6-11. 秘密って言われると余計に知りたくなるの法則
文字数 4,536文字
欲望は土壌で、欲情は慈雨。知れば知るほど甘く香り立つその果実は、存在そのものが媚薬に近しい。
だから
そして果実は種子から芽吹く。数多の欲望を浴びて、純潔のまま、自らの情欲を抱いて。
全ては魔女の設計通り。神父が天国を降ろすならば、魔女は異神を育て上げる。これこそが魔女の姦計。信仰を犯す異端の業。
旧き豊穣と多産の女神の力は、現代に再演される。
* * *
「ああああああ! ひいっ、ひぃぃいぃぃいぃ」
でたらめに
金色の目を宿した伊織介は
「ずるいぞ……そんなの、ずるい!」
噴き出す汗で、白塗りの化粧が崩れていた。
「ひ、卑怯じゃないか! そんな、たまたま拾っただけの神性でぇ……! ぼくが、ぼくが何年かけて準備したと思ってるんだ!」
白黒のマーブルじみた顔色で、神父は縋るように蝗を喚び出し続ける。
『拾った神性? 違うな。元はと言えば、お前が喚び寄せたモノだ。わたしの母の血を使ってな』
伊織介の舌でル=ウが呟いた。重く、哀しい声色だった。
『何一つ偶然なんかじゃない。母の血。犯されるわたし。そして、禁忌に惹かれる魂――いや、イオリの存在だけは誤算だったな』
「あの時の、最初に宿った神霊は、取るに足らないものだった! そんなものに……!」
『そんなものだと思ったから、途中で飽きて捨てたんだろう。だが、わたしにはイオリが来てくれた。聖性に憧れながら、快楽に容易に溺れる。あるはずのないものを追い求めて、同時に現実に耽溺する。そんな少年のたましいを拾ったことは、わたしにとってもお前にとっても、あるいは贄神にとってすら誤算だったに違いない』
今ならば、ル=ウの言葉が理解できる。伊織介の脳裏に、
あの日、17歳の戦場で、確かに伊織介は出会ったのだ――贄神を宿した少女と。神様にあこがれた少年は、とうに出会っていたのだ。喪われた異端の贄神に。
――あの日、あの瞬間から、僕はとうに彼女に魅入られていた。
『そうさ、父上。わたしはお前に捨てられたから、イオリに出会い、贄神を目覚めさせ、そしてお前を殺せる』
ひ、と神父が悲鳴を漏らす。汗に崩れた化粧の下には、歳相応に刻まれた皺が覗いていた。4、50代の、背の低い、どこにでもいる男の顔だった。
「英国を、世界をひっくり返せるんだぞ! 天国へ行けるんだぞ! なんで、なんでぼくの邪魔をするんだ!」
『浅ましいな。いくら道化の化粧を塗り重ねても、この男の本性はこんなものだ。大層な御託を掲げて、見せかけの信仰に酔う』
一歩、伊織介が踏み出す。身体の内側で、ル=ウが吠えていた。
『大仰な思想も、誇大な儀式も、この男にとっては全部が演出だ。見るに堪えない』
もう一歩。右腰に生えた尾が唸り、黒い右腕が蠢動している。伊織介の身体に混じった、ル=ウの部分が怒りに燃えている。
『こんな男に、母は――! わたしは――!!』
踏み込んだ。
間合いだった。右腕を伸ばして、その首を――。
「ひっ、いやだぁぁぁぁぁ!」
悲鳴と同時に、閃光が走る。伊織介の足が止まる。
神父の
「ちくしょお……ぼくは負けない。負けられない。世界がぼくを待っているんだ……ッ!」
情けなく床にへばりつきながら、神父は指先で呪を刻んでいた。
何をする気かわからないが、みすみす見逃すほどル=ウは甘くない。
『させるものか!』
「ごめんね、神様。ぼくのこと、もう少し待ってて」
再びの突進は、しかし即座に阻まれる。巨大な質量が、伊織介の身体を跳ね飛ばした。
「勿体ない。なんて勿体ない――だが、ぼくは負けない。そう、何度だって耐えてきた。ぼくは何度でも耐えられる」
弾かれた伊織介が、何度か転がりながらかろうじて塔の縁に齧りついた。塔は既に数百メートルの高さに達している。落ちればただではすまない。
「ルウ、これは」
『分かってる。おそらく〝門〟への魔力供給を転用したんだ』
見れば、塔の床から神父を囲むように幾本かの柱が生えていた。
巨木のような太さ、赤々とした鱗、そしてその先端には、巨大な人面が備わっている。
神父の顔だった。
「負けない。だって、ぼくは、愛されているから!」
立ち上がった神父が、感極まった様子で点を仰いだ。その姿勢のまま、床にずぶずぶと沈み込んでいく。
神父の身体がすっかり塔に呑み込まれると、人面の柱もまたその数を増やす。
五本、六本、七本――いずれもが、先端に神父の顔を備えている。
しかしその額には角があり、その口には牙があり、七つの顔それぞれに酷薄な笑みが張り付いている。
それは、赤い竜の首だった。
(((天国行きは中止だ。ぼくの敵、ラサリナ! まずはきみを排除する)))
声ともいえない声が、七つ重なって咆哮する。
七つ首の赤竜。
* * *
七本の首が、互いに絡み合いながら襲いかかってくる。
『とんでもないモノを喚び出したものだ。だが』
剣のような牙を鳴らして大口を開けた一本を屈んで躱しながら、伊織介が首の根本に滑り込んだ。
――食らいつく。赤竜の首に胴はなく、塔から直接生えている。黒化した右腕を、その塔との接続部にねじ込んだ。
(((ぎっ――!)))
