第28話「そんな荒地はどうでもいい」
文字数 6,087文字
セイの投げた刃物でストッパーを断ち切られ、天井付近から猛然と突っ込んできたもの。
それは、解体工事などに使われる大型鉄球に、先を尖らせた鉄筋や鉄パイプが無数に溶接してある、凶暴なシルエットを持つ物体だった。
鉄球は壮絶な衝撃音を撒き散らし、ルナの全身を巻き込んで工場の床面へとめり込んだ。
「なっ……ル、ルナねぇ!」
「んっ、ひゅぬ――んぶ――」
籠もった声が小さく聴こえてくるが、何を言っているのかサッパリわからない。
とりあえず生きてはいるが、巨大な重量によって顔か喉が潰されるかして、普通に喋れない状態になっているようだ。
鉄球の周囲から止め処なく溢れる鮮血を見届けてから、セイはゆっくりと裕太に近付く。
「さて、と……フレイはもう動けないと思うけど、どうする? 兄さん」
「諦めの悪さにだけは、自信があるんでな」
セイは微かに笑う。
「そういうとこ、父さんに似てるよ。じゃあ……最初で最後の兄弟喧嘩を始めようか」
セイの触手と、炎に照らされたその影が揺れる。
能力差は歴然としているから、勝機は手の内を知られていない序盤にしかない。
そう考えた裕太は、先制攻撃のタイミングを見極めようと間合いを計る。
「んがぁ――はっぷぁあぁぁんあぁぁお!」
鉄球をどけようと気合を入れたのか、ルナの変な絶叫が工場内に響き渡る。
半瞬、セイの注意がそちらに逸れた。
「右だっ!」
裕太はそう怒鳴りながら左に跳び、背中に挟んだマカロフを抜く。
伊織から教わった、古典的な撹乱法だ。
一応の効果があったらしく、セイの視線は逆方向へと誘導される。
斜めに駆けながら、裕太は銃爪を引き続けた。
一発、二発、三発、四発、そして五発目を撃とうとした瞬間、右手に鉄の鞭で打たれたような衝撃が走り、銃がはじき飛ばされる。
「あづっ」
苦痛の呻きを漏らしつつも、戦果を確認する――銃弾がセイの体には届いた様子はない。
裕太は痛みを堪え、腰に巻いた流星錘を素早く外すと、回転をつけて真っ直ぐに放つ。
しかしスピードが足りなかったのか、触手によって鎖が簡単に絡め取られ、タングステンの塊は床に叩き落とされてしまう。
鎖を引き戻して次の一撃に持って行こうとするが、触手との力比べに負けて流星錘は強奪され、裕太の背後に投げ捨てられた。
「これで終わりかな、兄さん」
「うるっ、せええええええっ!」
勝ちを確信した様子のセイに、裕太は怒鳴り散らしながら突進してゆく。
「そんな風にブチキレても、何も――」
素手で猛然と突っ込んでくる裕太に呆れながら、セイは触手を使わず捻じ伏せようと身構えるが、もうすぐ手が届くという所で大型ナイフが閃いた。
地下室で撃ち倒した宇野から、裕太が回収しておいた武器だ。
「――へぇ」
破れかぶれの特攻と見せかけて、隠し武器での奇襲をかける。
エウリュス戦でルナが見せた戦法を翻案 した裕太の動きに、セイは感嘆の声を上げる。
「でも、残念ながら努力賞ってとこだね」
束になった触手は、裕太の右肘を殴りつけてナイフを取り落とさせ、背中を打ち据えて呼吸を強制停止させる。
それから腹を二度三度と突いて肺を空にし、足を払って小汚い床へのキスを無理強いした。
「うっが、ぶぁは……ぼふぉ」
「そろそろ、気が済んだ?」
口調は柔らかいが感情の排除された言葉が、突っ伏した裕太の背中に積もる。
「だから……諦めの悪さは超高校級だっ、て言ってんだろっ!」
「そうは言っても――」
裕太は身を起こして中腰になりながら、床をザラつかせている鉄錆だか砂だかを左手で掻き集め、それをセイに向けて投げつけて目潰しを試みる。
簡単に振り払われたが、ちょっとした牽制にはなった。
触手が目潰しを警戒している隙に、裕太はもう一本のナイフを懐から抜き出すと、蛙飛びに似た動きでセイの太腿を狙って斬り上げる。
しかし、浅い。
