最終話 somewhere,again (5)
文字数 2,535文字
福岡駅に着くと、空を薄暗い雲が覆っていた。雨を不安に思い、一颯は実家の方向の路線バスに乗車した。
バスの窓から目に映る懐かしい故郷は、数多の変化がある。特に駅周りの中心部は知らない店やビルが増え、逆に馴染みの店は姿を消していた。
時代の流れと言えばそれまでだが、古いものはどんどんと淘汰され、新しいものに変わっていく。
だが、古さの中にも良さはある。
特に彼女はそういうものが大好きな人だった。
歴史を刻んできたレトロな建物とそれを守ってきた主達。そこには自分が知らない時間を歩んできた様々な思いが溢れている。その思いに自分が気づく瞬間がなによりも楽しいと、いつか彼女は一颯に楽しげに語っていた。
当時の自分にはわからなかったが、今なら彼女の話もわかる気がする。
変わった街並みはもはや自分が知らない異国そのものだ。その中で郷愁の念を感じるのは、安らぎや安心感、そういった類いの感情を得たいからではないだろうか。
彼女もそういう思いだったのだろうか。
より強烈に彼女が一颯の脳裏に浮かぶ。
頑なに忘れようとしてきた。
頑なに思い出すことを拒んで来た。
しかし、あまりにもあの頃は楽しさに溢れていた。あのときの一颯には彼女は全てだった。そして彼女もまた自分が全てだと想ってくれていると、そう思っていた。
だが、彼女は涙ながらに一颯に別れを申し入れた。
一体、彼女はあの日どういう思いだったのだろう。最後に別れた日は、初めてキスを交わした日でもあった。
キスを求め、別れを告げる。
あの日の彼女は、いまでも一颯の中で未解決で答えが出ていない。
その答えもひょっとしたら、未来にあるのかもしれない。
一人で未来を訪れた彼女は、一体なにをしていたのだろう。
バスの道中でも、一颯は脳を休めることなく彼女のことを考え続けた。
そして、やがてバスは目的地に近づいてくる。
かつて、一颯が青春の全てを置き去りにしてきた場所に。
降車すると、一颯は恋坂に向かって歩を進める。
ここはあまり変わっていない。
恋坂がある商店街に足を踏み入れると、一颯は学生服を纏った中学生に立ち戻ったような感覚に落ちた。
声を張る八百屋のおじさん。
買い物のおばさん達を捕まえて魚のレクチャーを始める鮮魚店のおばさん。
グラム単位の誤差など気にしない豪快な精肉店のおじさん。
軒先にいつも綺麗な花を並べている生花店のおばあちゃん。
彼女がよくおまけをもらっていた揚げ物屋のおばさん。
開いたドアから賑やかな音が溢れてくるゲームセンター。
ここには彼女との青春が溢れ、輝かしい想い出がたくさん眠っている場所だ。
隣からは、いまにも彼女が笑いながら声を掛けてくるような、そういう懐かしい気分になる。
一颯の頬に一本の筋が作られる。
重力に逆らえず、落下した雫は地にあっという間に吸収された。
落ちた雫をギュッと踏みしめ、一颯は通りの角を折れる。
恋坂がある通りに出ると、館の前には人だかりができていた。
ニュースで報道されたことで、一颯と同じように閉店する前に懐かしさで訪れた人達でごった返していた。
自分達と同じように多くのカップル達はここで、心踊る時間を過ごして来たのだろう。
懐かしく思う気持ちと、嬉しく思う気持ちで一颯は自然と口元が緩んでいた。
ともかくこの調子では恋坂には暫くは入場できそうにない。一颯はひとまず未来へ行くことにした。
恋坂を横目に通り過ぎる。昔と変わらない券売所の中では、年齢の変化を感じない上品な仕草のオーナーが、訪れた客達に忙しくチケットを販売している。奥では相変わらずモギリを行っているようだ。
ここにも懐かしさを感じ、また一颯は口元が緩む。
カランとドアベルを鳴らし、一颯は重い未来のドアを押し開けた。中は恋坂ほどではないが、それなりの客達が席を埋めていた。
恋坂の溢れ客のようらしい。
カウンターから背中越しに「お好きなお席へどうぞ」と、穏やかな人柄がうかがえる声が響く。
