第20話「ゾンビが警察署を襲撃するのは様式美」
文字数 4,974文字
指定された時間より十五分ほど早く、三人を乗せた車は廃工場近辺へと辿り着いた。
運転する伊織はゆっくりと敷地内を進んでいくが、伏兵による奇襲攻撃が仕掛けられそうな気配はなく、眼前には薄曇り越しの月に青白く照らされた廃墟がボンヤリと浮かんでいるだけだ。
元は砂利の敷かれた駐車場だったらしい、半ば草原と化した空地の隅に車を停めると、トランクから荷物を下ろす。
ルナは鉄パイプの詰まったゴルフバッグ。
伊織は武器弾薬の詰まったボストンバッグ。
裕太はルナから「護身用に」と渡された爆発グローブを装着し、腰に流星錘を巻き付けている他、警棒代わりにもなるマグライトを用意している。
「連中、もう来てるかな」
「準備万端、だろうねぇ」
ルナと伊織は、落ち着いた様子で言葉を交わしている。
裕太は緊張で跳ね回る心臓を宥 めようと、大きな深呼吸を何度も繰り返す。
ここには子供の頃に探検に来ているが、いつも閉まっていた工場の正面入口のシャッター、それが半分ほど巻き上げられていた。
工場内から漏れる光はなく、会話も物音も聞こえない。
不穏な気配だけが漂ってくる状況に、裕太は言わずもがなの懸念を口にしてしまう。
「怒涛 の十字砲火で歓迎、なんて開幕戦は勘弁してほしいんだが」
「大丈夫だろ。裕太を巻き添えには出来ないだろうし、あたしに半端な攻撃は効かない。そしてイオなら大抵の――」
ルナの話を遮 るように、音量は大きいがくぐもっていて正体のわからない震動が響いてくる。
「何の音だ?」
「事故、かなぁ」
反射的に音のした方を見るが、無秩序に繁った黒い森に塞 がれて確認できない。
数十秒後、似たような重たい音が再び響く。
異変を察知して、森に巣食うカラスが騒ぎ始めた。
「……コレは」
「タイミング的に考えると」
「こちらの事情と連動してそうだねぇ」
発生源が遠くなったのか、今度は小さめな音が連続する。
「今のは号砲。ちょっと数が多いけどね」
声に反応して裕太がシャッター前に目を向けると、誰もいなかったはずの場所に人影が見えた。
身長は百七十前後、光量が足りないので細かい服装はわからないが、全体的な雰囲気は若く中学生か高校生といった年代だろう。
「……誰だ、お前」
「こうして、まともに顔を合わせて話すのは全員が初か。僕が――セイだ」
ルナの質問に少年が答えると同時に、重低音が更に追加された。
空気の震えが雲を飛ばしたかのように、月の光が景色の輪郭を明瞭にさせる。
いつの間にか、ルナの両手には白い鉄パイプ、伊織の手にはショットガンがあり、二人の視線はセイの方へと向かっている。
裕太はそこで、予想外だにしなかったものと対面させられる。
暗色で固めた服装の少年は、父親の範章を思わせる目鼻立ちだ。
写真でしか見たことがないが、若くして死んだ母親の面影も宿している。
そして両親のどちらよりも、裕太自身によく似ていた。
「そんなに驚かないでよ、兄さん。詳しい話は後でゆっくりとね」
「おい! 号砲ってのはどういう意味だ。あたし達との戦いが始まったって合図か?」
急展開にリアクション不能となっている裕太に代わり、ルナが話を進める。
「ちょっと違うな。僕と『この世界』の戦いが始まったって合図かな」
「世界とはまた、大きく出たねぇ」
「いずれわかる……と言いたいとこだけど、その頃まで君達が生きている可能性はゼロだ」
セイの背後、廃工場のシャッターが上まで開かれ、暗がりの中から多数の影が現れる。
その数はセイを入れて十五か十六、ルナの予想よりもちょっと少ない。
遠くから、パトカーと救急車のサイレンが聴こえる。
