第1話「ほんのちょっとだけ、待ってて」
文字数 3,289文字
砂をまぶしたコンクリートの灰色と、そこに広がる粘ついた赤色が視界を占領する。
際限なく湧き上がる恐怖は手足を震わせ、切れた唇の痛みが知覚の大部分を絡めとり、五歳児の頼りない思考能力に過大なノイズを混入させていた。
これは見慣れた悪夢の導入部――もう何十回目になるのだろう。
この先に何が起こるのか、それもウンザリする程にわかっている。
なのに、佐崎裕太 の意識は夢の中から逃れられない。
涙が滲んできたところで、いつも通りに駆け足の靴音が近付いてくる。
「裕太っ!」
張り詰めた調子の声に顔を上げると、黒髪の少女がこちらに手を伸ばしている。
紺色のTシャツとカーキ色のハーフパンツ、そして黒くてゴツいブーツ。
顔は影が差していてよく見えないが、背格好からして十代半ばから後半という年頃か。
「立って! 走って!」
焦燥感に満ちている声に急かされ、弱々しく応じた裕太は震える足で立ち上がる。
顔を打っただけかと思ったが、手足にもいくつかの擦り傷が生じていた。
痛みと不安は足を竦ませるが、歯を食い縛って一歩を踏み出す。
少女に手を引かれ、何度も縺 れて転びそうになりながら裕太は走った。
明かりが乏しくて薄暗い、妙に荒れている建物の中を必死で駆けた。
迫り来る危険から逃れるために。
危険――危険、とは何だったか。
夢の続きを思い出そうとすると、怒鳴り散らす男達の声が、耳の奥に蘇った。
「――――! ――――っ!」
何と言っているのかは聞き取れなかった。
或いは、忘れてしまったのかも知れない。
ただ、荒々しい声に含まれた悪意と敵意と害意は、幼い裕太を竦 ませるには十分だった。
「こ、こわいよ……たすけて」
裕太は少女に涙目を向けて懇願するが、やはり相手の表情はわからない。
無理に笑っているのか、自分と同じく怯えているのか。
「……大丈夫。裕太は、あたしが守るから」
少女はそう言うと、裕太の小さい手をギュッと握った。
その力強さが自分を救ってくれるように思え、心身の痺 れが解けてゆく。
背中のザックを放り捨てた少女は、裕太の前でスッと屈み込んで言う。
「おんぶするから、掴まって」
「あっ、うん」
父親に背負ってもらう時と同じようにすると、少女は小さく頭を振った。
「じゃなくて、走るから――もっとギュッて」
「ん、こう?」
手を前に回して密着すると、少女は立ち上がる。
「そうそう。じゃあ、行くよ」
小声で宣言した少女は、裕太を背負って走り出した。
少女が地面を蹴る乾いた音に重なって、複数の靴が立てる響きも聞こえてくる。
固く目を瞑ったまましがみついていた裕太は、彼女に異変が起きつつあるのに気付いた。
軽快だった足取りが鈍くなり、息遣いもかなり荒くなっている。
シャツ越しに伝わってくる鼓動の激しさが、少女の焦燥 までも同時に伝えてくるようだ。
乏しい語彙 の中から、不安感を表現する言葉を探していると、裕太は不意に背中から降ろされ、箱の中のような狭い場所へと押し込められた。
「ふえっ? なっ?」
「シッ! 静かに」
薄暗くてよく見えないが、少女は怯える裕太に向けて小声で話し始める。
「男の子なんだから泣いちゃダメ――なんてことは言わないけど、今は泣いちゃダメ。あたしが戻ってくるまで、何があっても絶対に泣かない。声も出さない。いいね?」
「ぅ――」
声を出しそうになって寸前で踏み止まり、裕太は両目を握り拳で強く擦ってから、二度三度と頷き返す。