懐かしい声だな。一颯は昔と変わらない癒しを含む声に、少しの間身を預け余韻を楽しんでいた。
カウンターの一番端の席が開いていたので、一颯はそこに腰を下ろす。
「いらっしゃいませ」と、マスターはコトッとお冷を横から静かに置いた。
「ブレンドを」と、一颯が注文する。
マスターは「かしこまりました」と返し、カウンターへ戻った。
運ばれてくる間、マスターは給仕と会計などを一人で手際良くこなしていた。さすがに長年切り盛りして来ただけはあると、横目で見ていた一颯はその仕事振りに感嘆としていた。
やがて一颯の元にブレンドが運ばれて来ると、重ねてスッと静かに手紙が置かれた。
かなり古い手紙のようだ、と一颯が目を落とすと、その宛名にギョっとする。
自分の名前が宛名。そして、それを記したかわいらしい文字にも覚えがあった。
驚き、カバっと顔を上げる。
「待っとったよ」
脇に立つマスターが目を細めていた。
「マスター、気づいてたの?」
「自慢じゃないが、一度来店してくれた人は忘れんのだよ」
「これは?」
手紙を持った一颯は予想した答えを期待する。
「あの子からじゃ。10年前、おまえさん宛に預かったものじゃ」
「10年……前?」
予想は当たるも、途方もない時間に一颯は汗が垂れる。
「あの子が引っ越す前じゃ。自分はもうすぐ引っ越してしまう。じゃが、おまえさんに言いたいことがあるが直に言う勇気がない。だから手紙をしたためたと。いつか、おまえさんがここに来た時に、これを渡してもらえないだろうかと頼まれてな。それから次の日にも、おまえさんら二人で来たが、そのときもくれぐれもよろしくお願いしますと、頭を下げられたよ」
一颯は鮮明に思い出した。
最後に未来を訪れた時、彼女は一度中に戻った。その際、ガラス越しにマスターに頭を下げる彼女を一颯はたしかに見ていた。
あの時は引っ越しの挨拶だと思っていたが、手紙のことだったのだ。
「読んであげなさい。10年前、あの子がおまえさんになにを伝えたかったのか、記してあるはずじゃ」
一颯は頷くと、おそるおそる手紙の封を解いた。そして、中にあった彼女の思いがしたためられた四枚の便箋を開いた。
バスの窓から目に映る懐かしい故郷は、数多の変化がある。特に駅周りの中心部は知らない店やビルが増え、逆に馴染みの店は姿を消していた。
時代の流れと言えばそれまでだが、古いものはどんどんと淘汰され、新しいものに変わっていく。
だが、古さの中にも良さはある。
特に彼女はそういうものが大好きな人だった。
歴史を刻んできたレトロな建物とそれを守ってきた主達。そこには自分が知らない時間を歩んできた様々な思いが溢れている。その思いに自分が気づく瞬間がなによりも楽しいと、いつか彼女は一颯に楽しげに語っていた。
当時の自分にはわからなかったが、今なら彼女の話もわかる気がする。
変わった街並みはもはや自分が知らない異国そのものだ。その中で郷愁の念を感じるのは、安らぎや安心感、そういった類いの感情を得たいからではないだろうか。
彼女もそういう思いだったのだろうか。
より強烈に彼女が一颯の脳裏に浮かぶ。
頑なに忘れようとしてきた。
頑なに思い出すことを拒んで来た。
しかし、あまりにもあの頃は楽しさに溢れていた。あのときの一颯には彼女は全てだった。そして彼女もまた自分が全てだと想ってくれていると、そう思っていた。
だが、彼女は涙ながらに一颯に別れを申し入れた。
一体、彼女はあの日どういう思いだったのだろう。最後に別れた日は、初めてキスを交わした日でもあった。
キスを求め、別れを告げる。
あの日の彼女は、いまでも一颯の中で未解決で答えが出ていない。
その答えもひょっとしたら、未来にあるのかもしれない。
一人で未来を訪れた彼女は、一体なにをしていたのだろう。
バスの道中でも、一颯は脳を休めることなく彼女のことを考え続けた。
そして、やがてバスは目的地に近づいてくる。
かつて、一颯が青春の全てを置き去りにしてきた場所に。
降車すると、一颯は恋坂に向かって歩を進める。
ここはあまり変わっていない。