「じゃあ、サッサと始めてチャッチャと終わらせようか。ポリスに来られても、どう言い訳していいのかわからんしな」
「安心していいよ。そんな連中は絶対に来ないから」
爆発音に続いて金属の裂かれる不協和音が広がり、サイレン音は掻き消えた。
「お前、何をした――いや、何をしている?」
ルナの問いに、セイは小さく笑う。
「邪魔が入るのは嫌なんでね。欅沼 の警察署と消防署に爆発炎上してもらったよ。近隣の警察と消防もそっちに集まってるだろうから、ここに人を回す余裕はまずないね」
「なっ……!」
「ゾンビが警察署を襲撃するのは様式美、だろ?」
ルナとセイが睨み合っている間に、工場から出てきた連中は戦闘態勢を整えつつある。
「だから、どんなに派手に騒いでも苦情は来ない。君達にとってはこれが最後の夜だろうから、思い残す事なく存分に楽しんでもらいたくてね」
「そいつはまた、御丁寧にどう――もっ!」
両手に持った白い鉄パイプの先端、それをコンクリの地面で擦りながらルナが叫ぶ。
髪は金色に、肌は褐色に、それぞれ戦闘色へと転じていくのを裕太は目撃する。
対するセイは、ルナが動き出した瞬間に姿を消していた。
鉄塊の跳ねる甲高い音に続き、耳を聾 する爆発音が轟く。
それは二つあったハズだが、鼓膜は一発目の時点から着信を拒否したらしい。
裕太が耳鳴りとの戦いを繰り広げている一方で、ルナと伊織は迫り来るゾンビを相手に戦端を開いていた。
背後に置かれたゴルフバッグから何本かのパイプを取り出したルナは、左から接近してくる集団の前に立ち塞がると、先頭にいた背広姿の男の腹に赤茶パイプをフルスイングで叩き込む。
濁った音を立てて爆発したパイプは、ゾンビの胴体を轢断 しながら、その内容物を景気良く地面にぶち撒ける。
もがく男の後頭部を踏み抜いて大人しくさせた後、駆け寄ってきたベリーショートの女ゾンビに黒パイプの擬装銃を向けるが、ルナが銃口を突き出す勢いと、相手の突進の相乗効果によって口腔を貫き、発砲するまでもなく女は動かなくなった。
右側を受け持った伊織は、散弾銃を立て続けに発砲して敵を牽制する。
斧を手にした男ゾンビの頭部と、中華包丁を持った女の右腕を吹き飛ばすと、弾丸の切れたショットガンを捨て、大型のトレンチナイフを構える。
この状況に自分が参加しても邪魔になる――そう判断した裕太は、少し引いた場所から血飛沫飛び交う乱戦を眺めていた。
「ヒマそうだね、兄さん。こうして折角会えたんだし、僕が積もり積もった話の断片だけでも披露してあげようか」
聴力を回復した裕太に、いつの間にか接近していたセイが、楽しげな調子で話しかけてくる。
距離は近いはずだが、光量が足りないのかハッキリと姿が見えない。
「あの男――父さんがDFIで何をやってたか、それについては聞いてるよね?」
「ああ、大雑把には……人体実験、だったんだろ」
「他にも色々とあるけど、一番わかりやすく人道に悖 ってるのはそれ。じゃあ、その人体実験の目的についてはどう?」
妙に弾んだ声で物騒なことを語るセイに、裕太は不吉な気配を感じ取りながらも、好奇心には勝てずに対話を続ける。
「どうって……人間を人間以上の存在へと進化させる、じゃないのか」
「それは研究所としての目的。佐崎範章個人としての目的は、全く別のところにあった」
「親父の、目的」
「そう。科学の進歩だの人類の進化だの、もっともらしい建前やら大義名分やらに隠された、父さんが本当に望んでいたもの。それが何だったのか知りたくはない、兄さん?」
確かに、知る限りではどこまでも理知的だった父親が、何に駆り立てられて人倫を踏 み躙 る行為に走ったのか、そこは是非とも知りたい点だった。
