第12話「最初の敵がクモ怪人ってのは狙いすぎだろ」
文字数 4,408文字
翌朝、薄曇りの半端な明るさと生ぬるい朝の空気に包まれ、裕太とルナは学校までの道を歩いていた。
「あー……昨日のチーズフォンデュもだけどさ、もうちょっと何とかならなかったのか」
「何とかって、何が」
胃の辺りをさすりながら不満を述べる裕太に、ルナが訝 しげに問い返す。
「いや、メシを作ってくれるのは有難いし、味付けに文句はないけど、朝っぱらからタイスキってのはどうなんだ。息もマイルドにガーリック風味になってるし」
「ニンニク、苦手だった?」
「嫌いじゃないし、美味いんだよ。でも、朝っぱらからエスニック風味が炸裂した鍋が出てくるのは、ちょっとどうかと」
「そっか。じゃあ明日は、もっと軽めなのにしよう。ポン酢でもってサラッといけるような」
「おう……いや、それってまた鍋じゃないのか?」
そこから始まって、朝の食卓に相応しいメニューについて激論を戦わせていると、前方から二人連れの女が歩いてくるのが目に入った。
一人は三十歳前後でマスクをしている――腹の膨らみ方からして、どうやら妊婦のようだ。
淡い水色のマタニティドレスと、真っ赤なニット帽の組み合わせはチグハグだが、苦しげに歩いている感じからして、コーディネートを気にする余裕すらないのかも知れない。
隣を歩いているのは、パーカーのフードを深々と被り、タイトなミニスカートを穿いている裕太と同年代の少女。
接点がなさそうな二人の、組み合わせの不自然さが軽く引っかかる。
「朝の鍋物は金、最高でも金、最低でも金、雄弁は銀、っていう有名な――」
真顔でニセ格言を垂れ流している、ルナの声を聞き流しながら二人とすれ違った直後。
右脇腹を重たい衝撃で抉られた裕太は、目に映る景色を強制的に二百七十度ほど回転させられた。
「――裕太ッ!」
ルナの声で混乱から立ち直り、よろめきながらも何があったのか確認しようとする裕太に、突進してきたパーカーの女が掌底 を打ち込んでくる。
咄嗟に身を捩 ってかわすが、次の瞬間にはスニーカーの黒いソールが風を切って飛んできた。
衝撃を緩めようと、腕をクロスさせて足裏を受け止める。
だが、想像を大幅に超える蹴りの威力を殺せず、裕太の両足が地面から浮いた。
背中か頭がアスファルトに墜落するのを覚悟する――が、数秒経っても衝撃が来ない。
「だーらぁっ、たっ!」
ルナのふにゃっとした気合が聞こえ、少し遅れて何かが地面にぶつかる音が響く。
二人のどちらかが、ルナに殴り倒されるか蹴り倒されるかしたんだろうか。
裕太は自分の状況を把握しようとするが、いつの間にか何かで目隠しされたらしく、視界は一面の灰色に遮られている。
手足を動かそうとしても自由が利かない――どうやら、両手両足を拘束されて連れ去られようとしているようだ。
全身が激しく揺さ振られているのは、抱えられたり背負われたりしているのではなく、担ぎ上げられているからだろう。
冷静に分析しようと努める裕太は、自分を担いだ何者かの地面を蹴る音の変化から、通学路の脇にある森の中へと連れ込まれたのだと気付く。
そこから三分ほど走った後で足音は止まり、裕太の目隠しが外される。
地に足が着かない感覚があって、目線が高い――どこかに吊るされているようだ。
全身にきつい圧迫感があり、やはり手足は動かせない。
視線を下に向けると、自分の傍らに妙な何かが佇んでいるのがわかった。
服装からしてさっきの妊婦のようだ。
しかし赤い帽子はどこかに消え、赤黒くて丸い何かがショートカットの髪の合間に覗いている。
暗く淀んだ瞳と、歪んだ口元からこぼれる牙は、相手の異形ぶりを印象付ける。
そして、彼女の腕が六本あるという事実が、その印象を決定的なものにしていた。
膨らんだ腹は、四本の腕を隠匿 していたのだろう。
マタニティドレスはボロボロになり、その裂け目には半透明の糸が縦横に通っているのが見え、六本の腕がそれを手繰っている。
つまりコイツは――
「最初の敵がクモ怪人ってのは狙いすぎだろ」
