2-4. 金貨30枚分の聖女さま
文字数 4,735文字
月を背にして、女が
「此処から貴女が生きたままお化けの胃に収まるのを眺めるのも悪くありませんが……」
女は軽くステップを踏んで、
すれ違いながら、後頭部に向けて十字を叩き込む。
「業突く張りの
優雅な口調とは裏腹に、その一撃は重い。女が振り抜いた十字架は
全身を地に沈める
それら凄惨な光景に背を向けながら、女は修道服の裾をふわりと棚引かせて着地。ゆるりと伊織介に向き直る。
「……あら? あの
つかつかと歩み寄り、女は壁にもたれかかる伊織介の前でしゃがんだ。
そのまま慈愛に満ちた笑顔を、血塗れで倒れ伏す伊織介に向ける。
「貴方は……どちら様?」
その様は、まるで模範的な修道女そのもの。
――ただし。その手に持つ十字架に、見るからに邪悪そうな巨大な目玉が鎮座していなければ、だが。
* * *
『イオリ、イオリっ! ああ――マズいマズいマズい。頼むイオリ、起きてくれ!』
『あああマズいマズい、まだ寝るなよイオリ! 今治してやるからな、今痛いの飛ばしてやるからな、ああぁあちくしょう! 動け、寝るな! イオリ! イオリ!!』
ル=ウが何か喧しく叫んでいる。
(せっかく手に入れた奴隷にすぐ死なれたら、そりゃ困るよなぁ)
なんてことを、伊織介は考えていた。哀れにも狼狽する主人に何か言葉をかけてやりたいが、あいにくと息が詰まって声が出ない。
『今は胃はいらない、腸もいらない――生命維持に必要な器官のみを残して再構成、残りは材料に回して……あああせっかく作ったのに! 一緒にご飯が食べれるように作ったのに! あいつめ、あいつめあいつめ、よくもイオリを、わたしの
ぶくぶくと、何か腹の中が蠢いているのを感じる。またル=ウが魔術で身体を弄ろうとしているのかもしれない。今度はどんなびっくり魔術を見せてくれるのか気になったが、今はとにかく瞼が重い。
捲し立てるル=ウの言葉を心地良く聞きながら目を閉じようとしたその時。
「……あら? あの
声がした。ル=ウとは別の女の声。
次いで轟音。彼女の背後で
「貴方は……どちら様?」
彼女は伊織介の前に屈み込んで、にっこりと笑った。
『フラン……! お前、どうして此処に……!?』
伊織介の代わりに、ル=ウの舌が答える。
「あらあらラサリナ嬢の声。すると……この男の子は、貴女が3年も大事に抱えていた、あの死体です?」
『死体じゃない! イオリノスケだ!
「名前まで付けちゃって、本当に可愛がっていますのね」
言いながら、フランと呼ばれた女は伊織介の頬をつついて弄んでいる。
「であれば、この子から
『……わたしを嘲笑いに来たのか、お前は』
ころころと笑うフランに対し、ル=ウの声が低くなる。
「いいえー。もちろん、心優しい
『あの狸親父……ッ!』
「で、幾ら出せるのかしら?」
フランの碧眼が眇められる。さっきと同じ笑顔の筈なのに、まるでその表情は貼り付けたかのように冷たい。
『……20枚』
「聴こえませんわ」
『25枚』
「おやすみなさい」
『分かったよ! わたしの負けだ……!!』
声だけだが、今頃ル=ウは苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。
「承りました」
満足げに頷いて、フランは徐ろに立ち上がる。その背後では、無残に頭部が陥没した
「〝
ごんっ、と音を立ててその場に十字架を立てる。高さは2メートル弱、木製だとしてもその重量は相当なものだ。いかつい鎖が巻いてあることも相まって、フランの細腕で扱えるものには見えない。
しかし何よりおぞましいのは、その十字の交差部分に巨大な眼球が覗いていることである。紋様や装飾の類ではない。赤子の頭ほどもある瞼の無い眼球は、常にぎょろぎょろと忙しなく視線を泳がせている。
――この十字架は、
軽々と十字架を肩に背負い上げ、フランは
「既に啓示はくだりました。行きますわ」
