1-3. 喋る死体の朝ごはん
文字数 1,875文字
ただそれだけが、父が教えてくれたことでした。
――名を上げよ。
ただそれだけが、母が教えてくれたことでした。
でも、戦乱の時代はとうに終わってしまって。
家督は、家中でも最強の誉れ高い弟が継ぐことになって。
弟を見返す腕も無く、身を立てる機会も無く。
「では、僕は? 僕には何の価値があったのですか?」
その問いに、鼻の高い白人の宣教師は、こう答えた。
「神は、いつだって貴方を見ておられるのですよ」
* * *
夢を見ていた。故郷の夢。ついこの間までそこに居た筈なのに、今は遠い昔のようにすら感じられる。
(ここは……船倉か)
痛む身を起こして、周囲に目を向ける。薄暗い船倉はぎしぎしと軋んで、天板からは人の足音と剣戟の喧騒、人の絶叫が聴こえてくる。
幸か不幸か。伊織介は、カビ臭い
熱い。苦しい。身体が怠い。
撃たれた脇腹がじくじくと痛む。呼吸する度に血が噴き出して、衣服が濡れて気持ち悪い。
(終わりはこんなもんか)
死ぬ覚悟で故郷を飛び出した癖に、この有り様だ。
どこで間違ったのか。宣教師の言葉を信じて、騙されて。気付けば奴隷として、オランダ人に売られていた。
どうせ死ぬならば、もっと華々しく散るものだと思っていた。
こんな暗く、汚く、誰も知らない場所で死ぬなんて、聞いてない。
「僕は」
かちかち。かちかち。歯の根が合わない。身体の震えが止まらない。
「僕はまだ、何者にもなっていない」
瞳が潤み、涙が零れそうになる。小太刀を強く握るが、もはや腹を切る勇気は残っていない。
「せめて――」
せめて、先祖のように。祖父のように父のように、戦って戦って、戦い抜いて死にたかった。
「――誰か。いっそ、殺してくれ……」
伊織介は、誰にともなく、呟いた。
「ならその命、ラサリナに頂戴」
不意に澄んだ声がした。
伊織介はとっさに小太刀を抜いて、声のした方向に刃を向けた。少女の声、それもオランダ語ではなく、流暢な英語による発話だった。しかし今の伊織介にはそんなことに気づく余裕はない。
口の中が乾くのを感じながら、伊織介は重い身体をどうにか引き摺って、声のした方向に躙り寄った。
「こっち。そんなに心配しなくても、ラサリナはそもそも動けない」
荒い呼吸の伊織介とは対照的に、少女の声は極めて平静な調子である。伊織介はその声を頼りに、一つの木製の
「そう、ここ」
確かに、声は箱の中から聞こえてくる。伊織介は右手に小太刀を構えたまま、箱の蓋に左手をかけた。
「早く開けてよ、喉が乾いて仕方がないんだ……」
鍵は開いてるから、と声は付け加えた。伊織介は右手の小太刀を強く握ってから、一気に蓋を跳ね上げた。
「やあ――」
箱の中に入っていたものは、声の主は、
「どうも。こんな姿で失礼」
〝死体〟だった。
黒く醜く変色し、腐った汁を垂れ流し、鎖で四肢を縛られ、小さく折り曲げられた腐乱死体。かろうじて残った長い髪の毛が、それが元は女性だった可能性を伺わせる。眼球は既に腐り落ち顔貌すら判別できない〝それ〟は、しかし現に朽ちかけた舌を震わせて喋っている。
伊織介は、目の前で起こっている超常に恐怖することすら忘れていた。故に、死体の声に答える事は出来なかった。ましてや動くことも、逃げることも。
「君の血は、美味しそうだね」
死体は、箱の中からゆっくりと伊織介に向かって手を伸ばした。伊織介は戦いの熱も、脇腹の痛みも、忘れていた。しかし頭のどこかで、死体って動くんだなあ、なんて間抜けな感想を抱いていた。
「君、良い匂いがする。喉が、乾いて乾いて……だから、良いよね?」
皮膚の爛れ落ちた左手が、伊織介の頬に触れた。死体は徐ろに上体を起こして、鎖の付いた右手で器用に胸の前で十字を切った。
「父と子と、聖霊の御名によりて――」
伊織介は、やにわに微笑んだ。死体の顎がぱくっと開いたのが、なんだか可笑しかったのだ。
「――
その日、一隻の船が消失した。
この事件以来、船乗りの間で「船を丸ごと食べてしまう〝