追いついてから開口一番そう言い放ったルナの外見は、金髪と褐色肌に変化している。
「誠に残念ながら、次は用意されておりません。ですから私のことは最初の敵ではなく、最後の敵と認識するべきかと」
「いんちきスパイディごときが、随分デカい口を利いてくれるな。アンタは『コブール』か。連れの女は誰だ?」
妙に丁寧な物腰の相手に、ルナは悪態を吐きながらゆっくりと歩み寄る。
コブールと呼ばれた蜘蛛と人が混ざったような女は、どこからか金属製の太くて長い針を取り出し、それを口に咥える。
そして上から二番目の長い左腕を伸ばすと、唾液ではない何かで濁った針の先端を裕太の喉元へと突き付けた。
「不用意に近付くと、この子の全身に毒が回って愉快な有様になりますよ? それでも宜しいのならば、お好きにどうぞ」
「……アンタこそイイのか? 裕太に何かあったら『イグノラムス・イグノラビムス』も消えるぞ」
不敵な笑みを浮かべてルナが言い放つと、首の至近で揺れていた針の動きが停まった。
コブールと裕太を取り巻く空気が固まりかけるが、数瞬と経たずに回転しながら飛来した何かが、そんな状況を呆気なく破壊する。
飛んできたのは昨日見たグルカナイフで、その厚い刃はコブールの第二左手首を斬り飛ばし、裕太の顔から十数センチ離れた木の幹に突き立った。
「があぁっ!」
「ぷぉあっ!」
コブールと裕太の、微妙にズレた叫び声が混ざり合う。
普通ならば激痛で動けなくなりそうなものだが、コブールは間髪を入れずに糸を放って樹上へと跳び上がり、複雑に絡まる枝葉の中に姿を消した。
数秒遅れて駆け込んできたルナは、コブールには及ばないがやはり異常な跳躍力を発揮し、幹に刺さったナイフを引き抜いて裕太を吊り下げていた糸を断ち切る。
続けて、一メートルほどを落下した裕太の全身に絡んだ糸を手早く切り解していく。
「うぁあ、ベタベタしてキモいなコレ!」
「上だっ! ルナねぇ!」
仰向けに転がっていた裕太は、異変を視認してルナに危険を報せる。
その声の途中、網状に編まれた糸が血飛沫と共に降って来た。
それを左手で素早く巻き取ったルナは、右手に持ったナイフで断ち切って呟く。
「高所に陣取られるのは厄介だな……」
「逃げるか?」
「考えなしに背中を向けるのはマズい。さっきの女もいるし、下手に動けないな」
「あの蜘蛛女、知ってる奴なのか?」
「名前と能力だけな。あいつはクモ類の能力を移植されたアルケー『コブール』だ。クラスは王のレベル3、ランクはAプラス」
ルナの話だと確か、王は皇帝の下って扱いだったっけか――思い出しつつ裕太は訊く。
「それは強いのか弱いのか、どっちだ」
「クラスは総合能力、ランクは危険指数って考えて。クラスは皇帝のレベル5から王のレベル1までの十段階、ランクはSプラスからDまでの十段階で格付けされてる」
「クラスは微妙でランクが高い、ってのはどういう基準で?」
「コブールの得意な仕事は、誘拐と暗殺」
瞬時に自分を追い込んだ手際を思い出し、裕太はその正体に納得する。
「そいつは確かにヤバそうだ……暗殺者がどうして正面から突撃を?」
「さぁね。何か特別な狙いがあるのか、単にあたしらがナメられてるのか」
裕太は顔を上げて周囲を見回すが、コブールの気配は掴めない。
地の利が完全に敵にある状況に、どうしようもなく焦燥感が湧き上がる。
奇襲を警戒する二人の頭上に、再び網状の糸が降ってくる。
右へと避けたルナとは逆方向に跳んだ裕太の前に、藪を突っ切って何かが飛び出してきた。
身構えながら視認したのは、コブールと一緒にいたパーカーを羽織った少女。
かぶっていたフードが外れて、肩辺りまで伸びたピンクの髪と猫耳が露になっていた。
特殊警棒かブラックジャックか、四十センチ位の黒い棒を手にした猫耳女は、無言のまま低い姿勢で疾駆してくる。
「させるかっ!」
ルナが足下を狙ってグルカナイフを投げ、それを避けてバランスを崩した背中を裕太が蹴る。
「もぁあああああああああっ!」
