第70話 弘子と裁縫

文字数 1,631文字

 お弁当を食べていると西野君のYシャツのボタンが外れかけているのにあたしは気が付いた。
「西野君、Yシャツのボタン外れかけてるよ」
「あ~、これな。自分ではよう直さんから、今度愛さんに直してもらおうと思ってるねん」
「あたしでよければ直そうか? ソーイングセット持ってるし」
「えっ、マジで。鹿渡が直してくれんるん?」
「それくらいのことなら出来るで」
そう言うとひなちゃんが「えーな~、新太。俺かって鹿渡にボタンを直してほしいわ」
と文句を言いだした。
「ひなちゃんは体操服やからボタンないやんか」とあたしはツッコむ。すると西野君が「マジでええの。それなら俺、鹿渡に頼むで」とひなちゃんを無視してあたしに食いついてきた。ひなちゃんはあからさまに不機嫌になっていく。
「今すぐは目立つから放課後でええかな。部活とかいける?」
「そんなん遅れてもかまわへんわ」とすごい乗り気だったので、もうすぐボタンが外れるくらいになっているのかなとあたしは思った。
「…か、か、鹿渡さんは、す、すごい。…わ、わ、私は、な、な、何にもできない」
「そやで、鹿渡はすごいねんで」とさっきまで不満げだったひなちゃんが佐藤さんに向かって言う。やめて、あたしそんなストレートに褒められるのホンマに弱いねんって。
「それなら鹿渡、放課後に頼むわ」と西野君は言いお弁当を食べ始めたので、この話題はここでおしまいになって普段のたわいのない会話になっていった。

 放課後の教室にはあたしとひなちゃん、西野君と佐藤さんの4人しかいなかった。あたしは早速西野君にYシャツ脱いでと言い、リックからソーイングセットを取り出す。白い肌着姿になった西野君はあたしにYシャツを渡した。あたしは外れかかっているボタンの糸を切り、糸くずを外して新しい糸でボタンを縫い付けていく。
「それにしても手さばきがええな。鹿渡はなんでこんなにできるん?」とあたしの手を見ながらひなちゃんが聞いてきた。
「あたし、小4までおじいちゃんの家に住んどって、そのときにおばあちゃんがいろいろ家事なんか教えてくれてん」
「それが鹿渡の原点か」
「そんな大げさな。はいこれ西野君」
「ありがとうな、鹿渡」と西野君はYシャツを着る。
「ボタン緩くない?」
「いや、ちょうどええわ」
「野球部のユニフォームとかでも持ってきたら直すで。穴が開いたとかやと学校では直されへんけど」
「マジでええの? 俺、ホンマに鹿渡に頼むで。背番号もらったときとか」
「もちろんええよ」とあたしが答えると、西野君は嬉しそうに笑った。だけどひなちゃんが「新太だけずるいわ」と不満げな顔で言う。佐藤さんはそんな対照的な2人を見て笑っている。西野君はあたしに「ありがとうな、鹿渡」と言って部活に向かった。ひなちゃんはまだ不満そうな顔をしていたのがかわいすぎて、あたしは「ひなちゃんにはこれな」と言って抱きつく。ひなちゃんは「そういう意味やないって」と言いながらも嬉しそうだ。佐藤さんは突然無表情になり「か、か、帰ろう」とあたしたちに言った。「そやな」とひなちゃんは答えてあたしたちは校門に向かって歩き出す。3人でおしゃべりしながら校門を出て踏切を越えた交差点で佐藤さんと別れた。別れるときの佐藤さんは笑顔で手を振ってくれた。あたしはひなちゃんに「佐藤さん、笑うようになってきたね」と言うと「そやな、でもいじめられた記憶はそう簡単には消えんからな。俺たちがしっかり支えていかんなあかん」とひなちゃんは答えた。「そやな、あんなけひどいことされたもんな」とあたしはあのノートを思い出すと今でも清水たちに腹が立つ。「でも時間が解決することもあるし、もっと楽しい記憶で嫌なことを上塗りすることもあるから」と言ってひなちゃんはあたしの左手を握った。あたしもひなちゃんの手を握り返し、手をつないだまま歩き出す。あたしにはこんな楽しい記憶があるんだから、今までの嫌なことなんて忘れてしまったわと思いながら2人おりいぶ公園を目指す。
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