「ゆぅ君、その先は聞かない方がいいと思うよぉ」
伊織の言葉と共に、鉈のような大きさの中華包丁が回転しながら飛んでくる。
その包丁は、裕太から数メートル手前の空間で静止――したかに見えたが、薄闇から浮かび上がるようにして現れた、セイの手に握られていた。
「っと、危ないな。人に刃物を投げてはいけない、って学校で教わらなかった?」
「残念ながら、教えてくれたのは『刃物の先を向けてはいけない』ってとこまでだねぇ」
ゾンビ四体の残骸を周辺に散らかした伊織は、セイに穏やかな微笑みを向ける。
だがそこに、両腕を機械化させた男が出現し、伊織は再び乱戦へと飲み込まれていった。
「さて、ちょっと邪魔が入ったけど――どうする兄さん、続きを聞きたい?」
弟を自称するセイは、眼が笑っていない笑顔を向けながら兄に問う。
裕太は、数秒の逡巡 を経てから小さく頷いた。
セイの動きを察知したルナは、裕太との接触を止めに行こうとしていたのだが、数に押されて思うように動けない。
「ふははははははは! 利子と熨斗 をドッサリつけて、さっきの礼をさせてもらう!」
作業着姿で鉈を振るう巨漢ゾンビを相手に、三本目のパイプ銃を発射して頭を砕いた直後のルナに向かって、数時間前に遭遇したポニーテールの女フェイが駆け寄ってくる。
「懲りずにまたっ!」
ルナはスナップを効かせ、残り少なくなってきた白パイプを放り投げた。
狙いもタイミングも完璧だったが、爆破の衝撃は相手の遥か足下で無意味に拡散する。
「ジャンプ力の特化、ね」
ルナは上空を見上げて呟く。
ポニテのフェイは、十字槍のような長物の穂先を下に向け、加速をしながら落下。
ルナはその場から二歩下がると、ショートパンツの背中側に挟んだ拳銃を抜き、数メートル先まで迫ったフェイの顔に銃弾を連続して叩き込む。
勝利を確信していた笑みは、二発の弾丸によって縫い付けられ、女フェイは自分がどこで何を間違ったのかもわからず現世から退場した。
「アホめ。奇襲以外でのジャンプ攻撃なんぞ、逃げ場を失くして自分を的にするだけだ」
もう何も聞くことのできない相手に敗因を告げていると、背後から何かが接近してくる。
ルナは素早く反応して銃口を向けるが、相手は更に素早く懐へと潜った。
「へぇ――早いな」
言われた男は、満足げに口の端を軽く吊り上げ、粘ついた笑いを漏らす。
その手に握られた刃渡りの長いナイフは、的確にルナの腎臓を貫いてグリップを赤く染めている。
二度、三度と傷口を抉った男は、力任せに振り払われて体を離すが、その際にルナの手から拳銃をもぎ取っていった。
「いくら再生能力があるバケモノでも、ダメージを受け続ければ死ぬんだろ?」
「さぁ……まだ試してないんで、何とも言えない」
「じゃあ、俺がテストしてやろう」
銃を構えた男は、ルナの頭に狙いを定める。
クロームメッキが月の光を反射させ、銃口は人工的な光を放とうとしている。
通算三度目の銃爪を引くと、拳銃は男の手の中で爆発して砕けた。
ヴァルが作った、三発撃つと爆発するブービートラップ用のトカレフ。
「うっ……ぐぉああああああああああぁ!」
右手を押さえて吠える男に、赤茶の鉄パイプを握ったルナが近付く。
どうにか気を取り直した男は、異様な速度でその場を逃げ去ったが、伊織が放置したままのボストンバッグに目を留め、それを拾い上げる。
「クソがっ! フザケやがって、クソがっ!」
喚きながらバッグを掻き回した男は、今の自分が最も欲している品々をそこに見つけ、込み上げる笑いを抑え切れなかった。
「くふっ、ふひぇひぇ――なんてこった、コイツはいいぞっ!」
男は手榴弾を一つ取り出すと、右手に残った血塗れの薬指でピンを引き抜く。
