第15話「もし聞こえたら、すぐ病院行けよ。頭の」
文字数 5,369文字
無駄なドタバタが混入した入浴を終え、二人は改めて学校へと向かう。
結局ルナが出て行かなかったので、裕太は雑にしか体を洗えていない。
「はぁ……何つうか、蜘蛛女を相手にしてるより消耗した気がするんだが」
「その計算だと、コブール程度の相手なら一日に二回までなら楽勝だな?」
「計算として成り立ってるのかそれは……あ、遅刻の言い訳はどうする?」
裕太が訊くと、二秒ほど考えてからルナが答える。
「電車が混んでた、とかそんなんで大丈夫じゃない」
「パーフェクトに近いダメ加減だ! そもそも俺ら、電車通学ですらない」
「まぁ、ココはあたしに任せといてよ。人生に必要なのは全てを勢いで誤魔化そうとする勇気と、強引極まりない屁理屈を繰り出す想像力、それとあればあるだけ嬉しいお金だ」
「名作映画の名ゼリフを軽はずみにブチ壊すな」
学校に着いてみると、丁度四時間目の現国が始まったばかりのタイミングだった。
ここに来て悩んでも仕方ないので、堂々と入って行くことにする。
「すいませーん、遅れましたー」
「右斜め後ろに同じです」
言いながら二人で教室に踏み込むと、担任教師が渋い顔で出迎えてくる。
「佐崎はともかく、相馬さんは転校二日目なのに、もう大遅刻? で、遅刻の理由は?」
「寝坊です!」
ルナは堂々と言い放った。
「佐崎、お前は――」
「寝坊です!」
裕太も続けて食い気味に言い切ると、中谷は二人にアホを見る目を向ける。
そのまま数秒固まって、諦めたように溜息交じりで告げてきた。
「……まぁいいや。早く席に座りなさい」
「へっ、揃って寝不足になる程に色々とヤッてたのかよ」
今野が薄汚いセリフを吐くと、何人かの男子生徒からも下卑た笑いが湧く。
瞬間、裕太はルナから『ブチッ』という音が発せられたのを空耳した。
「うぅわキモッ――何その童貞丸出しの気持ち悪い発言? そんなみっともない妄想を人前で堂々と披露するとか、どこまでサカッた頭してんの? ひくわー。マジひくわー、キモすぎて」
ルナが顰 め面 で吐き捨てると、教室は数瞬の静寂を経て爆笑に包まれる。
奇襲のつもりが軽快なクロスカウンターで蹴散らされた今野は、顔を真っ赤にして椅子を跳ね飛ばしルナに詰め寄ってくる。
「んだぁ、テメェ!」
「ノォッ! カマボコ臭イ手デ触ラナイデ下サーイ!」
「何で口調が急にインチキ外人なんだよ! あとカマボコへの風評被害やめろ」
裕太はツッコミを入れつつ、二人の間に割り込みながら今野の喉を片手で潰し気味に締め上げる。
笑顔のままなので、クラスメイトも教室の後ろで展開されている出来事をコント感覚で眺めているが、足が半ば床から浮いた今野は本気で窒息しかけていた。
「……へぁっ! ……ぽっ!」
赤かった顔を紫色に変化させ、今野は必死の形相で腕を掴んでくる。
ルナに背中をポンポンと叩かれ、やり過ぎていると気付いた裕太は今野を放り捨てる。
勢い良く尻餅をつき、ぺぅひゅー、はひゅー、という感じで珍妙な呼吸音を発する今野に、教室内の空気はまた笑い声で充満する。
「はいはーい、そこ! 馬鹿やってないで早く座りなさい」
「うーい」
何が起きていたのか理解してない様子で、中谷は手を叩きながら命じてくる。
裕太は曖昧な返事をしながら自分の席に向かい、ルナもそれに続いた。
今野もそれ以上は何も言おうとはせず、咳き込みながら黙って椅子を直す。
伊織の教えに従い、これまでの裕太はトラブルに巻き込まれても、なるべく暴力を使わないで事を収めていた。
そして、回避するスキルもそれなり以上に身に着けていたつもりだったのに、さっきは危うく今野を縊 り殺しかけてしまった。
どうやらコブールとの戦闘のせいで、まだ頭に血が上っているようだ。
自覚はないが興奮状態が続いているのに気付いた裕太は、どうにか気分を落ち着けようと授業に集中することにした。
しかし何も頭に入ってこないまま、四時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。
