第一幕!脱、東京
文字数 8,896文字
徐々に夏が近づいてきているようではあるが、まだ梅雨は開ける気配を見せない。就活生か新入社員かわからないスーツの集団が前を通り過ぎると、その後ろから彼がやってくる。
彼は、30分も超過しているが、悪気のなさそうな顔をしていた。その態度にイラつきながらも、問い詰めることなく並んで歩く。
俺たちがこの場所に来たのは、もちろんあの件について先生を説得する為だ。先生の自宅は、駅から小石川公園へ向かって少し歩いた所にあるマンション。道中、カネスケに紗宙さんのことを話した。
すると彼は、笑いを必死に堪えている。
「そりゃあ、同郷ってだけの陰キャがいきなりそんなこと言い出したら、誰もがそう言うだろ。」
そう言われてしょんぼりと頷いた。彼の言う事は、いつも理にかなう正論だ。正直悔しい。
言い返してやりたくなるが、彼が面白半分なのか知らないが、この話に乗ってくれていることは正直嬉しい。
そんなやり取りをしている間に、先生の家が目の前に現れる。閑静な住宅街に立つ高級マンションだ。
一階のベルを鳴らすと、インターフォンから家政婦らしき人物の声が聞こえた。俺は、緊張で声を高ぶらせながらも、丁寧に要件を伝える。
「失礼します。諸葛先生の門下生の北生と直江ですけど、先生はいらっしゃいますか?」
しかし家政婦は、申し訳なさそうに答える。
「申し訳ありません。先生は散歩に出かけておりまして。いつ戻ってくるかわからないかねます。」
「ではここで待たせて頂きます。」
そう言ってから2時間くらい待ったが、いつになっても来なかったので今日は諦めることにした。
◇
次の週末、今度は1人でマンションを訪れた。今日は雨が降っている。こんな日は、いつもであればテンションが下がるが、例の目的のことを考えると気持ちは若干熱くなる。
しかし、この日も先生は居なかった。戻ってくるかもしれないとのことで、部屋に上げてもらえたが、そんな気配は微塵も感じられない。
先生の部屋は、本と書類で埋め尽くされているがきめ細やかに整頓されていて、まるで彼の頭の中のようである。
何時間か部屋を眺めながら待ちぼうけたが、この日も先生は来なかった。
◇
帰り道、用事があって渋谷に来ていた。行きつけのカフェでいつものコーヒーを飲んでいると、離れた席に見覚えのある2つのシルエットと懐かしい1つのシルエットがあった。
あれは紛れもなく、先生と紗宙さんだ。もう1人の高校生くらいの男は、おそらく紗宙さんの弟ではないだろうか。彼を見るのが、あまりにも久しぶりすぎて記憶が曖昧だ。
三人が何か話している。内容が気になるけど、盗み見がバレたら困る。そんなことを考えていると、彼女の弟が俺の横を通り過ぎていく。かすかに紗宙さんの面影が感じられる。
それから数十分後に3人は姿を消した。どういう間柄なのだろうか。好きな女の子のことを知りたがる思春期の高校生並みに、3人のことが頭から離れなかった。
◇
少し経ったある日、カネスケから一報が入る。
『今日、先生は自宅にいるらしい。』
俺は、それを聞き家を飛び出し、1時間経つ頃にはマンションの前にいた。インターフォンを押すと家政婦が出る。
「先生は取り込み中なので、しばらく待たせてしまいますが宜しいですか?」
『またかよ』、と言いたい気持ちで山々だが堪えて頷いた。さっきまでの小雨がどんどん強まっていく。もう梅雨入りしたのだろうか。雨のせいか、気温が低い。薄手の服を着てきたのは失敗だ。
俺は、紗宙さんに言われたことを思い出して考え込む。どうやって国を作れば良いのだろうか。ちょっと前の平和ボケしていた時代。こんなこと考えるのは、キチガイ以外他ならなかっただろう。
国会議員にでもなろうか。それか官軍に入って出世してクーデターでも起こそうか。そんなことを考えていると、マンションのドアが開いた。
「蒼、待たせたな。中に入りなさい。」
そこには先生が立っていた。彼の表情は穏やかで、目を合わせるとなぜかこちらも気持ちが落ち着く。
俺は、ついこの場で話を切り出そうか迷ったが、中へ入りなさいと言われたので慌てて先生の後に続いた。
◇
部屋の中は暖かい。本とコーヒーの知的な香りが漂い、この場にいるだけで頭が良くなった気分になる。
