4-1. 出せと言われてそう簡単に出るなら苦労はない

文字数 3,382文字

 何よりも考慮すべきは、風向きだ。

 帆船における用場(トイレ)というものは、艦首にある。青天井の下、艦嘴(ヘッド)部分にある小さな空間(スペース)で風を感じながら桶に用を足す。それが船乗りのスタイルである。

 故に、用場に於いては風向こそが全てと言っても過言ではない。風下――この場合は進行方向――に向かって出さなければ(・・・・・・)、自分で出したものを自分で被ることになる。

 それは理解できる。だからと言って――

「あっははははは! イオリノスケくんもおいでよぉ~。こっちで出す(・・)方が気持ち良いよ~」

 艦嘴(ヘッド)どころか、艦首に突き出た艦首斜檣(バウスプリット)で放尿するというのは、流石に理解に苦しむ。

「あっ、危ないですよリズさん! 色んな意味で危ない!」

 艦首斜檣(バウスプリット)は、文字通り艦首から水平方向に伸びた柱のことだ。当然、人一人がなんとか渡れる程度の幅しか無い。そんな危険な場所に、平気でリズは立っていた。少しでも体勢(バランス)を崩せば、海に真っ逆さま。おまけに海に落ちればそのまま船体に轢き潰されることは必至だ。 

「いいのいいの、どうせ誰にも見えないんだからさ!」

 下半身丸出しで、器用に片脚を掲げたまま――リズは海に向かって放尿した。風に吹かれた小水は、鮮やかな霧となって海に消えていく。
 船は常に緩やかな縦揺れ(ピッチング)を繰り返している上、不規則に横揺れ(ローリング)する。リズのバランス感覚は驚嘆すべきものがあるが、その用途が致命的に間違っている気がする。

 風は西南西。澄み渡る晴天。穏やかな追い風を受けて、メリメント号はすいすいと東へ向けて進んでいた。

(誰にも見えないとはいえ、僕には見えているのですが)
 彼女の姿は、特に真人間(・・・)ほど見えにくいらしい。逆に言えば、今こうして彼女の姿が見えている伊織介は、真人間からは遠い存在ということだ。いくら魔女の下僕になったとはいえ、改めてその事実を突きつけられているようで少し頭が痛くなる。

「イオリノスケくん見てみて! 虹が出来てる!」
 伊織介の葛藤などいざしらず、リズは逆立ちして大股を開いてみせる。実に恐るべき身体能力である。

(魔女って……魔女って……)

 伊織介は頭を抱えた。彼女たちは、あまりにも逸脱し過ぎて(・・・・・・)いる。

 目の前の小柄な少女、リズなどは典型的だ。隻眼の傭兵、フザから伊織介を守ってくれた時の真剣な眼差しはどこへやら、仕事が無ければ昼から酒を飲み、酔っ払って伊織介に絡んでくる。おまけに水夫たちからは見えないからといって、半裸で船内を彷徨くのだから始末が悪い。

 過剰な逸脱。性的にも、あるいは生として逸脱している存在。
 そういえば、リズには妖精の血が流れていると聞いた。昨晩も、ル=ウは彼女自身のことを〝化物〟と表現していたことを思い出す。魔女とは……いや、魔に属する存在とはいったい何なんだろうか。

 ――伊織介が思考に沈もうとしたその瞬間、艦内に聞きなれない音が響いた。
 カン、カン、カン、カン、カン……連続で乱打される鐘の音は、時刻を知らせる時鐘のものではない。
「警鐘……ッ!」
 リズの目が鋭くなる。

 伊織介は艦尾甲板(クォーターデッキ)に走った。


     * * *


「戦闘配置! 諸君、戦闘配置である!」

 リチャードソンの朗々とした声が響く。水夫たちはばたばたと走り回り、天地が引っくり返ったような騒ぎである。ある者は甲板上に置かれた戦闘に邪魔な荷物を撤去し、ある者は甲板に滑り止めの砂を撒いた。ハンモックは舷側にまとめて括りつけられ、弾除けに早変わりする。艦全体が叩き起こされ、全員が仕事に従事する。

 艦尾甲板(クォーターデッキ)に伊織介が駆けつけると、既にそこには魔女団(カヴン)の主要メンバーが揃っていた。

「右舷艦尾方向、13点。所属は……オランダ」
 ル=ウが望遠鏡(テレスコープ)を覗いて報告する。
「3本マストのピンネース船。マスリパトナムの港でも見たことがあるよ。確か砲数は12門。厄介だ」
 リズが補足した。ピンネースとは小型の帆船のことで、高速輸送や哨戒に向いた快速船である。小型とはいえ十分な火力を有し、小回りの効く難敵だ。
「リズ、よく覚えていますのね」
「これくらいは当然さ」
 フランの言葉に、リズは飄々と答えた。ついさっきまで、伊織介の前で奇行を繰り返していた人物とは思えない豹変ぶりだ。今はしっかりと派手な衣装も着込んで、下半身も隠している。
 
「……追ってきてるな、あれは。この微風(かぜ)では追いつかれる」
 ル=ウがオランダ船を睨んで、苦々しく呟く。
「お嬢の言う通りである。出港時から追跡されていたのであろうな。微風に乗じて仕掛けてくる腹づもりであろう」
 リチャードソンが頷いた。通常、十分な風のある場合は、より大きな帆を持つ大型船の方が速度が出る。しかし今日のような弱い風の場合は、船体の軽い小型船の方が速く帆走(はし)れるのだ。
「こりゃ、振り切れぬ。おまけに相手は風上に陣取っているのである。後手に回るのはまずい。早期に手を打つぞ」
 リチャードソンは、力強くそう宣言した。
 海戦では、基本的に風上側が有利になる。帆船は風上に切り上がることも出来るとはいえ、風上に船首を向ける機動には大きな制限が伴う。その意味で、風上側というのは海戦において主導権を握ることになる。風下側の船は、風上に向き直るだけでも一苦労なのだ。