ルナは昨日約束していた通り、クラス委員の一色達と学食へ向かうようだ。
自分が一緒だと邪魔になりそうだし、パンでも買いに行こうかと裕太が考えていると、順から声をかけられた。
「今日はルナと一緒じゃないの」
「ああ。あいつは女子連中に誘われて学食。だから購買行こうぜ」
連れ立って教室を出ようとした所で、急に目の前に現れた誰かとぶつかりかける。
「――っと、悪い」
相手を見ずに詫びを入れたのだが、そのまま前に立ち塞 がってきた。
「おい佐崎ぃ……ちょっとツラ貸せや」
今野だ――眼光の鋭さと口調の粘っこさが、用件の面倒さを物語っていた。
百七十に少し足りない身長と、鍛錬 とは無縁な体格の持ち主である今野が、こうも自信満々に絡んでくるからには、確実に何か裏があるに違いない。
「お断りだ」
「えっ……はぁ? 普通は来るだろ、こういう場合!」
「やなこった。行ったらどうせ十人くらい待ってんだろ」
「ああ? そんなに――」
失言に気付いたか、今野が慌てて言葉を切った。
自分の読みの正しさと相手の底の浅さに、裕太は苦笑を漏らす。
「じゃあ五、六人か? にしても、一人じゃケンカも出来ないとか、カッコ悪いにも程があるんじゃないスか、今野さん? どんだけ弱虫なんスか」
小馬鹿にした調子で言い放つと、胸倉に向かって右手が伸びてきた。
裕太は今野の手が自分に届く寸前に手首を掴み、骨にダメージが残らない程度に捻り上げる。
「あがっ!」
「ジュン……悪いけど、焼きうどんパンと生ハムメロンパンとレモン牛乳、買っといて」
「初耳なメニューが多いけど、最大限の努力はしてみるよ」
裕太の道場通いを知っている順は、特に心配した様子もなく立ち去った。
その背中を見送っていると、微妙にギャラリーが形成されつつあるのに気付く。
「おい、場所変えるぞ」
小声で告げてから手を離した裕太は今野の肩をガッチリと抱き、半ば引きずるようにして最寄りの男子トイレへと移動する。
隣のクラスの二人連れが鏡の前で駄弁っていたが、裕太と今野が発しているギラついた雰囲気を察したのか、すぐに姿を消してくれた。
裕太が肩に回した腕の力を抜くと、今野はそれを振り払って素早く距離を取る。
「さて、と。ケンカだったら、今この場で相手になるが?」
相手を見据えて笑顔で告げる裕太だったが、今野は目を合わせようとしない。
「ケッ、ケンカとかじゃねぇって。ただ、話があるから――」
「話ならどこでもできるだろ」
だから早く用件を言え、とのメッセージが通じたか、軽い逡巡 の後で今野が口を開く。
「……んな、って……よ」
「あ?」
声が掠れていて聞き取れなかったので、裕太は耳を近付ける。
「だからっ! 俺をナメんなって言ってんだよ!」
「ぷぁ」
近付けた所で大声を返され、裕太は思わず妙な声を出して仰 け反 る。
「テメェは確かに、そこそこ『やる』んだろうよ。けどな、あんま調子のってっと、門馬とかあの白髪女とか、あいつらが『不幸な事故』に遭うかも――」
こちらを指差しながらの薄汚いセリフは、軽くない耳鳴りを瞬時に掻き消した。
卑怯なクズを相手にする時は手加減無用、と伊織に叩き込まれている。
しかも今の裕太は、まだ戦闘モードが解除されていない。
突きつけられた右手の人差し指を握った裕太は、それを躊躇 なく手の甲に向けて畳んだ。
自分の指が鳴らした破砕音を耳にして、今野の勝ち誇った笑みが凍り付く。
「んはっ――なぁ、ああああああああああっ!」
「いいか今野……ジュンやルナにちょっかいを出したら、『不幸な事故』でもって、てめぇの前歯とアバラが全部折れる。カスリ傷でも負わせたら、『謎めいた事故』で背骨と首の骨が折れる」
「ふっ、ふざけやが――ぅあ、おい! やめっ、やめろっ! マジでっ!」
今野の絶叫を無視し、青黒く腫れた人差し指の隣、右手中指を握ってコレも手の甲側へと折り畳む。
「ぁごっ、いふぉあっ!」
痛みで感覚が麻痺しているのか、二本目を折られた反応は意外に鈍い。
「オラつくのはいいけどな、今野。相手は選べ」