七つの首が同時に呻く。直後、伊織介の右腕が爆発。首の一本が千切れ飛ぶ。
『いくら黙示録の獣でも、豊穣の権能には抗えまい』
右腕を引き抜いた伊織介の掌に、細く鋭いトゲのようなものが生えていた。
((((異端の女神の力など!)))
残り六本が、伊織介を取り囲むようにしなる。
ぐっ、と拳を引くと、掌に次の〝根〟が装填された。
竜の首が四方から大口を開けて迫る。うち一本に狙いを定め、ぞろりと生えた牙に向かって伊織介が突っ込んだ。
『イオリ、避け――』
「無理です。攻めます」
戦い方は分かっていた。うまいやり方とはいえないが、今はこれが一番ましなやり方。
伊織介が大口に呑み込まれる。鋭い牙で胴を刺し貫かれながら、伊織介は右の拳を口内に押し当てた。〝根〟が打ち込まれて、ぼん! と手品のように竜の首が花束に変わる。
神父の五つ顔が苦悶に歪み、五つの首がのたうち回った。再び弾き飛ばされて、しかし伊織介は尾を足のように使って踏みとどまる。
骨まで裂かれた肩口が、血泡を噴きながら再生した。痛みに意識が飛びかけるが、致命傷には程遠い。
「あと、五本……!」
握る。再装填。
叩きつけられ、引き裂かれながらも距離を詰める。拳を押し当てる。ぼん。敵の首が緑に染まって、腐れ落ちる。
『い、イオリ……』
ル=ウの声に不安が滲んだ。いくらハイヌウェレの尾が活性化していても、さすがに相手は伝承の獣。その牙による裂傷は呪いのように伊織介の身体を蝕んでいた。臓腑を灼かれるような痛みが走り、伊織介の眼から、鼻から血が流れ出す。
『イオリ、あまり無茶は』
無視。突撃。被弾。〝根〟を撃ち込む。
気の狂いそうな痛み――おそらくは実際に正気を蝕む類の呪い――を喰らいながら、前に進む。
残り四本。
「ルウ。僕は」
再装填。
「たぶん今、
突撃。
うまいやり方とはいえないだろう。同化しているル=ウだって痛いのかもしれない。
だが、これがル=ウの下僕としての正しい方法だと思う。どれほど傷ついても、必ずル=ウは癒やしてくれる。
「ぐっ……!」
赤竜の角を受ける。脇腹が抉れる。
だが傷口が増えるほどに、痛みが増すほどに、口角が上がるのを抑えられない。
((((もう、死ねよぉ!!)))
悲鳴じみた神父の声。傷だらけ穴だらけ、全身を赤と黒に染めて笑う伊織介の姿は、なるほど赤竜などよりよほど不気味だろう。
「痛い」
痛い痛い痛い痛い。
だが、痛みこそ賛美だった。呪詛が肯定で、傷は証拠。
それら全部が、ル=ウに対する忠義の実証だ。
己を打ち付ける赤竜の首を抱え込むようにして、深く、深く〝根〟を撃ち込む。文字通りの散華。残り三本。
『イオリ――おまえは、なんでそんなに』
血を吐いた伊織介は、しかし倒れない。拳を握り、敵に向かって笑う。
「なんで? なんでって」
突撃。激突。
右腰から生えた奇形の尾は便利だった。倒れそうな時に、いつだってこの身を支えてくれる。
「あなたは、奴隷なんかのために危険を冒してここまで来てくれました」
接触。撃ち込む――爆裂する。
『それは、お前が切り札だったからで』
「では何故、僕に逃げろと言ったのです」
残り二本。再装填。
『だって、お前は、私の所有物で……』
「では何故、僕の鎖を外すのです」
『だって、だって』
「素直じゃない人ですね。そんなルウだから」
誰にも必要とされなかった僕を、必要としてくれた。
理由なんて、それくらいで充分だ。
これくらいにしてあげよう。
この可哀想な魔女こそ、僕が仕えるべき主だ。
父親を殺さねばその哀れな人生が報われないというのならば、僕が代わって殺してやろう。
「放っておけないん
〝根〟が炸裂する。花弁が舞う。赤竜の首はもう一本しか残ってはいない。
(((666だぞ――最後の獣だぞ!?)))
最後の首、その頭部に張り付いた神父の顔が怒りに震えていた。
(((このぼくが。このぼくが、負ける訳がないんだ!)))
床が、割れた。
『なっ――!』
否、床などというものではなかった。
塔自体が、縦に二つに割れていた。あまりに巨大で実感が掴めないが、しかし塔先端が大顎のように開いている。
当然、足場を失った伊織介が落下する。
((( はは、もういい! ぜんぶまとめて、異界に飲まれて死んでしまえ!)))
それは〝塔〟などではなかった。
細く、長く、歪に直立した、醜くも巨大な竜の身。
その大顎がばくん、と閉じて、伊織介を呑み込んだ。