の女性が不思議そうにつぶやいた。


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