悲鳴だか喚き声だかわからない音を撒き散らしながら、猫耳女は出てきたのと別方向の藪へと転がり込んだ。
「おい! あの三次元と二次元の親善大使に就任できそうな、不思議生物は何だ?」
「あたしも初めて見る顔だ……猫を混ぜてみたフェイかな」
「猫って――ぶえっ」
言いかけた所で裕太の視界は奪われ、息もできなくなる。
数瞬のパニックを経て、コブールの糸が顔面を直撃したのを理解した裕太は、ネバつく糸の塊を強引に剥がし、どうにか視力と呼吸を回復した。
「んふっ!」
荒く息をしながら変な声がした方を見ると、また出てきた猫耳女の一撃を受けたのか、ルナが片膝をついていた。
あの程度の相手からダメージを受けるとはらしくない――と思ったが、自分を助けようとして隙が生じたのだと裕太は気付く。
屈んだルナの後頭部に追撃を加えるべく、女は右手に握っている黒い棒を振り上げる。
阻止しようと走り寄る裕太の動きに気付いたのか、女はターゲットを裕太に変更して横殴りにそれを振るう。
裕太はその攻撃を難なく手の甲で払い除けるが、予期せぬ衝撃に全身を貫かれた。
「ぅげぁっ!」
大きな呻き声が漏れ、地面に突っ伏しかける。
猫耳女の武器は電磁警棒――それも出力を致命的に強力改造してあるタイプだ。
自分が何にやられたのかは判断できたが、遠のく意識をどうにか引き止めて立ち上がろうとしても、裕太の体は思い通りに動かない。
「ぼぅえっ」
蹲 ったままでいると、腹に強過ぎる衝撃が来て肺がカラになる。
樹上から降りてきたコブールに、全力で蹴りを叩き込まれたようだ。
「無駄な抵抗を! してくれたお蔭で! 余計な! 怪我を!」
更に連続して四発、同じ場所に爪先が叩き込まれ、その度に裕太は呼吸困難に陥る。
ルナに斬り落とされた手首は、自前の糸をキツく巻いて止血したらしい。
全身に痺れを感じながらぼんやり見上げていると、二人の話す声が耳に入る。
「コブっちー、こいつらどうすんのさ」
「拘束して連れて来るように、との命令です」
「えー、めんどくさーい」
「貴女には勿論、私にも決定権はありません」
言いながら、コブールは咳き込む裕太の両手首を糸で縛ろうとするが、その動きは途中で止まり、肉がぶつかり合う音が弾けた。
「あー……昨日のチーズフォンデュもだけどさ、もうちょっと何とかならなかったのか」
「何とかって、何が」
胃の辺りをさすりながら不満を述べる裕太に、ルナが
「いや、メシを作ってくれるのは有難いし、味付けに文句はないけど、朝っぱらからタイスキってのはどうなんだ。息もマイルドにガーリック風味になってるし」
「ニンニク、苦手だった?」
「嫌いじゃないし、美味いんだよ。でも、朝っぱらからエスニック風味が炸裂した鍋が出てくるのは、ちょっとどうかと」
「そっか。じゃあ明日は、もっと軽めなのにしよう。ポン酢でもってサラッといけるような」
「おう……いや、それってまた鍋じゃないのか?」
そこから始まって、朝の食卓に相応しいメニューについて激論を戦わせていると、前方から二人連れの女が歩いてくるのが目に入った。
一人は三十歳前後でマスクをしている――腹の膨らみ方からして、どうやら妊婦のようだ。
淡い水色のマタニティドレスと、真っ赤なニット帽の組み合わせはチグハグだが、苦しげに歩いている感じからして、コーディネートを気にする余裕すらないのかも知れない。
隣を歩いているのは、パーカーのフードを深々と被り、タイトなミニスカートを穿いている裕太と同年代の少女。
接点がなさそうな二人の、組み合わせの不自然さが軽く引っかかる。
「朝の鍋物は金、最高でも金、最低でも金、雄弁は銀、っていう有名な――」
真顔でニセ格言を垂れ流している、ルナの声を聞き流しながら二人とすれ違った直後。
右脇腹を重たい衝撃で抉られた裕太は、目に映る景色を強制的に二百七十度ほど回転させられた。
「――裕太ッ!」
ルナの声で混乱から立ち直り、よろめきながらも何があったのか確認しようとする裕太に、突進してきたパーカーの女が
咄嗟に身を