こっちは相手を選べない上に、毎度毎度命懸けだってのに――そんな言葉を飲み込みつつ、裕太は床にへたり込んで戦慄 いている今野を見下ろした。
その後、叫び声を耳にして様子を見に来た連中を適当な説明で追い返したり、今野にダメ押しで脅迫を追加したりで時間を取られ、気が付けば昼休みが終わりかけていた。
急いで教室に戻った裕太は、順の買ってきた焼きそばパンをいちご牛乳で流し込み、慌しく昼食を済ませる。
そして授業は終わり、裕太とルナは帰路に就いた。
今野はあれから戻って来ず、午後の授業はバックレてカバンも置きっ放しだ。
「……で、あたしの代わりに、あのハゲをシメといてくれたのか」
「そもそもが向こうからの御指名だよ。その内に何かあるかもと警戒はしてたが、まさかここまでスピィーディに袋叩きを企画されるとは」
裕太は昼休みに何があったのかを語り、ルナはゲラゲラ笑いながらそれを聞く。
「とにかく、相手したのがルナねぇじゃなくて良かったよ」
「ん? あたしだったら――」
「いや、圧勝するのはわかってる。それより連中にブチキレて、全員を精密検査と長期入院が必要になるレベルで叩きのめす危険性がだな」
「ああ、それは確かに。場合によっちゃ、手足の三四本は折ってたかも」
「ほぼ全部じゃねえか。にしても、馬鹿を相手にしたせいでロクにメシ食えてないな」
「帰ったら何か作ろうか?」
「じゃあ、簡単なのでいいから何か頼む」
家に帰った裕太は、ルナが何かを炒めている音を居間で聞きながら、急激にややこしくなってきた自分の日常について考えてみる。
メンタルがキツいだけならまだしも、ハイペースであんな戦闘に巻き込まれていては、まずフィジカルで限界が来てしまう。
「やっぱり、セイって奴と早目に決着を付けるべきなんだろうか……」
そう呟いてみても、会った事もない誰かを敵として認識するのは難しい。
頬杖をついて思考を方々に泳がせていると、平皿を手にしたルナが戻ってきた。
「どうした? 難しい顔して」
「まぁ色々と――お、ありがとう」
ルナが作ってくれたのは、塩味ベースの海鮮塩焼きそばだった。
冷凍のシーフードミックスとザク切りのキャベツだけを具にした、いかにもシンプルな一品だ。
しかし、貝類をメインにした出汁の利き方と塩加減が絶妙で、もし近所の食堂や中華料理屋のメニューにあったなら、週に一度は食べに行きたくなるような仕上がりになっている。
「決着はつけるべきだけど、焦らない方がイイかもね」
「ひひょえ――んんっ、聞こえてたのか」
頬張 っていた麺を飲み込み、裕太は問い返す。
「聴力も強化されてるから。本気を出せば、春の足音もバッチリ聞き取れる」
「もし聞こえたら、すぐ病院行けよ。頭の」
「何にせよ、セイはまた近い内に仕掛けてくるだろう。仲間もそういないだろうから、上手くすれば次で本人が舞台裏から歌いながら登場するかも」
「ものまね番組か!」
裕太としては「それで、勝てるのか?」と訊きたい気分だったが、ネガティヴな答えが返ってきてもプレッシャーになるだけ、と判断してやめておく。
「しかし、ただ待ってるのも芸が無いな。ヤツの所に行ってみるか」
「ヤツ、ってのは?」
「ヴァルデマール・相馬……現在、書類上では私の父親になってる、日系フィンランド人の厄介な科学者だ。専門はわかり易く言えばサイボーグ技術。DFIの研究者で、セイの反乱の噂が流れてからは姿を隠してる。メンドくさい奴だけど、現状では数少ない味方だね」
ルナの言葉の節々に、微妙に気掛かりな表現が混ざっている。
「で、そんな人の所に何をしに?」
「ヴァル――相馬博士は、人間性にはかなり問題があるが研究者としては多才でね。半ば趣味で武器を作っているんだが、その中には既製品よりも高性能なんじゃないかってモノから、悪フザケとしか思えないモノまで幅広く揃ってる。セイの襲撃を警戒して潜伏中だけど、あいつの捻じれた性格なら、まだ相当な量の武器を手元に置いてるに違いない」
まだ見ぬ博士の人柄が気にならなくもなかったが、今後もアルケーやフェイと戦うならば、備えて備え過ぎるって事もないだろう。
