5-6. 拐われるのはお姫様とは限らない
文字数 5,936文字
メリメント号を見下しながら、優雅な所作で赤衣の男は名乗った。
〝フィッツジェラルド〟――それは、聞き覚えのある名だ。
「久しぶりだね、ラサリナ。ぼくの愛しい娘」
そう、メリメント号が乗せた魔女……魔女団の主ル=ウの本名は、ラサリナ=ユーフロシン・フィッツジェラルド。
「……愛しい? 愛しいと言ったか?」
娘と呼ばれたル=ウが、肩を震わせて吠える。
「どの面でそんなことが言える! その手で母を殺し、その血でわたしを穢し、こんな化物に変えた貴様が!! 愛だと……」
怒りにまかせ、彼女は片脚で甲板を蹴りつけた。ざわざわと髪が蠢き、青色の瞳が金色に染まり始めている。
「
ル=ウの指先が、黒く黒く変色していく――
「お嬢」
リチャードソンが呟いた。
殺気に染まるル=ウが振り返る。その瞳は、完全に金色に変わっていた。
「ああ、分かっている。分かっているともリチャードソン。今じゃない。勝ちの目は、今じゃあない」
肩で息をしながら、ル=ウはどうにか自制している。
「……分かっているのならば結構である」
髭を撫でて、リチャードソンは肩を竦めた。
「あはは。こわいなぁ、〝
高みから見下ろすウィリアム神父が、そんなル=ウの様子に目を細めた。言葉と異なり、冗談めかした口調はまるで怖れる素振りではない。
「失敗作だとばかり思ってたんだけど……がんばったようだね、ラサリナ。有名人じゃないか」
「……貴様なんかに評価される謂れは無い。用件を言え。こんな大勢を引き連れて、よもや物見遊山という訳ではないだろう」
「ぼくは娘に会いに来ただけだよ?」
「わたしを、捨てた男が、今更ふざけたことをッ……!!」
再び、ル=ウが
「……失礼。我々はバンタムへの向かう道すがらである。見事な艦隊とお見受けするが、ここは通行止めということかな?」
見かねたリチャードソンが割って入った。
「お嬢。事情は後ほど。ここは専門家に任せて貰おう」
小声でリチャードソンが耳打ちする。彼は艦長であり、同時に歴戦の商人だ。ル=ウは抵抗せず、無言で引き下がった。
「きみが艦長かい。きみは――
神父が目を細めて、リチャードソンが身につけた十字架の首飾りを睨んだ。
「はは、これは恐縮である。荒くれに見えて、船乗りには信心深い者も多いでな」
笑顔でリチャードソンは厭味を躱す。このあたりは、流石は老獪な交渉人だった。
「うちの娘が迷惑をかけているようで、恥ずかしい限りだよ」
「とんでもない。ご息女は良き
いけしゃあしゃあと宣うリチャードソン。総督付
「は、面白い冗談だ。気に入ったよ艦長、
神父が部下に指示を出す。すると、すぐにデルフゼイル号の甲板上に一人の女が連れ出される。
「なっ……!」
リチャードソンが目を剥いた。
目隠しと手足の枷によって拘束されているものの、その鮮やかな金髪は見まごうはずもない。
「――フラン!!」
黙っていたル=ウも、堪えきれずに身を乗り出す。
「これ、欲しいんじゃあないかな、きみたちは。どうかな?」
〝シェオルの十字〟も無い。両手両足は拘束され、猿轡を噛まされて声を上げることも出来ない。
しかし確かに彼女は、マラッカ海峡で死んだと思われていた
* * *
「フラン! フラン!!」
船縁に身を乗り出して叫ぼうとするル=ウを、リチャードソンはどうにか制した。
叫び出したいのも同じだが、リチャードソンにとってはそれ以上に警戒心が上回る。
