6-1. 俺自身が救世主になることだ
文字数 2,944文字
耳障りな歌だ。
高くも低くもない歌声を響かせているのは、奇妙な風体の男。
目覚め直後に見聞きするものしては、およそ快適なものではない。
「……く……」
目が覚めてまず感じたのは、身体の怠さ。
意識を失う直前の記憶は――まるで吸血鬼のように、唇を貪るリズの姿。彼女に
伊織介は、小さめの木椅子に座らされていた。
豪奢な壁紙、立ち並ぶ本棚、低い天井――ル=ウの私室によく似た小部屋だった。ル=ウの部屋よりやや広く、ずっと片付いていて、しかし奇妙な生臭さが充満している。
ひどく心地が悪い。立ち上がろうとした瞬間、
「ステイ」
何かに引っ張られるようにして、尻が椅子に叩きつけられた。
「お人形は勝手に動いてはいけないんだよ?」
下手くそな歌声の赤衣が、背中越しに語りかける。
その横顔に見えるのは、不気味な白塗りの化粧。不気味な嘲笑を貼り付けて、年齢どころか顔の特徴さえ掴めない。
「あーあー……〝
ぶつぶつと呟きながら、赤衣の男は何かを弄っている。乱雑に床に放られたそれは、黒い大きな柱のよう。その中心には、巨大な眼玉が植わっている。
「それは……!! フランさんの……!!」
〝シェオルの十字〟。フランが常に携えていた筈の巨大な十字架を、赤衣が無遠慮にべたべたと触っている。
それは、伊織介から見れば冒涜に思えた。だって、それはフランセットの
「ざんねん。今はぼくのものだ」
男は酷薄な笑みを浮かべて、片手の拳を〝シェオルの十字〟の眼玉に突き込んだ。ぶじゅ、と嫌な音がして、じくじくと泡立つように紫色の液体が眼玉から噴き出す。
「あは。悪霊としての
十字の眼玉は、しばらくびくびくと痙攣して、やがて動かなくなった。血のようにどろっとした何かが止め処なく流れている。
「ようこそお人形。ようこそお人形! やあやあ、ラサリナのお人形!」
飽いた玩具のように眼玉の残骸を放り出すと、赤衣の男は伊織介に顔を向けた。
ぞろりと、不自然なまでに白い歯を剥き出しにして男は笑う。
「きみもぼくの玩具の仲間入りだ、おめでとう、おめでとう! 今日を君の誕生日にしようね。ハッピーバースデイ!」
そのまま赤衣の男は、くるくるとその場で回りながら再び歌いだしてしまう。
伊織介の身体は椅子に張り付いて、動くことが出来ない。嫌な汗が背中に広がるのを感じる。
――意識を失う直前の記憶は、リズに襲われた時のもの。彼女は何故そんなことをしたのか。その後、何があったのか。何一つ状況が掴めないが、目の前の相手がまともな人間でないことくらいは分かる。
ひとしきり歌い終わった後、赤衣の男は踵をぴたりと揃えて伊織介の真正面に向き直った。
「――ぼくはウィリアム。ウィリアム・フィッツジェラルド。〝神父〟とでも名乗った方が、きみにはわかりやすいかな」
〝神父〟――なるほど、最悪だ。
伊織介が歯を食いしばる。不安と恐怖に圧し潰されそうになる胸中から、とっさに疑問の声が飛び出した。
「ルウは……メリメント号はどうしたのです」
「そんな睨まないでよ、日本人。こわいこわい……首を獲られてしまう」
神父は、両手で自分の首を絞める仕草で後ずさった。けたけたと笑いながら、肩を震わせて伊織介に顔を寄せる。
――いちいち言動が芝居がかった男だ。リチャードソンもその気があったが、この男のそれは下品で露悪的だった。
「安心してってば。ぼくはラサリナ――ル=ウの父親だよ? 娘をどうにかする訳がないじゃないか」
「父、親……ッ!?」
絶句する。そんな伊織介を前に、神父は楽しそうに言葉を続けた。
「ぼくが想定していた以上に、
――こんなふざけた男が、ル=ウの父親だって?
一方的に捲し立てる神父の言葉が、ほとんど頭に入ってこない。
「そう、作品だ! ぼくは、娘の優れた作品を受け取ったわけさ。それがきみだよ、ミスター・
人形。
そんな言葉ばかりが、伊織介に突き刺さる。
(そうか、そうだよな。僕はもうまともな人間じゃない)
――
否定したい事実ではあったが、目の前の奇人に
「そうだ、見せてあげよう! 今日は素敵な日だ、だから見せてあげよう! ぼくの研究を!」
顔を顰める伊織介をまるで無視して、神父が指を鳴らした。
瞬間、伊織介を座らせたままの椅子がぐるりと反転。小部屋の
――海が見える。
ここは船だ。この小部屋は、ル=ウの私室と同じく艦尾楼に備わった貴賓室だ。
位置関係は同じでも、今乗せられている船はメリメント号より遥かに大きい。
「なんだ……あれは……」
だがそれ以上に、彼方の景色に伊織介は目を見開いた。
――海に突き刺さるように聳える、巨大な黒い建造物。
その塔の根本は、緑が広がる島にある。島まではまだかなりの距離がある筈なのに、天を突かんばかりの威容で塔はその存在を主張している。これほど巨大な建造物を、伊織介は見たことがない。
「みえるだろう。素晴らしいだろう。あれがボクの〝バベル〟」
神父は、親しい友人に宝物を見せるかのような機嫌で、両腕を広げて滔々と言葉を紡いだ。
能面のようだった白い顔が、今やくしゃくしゃに歪んで笑っている。
「きみには、これからあの塔の
〝バベルの塔〟。旧約聖書に語られる、人の傲慢さの象徴。神への挑戦という冒涜。
2000年以上も前の伝承が、当代に再現されようとしていた。