第18話「どうするんだ、この変死体の山」
文字数 5,055文字
長いこと閉鎖空間にいたわけでもないのに、地上に出ると酸素の濃い空気が肺に沁みる。
裕太は二度三度と深呼吸をしてから、苦笑混じりの質問をルナに投げた。
「あの地下室、換気に問題があるんじゃないか?」
「かもね。私にはよくわかんないけど」
低酸素状態にも強いらしいルナは、いつもの調子で受け取った品々を淡々とトランクに詰めている。
伊織はキーホルダーを指先でクルクル回しつつ、運転席に腰を下ろした。
「それじゃ、帰りますかぁ」
「そういや師匠、検問とかやってたらどうするんです? トランクの中身を見られたら、確実に凶悪テロリスト扱いなんですけど」
「運転には自信があるし、問題ないよぉ」
「……あぁ、なるほど」
つまり、何かあったら問答無用でバックレるのだろう。
裕太の動揺とは裏腹に、車は来た時と同様に抜群の安定感で田舎道を走る。
「しかしアレだ。裕太に持たせる護身武器で悩んでたけど、流星錘ならウォレットチェーンぽいアクセ、って雰囲気で何とか誤魔化せそうだな」
「重みでズボンがズリ落ちる危険と、常に隣り合わせになりそうだが」
「そこはホラ、騙し騙しラッキースケベ風なイベントに昇華して」
「俺とルナねぇのラッキーの定義には、マリアナ海溝ばりのミゾがあるらしいな」
しかしながら、ポケットに入れておくには辛いサイズだったので、とりあえずはルナに言われた通りベルトの上に巻きつけておく。
検問にも遭遇せず、渋滞にも巻き込まれず、車は地元へと近付いていく。
「どうする、何か食べてから帰るぅ?」
「俺はどっちでもいい感じですが……ルナねぇは?」
「んー、物騒な荷物もあるし、今は真っ直ぐに戻った方が」
そんな会話を繰り広げている内に、いつしか裕太の自宅周辺まで戻っていた。
「武器の類は、とりあえずウチに置いとこうかぁ」
「そうだね、コッチだと保管場所が――ん?」
ルナの眼光が不意に鋭くなる。
伊織の自宅兼道場の入口で、防塵マスクと丸いレンズの黒眼鏡を着用し、季節外れのコートを羽織った怪しいにも程がある風体の男が、腕組みをしながら佇んでいた。
伊織はブレーキを踏み、車を緩やかに停止させる。
「知り合いか、イオ」
「ちょっとわかんないなぁ」
「敵――なのか?」
裕太の言葉に、車内の緊張感が数段階高まる。
そして、コートの男がスマホを操作すると同時に、伊織の携帯が鳴った。
「もしもしぃ――うん。そうだけどぉ――えぇ? ――はぁ?」
応答する伊織の表情が、徐々に険しくなる。
話すというよりも曖昧に受け流しているような感じだ。
生返事をしばらく続けていた伊織は、無言で通話を終了する。
「何だって?」
「ゴチャゴチャ言ってたけどぉ、要約すると降伏勧告だねぇ」
「俺の身柄を寄越せ、って話ですか」
「訊くまでもないだろうけど……返事は?」
「黙殺ぅ!」
ルナの質問に珍しく大声で答えた伊織は、力一杯にアクセルを踏み込む。
タイヤが空転する音が響き、車は猛然と加速しながら百メートル余りを疾駆。
そしてコートの男をハネ飛ばすと、ドリフト気味に敷地内へと飛び込んだ。
「世間的には『黙って轢き殺す』を略して『黙殺』とは呼ばないんじゃ――」
「裕太、日本語教室は後回しだ。来るぞっ!」
ルナと伊織が車外へと飛び出し、裕太もツーテンポほど遅れたがそれに続く。
玄関先には見慣れぬハイエース。
その周囲には作業着姿の男が三人と、白衣を着た女が二人。
それぞれの手には山刀や鶴嘴 が握られ、虚ろな視線をコチラへと向けている。
「これは多分、セイ達が生み出したゾンビ的な何か、だろうねぇ」
「何人か見た顔がいるな。研究所の関係者を材料にしてるみたいだ」
嫌悪感を丸出しにしたルナの声を聴きながら、裕太は伊織に訊ねる。
「タイプはノロノロ? ダッシュ? 咬まれると感染? 海底で鮫と格闘?」