衝撃を緩めようと、腕をクロスさせて足裏を受け止める。
だが、想像を大幅に超える蹴りの威力を殺せず、裕太の両足が地面から浮いた。
背中か頭がアスファルトに墜落するのを覚悟する――が、数秒経っても衝撃が来ない。
「だーらぁっ、たっ!」
ルナのふにゃっとした気合が聞こえ、少し遅れて何かが地面にぶつかる音が響く。
二人のどちらかが、ルナに殴り倒されるか蹴り倒されるかしたんだろうか。
裕太は自分の状況を把握しようとするが、いつの間にか何かで目隠しされたらしく、視界は一面の灰色に遮られている。
手足を動かそうとしても自由が利かない――どうやら、両手両足を拘束されて連れ去られようとしているようだ。
全身が激しく揺さ振られているのは、抱えられたり背負われたりしているのではなく、担ぎ上げられているからだろう。
冷静に分析しようと努める裕太は、自分を担いだ何者かの地面を蹴る音の変化から、通学路の脇にある森の中へと連れ込まれたのだと気付く。
そこから三分ほど走った後で足音は止まり、裕太の目隠しが外される。
地に足が着かない感覚があって、目線が高い――どこかに吊るされているようだ。
全身にきつい圧迫感があり、やはり手足は動かせない。
視線を下に向けると、自分の傍らに妙な何かが佇んでいるのがわかった。
服装からしてさっきの妊婦のようだ。
しかし赤い帽子はどこかに消え、赤黒くて丸い何かがショートカットの髪の合間に覗いている。
暗く淀んだ瞳と、歪んだ口元からこぼれる牙は、相手の異形ぶりを印象付ける。
そして、彼女の腕が六本あるという事実が、その印象を決定的なものにしていた。
膨らんだ腹は、四本の腕を
マタニティドレスはボロボロになり、その裂け目には半透明の糸が縦横に通っているのが見え、六本の腕がそれを手繰っている。
つまりコイツは――
「最初の敵がクモ怪人ってのは狙いすぎだろ」
追いついてから開口一番そう言い放ったルナの外見は、金髪と褐色肌に変化している。
「誠に残念ながら、次は用意されておりません。ですから私のことは最初の敵ではなく、最後の敵と認識するべきかと」
「いんちきスパイディごときが、随分デカい口を利いてくれるな。アンタは『コブール』か。連れの女は誰だ?」
妙に丁寧な物腰の相手に、ルナは悪態を吐きながらゆっくりと歩み寄る。
コブールと呼ばれた蜘蛛と人が混ざったような女は、どこからか金属製の太くて長い針を取り出し、それを口に咥える。
そして上から二番目の長い左腕を伸ばすと、唾液ではない何かで濁った針の先端を裕太の喉元へと突き付けた。
「不用意に近付くと、この子の全身に毒が回って愉快な有様になりますよ? それでも宜しいのならば、お好きにどうぞ」
「……アンタこそイイのか? 裕太に何かあったら『イグノラムス・イグノラビムス』も消えるぞ」
不敵な笑みを浮かべてルナが言い放つと、首の至近で揺れていた針の動きが停まった。
コブールと裕太を取り巻く空気が固まりかけるが、数瞬と経たずに回転しながら飛来した何かが、そんな状況を呆気なく破壊する。
飛んできたのは昨日見たグルカナイフで、その厚い刃はコブールの第二左手首を斬り飛ばし、裕太の顔から十数センチ離れた木の幹に突き立った。
「があぁっ!」
「ぷぉあっ!」
コブールと裕太の、微妙にズレた叫び声が混ざり合う。
普通ならば激痛で動けなくなりそうなものだが、コブールは間髪を入れずに糸を放って樹上へと跳び上がり、複雑に絡まる枝葉の中に姿を消した。
数秒遅れて駆け込んできたルナは、コブールには及ばないがやはり異常な跳躍力を発揮し、幹に刺さったナイフを引き抜いて裕太を吊り下げていた糸を断ち切る。
続けて、一メートルほどを落下した裕太の全身に絡んだ糸を手早く切り解していく。
「うぁあ、ベタベタしてキモいなコレ!」
「上だっ! ルナねぇ!」
仰向けに転がっていた裕太は、異変を視認してルナに危険を報せる。
その声の途中、網状に編まれた糸が血飛沫と共に降って来た。
それを左手で素早く巻き取ったルナは、右手に持ったナイフで断ち切って呟く。
