5-5. 詐欺師はいつだって慇懃無礼に
文字数 3,026文字
傷口が完全に治った訳ではない。顔面は包帯だらけだし、右腕はなんだか細くて、両手の長さが合わない。右眼の瞳は青色で不自然だ。ル=ウの肉が埋め込まれているとはいえ、全身の傷口がじくじくと痛む。結局、
ル=ウの私室に寝かされた伊織介を余所に、今日も水夫たちは忙しく働いていた。千切れた索具も、穴の空いた帆布も修復されて、穏やかな風を受けて艦はするすると
いなくなった者を悼む時間は、とっくに終わっていて――フランが居なくなってしまったことは、質の悪い冗談のようにしか感じられなかった。ル=ウも、リズも、ただ淡々とフランの死を言葉で記述する。まるで実感が伴わない喪失感に、伊織介はただ呆然とするだけだった。
しかし、時は傷心が癒えるのを待ってはくれない。
――警鐘が乱打される。その意味は「敵襲」。
マラッカ海峡の出口。カリマタ海峡に差し掛かった、目的地バンタムを目の前にした時のことだった。
* * *
時刻は昼過ぎ。空は薄く広がった鱗雲に覆われていて、気持ちの良い風が拭いている。
「リチャードソン、敵は……っ!」
私室からル=ウが飛び出した。手に携えた
「あー……見ての通りであるな」
艦尾甲板に立つリチャードソンも、ばりばりと頬髭を撫でる。
肩を竦める艦長の視線の先――そこに姿を表したのは、
500トンを優に超えるだろう大型艦ばかりが、十数隻。
オランダの主力艦隊が、メリメント号を完全に包囲していた。
「こりゃあ、さすがにどうにもならんな。待ち伏せ……にしては手際が良すぎる」
リチャードソンの言う通りだった。いくら強大な力を誇るオランダ艦隊といえども、マラッカ海峡を完全に封鎖することは不可能だ。東岸ではポルトガルとジョホール王国が、西岸にはアチェ王国が、加えて有象無象の小勢力が鎬を削る、世界有数の紛争地帯である。長期に渡って大艦隊を展開するなどという暴挙は、政治的にも軍事的にもできよう筈もない。
それが示し合わせたように、完璧なタイミングで島影から現れたのである。十数隻が同時に、だ。
「魔法でも使われたとしか思えぬな。……どうかね、お嬢?」
そう、この日この時この場所をメリメント号が通ると、完璧に予期していなければ出来ない芸当である。
一際大きな艦――旗艦と思しきオランダ艦が、悠々とメリメント号に迫ってくる。砲門すら開いていない。それどころか、メインマストに掲げた旗が示すのは〝表敬訪問〟――「挨拶をしたい」等と
完全に、舐められている。
「神父かッ……!」
ル=ウは歯噛みして、艦隊を睨んだ。
こんな人を喰ったような罠を張れるのは、確かに常人ではあり得ない。
ゆっくりと近付いてくる巨大なオランダ艦の艦尾に、やけに派手な服装の男が見えた。神父の着る祭服のような、それでいて赤く鮮やかな衣装に身を包んだ男が、にやにやと厭らしい笑みを浮かべている。
「まさか……いや、やはりと言うべきか……〝伯爵〟ッ!」
リチャードソンすら驚く程に、ル=ウの吐き捨てた叫びには、怒りと嫌悪の情が込められていた。
* * *
「あ……リズさん」
音もなく、彼女は私室に入り込んだ。伊織介に背を向け、重い音を立てて
「敵襲、なんですよね……それにしては妙に静かですが、どうなっているんですか?」
小太刀を胸元に抱えて、伊織介は上体を起こした。ル=ウに安静を厳命されている伊織介は、しかしそわそわと気が逸って落ち着きがない。
「もしも戦いになるなら、僕も寝ている訳にはいきません。だいぶ動けるようになってきましたし、……あの、リズさん?」
外の様子ばかり気にしていた伊織介だが、ようやくリズの異変に気付いた。
「そう……敵が、来たのさ」
ベッド脇まで近寄ったリズが囁く。いつもの彼女では無かった。
目を伏せて、何かに耐えるように、あるいは戸惑うように視線を泳がせている。頬は微かに上気していて、瞳が潤んでいる。
「敵は……あまりに、多い。勝ては、しない」
「リズ、さん……?」
彼女がそっと伊織介に身を寄せる――吐息が耳にかかる。
その様は、その息遣いは、あまりにも蠱惑的だった。
妖精の血のなせる業か、あるいは単に彼女自身の魅力故か。ぞっとするような色気に、伊織介は言葉を失う。酸欠の魚のように口をぱくぱくさせて、間抜けな面で首を振ることしか出来ない。
「生きている、うちに……!」
ぐい、と彼女の手に力が篭もる。
いつもル=ウがそうしているように――リズは、伊織介を押し倒すようにして跨った。
* * *
堂々と〝敬意を以て〟横付けしてきたのは、オランダ東インド会社艦隊旗艦〝デルフゼイル〟。メリメント号の三倍もあろうかという重ガレオンである。
どう足掻いても抵抗できない。
僅かでも抗戦の意志を見せれば、総計300を超える砲の群れが即座に艦を藻屑に変えるだろう。どんな魔女でも、これほどの数の暴力には抗えない。事実、そうして西欧の魔女は狩り尽くされたのだ。
粛々と〝表敬訪問〟という名の恫喝を受け容れる他に、道はなかった。
「……ご機嫌いかがかな、諸君」
そして、背の高い〝デルフゼイル〟
首には花のように華美な
「ぼくはきみたちを知っているが、きみたちはぼくを知らないだろう。ここは敬意のしるしに、ぼくの方から名乗ろうじゃないか」
赤衣の男は、デルフゼイル号の船べりに立った。決してメリメント号側に降りるつもりはないらしい。
大仰に片手を伸ばし、祭服をはためかせて声高に。
「ぼくはウィリアム。ウィリアム・
――〝神父〟。
倒すべき標的が、目の前に立っていた。
* * *
〝フィッツジェラルド〟。
その家名は、
アイルランドの古い王族であるフィッツジェラルド家は、過去に幾度となく
そして今、何の因果か――遥か遠く東洋の海上で、