3-4. すぐにタイマン張りたがるバカはいつの時代も迷惑
文字数 5,865文字
浅瀬に積み上げられた荷箱の山の上に立ち、フランが船員たちにきびきびと指示を出している。積み荷を運ぶ水夫たちの人種は様々だ。浅黒い肌をしたテルグ人にタミル人、白い肌のアルメニア人に
「自分がこんなことを言うのも失礼なんですが」
遠慮がちに、伊織介は言葉を紡ぐ。
「フランさんに荷積みの監督を任せてしまって、本当に大丈夫なのですか? 僕らも手伝った方が……」
伊織介はちらちらとフランの方を見やった。当のフランは大張り切りで荷を捌いている。
「気持ちはわかるよ。けど、彼女は骨の髄まで
「そういうものですか」
「そういうものさ」
冷静な口調で伊織介の疑問に答えたのは、左右非対称の奇妙な格好をした少女だった。その声は詩人のそれのように透き通っている。
小柄な身体に似合わぬ
彼女もまた、
「少し前までは、
少年のような口調で語って、リズは肩を竦めてみせた。
「少し前まで……って、何かあったんですか?」
「魔女狩りだよ。はるばる
「処刑……そんな……」
「ボク自身、一度は牢獄で首を吊られる順番を待っていた身さ。そんなとき、保釈金を払って身請けしてくれたのがル=ウって訳。彼女、根っからの強欲って訳じゃないんだよ。今の時代、魔女が異端狩りから逃れて生きていくには、
言いながら、彼女はてきぱきと手元の
リーゼルの担当は、船に載せる武器弾薬の確認と整備だった。伊織介はその補佐をル=ウに命じられている。伊織介も
「まぁ、フランに関しては……彼女は根っからの守銭奴だけどね」
両手をぶんぶん振り回して指示を出すフランを見ながら、リーゼルはいたずらっぽく笑った。
そんなときである――フランが悲鳴を上げた。
「な……っ、何ですの貴方は! ここは現在、メリメント号の荷積場ですのよ!」
見れば――船員たちがざわついている。
彼らの視線の中心にあるのは、いつの間に砂浜に現れたのか、赤ら顔をした半裸の偉丈夫が立っていた。
「こちらには
「おいおい、勘違いしねェでくれよお嬢ちゃん。俺は人に会いに来ただけだあ」
そう言って両手を挙げる男の背丈は、
「日本人がそこの船に居るって聞いてよお。こう見えて俺ァ日本生まれだ、半分は
へらへらと男は訴える。彼を囲む船員たちは、誰一人彼に近づこうとしない――否、近づけない。昼間から酒に酔っている男、しかし彼の纏う異様な雰囲気に、フランを含めた全員が呑まれていた。
「おっ? ――いるじゃねェか。早く言ってくれよお」
男の左目が、伊織介を認めた。
瞬間、全身が総毛立つ。遅れて伊織介は理解する。
(この人――!)
この感覚を伊織介は故郷でも感じたことがある。関ヶ原帰りの
「
ふらふらと千鳥足で、男は伊織介に寄ってくる。
「思ってたよりずっと若ェな。その歳じゃあ、青野ヶ原も知らんだろ。ホントに鬼を斬ったのかい?」
男は鼻が触れ合うほどの距離まで、無遠慮に顔を近付けた。酒臭い吐息がかかる。伊織介は、後退りしないように気を張るのがやっとだ。
「まァいいや。フザだ。
フザと名乗った男は、伊織介の背中をばちばちと叩いて笑った。本人は楽しそうだが、フランはじめ船員たちが固唾を呑んで遠巻きに見詰めている。伊織介も気が気でない。
「……フザさん。失礼ですが、僕たちは見ての通り仕事中です。御用ならば、」
「おう、すまねェな。手短に済ませるとするわ」
伊織介の言葉を遮ったフザは、手近な荷箱から木板を素手で
「御託はナシだ。俺ァこいつで良い。抜けよ。
言って、フザは
「ちょっと! マスリパトナムで私闘はご法度でしてよ!