先生の書斎に案内されると、なぜか彼から話を切り出してきた。
「君が何故、私の元を訪れたのかは大体検討がついている。これからどうしたいのだ?」
「では申し上げます。私は新しい国を作りたいのです。」
先生は、ハッキリと言ってのけた俺のことをおおらかな目で見つめてくる。
「何故かな?」
「この国の現状に不満だからです。
例えるのなら、日本は白蟻に食い荒らされた住宅です。このまま行けば、内から食いばまれるか、外から叩き壊されてしまう。誰かが立ち上がらないと、何も変わらないのです。
私は、見せかけだけの世界なんて、もう結構です。それに、権力や多数派が尊重されている国民意識を、根本から覆したいのです。」
先生の目は鋭く光る。
「それは只のキレイ事。本心は自分をバカにしてきた人間達を見返したいだけじゃないのかな?」
少しの間言葉を失った。俺自身ですら曖昧で、どこか濁そうとしていた俺の心の奥そこ。それを彼は、透視レンズで観察してくるかのように見抜いてくる。
「ええ、そうかもしれません。
ですが、この国をもっと生き生きとして、透明感のある、争いの無い国家にしたいという思いも本心です。
人間は、誰にでも劣等感や反骨心はあると思います。そのエネルギーを、平和と躍進の原動力にできれば、一石二鳥ではありませんか。」
それを聞いた先生は、研ぎ澄まされたメスで突くように問いかけてくる。
「劣等感や反骨心は、時に悪魔を生み出す。君は自分を抑え込む自信はあるのか?
もし君が、君の大嫌いな権力に溺れた独裁者という名の悪魔になったらどうする?」
言葉が震える。しかし、言い切らないといけない気がした。
「自信しかありません。そしてもし私が悪魔になったら、先生が私を殺してください。」
自信はなかった。いつか行き過ぎた反骨心や劣等感、そして猜疑心が、周りの人間を不幸にするかもしれない。そんな不安でいっぱいだ。
その心をあえて見ないふりをするかのごとく、先生は軽く笑うと頷く。
「そうか、そこまで覚悟しているのか。ちなみに何故、セミナーではなく、個人的にアポイントを取りたがったのかね?」
「先生とサシで深く語り合いたかったのです。」
俺がうすら笑みを浮かべると、先生は浅い相槌を打ち、日本地図を持ってきた。そして、それを指差す。
「君は、国家をどこで建国するべきだと思うか?」
「もちろん東京です。人も多く、日本の首都を支配すれば影響力も絶大でしょう。」
「なるほど、では東京にどうやって建国する?」
「メンバーを募り政党を立ち上げたのちに、クーデターで政府を乗っ取ります。」
「君にそんな影響力と人脈はあるのかい?」
「ありません。だからそれをどうするか考えています。」
「それを解決するには、何年かかるかな?」
「ざっと10年くらいですかね。」
「10年か。多分それ以上かかる。何もない君が、大事業をやってのけるのであれば、相当な覚悟があっても長い年月が必要だろう。仮に成功して建国できたとして、君が死ぬまでに全国統一を成し遂げられる可能性は、極めて低い。なんせ、将来強力な国家にのし上がるであろう勢力が、もう既に誕生してきている。」
言葉に詰まりが生じ始めた。ついさっき考えた薄っぺらい言葉で、彼を説得するなど到底無理な話とはわかっている。しかし、諦められない。
「確かにそうかもしれません。でもやってみないとわからないです。」
すると先生は、一転して笑みを浮かべる。
「挑戦とヤケクソを一緒にしてはいけない。どうせやるのであれば、もっとやりやすい方法を考えねばなるまい。」
ここらで話の風向きが少し違うことに気づいた。彼は意外にも乗り気なのだろうか。止まることなく具体的な話が飛び出てくる。
「それに関東近辺は、様々な勢力が混在し、人や土地の奪い合いが激しくなり、力をつけても消耗も早い。勢力を伸ばすのにも時間がかかるだろう。」
「なら先生の考えを聞かせてください。」
先生は、一呼吸を置いて言葉をためると、頭の中にある考えを大切に披露した。
「私なら、北海道の北、カラフトに政府をつくる。」
この人は何を言っているのだろうか。唖然とするのと同時に非常に興味が湧く。
「カラフトですって!あそこは国外ですよ!
