6-10. 文字通りのクソ喰らえ
文字数 5,260文字
再会を喜ぶ暇もなければ、言葉を交わす体力すら無かった。
今にも消え入りそうになる意識をどうにか繋ぎ止めて、伊織介は己の身に抱き付く少女を見遣る。
(本当に助けに来たのか。なんて馬鹿なんだ、ルウ)
歯を食いしばって耐える彼女の横顔は、痛々しくも美しい。
神父が繰り出した
「あは、すごいね、喰われる度に再生する。赤蝗どもの餌として、動態保存するのも悪くないかな!」
神父の哄笑が響き渡る。
「良いよ、もう一度昔みたいにいろいろ実験しようかラサリナ! 前は首だけになってギリギリ生きてたよね、今回はどこまでダイエットできるかなぁ?」
ル=ウは背中に生やした触腕を殻のように硬く広げて、今のところ赤蝗の攻撃を防いでいた。しかし表面を少しずつ食い千切られ、ゆっくりと、確実にその体積を減らしていく。
(――なんで、僕なんかの為にこんなに頑張っているのだろう。僕が壊れても、次の人形を作ればいいだけなのに)
そんな伊織介の内心を知らず、ル=ウは外皮を貪り食われる痛みに耐えながら、優しく語りかけてくる。
「ああ……イオリ。可哀想に、こんなにぼろぼろにされて。右腕も、右目も取れてしまったんだね……」
ル=ウは器用にも自分の左手で、彼女自身の右腕を引きちぎった。
「右手、取れたままじゃ、バランスが悪いもの。わたしの、あげるから、イオリ」
ル=ウの引き千切られた右腕が、そのまま伊織介の傷口にぴたりとくっつく。しかし細く滑らかなル=ウの腕は、伊織介の身体には酷く不釣り合いだ。
「右目も……」ぶちり。ル=ウは苦痛に表情を歪めながらも、躊躇なく己の眼球を抉った。
「あげる。はは、嬉しいな……目をあげるのは、二度目だ」
少し照れくさそうにしながら、ル=ウはイオリの右眼窩に指を入れ、腐りかけの眼球を掻き出し、新しいものと入れ替えた。
「――ッ!?」
その瞬間、鋭い痛みとともに、伊織介の右眼側に不可思議なイメージが映った。
それは、幼いル=ウの姿。五、六歳の頃だろうか。ふわりとした柔らかな黒髪と、澄み切った青い瞳に面影がある。
幼いル=ウは、白く清潔な
すやすやと、可愛らしい微笑を浮かべ、人形に頬擦りするル=ウ。
むにゃむにゃと何事か寝言を発し、この世の汚れを知らぬ顔で夢を見ている。
「……イオリ。わたしだけの、イオリ。ずーっと、いっしょ……」
〝イオリ〟。聞き慣れたその言葉の形に、眠りこけるル=ウの口が動いたのを、伊織介は確かに見た。
それはあり得ざる光景、偽りの記憶。しかし紛れもなく、その願望だけは真実だ。寂しがりの魔女の、いちばん根っこにある心象。あるいは、伊織介の側の欲望だったのかもしれない。だがどちらでも同じことだ。
イメージは一瞬だった。気付けば、右眼の視界はこれまで通り真っ暗で、眼窩はじくじくと痛む。
だが――それだけで十分だった。
「僕は……何をやっているのだろう」
呟いて、ル=ウを見る。ル=ウは額に汗を浮かべ、必死に伊織介を守ろうとしている。
――人形で、何が悪い。
――たとえ、いつか捨てられる人形だろうと。取り替えの効く、消耗品だろうと。
この寂しがりの魔女は、僕を必要としてくれている。
足に力を込める。動かない。ぽんこつめ。
腕に力を込める。右はだめだ。だが、左は動く。
腹に力を込める。起きろ。寝るな。今動かなくて、何が下僕だ。
そうだ。かけがえの無い一人になんて、なれなくて良い。人形のように消費され、やがて捨てられる存在でいい。それでも、今この瞬間だけは。
「ルウ」
左の掌で、彼女の頬を撫でる。ひんやりと冷たくて、やわらかい。
「ルウ、ありがとう。元気になりました」
その言葉を伝えると、ル=ウは苦しげに笑った。
「……良かった。じゃ、後は一人で逃げられるな。そろそろ、保たないみたいだ」
ル=ウは、喰われる先から次々に触腕を展開し、