「さぁて……腕の見せ所であるな」
 リチャードソンは、不敵な笑みで水平線を睨んでいた。



「さてイオリ」
「イオリノスケさん」

 嫌な予感――振り向けば、そこには満面の笑みを湛えたフランと、複雑な表情のル=ウが立っていた。


     * * *


「嫌です」

 戦闘配置に沸き立つ甲板を余所に、伊織介は士官室に連れ込まれていた。

「嫌と言っても、イオリのモノは私が持ってるんだぞ? 一目につかない場所でするだけ、感謝して欲しいな」
「逆に考えなよ、イオリノスケくん。むしろこんな美女三人に囲まれるなんて、羨ましい経験なんじゃない?」

 ル=ウは少し不機嫌そうに腕を組んで。リズは壁際でにやにやと、それぞれに伊織介を見詰めている。

「そーおですわ。これは何もイヤらしいことではありません。解呪師として、正当な代価(・・・・・)を要求しただけですわ!」
 フランがぐい、と伊織介に顔を近づけて凄んだ。
「……なんで僕がその代価を払わされるんですか! ルウに請求してくださいよ、ルウに!」
 顔を必至に背けながら、精一杯の抵抗をする伊織介。
「そのル=ウの所有物が、イオリノスケくんなんだよ。だから、ル=ウはそこから払うだけさ。実に論理的なことだよ」
「……リズの言う通りだ。この守銭奴(フラン)は、占い毎に金貨30枚を要求してくるからな。流石にわたしも手持ちがない」

 解呪師(カニングフォーク)は、善なる魔術師とされる存在だ。古来からその預言によって多くの人々を扶け導いてきた。しかしだからこそ、解呪師(カニングフォーク)の預言には、代価が要求される。代償こそが解呪師(カニングフォーク)の魔術の本質と言っても過言ではない。
 
「分かっているとは思うが、これからすぐに砲戦が始まる。イオリ、今はお前にこの戦いの趨勢がかかっているんだぞ?」

 解呪師(カニングフォーク)は〝大事なもの〟を代価に取る。それは必ずしも金銭的な価値には囚われない。富める者からは金貨を、貧しき者からは相応の誠意をそれぞれに要求する。
 もっとも、フランの性格から、彼女はもっぱら金貨ばかりを要求してきたが――今回の代価は、いつもとは違う。

「さぁ、イオリノスケさん? おとなしく――精液(スペルマ)を出してくださいな!」

 ――〝童貞の精液〟。

 それは、史上最大の錬金術師、テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイムが人造人間(ホムンクルス)の材料として用いたことでも知られている――魔術の世界においては、極めて価値のある触媒であった。
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登場人物紹介

伊織介

日本人奴隷。武家の出。宣教師に騙されて、奴隷としてオランダに売却されるが、初陣で死亡。次に目覚めた時は、魔女の奴隷となっていた。


穏やかそうに見えて、少々こじらせており危なっかしい性格。その正体は、魔女ル=ウの自律型魔術兵装。

ル=ウ

本名:ラサリナ=ユーフロシン・フィッツジェラルド。英国出身。強欲にして傲慢、悪辣かつ傍若無人な魔女。殖肉魔法の使い手。性格が悪いので友達が居らず、実は極度の寂しがり屋。ドヤ顔裸マントだが魔女団の中では相対的にまともなのでトップの座に収まっている。

フラン

本名:フランセット・ド・ラ・ヴァレット。フランス出身。予言と占いを生業とする解呪師《カニングフォーク》。金にがめつい生臭シスターで、相棒はキモい眼球付きの十字架。趣味はアナル開発。

リズ

本名:リーゼル・マルクアルト。ドイツ出身。妖精の血を引く白魔女《ヴァイスヘクセ》。剣術や銃の扱いから医療の心得まである器用な傭兵。仕事は真面目に取り組むが、私生活では酒とアヘンと愛する放蕩者。放尿しながらストリーキングする癖がある。

リチャードソン

本名:リチャード・A・リチャードソン。ビール腹、髭面の四十代。東インド会社所属の商人であり、同時に帆船メリメント号の艦長。魔女団の後盾兼共犯者として、莫大な利益を上げている。一見気さくな趣味人だが、密貿易と賄賂で現在の地位に成り上がった、油断のならない大男。

フザ

本名:志佐付左衛門=アルフォンソ。傭兵。隻眼、身長2メートル弱の偉丈夫。スペイン人とのハーフ。死生観の崩壊したヤバい人。

メリメント号

魔女団の艦。350トン、砲数14門の軽ガレオン。東インド会社の船でありながら、リチャードソンが横領して魔女団の活動に役立てている。艦齢は20年を数える老婦人だが、小回りに優れる歴戦の勇士。

グリフィズ卿

本名:ルウェリン・アプ・グリフィズ。英国生まれの猫水夫。魔女の使い魔とかでもなんでもない、ただの猫。鼠狩りを職務とし、船の食料を守る。艦長に継ぐ役職(主席士官)の席を与えられており、船員たちの尊敬を集めている。

神父

アイルランド人。英国東インド会社を騙し、大金を奪ってオランダ側に付く。その首には莫大な懸賞金がかけられている。英国ぜったい滅ぼすマン。

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