左の膝辺りに僅かな切り傷を負わせたのと引き換えに、触手の束が殴りつけてくる。
右脇腹、左肩、鳩尾 ――その先はどこを殴られたのか、ハッキリとした記憶がない。
最後に急角度で打ち下ろす右ストレートを顔面に受け、裕太は再び床に転がされる。
セイが手加減しているのか、袋叩き状態になりながらも裕太は意識を保っていた。
砂をまぶしたコンクリートの灰色と、そこに広がる粘ついた赤色が視界を占領する。
際限なく湧き上がる恐怖は手足を震わせ、全身の痛みが知覚の大部分を絡めとり、裕太の思考能力に過大なノイズを混入させていた。
散々に見慣れた悪夢の再現――結局、ここに戻ってしまうのか。
自分は何も出来ず、ルナは負けて、伊織も殺された。
脇腹と肩の激しい痛みは、骨に異常が生じていることを告げてくる。
裕太の心は、ゆっくりと諦念 に侵蝕されていく。
「ここは男らしく覚悟を決めて、僕の作る新世界の礎 になってよ、兄さん」
「……新世界、ね。さっきの話だと輪郭すら掴めなかったが……どういうことなんだ」
裕太は気力を振り絞って身を起こし、荒く呼吸しながら床に座り込む。
あらゆる箇所が痛みを主張していて、ふたした瞬間に意識が飛びそうだ。
「簡単な話だよ。誰かが楽をするために、別の誰かが余計な苦労をする状況をなくすだけ」
「いや、それは……目指したからってハイそうですか、と実現するのか」
「元凶を一つ一つ潰す。畸形化した経済による富の偏在、軍事力を背景にした独裁政治、因習や歴史にしか根拠のない不当な差別、思想や宗教を悪用しての民衆統制、そんな諸々を」
初めて聞かされる正しい用法での確信犯の言葉は、絶望に浸されつつあった裕太の精神に、別種のざわめきを混入させていく。
「それが実現するなら大したもんだが……形になるのに何百年かかるんだ」
「十年――いや、五年もあれば大体の均 しは終わるかな。国や政府といった枠組みは残し、既得権に胡坐 をかいた連中だけを排除して無力化する」
「……その方法は」
「強制退場。暴力は何も生み出さない、なんて言葉もあるけど、邪魔者を片付けるのに暴力は最も効果的だからね。アルケーさえ量産できれば、無敵の集団が完成する」
確かに、アルケーやフェイの特殊能力なら、暗殺やテロに絶大な効果を発揮しそうだ。
どんな精鋭の軍隊や強大な組織を率いていても、個人の能力には限界がある。
もし今、セイが単身で国会議事堂に突っ込んで行ったとしたら、警備員を蹴散らして居合わせた議員や大臣を軽々と殲滅 し、警官隊が到着する前に無傷で脱出するだろう。
「ひょっとすると、お前にならそれが出来るのかも知れない。だけど、それを任せるのは危険な気がする……上手く説明できないが」
「やれやれ、だ。そこまで否定されたんじゃ仕方ないね。もう面倒になってきたし、そろそろ話は終わりにしようか」
呆れ顔のセイが、吐き捨てるように言った。
裕太は本能が『逃げろ』と命じるのに従って立ち上がるが、その直後に殺到する触手に取り押さえられ、その場に跪 かされる。
「まだ諦めないの、兄さん」
手足と首周りをガチガチに固められた裕太は、驚きを含んだセイの声を聞く。
「その、選択肢、がっ……そもそも用意、されてな……いっ」
触手の圧迫で呼吸に不自由しながらも、裕太は減らず口を叩いて睨み返す。
見下ろしてくるセイの目には、微かにではあるが興味の色が宿っていた。
「この状況なら、もっと他にやることあるんじゃないの。命乞いとか」
「結局、はっ……脳味噌、弄り回されて……死ぬか、狂うかなん、だろ」
「実はね、それを避ける方法もあるんだ。しばらく寝たきりになるかもしれないけど」
そう言いながら、セイは首にかかった触手の締め付けを緩めてくる。
急に回復した呼吸に噎 せながら、裕太はセイの言葉がどういう意味を持つのかを考える。
信用できるのか――いや、たとえ真実だったとしても、セイの計画に加担していいのか。