「映画に出てくるゾンビのイメージは捨てとこうかぁ。共通してるのは、頭部を潰せば動きが止まるって位かなぁ」
確かに、映画に出てくる連中はまず凶器を使わない。
武装したゾンビ達を前にして、数分に感じられる数瞬が過ぎた後で伊織が口を開く。
「よし、ここは任せて先に行けぇ」
「わかっ――いや、何処に?」
いつも通りの口調と意味不明さではあるが、伊織の纏った雰囲気は一変している。
自分に本気の稽古をつけている時より、更に気迫を漲 らせている様子だ。
見慣れない師匠の姿に、裕太は安心していいのか不安になればいいのかわからない。
伊織が何歩かを踏み出すと、五人――或いは五体は取り囲もうとする動きを見せる。
ひび割れたメガネをかけた男ゾンビが山刀を振り被って立ち塞がるが、伊織はその切先が体に届く遥か以前に、男の肘を真下から蹴り上げた。
ゴルッ、という耳障りな低音と同時にメガネ男の右腕はヘシ折れ、山刀を取り落とす。
落下する刀を空中で掬 い上 げた伊織は、逆手で握ったそれをメガネ男の口腔 へと突き立てた。
「べっ、げあっ――げっ、げ」
口から入った刃は延髄を砕いて後頭部を貫き、メガネ男は呻きを漏らしながら崩れた。
倒れ込んだ男の肩を蹴って刀を引き抜いた伊織は、今度は順手に持ち替えて右隣の小太りな男に駆け寄り、袈裟懸 けに斬り下げて首と右腕を刎ね飛ばす。
「イオの無言と無表情をキープした戦闘シーン、久々に見たけど超怖ぇな」
「初めて見たけど、完全に同意だ……」
ルナと裕太がそんな話をしている間にも、伊織は掴み掛かってきた背の低い女ゾンビをかわしざま、目視が困難な速度で脳天へと山刀を落とした。
頑丈そうではあるが、切れ味には難があるだろう得物でこの破壊力なのは、恐らく伊織の膂力 が桁外れだからだ。
頭蓋に食い込んだ刃が抜けなかったのか、伊織は山刀を諦めてチビ女が持っていた八十センチほどのバールに武器を変更する。
残った中年男と茶髪女のゾンビは、手にした鶴嘴で伊織の体を掘り返そうと、前後から横殴りのフルスイングを繰り出してきた。
しかし伊織は顔色一つ変えず、メートル級の垂直ジャンプでそれを避けると、地面に足も着かない内にバールを振るい、釘抜き部分を中年の側頭部に深々と食い込ませる。
そして着地と同時に前方に体重を乗せ、テコの原理と腕力の併せ技で中年ゾンビの頭蓋を無理矢理に割り開き、ついでにその奥に収まっていた薄桃色の物質も掻き散らす。
「ふぇ、はあぁぁあぁあ」
妙な声を絞り出し、中年は病んだバレリーナの如く廻りながらへたって突っ伏す。
バールを構え直し、血と脳漿 でヌメッた湾曲部を握った伊織は、二撃目のモーションに入っていた茶髪女、その右目を狙って鑿状 になった柄の先で刺し貫いた。
脳幹を抉り壊されたらしく、女ゾンビも糸の切れた人形のように潰れて動かなくなる。
こうして、伊織と対峙してから二分ちょっと、事態が動き出してから一分足らずで、全てのゾンビは戦闘不能状態に陥った。
「鮮やかな手並みってのは、こういうのを言うんだろうな」
「しかしどうするんだ、この変死体の山」
そんな話をする背後で、何かが動く気配が。
二人が振り返ると、伊織の轢き逃げアタックで宙を舞った、コートの男が立っていた。
だが、頭部から血を噴いて全身を震わせている姿は、既にゴール寸前の気配だ。
「誰だか知らんが、無理すんな」
「こふっ……こ、交渉に来た、あ、相手を車で轢くとか……げぅっ、ふ」
「それで、用件はぁ?」
伊織の質問に対して男は何事かを言おうとするが、咳き込んだ後にマスクの通気穴から黒っぽい血を噴出すると、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
「何だったんだ、コイツは……」