どうやって連れてきたのか。あの船に居るのがフランセット本人だとすれば、神父はあの嵐の吹き荒れる海峡から彼女を救出し、その上でメリメント号の前に先回りしたことになる。有り得ない話だが……しかし目の前の神父は得体の知れない魔術師だ。
「……確かに、彼女は我輩の乗客である。そちらに保護されていたとは、なんという僥倖か」
探るようにリチャードソンは応じる。だが、神父の薄ら笑いはその腹の底まで見透かしているかのようだ。
「うん。娘も喜んでくれたようで嬉しいよ」
「して――是非に、彼女の身柄を引き受けたいのであるが」
ここまでくれば、理解せざるを得ない。四方を包囲されている上に人質まで取られている。交渉の余地は殆ど無い。喉元にナイフを突きつけられているも同然だった。
「ああ、安心して。代価は安いものさ」
すべての条件を突きつけた上で、慇懃に。嘲笑うように優しく、弄ぶように穏やかに。
神父は笑顔を崩さない。
「ぼくは
リチャードソンたちの背後を指差す神父。振り返って、ル=ウが目を剥いた。
「……リズ!? 何を……!!」
気配もなく、そこに立っていたのは虚ろな目をしたリズ。小柄な身体でありながら、肩には
伊織介に意識は無い。ぐったりと、リズに抱えられるがままになっている。
「
神父が囁く。その声に呼応して、リズは伊織介ごと神父の方へと歩んでいく。
「ど……どうしたんだリズ! なんで……ッ! イオリを……ッ!」
ル=ウが叫んだ。当然の疑問だった。
しかしリズは答えない。ル=ウに視線すら向けない。淡々とデルフゼイルの船縁に、伊織介を運んでしまう。
代わりにル=ウに応えるのは、神父の方だった。
「ラサリナ――こんな
「低級……だと……?」
「低級でしょう。こんな、質の低い
「リズを、操っているのか……!?」
「ぼくくらいの紋章遣いにとって、低格妖霊との契約更新なんて難しいことじゃないのさ。勉強になったろう?」
目を見開いて震えるル=ウに対して、神父はどこまでも冷笑を崩さない。父親にしても、その口調はやけに底意地が悪い。
「はいお疲れ様、きみはもういらないよ」
神父の下まで伊織介を運び込んだリズを、神父は軽く小突いた。
それだけで、何の抵抗もなくリズの身体はメリメント号の甲板にまで落下する。受け身も取らず、人形のように乱雑にリズは甲板に叩きつけられた。
「リズっ!」
ル=ウが慌てて駆け寄るが、リズは焦点の定まらない目で虚空を睨んだまま、ぴくりとも動かない。
「貴様、貴様――! イオリまで……!」
リズを抱いて、尚も神父に向かって吠えようとするル=ウを再度、リチャードソンが制した。
「……堪えてくれ、お嬢。分かるな」
「――っ!」
血が出るほどに、ル=ウは強く強く唇を噛み締めた。
「その少年は、我輩の艦の乗組員なのであるが」
ル=ウに代わって、リチャードソンが抗議の声を上げる。その声はどこまでも冷静だ。
「はは、
神父はそう言って、一枚の紙を取り出した。伊織介がオランダの奴隷だったことを示す証明書だろう。
「……なるほど。こちらは逃亡奴隷を返却する。そしてそちらは、我が方の乗客を返還してくれる、と」
「理解が早くて助かるよ」
要するに、捕虜交換のようなものだ。だがもちろん、メリメント号側に選択肢など無い。
「……だ、そうだ。気持ちはわかるが、お嬢……」
「分かっている。分かっているとも……!!」
ぶるぶると肩を震わせながら、ル=ウは拳を握りしめる。
選択の余地なんて最初から無い。拒否すれば殺されるだけ――曲がりなりにも交渉の体を取っているのは、偏に神父の気まぐれに過ぎない。そんなことは、ル=ウだって分かっていた。