その瞬間、男の手の中で手榴弾が炸裂し、バッグの中身を巻き込んで吹き飛んだ。
ヴァル謹製のいやがらせアイテム『ピンを抜いた途端に爆発する手榴弾』は予定通りの威力を発揮し、ターゲットを出来損ないのハンバーグへと変身させた。
「ヴァルの悪フザケに片っ端から付き合ってくれるとは、御苦労様だなっ!」
ルナは足下に転がってきた男の焦げた頭部を蹴り飛ばすと、裕太とセイの姿を探して辺りを見回した。
運転する伊織はゆっくりと敷地内を進んでいくが、伏兵による奇襲攻撃が仕掛けられそうな気配はなく、眼前には薄曇り越しの月に青白く照らされた廃墟がボンヤリと浮かんでいるだけだ。
元は砂利の敷かれた駐車場だったらしい、半ば草原と化した空地の隅に車を停めると、トランクから荷物を下ろす。
ルナは鉄パイプの詰まったゴルフバッグ。
伊織は武器弾薬の詰まったボストンバッグ。
裕太はルナから「護身用に」と渡された爆発グローブを装着し、腰に流星錘を巻き付けている他、警棒代わりにもなるマグライトを用意している。
「連中、もう来てるかな」
「準備万端、だろうねぇ」
ルナと伊織は、落ち着いた様子で言葉を交わしている。
裕太は緊張で跳ね回る心臓を
ここには子供の頃に探検に来ているが、いつも閉まっていた工場の正面入口のシャッター、それが半分ほど巻き上げられていた。
工場内から漏れる光はなく、会話も物音も聞こえない。
不穏な気配だけが漂ってくる状況に、裕太は言わずもがなの懸念を口にしてしまう。
「
「大丈夫だろ。裕太を巻き添えには出来ないだろうし、あたしに半端な攻撃は効かない。そしてイオなら大抵の――」
ルナの話を
「何の音だ?」
「事故、かなぁ」
反射的に音のした方を見るが、無秩序に繁った黒い森に
数十秒後、似たような重たい音が再び響く。
異変を察知して、森に巣食うカラスが騒ぎ始めた。
「……コレは」
「タイミング的に考えると」
「こちらの事情と連動してそうだねぇ」
発生源が遠くなったのか、今度は小さめな音が連続する。
「今のは号砲。ちょっと数が多いけどね」
声に反応して裕太がシャッター前に目を向けると、誰もいなかったはずの場所に人影が見えた。
身長は百七十前後、光量が足りないので細かい服装はわからないが、全体的な雰囲気は若く中学生か高校生といった年代だろう。
「……誰だ、お前」
「こうして、まともに顔を合わせて話すのは全員が初か。僕が――セイだ」
ルナの質問に少年が答えると同時に、重低音が更に追加された。
空気の震えが雲を飛ばしたかのように、月の光が景色の輪郭を明瞭にさせる。
いつの間にか、ルナの両手には白い鉄パイプ、伊織の手にはショットガンがあり、二人の視線はセイの方へと向かっている。
裕太はそこで、予想外だにしなかったものと対面させられる。
暗色で固めた服装の少年は、父親の範章を思わせる目鼻立ちだ。
写真でしか見たことがないが、若くして死んだ母親の面影も宿している。
そして両親のどちらよりも、裕太自身によく似ていた。
「そんなに驚かないでよ、兄さん。詳しい話は後でゆっくりとね」
「おい! 号砲ってのはどういう意味だ。あたし達との戦いが始まったって合図か?」
急展開にリアクション不能となっている裕太に代わり、ルナが話を進める。
「ちょっと違うな。僕と『この世界』の戦いが始まったって合図かな」
「世界とはまた、大きく出たねぇ」
「いずれわかる……と言いたいとこだけど、その頃まで君達が生きている可能性はゼロだ」
セイの背後、廃工場のシャッターが上まで開かれ、暗がりの中から多数の影が現れる。
その数はセイを入れて十五か十六、ルナの予想よりもちょっと少ない。
遠くから、パトカーと救急車のサイレンが聴こえる。