そう吐き捨てたルナの視線の先に倒れている、恐らくフェイだと思われる男は、地面に血だまりを広げながらピクリとも動かない。
「どうする?」
「どうしようか?」
「どうしようもないねぇ」
三人で顔を見合わせていると、頭上から唐突な高笑いが響く。
「ふははははっ! やはりゾンビ共やハンパ者には荷がおぼヌッ――なっ――あぁんふっ!」
道場の玄関先、その屋根の上で演説を始めたポニーテールの女に向けて、ルナは足下に転がっていた鶴嘴をアンダースローでブン投げた。
刺さりはしなかったが、鳩尾 で衝撃を受け止めた女は体勢を崩し、そのまま転落する。
「うぅがががあっが、がががががっがが……」
背中を敷石に強打し、のたうち回って喚く女に近付いたルナは、チョークスリーパーをかけて強制的に黙らせた。
多分フェイであろう気絶した女を横目に、三人は再び顔を見合わせる。
「なぁルナねぇ。もしかして、コイツも交渉役なんじゃ……」
「いや、高所からの高笑いとかカマしてきたんで、つい反射的に」
「まぁ、あの状況だったらとりあえず、フルパワーで迎撃するよねぇ」
しばらく待ってみても痙攣以外の動きがなかったので、伊織がポニテ女の体を抱え上げて活を入れ、失神状態から呼び戻す。
「んぐっ、あ……う、うぅ……クソッ、メチャクチャしやがって……」
「でぇ、君達はウチに何しに来たのかなぁ?」
「それは、お前らに――」
「は? お前?」
ルナが軽く凄んでみせると、ポニテ女はスッと目線を逸らす。
「いえ、あの、とりあえずあなた達に降伏勧告をして、拒絶されたら小手調べ程度に戦って、それからメッセージを伝えて引き揚げてこい、って上から命令されてまして」
「メッセージ、てぇ?」
「今夜十時、黒田化学の工場跡に佐崎裕太を連れて来い。もし逃げたら、次の日から毎朝どこかの小学校の通学路で、大型ダンプが原因不明の暴走事故を起こす――だそうで」
「……初回のターゲットは?」
「き、聞いてない、ですっ」
ルナがポニテ女の胸倉を掴んで締め上げるが、本当に知らないのか黙秘する気なのか、涙目で首を振るばかりで答えようとしない。
見ず知らずの子供を脅迫の材料に使ってくる、手段を選ばない――というか、とことんえげつないセイの悪質さに、裕太は無意識に奥歯を噛み締める。
「伝言は了解したから、君はこの死屍累々を持ち帰ってくれるかなぁ?」
「は、はいっ! すぐに」
ポニテ女は、ゾンビ五体の残骸と動かないコート男を手早くハイエースに詰み込むと、血塗れの服もそのままに大急ぎで走り去った。
「……結局、あいつらの能力は不明のままだな」
「言われてみれば、確かに。本当に何だったんだ」
遠くなるエンジン音を聞きながら笑ってみたものの、数時間後には再び人間離れした相手との戦闘に赴かねばならないという事実は、裕太の心に重く圧し掛かる。
「黒田化学の工場ってのは?」
「コブールと戦った川の上流にある、かなり前に潰れた会社の工場。権利関係が入り乱れてるらしくて、売れずに放置されてるって話だ」
ルナからの質問に裕太が答えていると、伊織が真顔で見つめているのに気付く。
「それでゆぅ君、どうするのぉ?」
「どうする、って……何を」
「セイ君の言葉を無視して逃げる、そんな選択肢も一応はあるんだけどねぇ」
「おい、イオ――」
ルナが身を乗り出してツッコミを入れようとするが、伊織はそれを制する。
裕太は、なるべく意識しないようにしていた事実を掘り返され、返答に窮してしまう。
「人の命を盾にされたら、そりゃ何とか助けようとするよねぇ。でもゆぅ君、自分以外の誰かのためにどこまでやれるのか、その線引きは予めしておいた方がいいと思うよぉ」
確かに、今回は幼い子供を盾にされたから選択の余地もない感じだが、それが見知らぬ小汚いオッサンとか、今野みたいな馬鹿野郎ならどうするだろうか。