絶対的な権威の覇者が、圧倒的な暴力で君臨する、恒久的に平和な世界。
どれだけ想像力を駆使しても、悪い冗談みたいなディストピアしか思い浮かべられない。
「どんな御託 や綺麗事を並べても……結局のところはテロリストだろ」
迷った末に裕太が拒絶の言葉を告げると、セイは冷え切った目を向けてくる。
「僕らがやろうとしているのは、英語で言えば『リーチ・フォー・ザ・ムーン』……わかるかな」
「月に……手を伸ばす?」
「直訳すればそうだけど、届かないものに触れようとする、つまり『不可能に挑戦する』って意味の慣用句だね。だけど、人は月にまで辿り着いた。どんな無謀に思えることでも、能力と覚悟と資金さえあれば、大抵のことは実現できる。そして、その三つを僕らは揃えてる」
色々と反論は思い浮かんだが、言っても仕方ないと判断した裕太は黙り込む。
セイは触手を操作して裕太の首を無理に捩 り、天井から降ってきた鉄球の方へと向けた。
「他には、『無理な高望み』とか『ないものねだり』みたいな意味もある……こっちは兄さん用だね。もう希望なんてどこにもないけど、月に手を伸ばしてみる? 届くのは精々、そこで潰れてるフレイ――ルナっていうペーパームーンくらいだろうけど」
ペーパームーン――記念写真の撮影に使うハリボテの月、だったか。
有名映画のタイトルやジャズの曲名を掻き分けて、その記憶に思い至る。
「月、か……お前が目指すには、お似合いだな……セイ」
セイの顔は見えないが、きっと訝しげな表情をしているだろう――そう思いつつ裕太は続ける。
「誰もいなくて寒くて息が詰まる、石と砂の他には何もないような……そんな荒地はどうでもいい。それより、手を伸ばせば握り返してくれるルナがいい」
裕太の答えが予期せぬ方向性のものだったのか、セイは十秒近く無言で固まった。
しかし、わざとらしい笑いを上げながら裕太の胸倉を掴んで引き寄せると、傲然とその言葉を否定しにかかる。
「無駄だよ……無駄なんだよ、兄さん。もう手は届かない。現実では奇跡なんて起こらない。死に瀕しても特殊能力は発動しない。大切な人が目の前で殺されても何もできない。絶体絶命のピンチに、正義のヒーローが颯爽 と登場することもない」
「――だけど、奇跡の大逆転を演出すべく、殺しても死なない美少女は華麗に登場する」
裕太とセイは、掠 れ気味な声がした方を振り向く。
どうにかして這い出したらしく、血塗れのルナが刺々しい鉄球に寄り掛かっていた。
ボロボロに裂けたツナギが、常人なら即死確定の衝撃を受け止めたことを物語っている。
セイは迷わず裕太を突き放し、ルナを警戒しつつ間合いを取った。
「よくここまで粘ったな、裕太」
「ルッ、ルナねぇ! どうやってあの下から?」
「ん? ああ、ぶつける威力がありすぎたのか、床の方が思いっきりヘコんだんでな。それで隙間ができたから、体に刺さった色々を無理矢理に抜いて、その後でダメージを回復させる作業の繰り返しで何とか」
僅かな隙間で身をよじり続け、自分で傷口を裂きながら強引に抜け出した、という状況なのだろうか――状況が特殊過ぎて想像力が追いつかない。
「ちょっと服はどうにもならない感じだけど、結果的にエロ格好良さが大幅アップしてるから、プラマイゼロと判断しとこう」
「どう考えてもマイナスだ! 大体、その血塗れっぷりにエロを見出せるのは、かなりの上級者だと思うぞ」
「揃いも揃って往生際の悪い……」
忌々しげに漏らすセイに、ルナは血で湿った髪を掻き上げながら返す。
「命懸けの場面で潔くしろとか、アホかお前は。武士かお前は。現代社会を丸ごと叩き壊した後で、戦国時代にでも逆行させる気か?」
「このまま歪な世界を放っておけば、やがて取り返しのつかない場所で行き詰る。その程度は君もわかるだろ、フレイ。なのに、兄さん一人のために見て見ぬふりをするのか?」
裕太を数秒見つめた後、視線をセイに戻してルナは答える。