「じゃあ、サッサと始めてチャッチャと終わらせようか。ポリスに来られても、どう言い訳していいのかわからんしな」
「安心していいよ。そんな連中は絶対に来ないから」
爆発音に続いて金属の裂かれる不協和音が広がり、サイレン音は掻き消えた。
「お前、何をした――いや、何をしている?」
ルナの問いに、セイは小さく笑う。
「邪魔が入るのは嫌なんでね。
「なっ……!」
「ゾンビが警察署を襲撃するのは様式美、だろ?」
ルナとセイが睨み合っている間に、工場から出てきた連中は戦闘態勢を整えつつある。
「だから、どんなに派手に騒いでも苦情は来ない。君達にとってはこれが最後の夜だろうから、思い残す事なく存分に楽しんでもらいたくてね」
「そいつはまた、御丁寧にどう――もっ!」
両手に持った白い鉄パイプの先端、それをコンクリの地面で擦りながらルナが叫ぶ。
髪は金色に、肌は褐色に、それぞれ戦闘色へと転じていくのを裕太は目撃する。
対するセイは、ルナが動き出した瞬間に姿を消していた。
鉄塊の跳ねる甲高い音に続き、耳を
それは二つあったハズだが、鼓膜は一発目の時点から着信を拒否したらしい。
裕太が耳鳴りとの戦いを繰り広げている一方で、ルナと伊織は迫り来るゾンビを相手に戦端を開いていた。
背後に置かれたゴルフバッグから何本かのパイプを取り出したルナは、左から接近してくる集団の前に立ち塞がると、先頭にいた背広姿の男の腹に赤茶パイプをフルスイングで叩き込む。
濁った音を立てて爆発したパイプは、ゾンビの胴体を
もがく男の後頭部を踏み抜いて大人しくさせた後、駆け寄ってきたベリーショートの女ゾンビに黒パイプの擬装銃を向けるが、ルナが銃口を突き出す勢いと、相手の突進の相乗効果によって口腔を貫き、発砲するまでもなく女は動かなくなった。
右側を受け持った伊織は、散弾銃を立て続けに発砲して敵を牽制する。
斧を手にした男ゾンビの頭部と、中華包丁を持った女の右腕を吹き飛ばすと、弾丸の切れたショットガンを捨て、大型のトレンチナイフを構える。
この状況に自分が参加しても邪魔になる――そう判断した裕太は、少し引いた場所から血飛沫飛び交う乱戦を眺めていた。
「ヒマそうだね、兄さん。こうして折角会えたんだし、僕が積もり積もった話の断片だけでも披露してあげようか」
聴力を回復した裕太に、いつの間にか接近していたセイが、楽しげな調子で話しかけてくる。
距離は近いはずだが、光量が足りないのかハッキリと姿が見えない。
「あの男――父さんがDFIで何をやってたか、それについては聞いてるよね?」
「ああ、大雑把には……人体実験、だったんだろ」
「他にも色々とあるけど、一番わかりやすく人道に
妙に弾んだ声で物騒なことを語るセイに、裕太は不吉な気配を感じ取りながらも、好奇心には勝てずに対話を続ける。
「どうって……人間を人間以上の存在へと進化させる、じゃないのか」
「それは研究所としての目的。佐崎範章個人としての目的は、全く別のところにあった」
「親父の、目的」
「そう。科学の進歩だの人類の進化だの、もっともらしい建前やら大義名分やらに隠された、父さんが本当に望んでいたもの。それが何だったのか知りたくはない、兄さん?」
確かに、知る限りではどこまでも理知的だった父親が、何に駆り立てられて人倫を
「ゆぅ君、その先は聞かない方がいいと思うよぉ」
伊織の言葉と共に、鉈のような大きさの中華包丁が回転しながら飛んでくる。
その包丁は、裕太から数メートル手前の空間で静止――したかに見えたが、薄闇から浮かび上がるようにして現れた、セイの手に握られていた。
「っと、危ないな。人に刃物を投げてはいけない、って学校で教わらなかった?」