「個人ができることには限界があるし、その上限はかなり低いんだよねぇ」
「でも、師匠やルナねぇは――」
「あたしらを基準にすると、話が明後日の方向から帰ってこなくなるぞ」
要するに無茶をするなという話なんだろうが、それでもまだ裕太には割り切れないものが残ってしまい、即答はできなかった。
裕太は二度三度と深呼吸をしてから、苦笑混じりの質問をルナに投げた。
「あの地下室、換気に問題があるんじゃないか?」
「かもね。私にはよくわかんないけど」
低酸素状態にも強いらしいルナは、いつもの調子で受け取った品々を淡々とトランクに詰めている。
伊織はキーホルダーを指先でクルクル回しつつ、運転席に腰を下ろした。
「それじゃ、帰りますかぁ」
「そういや師匠、検問とかやってたらどうするんです? トランクの中身を見られたら、確実に凶悪テロリスト扱いなんですけど」
「運転には自信があるし、問題ないよぉ」
「……あぁ、なるほど」
つまり、何かあったら問答無用でバックレるのだろう。
裕太の動揺とは裏腹に、車は来た時と同様に抜群の安定感で田舎道を走る。
「しかしアレだ。裕太に持たせる護身武器で悩んでたけど、流星錘ならウォレットチェーンぽいアクセ、って雰囲気で何とか誤魔化せそうだな」
「重みでズボンがズリ落ちる危険と、常に隣り合わせになりそうだが」
「そこはホラ、騙し騙しラッキースケベ風なイベントに昇華して」
「俺とルナねぇのラッキーの定義には、マリアナ海溝ばりのミゾがあるらしいな」
しかしながら、ポケットに入れておくには辛いサイズだったので、とりあえずはルナに言われた通りベルトの上に巻きつけておく。
検問にも遭遇せず、渋滞にも巻き込まれず、車は地元へと近付いていく。
「どうする、何か食べてから帰るぅ?」
「俺はどっちでもいい感じですが……ルナねぇは?」
「んー、物騒な荷物もあるし、今は真っ直ぐに戻った方が」
そんな会話を繰り広げている内に、いつしか裕太の自宅周辺まで戻っていた。
「武器の類は、とりあえずウチに置いとこうかぁ」
「そうだね、コッチだと保管場所が――ん?」
ルナの眼光が不意に鋭くなる。
伊織の自宅兼道場の入口で、防塵マスクと丸いレンズの黒眼鏡を着用し、季節外れのコートを羽織った怪しいにも程がある風体の男が、腕組みをしながら佇んでいた。
伊織はブレーキを踏み、車を緩やかに停止させる。
「知り合いか、イオ」
「ちょっとわかんないなぁ」
「敵――なのか?」
裕太の言葉に、車内の緊張感が数段階高まる。
そして、コートの男がスマホを操作すると同時に、伊織の携帯が鳴った。
「もしもしぃ――うん。そうだけどぉ――えぇ? ――はぁ?」
応答する伊織の表情が、徐々に険しくなる。
話すというよりも曖昧に受け流しているような感じだ。
生返事をしばらく続けていた伊織は、無言で通話を終了する。
「何だって?」
「ゴチャゴチャ言ってたけどぉ、要約すると降伏勧告だねぇ」
「俺の身柄を寄越せ、って話ですか」
「訊くまでもないだろうけど……返事は?」
「黙殺ぅ!」
ルナの質問に珍しく大声で答えた伊織は、力一杯にアクセルを踏み込む。
タイヤが空転する音が響き、車は猛然と加速しながら百メートル余りを疾駆。
そしてコートの男をハネ飛ばすと、ドリフト気味に敷地内へと飛び込んだ。
「世間的には『黙って轢き殺す』を略して『黙殺』とは呼ばないんじゃ――」
「裕太、日本語教室は後回しだ。来るぞっ!」
ルナと伊織が車外へと飛び出し、裕太もツーテンポほど遅れたがそれに続く。
玄関先には見慣れぬハイエース。
その周囲には作業着姿の男が三人と、白衣を着た女が二人。
それぞれの手には山刀や
「これは多分、セイ達が生み出したゾンビ的な何か、だろうねぇ」
「何人か見た顔がいるな。研究所の関係者を材料にしてるみたいだ」
