6-9. 頭を使うと鼻血が出る
文字数 3,299文字
途切れがちな意識が、幾度目かの覚醒を迎える。
ほとんど動かない身体をどうにか捩って伊織介が見たものは、彼の知っているル=ウの姿では無かった。
爛々と煌めく瞳は月よりも濃い黄金色。地に着く程に伸びた銀髪は、それ自体微かに白く明滅する。
長い白髪に、黒い衣――その姿は、まさに
ル=ウの頭髪がざわざわとうねり、無数の触腕が蛇のように波打ち始める。
月光を宿して狂気に光るその瞳が睨むのは、白面の奇人だ。
「――わたしは、お前を殺しに来た」
殺意を滾らせるル=ウに対し、その視線を〝神父〟が泰然として受け止める。
「ぼくはきみを殺さないよ、愛しい娘」
「一度はわたしを捨てた癖に、どの口で……!」
「やれやれ、そんなにぼくが恋しかったのかい? 良いよ、きみは有用性を示した」
神父が両手を掲げた。その先、頭上数メートル先に、黒く、巨大な穴が開いている。
「見てごらんよ、これが天国だ」
虚空にぽっかりと開いた夜闇よりも暗い穴、しかしその縁は荘厳な燐光に彩られていて、まるで人を誘うかのよう。
「きみの作品のおかげだよ、ラサリナ。きみのお人形のおかげで、階段はもうすぐ門に届く」
神父の言葉通り、塔はゆっくりと成長を続けている。伊織介を少しずつ消費しながら、肉の塔はやがて頭上の〝穴〟に届くだろう。
「馬鹿な男だ。こんなことをして、本当に神に届くと思っているのか?」
「ほう? というと?」
神父は己の髪をくるくると弄び、にやにやといやらしい笑みを貼り付けて崩さない。
「お前は間違っている。神学の問題だ。神は生贄など許容しない。する筈もない。こんな穢れた取引を、神が承認する筈がない!」
「ふむ」
神父がわざとらしく首肯する。今にも飛びかからんという勢いのル=ウを諌めるように、まるで穏やかに道を説く教師のように。
「反駁しよう。きみは間違っている。第一に、
ぎり、とル=ウが歯噛みする。
「第二に――きみのそれは俗人の思想だ。ぼくは正しい道を歩んでいる。それ故、ぼくの超越は
駄々をこねる子供を教え諭すような口調。
ル=ウの全身に生えた触腕が、怒りに震える。
「どこまでも救世主気取りか。度し難い」
「聞き分けのない子だ。やはり、
――結局。
父と娘の言葉は、どこまでも平行線だ。
「もう昔のわたしじゃない。お前は死ぬ。イオリは渡さない。もう、何一つ、お前には渡すものか!」
ル=ウが吠えた。全身の触手を槍のように尖らせて、神父を貫かんと一斉に伸ばす。
「あはははは、ムダだよムダ」
しかしその触手は、虚空に現れた赤紫色に光る
「ぼくはキミみたいな〝
神父の言葉とともに、塔の床が輝き始める。見れば、塔の最上階、その足元全てにびっしりとカバラ様式の紋が刻み込まれていた。
「愚かだねえ。まんまと飛び込んできちゃってさ!」
部屋中の
「貴様こそ。わたしが、何も考えずに此処に来たと思っていたのか」
輝く十字架の一つが砕け散る。
見れば、ル=ウは触腕の一つを伸ばして、
「……対抗呪紋!?」
神父の顔から、初めて笑みが消える。
「お前をこの手で殴る為に……必死でッ! 勉強したんだ!」
ル=ウは触腕を四方八方に伸ばして、全ての
本来、
だが、ル=ウには
「母の仇! 此処で取らせて貰うッ!!」
ル=ウが生身の右拳を強く握る。その右拳に多数の触腕が巻きつき、ル=ウの右手は巨大な黒い槌と化した。
「――此処で死ね、
ル=ウは瞳を金色に燃え上がらせ、真上から右手を神父に叩きつけた。
ル=ウの拳は神父ごと、塔の床を叩き割った。
真っ赤な血飛沫が舞い、ル=ウの黒い右手が赤く染まる。
だが、
「……ちょっとびっくりしたよ」
神父は健在だった。
神父の身代わりに潰れたのは、ル=ウの拳を受け止めた
神父は、既に全身に数千匹もの赤蝗を纏わせていた。
全身を赤く染めたその姿は、能面のように張り付いた笑顔が相まってまるでアイルランドの怪人、
「ラサリナ、キミは殆どの魔力を、そこのお人形の作成で使い尽くしたんだ。キミの全力は、こんなもの。愚かだなあ、キミの才能は、人形作りの時点でとっくに枯れているんだよ」
言って、神父は指を鳴らした。
「きみは価値を示した。だが、そこがきみの限界さ――だからぼくが
一瞬、神父の足元に大きな
肉の床に大きな穴が開いて、噴水のように血肉が湧き出した。
「混ぜる。増える。食べる。取り込む。――きみの魔術はぜーんぶぼくの真似っこだ。可愛いよ、ラサリナ」
噴火する溶岩のように、塔の内側に溜まっていた血と臓器が天高く噴き上がる。
「だから見せてあげよう。本来、殖肉の魔術とは、こう使うのさ!」
噴き出す血肉に、神父は赤蝗を差し向けた。
「――まずい、イオリ!」
咄嗟にル=ウが駆け出す。ぶつかるほどの勢いで伊織介の身体に抱き付くが、下半身が床に埋まった伊織介は動かない。
「盛大にいっちゃおうか! パーティだあ!」
楽しそうに神父が両手を天に掲げる。
噴き出した血肉が、撒き散らされた肉塊が、ぼこぼこと動いている――否、その表面に、内側に、赤蝗が取り付いている。赤蝗は血肉を喰らい、産卵し、食い破り、一瞬にして、そして際限なくその数を増やしていく。
赤蝗は
「りりり、りりり――こわり! こ、わり!」
数え切れないほどの赤蝗が、一斉にコオロギのように鳴いた。鳴き声は、同時にまるで人間の幼児のような無邪気な叫びにも聞こえる。そして事実、赤蝗の頭部は人の顔を模し、無数の人面がげたげたと笑っている。
その群れの規模は、数千では収まるまい。夜空を紅く染める、血に飢えた積乱雲が膨らんでいく。
「もうお人形は用済みだ――食べちゃっていいよお、アレ」
神父の命で、赤い暴風がル=ウ達に殺到する。
ル=ウは、伊織介を強く抱きしめ、触腕を固くして身を守ることしか出来なかった。