恋坂がある商店街に足を踏み入れると、一颯は学生服を纏った中学生に立ち戻ったような感覚に落ちた。
声を張る八百屋のおじさん。
買い物のおばさん達を捕まえて魚のレクチャーを始める鮮魚店のおばさん。
グラム単位の誤差など気にしない豪快な精肉店のおじさん。
軒先にいつも綺麗な花を並べている生花店のおばあちゃん。
彼女がよくおまけをもらっていた揚げ物屋のおばさん。
開いたドアから賑やかな音が溢れてくるゲームセンター。
ここには彼女との青春が溢れ、輝かしい想い出がたくさん眠っている場所だ。
隣からは、いまにも彼女が笑いながら声を掛けてくるような、そういう懐かしい気分になる。
一颯の頬に一本の筋が作られる。
重力に逆らえず、落下した雫は地にあっという間に吸収された。
落ちた雫をギュッと踏みしめ、一颯は通りの角を折れる。
恋坂がある通りに出ると、館の前には人だかりができていた。
ニュースで報道されたことで、一颯と同じように閉店する前に懐かしさで訪れた人達でごった返していた。
自分達と同じように多くのカップル達はここで、心踊る時間を過ごして来たのだろう。
懐かしく思う気持ちと、嬉しく思う気持ちで一颯は自然と口元が緩んでいた。
ともかくこの調子では恋坂には暫くは入場できそうにない。一颯はひとまず未来へ行くことにした。
恋坂を横目に通り過ぎる。昔と変わらない券売所の中では、年齢の変化を感じない上品な仕草のオーナーが、訪れた客達に忙しくチケットを販売している。奥では相変わらずモギリを行っているようだ。
ここにも懐かしさを感じ、また一颯は口元が緩む。
カランとドアベルを鳴らし、一颯は重い未来のドアを押し開けた。中は恋坂ほどではないが、それなりの客達が席を埋めていた。
恋坂の溢れ客のようらしい。
カウンターから背中越しに「お好きなお席へどうぞ」と、穏やかな人柄がうかがえる声が響く。
懐かしい声だな。一颯は昔と変わらない癒しを含む声に、少しの間身を預け余韻を楽しんでいた。
カウンターの一番端の席が開いていたので、一颯はそこに腰を下ろす。
「いらっしゃいませ」と、マスターはコトッとお冷を横から静かに置いた。
「ブレンドを」と、一颯が注文する。
マスターは「かしこまりました」と返し、カウンターへ戻った。
運ばれてくる間、マスターは給仕と会計などを一人で手際良くこなしていた。さすがに長年切り盛りして来ただけはあると、横目で見ていた一颯はその仕事振りに感嘆としていた。
やがて一颯の元にブレンドが運ばれて来ると、重ねてスッと静かに手紙が置かれた。
かなり古い手紙のようだ、と一颯が目を落とすと、その宛名にギョっとする。
自分の名前が宛名。そして、それを記したかわいらしい文字にも覚えがあった。
驚き、カバっと顔を上げる。
「待っとったよ」
脇に立つマスターが目を細めていた。
「マスター、気づいてたの?」
「自慢じゃないが、一度来店してくれた人は忘れんのだよ」
「これは?」
手紙を持った一颯は予想した答えを期待する。
「あの子からじゃ。10年前、おまえさん宛に預かったものじゃ」
「10年……前?」
予想は当たるも、途方もない時間に一颯は汗が垂れる。
「あの子が引っ越す前じゃ。自分はもうすぐ引っ越してしまう。じゃが、おまえさんに言いたいことがあるが直に言う勇気がない。だから手紙をしたためたと。いつか、おまえさんがここに来た時に、これを渡してもらえないだろうかと頼まれてな。それから次の日にも、おまえさんら二人で来たが、そのときもくれぐれもよろしくお願いしますと、頭を下げられたよ」
一颯は鮮明に思い出した。
最後に未来を訪れた時、彼女は一度中に戻った。その際、ガラス越しにマスターに頭を下げる彼女を一颯はたしかに見ていた。
あの時は引っ越しの挨拶だと思っていたが、手紙のことだったのだ。
「読んであげなさい。10年前、あの子がおまえさんになにを伝えたかったのか、記してあるはずじゃ」
一颯は頷くと、おそるおそる手紙の封を解いた。そして、中にあった彼女の思いがしたためられた四枚の便箋を開いた。