嫌悪感を丸出しにしたルナの声を聴きながら、裕太は伊織に訊ねる。
「タイプはノロノロ? ダッシュ? 咬まれると感染? 海底で鮫と格闘?」
「映画に出てくるゾンビのイメージは捨てとこうかぁ。共通してるのは、頭部を潰せば動きが止まるって位かなぁ」
確かに、映画に出てくる連中はまず凶器を使わない。
武装したゾンビ達を前にして、数分に感じられる数瞬が過ぎた後で伊織が口を開く。
「よし、ここは任せて先に行けぇ」
「わかっ――いや、何処に?」
いつも通りの口調と意味不明さではあるが、伊織の纏った雰囲気は一変している。
自分に本気の稽古をつけている時より、更に気迫を
見慣れない師匠の姿に、裕太は安心していいのか不安になればいいのかわからない。
伊織が何歩かを踏み出すと、五人――或いは五体は取り囲もうとする動きを見せる。
ひび割れたメガネをかけた男ゾンビが山刀を振り被って立ち塞がるが、伊織はその切先が体に届く遥か以前に、男の肘を真下から蹴り上げた。
ゴルッ、という耳障りな低音と同時にメガネ男の右腕はヘシ折れ、山刀を取り落とす。
落下する刀を空中で
「べっ、げあっ――げっ、げ」
口から入った刃は延髄を砕いて後頭部を貫き、メガネ男は呻きを漏らしながら崩れた。
倒れ込んだ男の肩を蹴って刀を引き抜いた伊織は、今度は順手に持ち替えて右隣の小太りな男に駆け寄り、
「イオの無言と無表情をキープした戦闘シーン、久々に見たけど超怖ぇな」
「初めて見たけど、完全に同意だ……」
ルナと裕太がそんな話をしている間にも、伊織は掴み掛かってきた背の低い女ゾンビをかわしざま、目視が困難な速度で脳天へと山刀を落とした。
頑丈そうではあるが、切れ味には難があるだろう得物でこの破壊力なのは、恐らく伊織の
頭蓋に食い込んだ刃が抜けなかったのか、伊織は山刀を諦めてチビ女が持っていた八十センチほどのバールに武器を変更する。
残った中年男と茶髪女のゾンビは、手にした鶴嘴で伊織の体を掘り返そうと、前後から横殴りのフルスイングを繰り出してきた。
しかし伊織は顔色一つ変えず、メートル級の垂直ジャンプでそれを避けると、地面に足も着かない内にバールを振るい、釘抜き部分を中年の側頭部に深々と食い込ませる。
そして着地と同時に前方に体重を乗せ、テコの原理と腕力の併せ技で中年ゾンビの頭蓋を無理矢理に割り開き、ついでにその奥に収まっていた薄桃色の物質も掻き散らす。
「ふぇ、はあぁぁあぁあ」
妙な声を絞り出し、中年は病んだバレリーナの如く廻りながらへたって突っ伏す。
バールを構え直し、血と
脳幹を抉り壊されたらしく、女ゾンビも糸の切れた人形のように潰れて動かなくなる。
こうして、伊織と対峙してから二分ちょっと、事態が動き出してから一分足らずで、全てのゾンビは戦闘不能状態に陥った。
「鮮やかな手並みってのは、こういうのを言うんだろうな」
「しかしどうするんだ、この変死体の山」
そんな話をする背後で、何かが動く気配が。
二人が振り返ると、伊織の轢き逃げアタックで宙を舞った、コートの男が立っていた。
だが、頭部から血を噴いて全身を震わせている姿は、既にゴール寸前の気配だ。
「誰だか知らんが、無理すんな」
「こふっ……こ、交渉に来た、あ、相手を車で轢くとか……げぅっ、ふ」
「それで、用件はぁ?」
伊織の質問に対して男は何事かを言おうとするが、咳き込んだ後にマスクの通気穴から黒っぽい血を噴出すると、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
「何だったんだ、コイツは……」
そう吐き捨てたルナの視線の先に倒れている、恐らくフェイだと思われる男は、地面に血だまりを広げながらピクリとも動かない。
「どうする?」
「どうしようか?」
「どうしようもないねぇ」
三人で顔を見合わせていると、頭上から唐突な高笑いが響く。