こぼれそうな涙が邪魔してハッキリとは見えないが、少女は微笑んだ気がした。
「じゃあ、ほんのちょっとだけ、待ってて。すぐに終わらせてくるから」
軽い調子の言葉と同時に、周囲は一段と暗さを増した。
裕太のいる場所が、蓋となる何かで閉じられたようだ。
少女の足音は徐々に遠ざかっていく。
裕太は僅かな隙間から外を覗いてみるが、そこからはコンクリートの地面と、落書きだらけの壁しか見えない。
何が起きているのかハッキリしないが、不穏な空気だけは伝わってくる。
無力な子供である裕太は、自分を助けようとしている少女に頼るしかなかった。
やがて、外からの音が消えた。
狭い場所に押し込まれているのに、何もない空間に放り出されたみたいに心細い。
心臓の音と呼吸の音ばかりが、やけにうるさく響いている。
こんなにうるさいと、自分がここにいるのがバレるかも――
そんな不安が、鼓動をますます大きくする。
耳の奥が熱くなってきている。
冷汗なのか脂汗なのかわからない水分で、全身が湿っていて気持ち悪い。
怖いのに、苦しいのに、逃げ出せない。
押し寄せる未体験の情動の重圧で、頭がおかしくなりそうだ。
今なら、自分を苛 んでいたものが死の恐怖だとわかる。
しかしながら、そんなものと無縁な生活をしていた当時の裕太は、ひたすら得体の知れない感情に翻弄 されるしかなかった。
何分か――或いは何十分かが経った頃、遠くから叫び声と物音が響いてきた。
少女の声と、数人の男の声。
硬い何かが、別の何かにぶつかる気配。
裕太にとって、それらは恐ろしいだけの音の連なりだった。
だが、繰り返しこの夢を見る内に、音の正体に見当がつくようになった。
得体の知れない動物が発している吠え声。
多分、喉に血を溢れさせて喚いている男の断末魔だ。
大きな空き缶が転がっていく騒がしい音。
きっと、鉛管か鉄管が放り投げられたのだろう。
巨大風船が勢い良く弾けたような破裂音。
こいつは恐らく――銃声。
直後、いつも通りに場面は暗転し、見たくもない最終シークエンスへと飛ぶ。
隙間から見えるのは、うつ伏せに倒れ込んで苦痛に喘 いでいる少女。
その傍らには、二人の男が立っている。
一人は、夏だというのに黒いスーツを着込んでいる、痩せた男。
サングラスをかけている他、容貌に特徴はない。
「――――だっ、この――――があっ!」
男は何事かを吼えながら、少女の後頭部を踏み躙っている。
振り上げられた右手には、鈍色 の拳銃が握られていた。
一方で、股間の辺りを押さえた左手は赤黒く濡れている。
その背後では、派手な模様のシャツを着た筋肉質のヒゲ面が、痩せた男に声をかけている。
やはり内容は聞き取れないが、痩せた男の興奮状態は収まらない。
「と、とっくに――、――――この、マヌケ」
嗽 をしながら喋っているような聞き取り困難な声が、少女の唇から切れ切れに発せられる。
痩せた男は一頻り怒鳴り散らした後、地面に落ちていた空き瓶を蹴り飛ばし、次に少女の顔面も蹴り飛ばす。
血の飛沫が宙を舞うが、少女からは何の反応もない。
そして、痩せた男は銃口を少女に向けた。
何度目になろうと見慣れない、肺腑 を灼 かれるような苦痛を伴う光景。
夢の中の裕太は叫びそうになるが、危ういところで声を飲み込んだ。
『あたしが戻ってくるまで、何があっても絶対泣かない。声も出さない』
それが、少女と交わした約束。
ヒゲ面が大声で何か喚くが、それを掻き消すように破裂音が響く。
一つ。
二つ。
こだまする禍々しさが、裕太の心臓を締め上げる。
痩せた男は少女に唾を吐き、ヒゲ面はそれを見てゆっくり頭を振る。