すぐに止めに入ったのは、フランである。巨大な十字架を携えて、ずかずかとフザに寄っていく。口調はいつもの調子だが、伊織介にはその声が微かに緊張しているのが分かった。
フランの言葉通り、港都マスリパトナムでは流血沙汰は厳禁である――少なくとも昼の間は。多彩な荒くれ者の集まるこの港が栄えているのは、
「おいおいお嬢ちゃん、勘弁してくれよォ。稽古だよ、稽古。侍同士が会ったら、親睦を深めるために稽古するんだよお。なァ
「……そう言われましても」
戦う理由など無い。メリットも無い。見境なく刀を抜くほど、伊織介は戦好きではなかった。しかし――。
「……稽古。だよなァ?」
フザは、視線を伊織介に向けたまま、木板を沖合のメリメント号に向けた。
「……ッ!」
伊織介は理解する。これは脅しだ。この男、本当の意味で
――暴れるつもりなのだ。
生と死の値段が等価なのだ。無茶苦茶で、損得勘定が通用しない、いわば狂者――伊織介は、そういう手合いのことをよく知っていた。侍と言われる者たちには、一定の割合で
「まぁ……そうですね。心配しないでくださいフランさん。稽古です」
この男は、平然と死ぬ男だ。こんな男に付き合って、命のやり取りをする必要なんかない。なんとか満足させて帰ってもらう他無い――その一心で、伊織介は仕方なく、フザの言葉を首肯する。
それに、だ。
(……流石にここまで虚仮にされて、引けるものですか)
フザは腰の刀を抜く気が全くない。それはどこまでも伊織介を小馬鹿にしていて――少なくとも、自分がそこまでの
「俺の得物はこの木板、
「……本当ですのね? まったく、野蛮な方たちですこと」
フランは呆れたように肩を竦めると、どすんとその場に十字架を突き立てた。
「良いでしょう。10分だけ――10分間だけ、許可しますわ。ただし、
不機嫌そうに腰に手を当てるフラン。しかし今はやけに頼もしく見える。
「じゃ、お嬢ちゃんの許可も出たッつうことで」
フザが木板をぶらぶらと揺する。それほど頑丈な木板ではないが、この大男が持つと脅威に感じられる。酒の抜け切らない赤ら顔だが、とても気安く近寄る気になれない威圧感が、この隻眼の男にはあった。
「気乗りはしませんが」
伊織介は鯉口を切って、ゆっくりと小太刀を抜いた――抜刀術を今使うほど、伊織介は愚かではない。抜き打ちはあくまで不意打ち、奇襲に用いるもの。相手が刀を抜くのを待ってくれるならば、それに越したことはない。
お互いの距離は打ち間の外。――手合わせが、始まった。
「おら、打ってこいよ」
「では」
言いながらも、しかし伊織介は打ち込まない。正眼に構えたまま、摺足で徐々に徐々に距離を詰めていく。足元は砂浜だ。柔らかい地面では、どうしたって踏み込みは一歩遅れる。ここで先手を打つのは不利――
「どうしたァ、来ないのかよお。おじさんからいっちゃうぞお」
フザは両足を横に開いて立っている。動きがあればすぐに解る。伊織介はフザの言葉を無視して、剣先で牽制しながらじりじりと近寄っていく。
(間違って、死んでも知りません――!)
こっちは文字通り、真剣だ。おそらく実力は向こうが上。簡単に斬らせてはくれまい。だからこそ、全力を尽くす。相手は伊織介を舐めている。そこに隙がある。
(
自分
伊織介にも、その程度には
――フザの足が、微かに動く。
(そこだ!)
伊織介が踏み込む。正眼のまま、剣先が伸びる――。
「……チェェェェェェイ!」
奇妙な叫び声は、一撃より
「え……」
困惑の声を上げたのは、伊織介だった。
寸止めだった。首筋僅か数寸のところで、木板は止まっていた。……振り抜かれていれば、鎖骨が叩き割られていたかもしれない。ぞっとしない想像に肌が泡立つ。もしもこの男の得物が木板ではなく、腰の真剣であったら?
――この男は、いつでも伊織介を殺せたのだ。
有り得ない深さの踏み込み。猛烈な速度の袈裟斬り。砂の地面などという環境を物ともしない、予備動作なしの足捌き。
「ハイ、一本。三本勝負でいこうやあ」
後の先を取られたのは、伊織介の方だった。
「わっかりやすいなぁ、
呆気にとられる伊織介に対して、フザは木板を肩に背負いながらへらへらと笑う。
「いいよお、いい機会だ。俺が胸を貸してやるよお。どんどん打っておいでェ」
……確かにフザの言うとおりだった。伊織介にはまともな立ち会いの経験が無い。
故郷ではずっと稽古ばかりさせられて来た。だから剣術には自信があった。事実、オランダの奴隷だったときは、白人の水兵を幾人も斬り伏せた。しかしそれは相手が素人だったからだ。
「……失礼」
伊織介は言って、荷箱の方へ歩いていった。
山のように積まれた荷箱類は、それだけで壁のような高さを為している。荷箱と荷箱に挟まれた場所は、まるで狭い隘路のようだ。
伊織介は、自らその隘路に立った。荷箱を背にして、小太刀を構える。
「こっちでやります。どうぞ、
どう見ても逃げ場の無い、明らかに不利な位置取り。不自然、非合理、無意味な行動に、フランを始め観客全てが疑問符を浮かべる。
「おいおい、背水の陣ってやつ? そんなことしても意味ないよお」
フザも不思議そうに伊織介を見ている。自ら狭い位置に立った伊織介は、フザから見れば自ら体捌きの範囲を狭めたようなもの。ただでさえ一撃の疾いフザにとって、それは致命的な隙にしか見えない。
しかし伊織介は冷静だった。その目は真剣そのものだ。
――絶対、獲る。
伊織介は、勝つ気でいた。