「ふははははっ! やはりゾンビ共やハンパ者には荷がおぼヌッ――なっ――あぁんふっ!」
道場の玄関先、その屋根の上で演説を始めたポニーテールの女に向けて、ルナは足下に転がっていた鶴嘴をアンダースローでブン投げた。
刺さりはしなかったが、
「うぅがががあっが、がががががっがが……」
背中を敷石に強打し、のたうち回って喚く女に近付いたルナは、チョークスリーパーをかけて強制的に黙らせた。
多分フェイであろう気絶した女を横目に、三人は再び顔を見合わせる。
「なぁルナねぇ。もしかして、コイツも交渉役なんじゃ……」
「いや、高所からの高笑いとかカマしてきたんで、つい反射的に」
「まぁ、あの状況だったらとりあえず、フルパワーで迎撃するよねぇ」
しばらく待ってみても痙攣以外の動きがなかったので、伊織がポニテ女の体を抱え上げて活を入れ、失神状態から呼び戻す。
「んぐっ、あ……う、うぅ……クソッ、メチャクチャしやがって……」
「でぇ、君達はウチに何しに来たのかなぁ?」
「それは、お前らに――」
「は? お前?」
ルナが軽く凄んでみせると、ポニテ女はスッと目線を逸らす。
「いえ、あの、とりあえずあなた達に降伏勧告をして、拒絶されたら小手調べ程度に戦って、それからメッセージを伝えて引き揚げてこい、って上から命令されてまして」
「メッセージ、てぇ?」
「今夜十時、黒田化学の工場跡に佐崎裕太を連れて来い。もし逃げたら、次の日から毎朝どこかの小学校の通学路で、大型ダンプが原因不明の暴走事故を起こす――だそうで」
「……初回のターゲットは?」
「き、聞いてない、ですっ」
ルナがポニテ女の胸倉を掴んで締め上げるが、本当に知らないのか黙秘する気なのか、涙目で首を振るばかりで答えようとしない。
見ず知らずの子供を脅迫の材料に使ってくる、手段を選ばない――というか、とことんえげつないセイの悪質さに、裕太は無意識に奥歯を噛み締める。
「伝言は了解したから、君はこの死屍累々を持ち帰ってくれるかなぁ?」
「は、はいっ! すぐに」
ポニテ女は、ゾンビ五体の残骸と動かないコート男を手早くハイエースに詰み込むと、血塗れの服もそのままに大急ぎで走り去った。
「……結局、あいつらの能力は不明のままだな」
「言われてみれば、確かに。本当に何だったんだ」
遠くなるエンジン音を聞きながら笑ってみたものの、数時間後には再び人間離れした相手との戦闘に赴かねばならないという事実は、裕太の心に重く圧し掛かる。
「黒田化学の工場ってのは?」
「コブールと戦った川の上流にある、かなり前に潰れた会社の工場。権利関係が入り乱れてるらしくて、売れずに放置されてるって話だ」
ルナからの質問に裕太が答えていると、伊織が真顔で見つめているのに気付く。
「それでゆぅ君、どうするのぉ?」
「どうする、って……何を」
「セイ君の言葉を無視して逃げる、そんな選択肢も一応はあるんだけどねぇ」
「おい、イオ――」
ルナが身を乗り出してツッコミを入れようとするが、伊織はそれを制する。
裕太は、なるべく意識しないようにしていた事実を掘り返され、返答に窮してしまう。
「人の命を盾にされたら、そりゃ何とか助けようとするよねぇ。でもゆぅ君、自分以外の誰かのためにどこまでやれるのか、その線引きは予めしておいた方がいいと思うよぉ」
確かに、今回は幼い子供を盾にされたから選択の余地もない感じだが、それが見知らぬ小汚いオッサンとか、今野みたいな馬鹿野郎ならどうするだろうか。
「個人ができることには限界があるし、その上限はかなり低いんだよねぇ」
「でも、師匠やルナねぇは――」
「あたしらを基準にすると、話が明後日の方向から帰ってこなくなるぞ」
要するに無茶をするなという話なんだろうが、それでもまだ裕太には割り切れないものが残ってしまい、即答はできなかった。