「――その取引、乗らせて頂こう」
「賢明だね」
リチャードソンが返答すると、今度はフランの身体がメリメント号に乱雑に放り込まれる。
涙目のル=ウが、フランの身体を全身で受け止めた。
「これでお互いに満足のいく取引ができた訳だね。ラサリナ、これからも研鑽に励みたまえ。また何か良い
ル=ウを見下して、神父がくつくつと笑った。
「イオリを……どうするつもりだ……ッ!」
「どうするも自由さ、もうぼくの物だもの。けどまぁ、そうだね……ラサリナ、
「貴様……いまだに復讐なんてことを……!」
「
神父の笑みが大きくなる。朗々と喋りながら、踊るように両手を振り上げ、ついにはくるりと身を翻して情感を示し始める。
「きみがこんなに純度の高い
「まだ、そんな妄執を……」
吐き捨てるように呟かれたル=ウの言葉は、もはや神父には届いていなかった。
「忙しくなるぞ……! 早く帰って、儀式を進めなければ。人がいっぱい死ぬぞ、人がいっぱい死ぬぞ。楽しみだな、楽しみだな!」
デルフゼイル号の甲板で、一目も憚らずくるくると踊りだす神父。
道化のような化粧でステップを踏むその姿は、異様であり――場違いで、痴愚にさえ見えた。
「――だから、今ちょっと死んでもあんまり変わらないよね?」
ぴたり。と神父のステップが、止まった。
瞬間、ばしゃ、と水音。
それは、一人の水夫が
「不信心者」
神父の声。ばしゃ、と血を撒き散らして破裂。今度はメリメント号の水夫だ。
「ぼくを睨んだ」
ばしゃ。別な水夫が破裂。
「きみは顔が気に食わない」
ばしゃ。破裂。
敵も味方も関係ない。神父は、目についた者を、次々に破裂させている。
「……狂人め」
苦虫を噛み潰したような表情で、ル=ウが吐き捨てる。
「あははははは、満足した満足した!ちょうど
けらけらと笑う神父の周囲に、赤い霧が集まっている。
――よく見れば、それは霧ではない。それは、無数の羽虫の群れ。
血のように赤い蝗が、数百、数千という規模で神父の身体に纏わりついている。
「じゃあねラサリナ、また会いにおいで!」
その言葉と共に、神父は、
呆然とするメリメント号の乗組員たちを残して、デルフゼイル号も、オランダ艦隊も、まるごと目の前から掻き消えた。
いや――オランダ艦隊旗艦、デルフゼイル号は消えてはいない。先程までメリメント号に横付けしていた筈が、今やその船影は遥か彼方、数海里分も先を悠々と航行している。
護衛艦隊など影も形もない。デルフゼイル号の船影は単艦だった。
「……騙された……幻影だと……!? あの、詐欺師めっ!」
海の彼方へ消えようとする船影に、それでもル=ウが声を上げる。
「どこまでも……馬鹿にしてくれる! 絶対に……絶対に許さない! 許さないからな――!!」
既に太陽は沈みかけていた。あの神父は、時間すら欺いたのだ。
メリメント号の艦内には、未だに神父の遣い――赤い蝗どもが、りりり、と哄笑するように鳴き声を響かせていた。
* * *
よくある話だ。英国の野心はいつだってアイルランドの支配を射程に収めている。であれば、
100年前の〝絹衣のトマスの乱〟は最も有名な反乱だ。その主導者は、第10代キルデア伯爵トマス・フィッツジェラルド。
神父ウィリアムは、13代目のフィッツジェラルドである。しかし民衆に慕われた、高潔なフィッツジェラルドの姿はもはや見る影もない。絹衣のトマスがその名の通り〝白〟を基調とするならば、血塗られた〝赤〟を象徴とするのがウィリアムだ。
女王の仇敵。
彼こそが、ル=ウ――ラサリナ・ユーフロシン・フィッツジェラルドの父親だった。