二言か三言、何事かを話した後で、男達はその場を離れていった。
小走りの足音が消えると、耳の痛い静寂だけが残される。
また、同じ結末だ。
また、助けられなかった。
絶望と悲嘆と後悔と痛憤が、心を深く昏く果てしなく掻き乱す。
死に瀕している少女は、裕太の方へ手を伸ばしながら、何かを言おうと唇を動かして――
際限なく湧き上がる恐怖は手足を震わせ、切れた唇の痛みが知覚の大部分を絡めとり、五歳児の頼りない思考能力に過大なノイズを混入させていた。
これは見慣れた悪夢の導入部――もう何十回目になるのだろう。
この先に何が起こるのか、それもウンザリする程にわかっている。
なのに、
涙が滲んできたところで、いつも通りに駆け足の靴音が近付いてくる。
「裕太っ!」
張り詰めた調子の声に顔を上げると、黒髪の少女がこちらに手を伸ばしている。
紺色のTシャツとカーキ色のハーフパンツ、そして黒くてゴツいブーツ。
顔は影が差していてよく見えないが、背格好からして十代半ばから後半という年頃か。
「立って! 走って!」
焦燥感に満ちている声に急かされ、弱々しく応じた裕太は震える足で立ち上がる。
顔を打っただけかと思ったが、手足にもいくつかの擦り傷が生じていた。
痛みと不安は足を竦ませるが、歯を食い縛って一歩を踏み出す。
少女に手を引かれ、何度も
明かりが乏しくて薄暗い、妙に荒れている建物の中を必死で駆けた。
迫り来る危険から逃れるために。
危険――危険、とは何だったか。
夢の続きを思い出そうとすると、怒鳴り散らす男達の声が、耳の奥に蘇った。
「――――! ――――っ!」
何と言っているのかは聞き取れなかった。
或いは、忘れてしまったのかも知れない。
ただ、荒々しい声に含まれた悪意と敵意と害意は、幼い裕太を
「こ、こわいよ……たすけて」
裕太は少女に涙目を向けて懇願するが、やはり相手の表情はわからない。
無理に笑っているのか、自分と同じく怯えているのか。
「……大丈夫。裕太は、あたしが守るから」
少女はそう言うと、裕太の小さい手をギュッと握った。
その力強さが自分を救ってくれるように思え、心身の
背中のザックを放り捨てた少女は、裕太の前でスッと屈み込んで言う。
「おんぶするから、掴まって」
「あっ、うん」
父親に背負ってもらう時と同じようにすると、少女は小さく頭を振った。
「じゃなくて、走るから――もっとギュッて」
「ん、こう?」
手を前に回して密着すると、少女は立ち上がる。
「そうそう。じゃあ、行くよ」
小声で宣言した少女は、裕太を背負って走り出した。
少女が地面を蹴る乾いた音に重なって、複数の靴が立てる響きも聞こえてくる。
固く目を瞑ったまましがみついていた裕太は、彼女に異変が起きつつあるのに気付いた。
軽快だった足取りが鈍くなり、息遣いもかなり荒くなっている。
シャツ越しに伝わってくる鼓動の激しさが、少女の
乏しい
「ふえっ? なっ?」
「シッ! 静かに」
薄暗くてよく見えないが、少女は怯える裕太に向けて小声で話し始める。
「男の子なんだから泣いちゃダメ――なんてことは言わないけど、今は泣いちゃダメ。あたしが戻ってくるまで、何があっても絶対に泣かない。声も出さない。いいね?」
「ぅ――」
声を出しそうになって寸前で踏み止まり、裕太は両目を握り拳で強く擦ってから、二度三度と頷き返す。
こぼれそうな涙が邪魔してハッキリとは見えないが、少女は微笑んだ気がした。
「じゃあ、ほんのちょっとだけ、待ってて。すぐに終わらせてくるから」