「イオリを取り返せれば、わたしの勝ちだ。大丈夫、下にはリズとフランが居る。あの男の思い通りになんてなるな。これは命令だ。逃げろ、イオリ」
――これまでは、ただル=ウに奴隷として仕えているだけで満足だった。
伊織介はル=ウの言葉に頭を振った。
「いやです」
ル=ウが目を白黒させている。それはそうだ、この土壇場で拒絶されるなんて思っても見なかったに違いない。
「逃げません、ルウ。僕は今から、ほんとうの意味で、貴女に忠義を尽くすことを決めたから」
言って、そっと彼女の首を左手で撫で付ける。
少しだけ、彼女のことを諦めた。僕のことなど捨てて、逃げるべきだと。
少しだけ、彼女のことを疑った。僕のことなんて、代えの利くものに過ぎないと。
少しだけ、彼女のことを疎んだ。僕のことなど忘れて、幸せに生きろと。
一瞬だけとはいえ、そう考えてしまった己を恥ずかしく思う。
――僕は、奴隷であることに甘えていたんだ。鎖のあることに安心していたんだ。
「だから、ルウ」
僕は自分自身の主人として、改めて仕える相手を選ぼう。
だからこれはわがままだ。ただ己の忠を貫きたいという、卑屈な勇気だ。
「貴女の力を、僕に
了承は取らない。許可を待たない。自分の意志で。自分だけの責任で。
伊織介の指先が、ル=ウの首に食い込んだ。
* * *
「え――? イオリ、何、ご、ぼっ――」
ル=ウは一瞬、困惑の表情を浮かべたが、すぐに溢れ出る血で咳き込んだ。
「ごめんよ、ルウ」
伊織介はそのまま、ル=ウの喉元に指を突き込んだ。
「――ああ、成る程。成る程」
伊織介は何度も頷いた。
今なら分かる。己の身に宿った〝贄神〟の尾が、己に何をすべきか告げている。
「……ご、……イ、リ……!」
目に涙を浮かべて困惑するル=ウが、たまらなく愛おしい。
その白いうなじを。透き通るような首を。
犯してみたいと思っていた。
「――いただきます」
血を噴く喉元に、喰らいつく。
傷口を舐める。歯を立て、引き裂き、舌を入れる。
おいしい。おいしい。おいしい。
「何をカマトトぶっているのです、ル=ウ」
今なら分かる。元はといえば、この身体すらもル=ウのものだ。
「僕をこうしたのは、貴女のくせに」
『ばれたか』
己の口の中から、ル=ウの声が響いた。自分の口で喋れないから、こっちの舌を借りたのだ。
『いや、驚いたのは本当だ。今までだって、わたしはずっと待っていたんだぞ』
「すみません」
『まったく……まさかこの土壇場になってようやくとは。これだから日本人は変態なんだ』
少し恥ずかしそうなル=ウの口調。
そう、〝贄神〟ハイヌウェレが、欲し欲される、欲望と交歓する神であるならば。
『ようやく――ようやく、わたしを欲したな』
必要なのは、〝欲望〟だった。
ただの肉欲ではなく、ただの独占欲でもなく――魂ごと啜るかのような、存在そのものを欲する欲望。決して手を出してはいけないと自覚しながら、それでも手を伸ばす強烈な我欲。
『死にかけのわたしに欲情するとは、本当に、この変態め』
すなわち、禁忌への欲情。誰に否定されようと、誰が厭おうとも、贄神はその欲望を祝福する。
「ええ。僕はとうの昔に――焦がれていた」
ル=ウの首が落ちる。身体のほうが切断面から盛大に血飛沫を上げて、伊織介の全身を真っ赤に染めた。
一方、首を失ったル=ウの身体は急速に制御を失い、伸ばした触腕が萎れ始める。
赤蝗の群れが、いよいよ最後のひと踏ん張りとばかりに一層勢いを増して、触腕の盾に食って掛かる。だが、伊織介は恍惚とした表情でそれを眺めていた。
「なるほど、いけないことほど、美味しいんだ」
これは儀式だ。伝承の再演だ。
――僕が、本当にル=ウの身体から産まれ落ちたル=ウの子であるならば。
全身に力が滾るのが分かる。かつて無いほどに気分が良い。
――僕が、ル=ウを食べることは、〝親殺し〟という最大の禁忌に値する。
伊織介はル=ウの首元に頭を突っ込んで、血を啜った。ごく、ごくと喉が鳴る。
〝親殺し〟。
それは、魔術的にはそう呼ばれる儀式の一種。