しかも、日本とロシアが共同支配しているとはいえ、ロシアの力が強い。
それに、寒くて食料もなければ、人も少ない。なおかつ列島の端。勝機が見えません。」
「確かにそういう見方もある。だが、ロシアの力が強いとはいえ、ロシアの領土は北半分、南半分は領土未確定地域。今は日露友好の地として、日本の役人とロシアの役人が、数年単位で交互に管轄している。新たに国を建てても違和感は無い。」
だが、彼は引き下がらず、口を挟む間も無く意見を述べ続ける。
「それに、北海道で官軍と対峙している、アイヌ独立運動のリーダーのイソンノアシとその息子サクとは交友関係があってね。彼らにも協力して貰えば、北に一大国家を作ることができる。
現に数日前、軍師として北海道へ来ないかと誘いを受けていた所だ。」
スケールの大きさに只々感心してしまう。そこまで話が進んでいるのなら、先生が国を作れば良いのにと思ってしまった。
「なんか、壮大な計画ですね。そう簡単にいきますか?」
彼は一切迷わず即答した。
「できる!この計画であれば、2年もあれば国の建国くらいまではなんとかなる。そして5年あれば国の基礎作れる。それから8年もすれば、万全の体制で統一事業へ乗り出すこともできるであろう。」
俺は、胡散臭せえと言う感情を見え隠れさせつつも、根拠について尋ねた。すると彼が丁寧に語る。
「約1年後、現在カラフトを管轄しているロシア役人の任期が終わり、日本人の役人が現地入りすることが確定している。だが、現状日本それどころではない。
この期に乗じて、我々が次の日本の役人として現地に入る。そして、そのまま占領してしまうのだ。」
「どうやって次の日本の役人になるのか、そう言いたげだな。」
彼は、冷静に俺の思考を見透かしてくる。俺が唾をゴクリと飲み込むと、彼は具体的に方法を提示してくる。
「方法は2つある。
1つは、私の知り合いに次期総理としての期待の若手、平和の党代表の矢口宗介氏がいる。彼の力を借りて、役人に任命してもらう。
2つめは、任命された役人が現地入りする前に、カラフトへ入り役人を名乗る。」
「それなら前者の方が正当性もあって良いのではないでしょうか?」
先生は、その意見を聞いて微笑を浮かべる。
「君はそう言うと思ったよ。だがね、私は後者を選ぶ。なぜなら、前者だと手続きに時間がかかる。また、国家に知らしめて行くということは、悪目立ちをしてしまう。このご時世、何処の馬の骨かもわからぬ我らが任命されれば、政府の高官、特に首相の大口常丸あたりは、不審に感じ警戒してくるだろう。
だが、後者であれば水面下で動き、手品の如く領土を奪いとることができる。無駄な手間を掛けずに一瞬でだ。どうだね?」
それを聞いて、身震いが止まらない。そんなことできるはずないだろという現実的思考と、先生と一緒ならやれるかもしれないという妄想が心を二分に引き裂いた。そして俺は、出された珈琲をついつい飲み干してしまった。
「確かに自然な流れですね。でも日本政府を完全に敵に回しますよ?」
「今の政府を敵に回して何が悪い。新興宗教に裏で操られ、全国で捲き上る動乱すら制御出来ない。国際社会から置いてきぼりの国家に従っている方が、よっぽど日本人の敵ではないか。
それに、いずれは刃を交えることになる。それが早いか遅いかの違いだ。気にすることはない。」
「なるほど、仰る通りです。後者の案で私は納得致しました。」
それから、意を決して本題へ突っ込んでみる。
「では、私がここへ来た本当の理由を述べます。この計画において是非、先生にも協力をお願いしたい。そう考え、本日ここまでやって参りました。お願いです。どうか一緒について来て頂けないでしょうか?」
先生は、少し考えていたが、意外にもあっさりと回答を出した。
「わかった。私もついて行くとしよう。」
俺の表情は、嬉しさと不安で入り混じる。本当にやる時が近づいて来たのだと。念のためにもう一度尋ねてみる。
「本当に協力してくれるんですか??」
彼は縦に首を振る。そして、こう言い切った。
「だが、やるとなれば時間は無い。北海道へ向かい、まずはイソンノアシらと合流しよう。」
それを聞いた途端、俺の冷めた心に火がともり出す。
「ありがとうございます。では、いつ計画を始動しますか?」
「3日後だ。その日までに準備をして、早朝に上野駅まで来るがいい。」