何より、強力な武器があれば自分も足手まといにならずに済む。
そんなことを考えつつ、裕太は頷き返す。
「そうだな……銃刀法に豪快に触れそうなのが引っかかるが、今更そうも言ってられないし」
「よし、決まりだ。ヴァルの隠れ家はちょっと遠くにあるから、次の日曜にでも行くとしよう」
結局ルナが出て行かなかったので、裕太は雑にしか体を洗えていない。
「はぁ……何つうか、蜘蛛女を相手にしてるより消耗した気がするんだが」
「その計算だと、コブール程度の相手なら一日に二回までなら楽勝だな?」
「計算として成り立ってるのかそれは……あ、遅刻の言い訳はどうする?」
裕太が訊くと、二秒ほど考えてからルナが答える。
「電車が混んでた、とかそんなんで大丈夫じゃない」
「パーフェクトに近いダメ加減だ! そもそも俺ら、電車通学ですらない」
「まぁ、ココはあたしに任せといてよ。人生に必要なのは全てを勢いで誤魔化そうとする勇気と、強引極まりない屁理屈を繰り出す想像力、それとあればあるだけ嬉しいお金だ」
「名作映画の名ゼリフを軽はずみにブチ壊すな」
学校に着いてみると、丁度四時間目の現国が始まったばかりのタイミングだった。
ここに来て悩んでも仕方ないので、堂々と入って行くことにする。
「すいませーん、遅れましたー」
「右斜め後ろに同じです」
言いながら二人で教室に踏み込むと、担任教師が渋い顔で出迎えてくる。
「佐崎はともかく、相馬さんは転校二日目なのに、もう大遅刻? で、遅刻の理由は?」
「寝坊です!」
ルナは堂々と言い放った。
「佐崎、お前は――」
「寝坊です!」
裕太も続けて食い気味に言い切ると、中谷は二人にアホを見る目を向ける。
そのまま数秒固まって、諦めたように溜息交じりで告げてきた。
「……まぁいいや。早く席に座りなさい」
「へっ、揃って寝不足になる程に色々とヤッてたのかよ」
今野が薄汚いセリフを吐くと、何人かの男子生徒からも下卑た笑いが湧く。
瞬間、裕太はルナから『ブチッ』という音が発せられたのを空耳した。
「うぅわキモッ――何その童貞丸出しの気持ち悪い発言? そんなみっともない妄想を人前で堂々と披露するとか、どこまでサカッた頭してんの? ひくわー。マジひくわー、キモすぎて」
ルナが
奇襲のつもりが軽快なクロスカウンターで蹴散らされた今野は、顔を真っ赤にして椅子を跳ね飛ばしルナに詰め寄ってくる。
「んだぁ、テメェ!」
「ノォッ! カマボコ臭イ手デ触ラナイデ下サーイ!」
「何で口調が急にインチキ外人なんだよ! あとカマボコへの風評被害やめろ」
裕太はツッコミを入れつつ、二人の間に割り込みながら今野の喉を片手で潰し気味に締め上げる。
笑顔のままなので、クラスメイトも教室の後ろで展開されている出来事をコント感覚で眺めているが、足が半ば床から浮いた今野は本気で窒息しかけていた。
「……へぁっ! ……ぽっ!」
赤かった顔を紫色に変化させ、今野は必死の形相で腕を掴んでくる。
ルナに背中をポンポンと叩かれ、やり過ぎていると気付いた裕太は今野を放り捨てる。
勢い良く尻餅をつき、ぺぅひゅー、はひゅー、という感じで珍妙な呼吸音を発する今野に、教室内の空気はまた笑い声で充満する。
「はいはーい、そこ! 馬鹿やってないで早く座りなさい」
「うーい」
何が起きていたのか理解してない様子で、中谷は手を叩きながら命じてくる。
裕太は曖昧な返事をしながら自分の席に向かい、ルナもそれに続いた。
今野もそれ以上は何も言おうとはせず、咳き込みながら黙って椅子を直す。
伊織の教えに従い、これまでの裕太はトラブルに巻き込まれても、なるべく暴力を使わないで事を収めていた。
そして、回避するスキルもそれなり以上に身に着けていたつもりだったのに、さっきは危うく今野を
どうやらコブールとの戦闘のせいで、まだ頭に血が上っているようだ。
自覚はないが興奮状態が続いているのに気付いた裕太は、どうにか気分を落ち着けようと授業に集中することにした。
しかし何も頭に入ってこないまま、四時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。