軽い調子の言葉と同時に、周囲は一段と暗さを増した。
裕太のいる場所が、蓋となる何かで閉じられたようだ。
少女の足音は徐々に遠ざかっていく。
裕太は僅かな隙間から外を覗いてみるが、そこからはコンクリートの地面と、落書きだらけの壁しか見えない。
何が起きているのかハッキリしないが、不穏な空気だけは伝わってくる。
無力な子供である裕太は、自分を助けようとしている少女に頼るしかなかった。
やがて、外からの音が消えた。
狭い場所に押し込まれているのに、何もない空間に放り出されたみたいに心細い。
心臓の音と呼吸の音ばかりが、やけにうるさく響いている。
こんなにうるさいと、自分がここにいるのがバレるかも――
そんな不安が、鼓動をますます大きくする。
耳の奥が熱くなってきている。
冷汗なのか脂汗なのかわからない水分で、全身が湿っていて気持ち悪い。
怖いのに、苦しいのに、逃げ出せない。
押し寄せる未体験の情動の重圧で、頭がおかしくなりそうだ。
今なら、自分を
しかしながら、そんなものと無縁な生活をしていた当時の裕太は、ひたすら得体の知れない感情に
何分か――或いは何十分かが経った頃、遠くから叫び声と物音が響いてきた。
少女の声と、数人の男の声。
硬い何かが、別の何かにぶつかる気配。
裕太にとって、それらは恐ろしいだけの音の連なりだった。
だが、繰り返しこの夢を見る内に、音の正体に見当がつくようになった。
得体の知れない動物が発している吠え声。
多分、喉に血を溢れさせて喚いている男の断末魔だ。
大きな空き缶が転がっていく騒がしい音。
きっと、鉛管か鉄管が放り投げられたのだろう。
巨大風船が勢い良く弾けたような破裂音。
こいつは恐らく――銃声。
直後、いつも通りに場面は暗転し、見たくもない最終シークエンスへと飛ぶ。
隙間から見えるのは、うつ伏せに倒れ込んで苦痛に
その傍らには、二人の男が立っている。
一人は、夏だというのに黒いスーツを着込んでいる、痩せた男。
サングラスをかけている他、容貌に特徴はない。
「――――だっ、この――――があっ!」
男は何事かを吼えながら、少女の後頭部を踏み躙っている。
振り上げられた右手には、
一方で、股間の辺りを押さえた左手は赤黒く濡れている。
その背後では、派手な模様のシャツを着た筋肉質のヒゲ面が、痩せた男に声をかけている。
やはり内容は聞き取れないが、痩せた男の興奮状態は収まらない。
「と、とっくに――、――――この、マヌケ」
痩せた男は一頻り怒鳴り散らした後、地面に落ちていた空き瓶を蹴り飛ばし、次に少女の顔面も蹴り飛ばす。
血の飛沫が宙を舞うが、少女からは何の反応もない。
そして、痩せた男は銃口を少女に向けた。
何度目になろうと見慣れない、
夢の中の裕太は叫びそうになるが、危ういところで声を飲み込んだ。
『あたしが戻ってくるまで、何があっても絶対泣かない。声も出さない』
それが、少女と交わした約束。
ヒゲ面が大声で何か喚くが、それを掻き消すように破裂音が響く。
一つ。
二つ。
こだまする禍々しさが、裕太の心臓を締め上げる。
痩せた男は少女に唾を吐き、ヒゲ面はそれを見てゆっくり頭を振る。
二言か三言、何事かを話した後で、男達はその場を離れていった。
小走りの足音が消えると、耳の痛い静寂だけが残される。
また、同じ結末だ。
また、助けられなかった。
絶望と悲嘆と後悔と痛憤が、心を深く昏く果てしなく掻き乱す。
死に瀕している少女は、裕太の方へ手を伸ばしながら、何かを言おうと唇を動かして――