言って、咆哮する触手の群れへと、彼女は
* * *
〝シェオルの十字〟。
黒壇製の分厚い十字には、罪人の代わりに巨大な目玉が磔にされている。黄ばんだ眼球と深紅の瞳はまるで地獄の悪魔を思わせるが、彼女はこの目玉を〝
即ち――彼女はこの呪われた十字架をこそ、己に託された神の祝福だと信じている。そして事実はどうあれ、その目玉はフランに恩恵を与えていた。
「使徒パウロの言葉に曰く」
ゆっくりと、しかし確かな足取りでフランは
「こぉぉぉぉぉァァァァァ――!!!」
2本の触手が、左右から挟み込むようにフランを襲う。
しかし――その挟撃は空を切る。
「『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく』――」
フランは、まるで散歩の途中で小枝を避けるように、僅かに身を屈めただけ。たったそれだけの動きで、歩みを止めることはない。急ぐこともなく、焦ることもなく、凛と背筋を伸ばしたまま、聖句を口ずさみながら歩む。
触手が伸びる。当たらない。
触手が襲う。当たらない。
触手が暴れる。当たる筈もない。
微笑みを湛えながら荒れ狂う触手の嵐を平然の歩むその背中は、まるで奇跡を起こす聖女のもの。
そう、それは〝奇跡〟に他ならない。少なくとも彼女にとっては、それは紛れもない、祝福された〝奇跡〟。
彼女は、触手がいつ、どの方向から、どのように襲ってくるのか――
いつの間にか、彼女の足は
鎖を手に巻き取り、十字架を構え直し――
「『力と』」
――真正面に、叩きつける。
肉塊の胴部分、胃や腸の塊が飛び散って、苦悶の叫びが上がる。
「『愛と』」
――横薙ぎに払う。
「『慎みとの霊です』」
――頭部を、粉砕する。
槌のように真上から振り下ろされた十字架は、
頭蓋の破片や脳漿が飛び散って、街路が真っ赤に染まる。
「今日の聖句は『テモテへの第二の手紙』1章7節でしてよ。覚えておきなさいな?」
修道服を返り血で染めながら、彼女は振り返って、笑顔を作った。
彼女は
そう、解呪師フランセットの武器は、その豪腕によって振るわれる十字架の一撃ではない。彼女の魔法は〝
『――バカ! それで終わりじゃないんだよ、
「はい?」
ル=ウの警句に答えるのが早いか、次の瞬間にはフランは錐揉みしながら宙を舞っていた。
真横から触手に叩きつけられたフランの身体は一旦夜空を舞った後、地面に叩きつけられて数回バウンド。慣性で豪快に転がりながら、ちょうど伊織介の脇あたりに落ち着いた。
見れば、二回目の首を潰された
「……しくじりましたわ! 最高にカッコよくキマったと思ったのですけれど!」
がばっ、と勢い良くフランが立ち上がる。頭からだらだらと血を流し、ついでに鼻血も垂れながらしながら、それでも尚彼女は元気よくハキハキと言葉を紡いだ。
『本当に頑丈なやつだな、お前は……』
「そりゃあ、加護の気合が違いますからね! 加護の!」
そう力説する彼女の修道服はずたずたになり、前掛けは半ばから千切れている。結果的に、ル=ウよりずっと豊満な肉体のラインが出てしまっている。より具体的に言えば、大きなおっぱいがちょっとはみ出ている。
「……しかし、おかしいですわね? 確かに〝
『それはわたしたちがさっき通った道なんだよ……。なんで
「リズならば船の自室に篭ってアヘってますわ!」
『そうかい……』
ル=ウの声があからさまに落ち込む。声だけで頭を抱えていることが分かる。
『……いや、考えても仕方がない。
「もっと褒めてくださってもよろしくてよ!」
『……。まぁ良い。動ける程度には治った筈だ。いけるな、イオリ?』
ル=ウの声に、伊織介が揺り起こされる。どうやら休んでいられる時間は終わりらしい。
「ええ、なんとか。さぁ
伊織介はゆっくりと立ち上がる。身体の節々が痛むが、まだその刃は折れてはいない。
『――良い返事だ。それでこそわたしのイオリだ』
* * *
〝