ルナは昨日約束していた通り、クラス委員の一色達と学食へ向かうようだ。
自分が一緒だと邪魔になりそうだし、パンでも買いに行こうかと裕太が考えていると、順から声をかけられた。
「今日はルナと一緒じゃないの」
「ああ。あいつは女子連中に誘われて学食。だから購買行こうぜ」
連れ立って教室を出ようとした所で、急に目の前に現れた誰かとぶつかりかける。
「――っと、悪い」
相手を見ずに詫びを入れたのだが、そのまま前に立ち
「おい佐崎ぃ……ちょっとツラ貸せや」
今野だ――眼光の鋭さと口調の粘っこさが、用件の面倒さを物語っていた。
百七十に少し足りない身長と、
「お断りだ」
「えっ……はぁ? 普通は来るだろ、こういう場合!」
「やなこった。行ったらどうせ十人くらい待ってんだろ」
「ああ? そんなに――」
失言に気付いたか、今野が慌てて言葉を切った。
自分の読みの正しさと相手の底の浅さに、裕太は苦笑を漏らす。
「じゃあ五、六人か? にしても、一人じゃケンカも出来ないとか、カッコ悪いにも程があるんじゃないスか、今野さん? どんだけ弱虫なんスか」
小馬鹿にした調子で言い放つと、胸倉に向かって右手が伸びてきた。
裕太は今野の手が自分に届く寸前に手首を掴み、骨にダメージが残らない程度に捻り上げる。
「あがっ!」
「ジュン……悪いけど、焼きうどんパンと生ハムメロンパンとレモン牛乳、買っといて」
「初耳なメニューが多いけど、最大限の努力はしてみるよ」
裕太の道場通いを知っている順は、特に心配した様子もなく立ち去った。
その背中を見送っていると、微妙にギャラリーが形成されつつあるのに気付く。
「おい、場所変えるぞ」
小声で告げてから手を離した裕太は今野の肩をガッチリと抱き、半ば引きずるようにして最寄りの男子トイレへと移動する。
隣のクラスの二人連れが鏡の前で駄弁っていたが、裕太と今野が発しているギラついた雰囲気を察したのか、すぐに姿を消してくれた。
裕太が肩に回した腕の力を抜くと、今野はそれを振り払って素早く距離を取る。
「さて、と。ケンカだったら、今この場で相手になるが?」
相手を見据えて笑顔で告げる裕太だったが、今野は目を合わせようとしない。
「ケッ、ケンカとかじゃねぇって。ただ、話があるから――」
「話ならどこでもできるだろ」
だから早く用件を言え、とのメッセージが通じたか、軽い
「……んな、って……よ」
「あ?」
声が掠れていて聞き取れなかったので、裕太は耳を近付ける。
「だからっ! 俺をナメんなって言ってんだよ!」
「ぷぁ」
近付けた所で大声を返され、裕太は思わず妙な声を出して
「テメェは確かに、そこそこ『やる』んだろうよ。けどな、あんま調子のってっと、門馬とかあの白髪女とか、あいつらが『不幸な事故』に遭うかも――」
こちらを指差しながらの薄汚いセリフは、軽くない耳鳴りを瞬時に掻き消した。
卑怯なクズを相手にする時は手加減無用、と伊織に叩き込まれている。
しかも今の裕太は、まだ戦闘モードが解除されていない。
突きつけられた右手の人差し指を握った裕太は、それを
自分の指が鳴らした破砕音を耳にして、今野の勝ち誇った笑みが凍り付く。
「んはっ――なぁ、ああああああああああっ!」
「いいか今野……ジュンやルナにちょっかいを出したら、『不幸な事故』でもって、てめぇの前歯とアバラが全部折れる。カスリ傷でも負わせたら、『謎めいた事故』で背骨と首の骨が折れる」
「ふっ、ふざけやが――ぅあ、おい! やめっ、やめろっ! マジでっ!」
今野の絶叫を無視し、青黒く腫れた人差し指の隣、右手中指を握ってコレも手の甲側へと折り畳む。
「ぁごっ、いふぉあっ!」
痛みで感覚が麻痺しているのか、二本目を折られた反応は意外に鈍い。
「オラつくのはいいけどな、今野。相手は選べ」
こっちは相手を選べない上に、毎度毎度命懸けだってのに――そんな言葉を飲み込みつつ、裕太は床にへたり込んで
その後、叫び声を耳にして様子を見に来た連中を適当な説明で追い返したり、今野にダメ押しで脅迫を追加したりで時間を取られ、気が付けば昼休みが終わりかけていた。