「高所に陣取られるのは厄介だな……」
「逃げるか?」
「考えなしに背中を向けるのはマズい。さっきの女もいるし、下手に動けないな」
「あの蜘蛛女、知ってる奴なのか?」
「名前と能力だけな。あいつはクモ類の能力を移植されたアルケー『コブール』だ。クラスは王のレベル3、ランクはAプラス」
ルナの話だと確か、王は皇帝の下って扱いだったっけか――思い出しつつ裕太は訊く。
「それは強いのか弱いのか、どっちだ」
「クラスは総合能力、ランクは危険指数って考えて。クラスは皇帝のレベル5から王のレベル1までの十段階、ランクはSプラスからDまでの十段階で格付けされてる」
「クラスは微妙でランクが高い、ってのはどういう基準で?」
「コブールの得意な仕事は、誘拐と暗殺」
瞬時に自分を追い込んだ手際を思い出し、裕太はその正体に納得する。
「そいつは確かにヤバそうだ……暗殺者がどうして正面から突撃を?」
「さぁね。何か特別な狙いがあるのか、単にあたしらがナメられてるのか」
裕太は顔を上げて周囲を見回すが、コブールの気配は掴めない。
地の利が完全に敵にある状況に、どうしようもなく焦燥感が湧き上がる。
奇襲を警戒する二人の頭上に、再び網状の糸が降ってくる。
右へと避けたルナとは逆方向に跳んだ裕太の前に、藪を突っ切って何かが飛び出してきた。
身構えながら視認したのは、コブールと一緒にいたパーカーを羽織った少女。
かぶっていたフードが外れて、肩辺りまで伸びたピンクの髪と猫耳が露になっていた。
特殊警棒かブラックジャックか、四十センチ位の黒い棒を手にした猫耳女は、無言のまま低い姿勢で疾駆してくる。
「させるかっ!」
ルナが足下を狙ってグルカナイフを投げ、それを避けてバランスを崩した背中を裕太が蹴る。
「もぁあああああああああっ!」
悲鳴だか喚き声だかわからない音を撒き散らしながら、猫耳女は出てきたのと別方向の藪へと転がり込んだ。
「おい! あの三次元と二次元の親善大使に就任できそうな、不思議生物は何だ?」
「あたしも初めて見る顔だ……猫を混ぜてみたフェイかな」
「猫って――ぶえっ」
言いかけた所で裕太の視界は奪われ、息もできなくなる。
数瞬のパニックを経て、コブールの糸が顔面を直撃したのを理解した裕太は、ネバつく糸の塊を強引に剥がし、どうにか視力と呼吸を回復した。
「んふっ!」
荒く息をしながら変な声がした方を見ると、また出てきた猫耳女の一撃を受けたのか、ルナが片膝をついていた。
あの程度の相手からダメージを受けるとはらしくない――と思ったが、自分を助けようとして隙が生じたのだと裕太は気付く。
屈んだルナの後頭部に追撃を加えるべく、女は右手に握っている黒い棒を振り上げる。
阻止しようと走り寄る裕太の動きに気付いたのか、女はターゲットを裕太に変更して横殴りにそれを振るう。
裕太はその攻撃を難なく手の甲で払い除けるが、予期せぬ衝撃に全身を貫かれた。
「ぅげぁっ!」
大きな呻き声が漏れ、地面に突っ伏しかける。
猫耳女の武器は電磁警棒――それも出力を致命的に強力改造してあるタイプだ。
自分が何にやられたのかは判断できたが、遠のく意識をどうにか引き止めて立ち上がろうとしても、裕太の体は思い通りに動かない。
「ぼぅえっ」
樹上から降りてきたコブールに、全力で蹴りを叩き込まれたようだ。
「無駄な抵抗を! してくれたお蔭で! 余計な! 怪我を!」
更に連続して四発、同じ場所に爪先が叩き込まれ、その度に裕太は呼吸困難に陥る。
ルナに斬り落とされた手首は、自前の糸をキツく巻いて止血したらしい。
全身に痺れを感じながらぼんやり見上げていると、二人の話す声が耳に入る。
「コブっちー、こいつらどうすんのさ」
「拘束して連れて来るように、との命令です」
「えー、めんどくさーい」
「貴女には勿論、私にも決定権はありません」
言いながら、コブールは咳き込む裕太の両手首を糸で縛ろうとするが、その動きは途中で止まり、肉がぶつかり合う音が弾けた。