先生が即答してくる。まるで俺が今日ここに来てこの話をしてくることを知ったいたかのように。
俺は、急すぎる展開に戸惑いながらも、動き出した運命の歯車に喜びを感じていた。
◇
2人で熱く語り合っていた時、玄関のインターフォンが鳴った。対応した家政婦がこちらへやってくる。
「先生。袖ノ海さんがいらしてますが、どう致しますか。」
「おお、通しなさい。」
紗宙さんだ。俺は、どこか恥ずかしくてこの場にいるべきか迷った。しかし、そうこうしている内に彼女が部屋に入ってくる。目が合うと、彼女が驚いた表情で第一声を発した。
「なんでいるの??」
「あ、えっとですね...。」
この前言われたことが頭によぎり、中々言葉が出てこない。どうやって国を作るのか、彼女に堂々と伝えられるくらい自分の考えを整理できていなかった。
しかし彼女は、戸惑う俺を冷めた目つきで見ているのかと思えば、どこか悲しそうな顔をしていた。
とりあえず俺は、冷静を取り戻す為に先生との関係を事務的に話す。すると彼女も同じく、何故此処へ来たのか教えてくれる。どうやら先生のセミナーの事務員として面接に採用されたらしく、その説明を受けに来たのだそうだ。
意外な接点に親近感が湧いたが、そのこと以上に彼女の辛そうな表情が気になった。そして、そう感じたのは先生も同じだったようだ。
「顔色が悪いようですが、どうかなさいましたか?」
すると彼女は黙り、何かを必死に堪えているようではあったが、耐えきれなくなったようだ。唇を震わせながら、悔しそうに理由を話す。
「実は数日前、両親が殺されたんです...。」
俺は衝撃を隠せなかった。紗宙さんは俯いている。
「一昨日、お葬式があって。まだ少し引きずっているのかもしれません。」
しばらく沈黙が続く。この現実に対して、なんて声をかけたら良いかわからない。
重い空気が流れていく中で、彼女が再び経緯を述べた。
「先日。私の両親は、友人の誕生日会に行きました。その会は、他にもたくさんの人が参加していて、大いに盛り上がったそうです。家族連れも沢山いて、もちろん幼い子供達もいました。
しかし、それに目をつけた例の子供狩りに襲撃されてしまったのです。その場にいた大人は全員殺され、子供達は連れ去られてしまった...。」
子供狩りとは、ここ最近急増している凶悪犯罪。噂では、ヒドゥラ教団が主導で行なっていると言われているが、証拠が曖昧で定かではない。
犯人は、詐欺の受け子の如く捕まる事は多いが、さらわれた子供の行方は、未だ明確にはわかっていない。故に、犯罪の全貌が見えない闇の深い社会問題となっていた。
先生は、深く考え込んでいる。いくら天才で容赦のない合理的なアイデアを考え出す彼も、感情を持った人の子なのだ。
「なんてことだ...。」
俺はこんな時、どう声をかけたらいいのか余計わからなくなり、何も言わぬままただ辛辣な顔をしながら時間に任せた。またしばらくの間、部屋が沈黙に包まれる。
彼女は、俺と先生が気まずそうにしていることに気付き、申し訳なさそうに会話を切り出す。
「空気崩してしまってごめんなさい。」
先生は、元気のない彼女を落ち着かせるように、静かに首を横に振る。
「大丈夫です。私だって家族が殺されたらそうなるに違いない。」
彼女はそれでも俯いている。それに対して、先生が冷静に言葉をかけた。
「袖ノ海さん。こんな時に言いにくいのですが、今回の採用件は...。」
すると紗宙さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「そのまま働きますよ。しばらく部屋に閉じこもりたい気分ですが、そうもしていられませんから。」
先生は、健気に振る舞おうと作ろう彼女を見て、辛そうな顔をしていた。そして、何か考えながら心を無に戻して言い渡す。
「申し訳ないのですが、採用の件は無かったことにできないでしょうか?」
紗宙さんは戸惑う。
「え、どういうことですか?」
先生が話す前に俺が口を出した。
「この前の国を作るって話。先生と共に成し遂げに行くことが決まったんです。」
彼女は呆気にとられていた。先生はコクリと頷いく。そして俺が空気を読まずに熱く語る。
「俺は、国民の生活すら守れないこの国を絶対に変えます。そして、先生とならそれができる。そう確信して決断にいたりました。
採用されたのに申し訳ないのですが、先生と北へ向かいます。」