急いで教室に戻った裕太は、順の買ってきた焼きそばパンをいちご牛乳で流し込み、慌しく昼食を済ませる。
そして授業は終わり、裕太とルナは帰路に就いた。
今野はあれから戻って来ず、午後の授業はバックレてカバンも置きっ放しだ。
「……で、あたしの代わりに、あのハゲをシメといてくれたのか」
「そもそもが向こうからの御指名だよ。その内に何かあるかもと警戒はしてたが、まさかここまでスピィーディに袋叩きを企画されるとは」
裕太は昼休みに何があったのかを語り、ルナはゲラゲラ笑いながらそれを聞く。
「とにかく、相手したのがルナねぇじゃなくて良かったよ」
「ん? あたしだったら――」
「いや、圧勝するのはわかってる。それより連中にブチキレて、全員を精密検査と長期入院が必要になるレベルで叩きのめす危険性がだな」
「ああ、それは確かに。場合によっちゃ、手足の三四本は折ってたかも」
「ほぼ全部じゃねえか。にしても、馬鹿を相手にしたせいでロクにメシ食えてないな」
「帰ったら何か作ろうか?」
「じゃあ、簡単なのでいいから何か頼む」
家に帰った裕太は、ルナが何かを炒めている音を居間で聞きながら、急激にややこしくなってきた自分の日常について考えてみる。
メンタルがキツいだけならまだしも、ハイペースであんな戦闘に巻き込まれていては、まずフィジカルで限界が来てしまう。
「やっぱり、セイって奴と早目に決着を付けるべきなんだろうか……」
そう呟いてみても、会った事もない誰かを敵として認識するのは難しい。
頬杖をついて思考を方々に泳がせていると、平皿を手にしたルナが戻ってきた。
「どうした? 難しい顔して」
「まぁ色々と――お、ありがとう」
ルナが作ってくれたのは、塩味ベースの海鮮塩焼きそばだった。
冷凍のシーフードミックスとザク切りのキャベツだけを具にした、いかにもシンプルな一品だ。
しかし、貝類をメインにした出汁の利き方と塩加減が絶妙で、もし近所の食堂や中華料理屋のメニューにあったなら、週に一度は食べに行きたくなるような仕上がりになっている。
「決着はつけるべきだけど、焦らない方がイイかもね」
「ひひょえ――んんっ、聞こえてたのか」
「聴力も強化されてるから。本気を出せば、春の足音もバッチリ聞き取れる」
「もし聞こえたら、すぐ病院行けよ。頭の」
「何にせよ、セイはまた近い内に仕掛けてくるだろう。仲間もそういないだろうから、上手くすれば次で本人が舞台裏から歌いながら登場するかも」
「ものまね番組か!」
裕太としては「それで、勝てるのか?」と訊きたい気分だったが、ネガティヴな答えが返ってきてもプレッシャーになるだけ、と判断してやめておく。
「しかし、ただ待ってるのも芸が無いな。ヤツの所に行ってみるか」
「ヤツ、ってのは?」
「ヴァルデマール・相馬……現在、書類上では私の父親になってる、日系フィンランド人の厄介な科学者だ。専門はわかり易く言えばサイボーグ技術。DFIの研究者で、セイの反乱の噂が流れてからは姿を隠してる。メンドくさい奴だけど、現状では数少ない味方だね」
ルナの言葉の節々に、微妙に気掛かりな表現が混ざっている。
「で、そんな人の所に何をしに?」
「ヴァル――相馬博士は、人間性にはかなり問題があるが研究者としては多才でね。半ば趣味で武器を作っているんだが、その中には既製品よりも高性能なんじゃないかってモノから、悪フザケとしか思えないモノまで幅広く揃ってる。セイの襲撃を警戒して潜伏中だけど、あいつの捻じれた性格なら、まだ相当な量の武器を手元に置いてるに違いない」
まだ見ぬ博士の人柄が気にならなくもなかったが、今後もアルケーやフェイと戦うならば、備えて備え過ぎるって事もないだろう。
何より、強力な武器があれば自分も足手まといにならずに済む。
そんなことを考えつつ、裕太は頷き返す。
「そうだな……銃刀法に豪快に触れそうなのが引っかかるが、今更そうも言ってられないし」
「よし、決まりだ。ヴァルの隠れ家はちょっと遠くにあるから、次の日曜にでも行くとしよう」