「残念ながら、教えてくれたのは『刃物の先を向けてはいけない』ってとこまでだねぇ」
ゾンビ四体の残骸を周辺に散らかした伊織は、セイに穏やかな微笑みを向ける。
だがそこに、両腕を機械化させた男が出現し、伊織は再び乱戦へと飲み込まれていった。
「さて、ちょっと邪魔が入ったけど――どうする兄さん、続きを聞きたい?」
弟を自称するセイは、眼が笑っていない笑顔を向けながら兄に問う。
裕太は、数秒の
セイの動きを察知したルナは、裕太との接触を止めに行こうとしていたのだが、数に押されて思うように動けない。
「ふははははははは! 利子と
作業着姿で鉈を振るう巨漢ゾンビを相手に、三本目のパイプ銃を発射して頭を砕いた直後のルナに向かって、数時間前に遭遇したポニーテールの女フェイが駆け寄ってくる。
「懲りずにまたっ!」
ルナはスナップを効かせ、残り少なくなってきた白パイプを放り投げた。
狙いもタイミングも完璧だったが、爆破の衝撃は相手の遥か足下で無意味に拡散する。
「ジャンプ力の特化、ね」
ルナは上空を見上げて呟く。
ポニテのフェイは、十字槍のような長物の穂先を下に向け、加速をしながら落下。
ルナはその場から二歩下がると、ショートパンツの背中側に挟んだ拳銃を抜き、数メートル先まで迫ったフェイの顔に銃弾を連続して叩き込む。
勝利を確信していた笑みは、二発の弾丸によって縫い付けられ、女フェイは自分がどこで何を間違ったのかもわからず現世から退場した。
「アホめ。奇襲以外でのジャンプ攻撃なんぞ、逃げ場を失くして自分を的にするだけだ」
もう何も聞くことのできない相手に敗因を告げていると、背後から何かが接近してくる。
ルナは素早く反応して銃口を向けるが、相手は更に素早く懐へと潜った。
「へぇ――早いな」
言われた男は、満足げに口の端を軽く吊り上げ、粘ついた笑いを漏らす。
その手に握られた刃渡りの長いナイフは、的確にルナの腎臓を貫いてグリップを赤く染めている。
二度、三度と傷口を抉った男は、力任せに振り払われて体を離すが、その際にルナの手から拳銃をもぎ取っていった。
「いくら再生能力があるバケモノでも、ダメージを受け続ければ死ぬんだろ?」
「さぁ……まだ試してないんで、何とも言えない」
「じゃあ、俺がテストしてやろう」
銃を構えた男は、ルナの頭に狙いを定める。
クロームメッキが月の光を反射させ、銃口は人工的な光を放とうとしている。
通算三度目の銃爪を引くと、拳銃は男の手の中で爆発して砕けた。
ヴァルが作った、三発撃つと爆発するブービートラップ用のトカレフ。
「うっ……ぐぉああああああああああぁ!」
右手を押さえて吠える男に、赤茶の鉄パイプを握ったルナが近付く。
どうにか気を取り直した男は、異様な速度でその場を逃げ去ったが、伊織が放置したままのボストンバッグに目を留め、それを拾い上げる。
「クソがっ! フザケやがって、クソがっ!」
喚きながらバッグを掻き回した男は、今の自分が最も欲している品々をそこに見つけ、込み上げる笑いを抑え切れなかった。
「くふっ、ふひぇひぇ――なんてこった、コイツはいいぞっ!」
男は手榴弾を一つ取り出すと、右手に残った血塗れの薬指でピンを引き抜く。
その瞬間、男の手の中で手榴弾が炸裂し、バッグの中身を巻き込んで吹き飛んだ。
ヴァル謹製のいやがらせアイテム『ピンを抜いた途端に爆発する手榴弾』は予定通りの威力を発揮し、ターゲットを出来損ないのハンバーグへと変身させた。
「ヴァルの悪フザケに片っ端から付き合ってくれるとは、御苦労様だなっ!」
ルナは足下に転がってきた男の焦げた頭部を蹴り飛ばすと、裕太とセイの姿を探して辺りを見回した。