言った後になって後悔した。彼女の現状を知っているのにも関わらず、つい夢物語を暑苦しく語ってしまったからだ。
戸惑いを隠せず挙動不審になりかける。すると紗宙さんは、俺の目をじっと見つめた。
「私も行っていいかな?」
そう言われて何が何だかわからなくなった。意外な回答に、俺も先生も動揺する。どうせ、元気に振る舞おうとした彼女が冗談を言っているだけなんだって。しかし、彼女の目つきは笑っておらず、真剣そのものであった。
「家に帰っても私一人だし。バイトだけじゃ、ろくに生活できない。それに、どうせなら2人が作る新しい国を見てみたい。」
俺は、多少疑いつつも気分が上がり、嬉しくてすぐさま先生に尋ねる。
「紗宙さんも一緒に来ても良いですよね?」
先生は、簡単には頷かず、彼女の方を向いて尋ねた。
「弟は大丈夫なのですか?」
彼女は、穏やかな口調で話す。
「ええ...。弟は、親戚の家に住むことが決まりましたので。」
「あなたは一緒に行かないのですか?」
「はい。私はもう大人ですから。それに親戚もそこまで裕福ではないので、そこに2人も押しかけるなんて申し訳ないです。」
「そうなんですか。しかし、弟は心配するでしょう?」
「ええ、そうかもしれません。ですが弟には、私という錘を背負って生活して欲しくない。」
どうやら、紗宙さんの弟は、名門私立高校のサッカー部に所属しているそうだ。両親が死んだと知った弟は、学費の負担をかけない為に高校を辞めて働こうとしたらしい。
そこで、高校くらい卒業させたい。そう思った紗宙さんは、必死にあてを探したのだという。すると遠い親戚が見つかり、彼の面倒をみてくれることになったのだ。しかし、その家は裕福ではなかった為、自分まで世話になろうとは思えなかったのだという。
「しかし、あなたが急にいなくなったら、大問題に発展するでしょう。」
紗宙さんは、少し考えてから答える。
「弟が先生のこと大好きなのは、ご存知ですよね?」
先生は、照れくさそうに頷き、それから何かを考えている。
「先生の仕事の付き添いで行くって言えば、心配しないと思います。」
「袖ノ海さん。これから危険な目に合うことの方が多くなるかもしれない。それも承知の上で覚悟はできていますか?」
彼女が少しぎこちなく首を縦に振る。
俺は、喜んで良いのか彼女を止めるべきなのか、よくわからない感情に陥る。しかし、まさかの展開で内心は嬉しかった。
◇
昼の豪雨は嘘のように止み、美しい夕日が東京の街を照らした。紗宙さんと別れた後、渋谷の居酒屋にカネスケを呼び出してこれからの事を話した。
彼が気持ちよさそうにビールを一気飲みする。
どうせ笑われて終わるんだろうな。俺は、そう飽きらめつつ、この日も変わり映えのない愚痴大会になることを勝手に期待していた。しかし、彼の答えは全く違う物だったのだ。
「お前、ぶっ飛んでるな!面白そうだから俺もついてく!」
こいつ冗談だろ。俺は、カネスケと友達で良かったと改めて感じる。だが、頭の良い彼だから何か考えているに違いない。
そう思い、彼に尋ねてみた。
「一応聞いておく。付いてきてくれるのは凄く嬉しいけど、会社バックレることになる。もちろん懲戒免職にもなるだろう。それにもしかしたら死ぬかもしれない。人生を180度変えてしまうことになる。それでも良いのか?」
彼は、悩むことなく淡々と意見を述た。
「そうだなあ。でもさ、今の会社でこれ以上は出世できそうにもない。多分死ぬまで、非管理職で働かされて終わる。そんなことなら、1発賭けてみたいって思ったのよ!」
俺が相槌を打つ前に、カネスケが言う。
「あと、お前を1人にするとどうなるのか心配だ。そして、ワクワクすることはみんなで味わった方が楽しいぜ!独り占めしないで俺もつれてけ!」
そう言って微笑んだ彼は、追加のビールを注文する。流石に人間不信の俺も、親友だけは信じて良いかと思わされていた。
その日は遅くまで飲んだ。飲んで飲んで飲み歩いて、翌日2人は各々の会社から消えた。
家族には、円満退職したので明日から旅に出ると嘘をつき荷物を整える。大事なものをバックパックに詰め、最後になんとなく家族の集合写真も詰め込んだ。
◇
旅立ちの日の早朝。まだ世間は夢の中。俺は、バックパックを背負って地元を飛び出した。始まりの地、上野へ向けて燻っていた野心が動きだす。
(第一幕.完)