古今東西――古の時代より、神話に親殺しは事欠かない。オイディプス。マルドゥク。ヒノカグツチ。親を殺し、その力を得るという伝承は、西欧から極東まで、世界中のどこにでも普遍的に見られる伝承である。
だからこそ、親殺しには強い意味がある。親を殺したものは、単に親の力を引き継ぐのではない。親よりもさらに大きな力を得ることになる。
ル=ウは魔女であり、伊織介はその眷属だ。魔法陣など無くとも、呪文など無くとも、その行為は必然的に儀式的な意味を帯びる。
魔が、呼び寄せられる。意味の束が――ヒトの想像力の束が、伊織介の肉体に流れ込む。
「……これが、魔法か」
身体の傷が治っていく。不釣合いだった右腕も、ぼこぼこと表皮が蠢いて、すぐに伊織介の身体にあった大きさになった。ル=ウに貰った右眼も馴染んでいく。
「ルウ、残りの身体も借りるよ」
肉体に魔が満ちていく快感を噛み締めながら、伊織介は右腕をル=ウの身体に突き込んだ。すると、ル=ウの身体は赤黒い触腕の塊となって収縮し、伊織介の身体に吸い込まれていく。一つになる。融合する。ル=ウと伊織介の肉体が溶けあい、絡み合い、もつれて形を為していく。
『そうだ。これが本来の設計だ。贄神の力を最も純粋に発揮し得る、禁忌の具現』
伊織介の右眼が、黄金色に輝いた。その光は、ル=ウの目に宿る色そのものだ。
『やるぞ、イオリ。わたしたちは一つだ』
伊織介が腕を横に薙ぐ。
ぶじゅう。と耳障りな音がした。
無数の赤蝗が、床に落ちて、溶け爛れている。
赤蝗の群れが落とされて、初めて伊織介を視認した伯爵は、明らかに狼狽した。
「な、なんだ!? いったい何が……」
ゆらりと立ち上がった伊織介は、既にその姿を魔性のものへと変えていた。
大方のシルエットは変わっていない。左半身はそのままだ。しかし、右半身が違っている。銀の髪。黒い右腕。金色の右眼。右腰のあたりからは尾のような触手が一本生えていて、アンバランスな印象を強めている。
伊織介の右半身に、ル=ウの要素が混ざったかのような姿だった。
「……え、腐ってる?」
ぼとぼとと落とされる赤蝗を見て、思わず神父が言葉を漏らす。
赤蝗は、腐っていた。伊織介が触れた傍から、煙を上げて急速に腐り爛れていく。
『教えてやる、伯爵。お前の言う通り、わたしの魔力の大半はイオリに注いである』
ル=ウが伊織介の舌で声を発した。だが今や、神父は娘の言葉が聴こえていない。
「う、うそだ! 赤蝗は無限に出せる!」
情けない声で叫んで、魔法陣を開いて赤蝗を次々に呼び出している。
『確かに〝贄神〟が最初に選んだ器は、わたしの方だ。だが〝贄神〟を取り込んだわたしは、
言いながら、伊織介は再び右腕を振るった。ただの一薙ぎで、赤蝗の群れが一直線に削れていく。伊織介の右手が触れた付近から、感染するように赤蝗が腐り落ちていく。
それは、〝贄神〟の司る豊穣の力。腐敗はただの結果に過ぎない。
その右腕は、触れたものに生命を注ぐ。腐り落ちていくように見えるのは、過度に早められた生命としての終わりの姿。一瞬にして寿命を迎え、地に還っていくその過程が、ただ腐敗という形で現れているだけだ。
『だからわたしは、〝贄神〟を体外に吐き出すことにした。そうして生まれたのが、イオリという人形』
「うそだ、うそだぁっ!」
神父にル=ウの声は届かない。赤蝗の群れが、まるで望んでそうするかのように伊織介に飛び込んでくる。
そっと拳を掲げて、赤い竜巻を伊織介は受け止めた。その指先に吸い込まれるように、赤蝗たちはまっすぐ突っ込み、そして腐り落ちていく。
『――つまりイオリは、わたしのうんこだ』
ル=ウの舌が叫んだ。
『娘の下の世話もしなかったお前が! わたしのクソに喰われて死ね!』
もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃないか。
伊織介はそう思ったが、あえて口に出すことはしなかった。