最終話 somewhere,again (2)

文字数 2,061文字

 どれだけの速度で風を切れば、あの人への想いを消し去れるのだろう。
 トラックを駆けながら、滝川一颯は思う。
 雲がよく見える直線からカーブにさしかかると、フェンスの奥にある川の沿道の桜が春風にあおられ、さらさらと花吹雪を散らしているのが見えた。
 一颯の心はチクリと痛む。
 春には付き物の出会いと別れ。一颯もこれまでに数多の人と出会い、そして別れを経て来た。
 その中には、とても胸を痛める程の別れもあった。
 泣いて、泣いて、泣きつくして、体内の水分が全てこぼれ出てしまうのではないかと思うほどの程の別れがあった。
 振り払うように、一颯はさらに加速し、風と一体になる。
 ここは一颯が在籍している実業団の陸上競技練習場だ。大会を今週末の明後日に控え、出場する選手達は最終調整を行っていた。
「滝川、おまえここに来て、またタイムが伸びてるぞ」
 陸上部の監督が機嫌がいい顔で、走りを終えた一颯にのしのしと近づいてくる。
「本当ですか?」
 ペットボトルの水を頭から浴びながら、一颯は感情がない声で監督に応える。
「五輪は内定してるから、今度の大会はあくまで消化試合だが、このタイムならひょっとすると、また記録更新が狙えるかもな」
「そうですか……」
 監督の恵比寿顔が嬉々としている。
 それはそうだろう。自分が成績を残せば、それは監督の評価として跳ね返ってくる。
 目的はタイムではない。自分が走る目的はこの人と同じではない。
 一颯は強くそう思っている。
 このままここで、この人の相手をするのも多大な労力を要する。気だるく思う一颯は、さっさと切り上げることにした。
「監督、今日はこれで上がります。だいたい感触は掴めてきましたので」
「ああ、いいぞ!ゆっくり休め」
「では、失礼します」
 一颯は軽く会釈をすると、エナメルバッグを抱え、ロッカールームに向かった。
 ロッカールームに入ると、明かりのスイッチには触れなかった。機械的な光に触れる気分ではなかった。薄暗のなか、窓からは夕暮れの斜光が赤々と勢いよく差し込み、部屋の中では赤と黒のコントラストができている。
 一颯が目に納めたルームベンチは赤に染まっていた。
 ドカッとベンチに腰を落とし、天井を仰ぐ。深いため息を吐くと、そのまま瞼を閉じた。
 一颯には、いまでも鮮明に甦る記憶がある。中一の夏の記憶だ。
 夏らしい濃い空色の中の大きな入道雲。それを背景にした、夏にピッタリの白いワンピースに麦わら帽子をかぶった少女。映画のワンシーンのような光景が、まるでつい数分前のことのように、きっくりと脳裏に浮かぶ。
 出会った瞬間、彼女は瞬く間に、一颯の心を奪っていた。
 彼女からの告白で始まった中学生らしい純粋で健全な交際。
 二人はデートでよく映画館に行った。その隣の喫茶店にも頻繁に顔を出した。彼女はそこで、いつもホットココアを美味しそうな顔で飲んでいた。
 一颯は彼女がココアに息を吹きかけて冷ます仕草や、美味しそうに飲むその表情が、たまらなく好きだった。
 彼女の一挙手一投足が、一颯にはとても愛らしく、きらきらと目映いものばかりだった。
 キスはただの一度きりだった。
 彼女との純な想いの繋がり。彼女と存在の感覚を共有した時間。その時間の中で一颯は彼女を一生守ろうと誓いを立てようとした。
 だが、そのキスの後に彼女は一颯に別れを告げた。
 二人が頻繁に通った映画館の前で。
 それがちょうど、いまの季節だ。
 桜が芽吹く季節になると、否応なく一颯の脳裏には彼女が現れる。
 夏に出逢い、秋と冬を映画館で笑って過ごし、春に彼女は引っ越し、そして二人の関係は終わった。
 次の夏まであと三ヶ月という、たった九ヶ月の間に一颯は一生分の恋を経験したような、そんな思いにさえなっている。
 夢を強い思いで語る彼女に、強烈な劣等感を抱いていた一颯は、一度はその状況を受け入れようとした。
 忘失しようと心に何度も蓋をした。しかし蓋をしても、心にポッカリと開いた穴は、彼女への想いを噴水のように噴き出し続け、一颯をより苦しみの渦に誘った。
 完成したパズルから一ピース抜け落ちた未完成品は、そのピースがないことには、もう元には戻らない。
 いつしか一颯は諦めることを諦めていた。
 そして、その尽きることがない想いを全て走りに注いできた。なにもない自分が、唯一彼女に対して矜持を保てるもの。その誇りを彼女よりも愛すことで、彼女への想いを消し去ろうとした。そのために一颯は愚直に走り続けてきた。
 スコアをぐんぐんと伸ばし、県下でも有数の陸上の名門校にスカウトされ、輝かしい優秀な成績を数多く残した。
 大学や実業団でも、その活躍は変わらず、いつしか1500m走では一颯と渡り合える選手は日本からはいなくなっていた。
 夏の五輪が終わると、アメリカに渡ることも、もう決定している。
 だが、どれだけ迅くなっても、どれだけ風を切ろうとも、彼女の笑んだ顔は一颯の苦しむ心からは、消去できなかった。
 ──今日も駄目だったか。
 一颯はそう思い、ゆっくりと瞼を上げた。

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