「あたしの選択に、そんな意識は混ざってない……とは言えない。だけど、それよりもっとデカいのはね、アンタを信用しきれないんだよ、セイ」
何かを言いかけたが、思い直したようにセイは口を噤む。
「もしかして、アンタのやり方で本当に世界を変えられるかも知れない。神様役だって、意外と器用にこなせるんじゃないかと思う。だけど、その世界でもしアンタが狂った時、その暴走を誰がどうやって止めるんだ?」
セイの表情が僅かに引き攣るのを横目に、ルナは血の混じった唾を吐いてから続ける。
「そんなコトにはならない、とでも言いたそうだな。しかしな、正気は保てたとしても、どれだけ倦 まずにやってられる? 最初は皆、与えられた平和や平等を有難がるさ。でも、すぐに不平不満を並べ始めるぞ。他人より楽をしたい、他人より得をしたい、他人より偉くなりたい――そんな感情は理屈じゃどうにもならない。人々が身勝手で馬鹿馬鹿しい要求を突き付けてきた時、アンタはどうする? 下らんワガママを叶えてやるのか? 無視して今迄通りを続けるのか? それとも革命のセオリーに従い、反乱分子を処罰して秩序を回復するのか?」
セイからの反論はなく、小さく歯軋りの音が鳴る。
ルナが早口で並べ立てた疑問点が、自分がセイの主張に抱いた違和感にそっくりで、裕太は半ば無意識に何度も頷いていた。
「それと、な――」
低い声で言いながら、ルナが走り出した。
「家族や仲間を簡単に切り捨てられる奴に、見ず知らずの他人を救えるワケがないっ!」
危険度が高いと認識したらしく、触手は駆け寄ってくるルナに殺到する。
それを跳んでかわしたルナの手首には、細いワイヤーが巻き付いて地面に伸びている。
ワイヤーが伸び切った直後、破裂音と爆発音を混合したような大音量が響く。
「クレイモアかっ!」
事態を察知してセイが叫ぶ。
完全に間違った使い方で作動させられた対人地雷は、爆風と共に数百の鉄球をバラ撒いた。
触手の群れはセイを守ろうと壁を形成し、迫り来る鉄球群を防ぐ。
ルナが動くと同時に流星錘を回収しに走った裕太は、折れた骨が軋むのを歯を食い縛って耐え、拾い上げたそれをハンマー投げのようにしてセイに投擲 。
着地したルナは、再生の間に合わない傷口から流れ散る血を無視して駆け、流星錘への対処で崩れた触手の壁の内側へと潜り込むと、セイの体を抱くようにしがみついた。
それは、解体工事などに使われる大型鉄球に、先を尖らせた鉄筋や鉄パイプが無数に溶接してある、凶暴なシルエットを持つ物体だった。
鉄球は壮絶な衝撃音を撒き散らし、ルナの全身を巻き込んで工場の床面へとめり込んだ。
「なっ……ル、ルナねぇ!」
「んっ、ひゅぬ――んぶ――」
籠もった声が小さく聴こえてくるが、何を言っているのかサッパリわからない。
とりあえず生きてはいるが、巨大な重量によって顔か喉が潰されるかして、普通に喋れない状態になっているようだ。
鉄球の周囲から止め処なく溢れる鮮血を見届けてから、セイはゆっくりと裕太に近付く。
「さて、と……フレイはもう動けないと思うけど、どうする? 兄さん」
「諦めの悪さにだけは、自信があるんでな」
セイは微かに笑う。
「そういうとこ、父さんに似てるよ。じゃあ……最初で最後の兄弟喧嘩を始めようか」
セイの触手と、炎に照らされたその影が揺れる。
能力差は歴然としているから、勝機は手の内を知られていない序盤にしかない。
そう考えた裕太は、先制攻撃のタイミングを見極めようと間合いを計る。
「んがぁ――はっぷぁあぁぁんあぁぁお!」
鉄球をどけようと気合を入れたのか、ルナの変な絶叫が工場内に響き渡る。
半瞬、セイの注意がそちらに逸れた。
「右だっ!」
裕太はそう怒鳴りながら左に跳び、背中に挟んだマカロフを抜く。
伊織から教わった、古典的な撹乱法だ。
一応の効果があったらしく、セイの視線は逆方向へと誘導される。
斜めに駆けながら、裕太は銃爪を引き続けた。
一発、二発、三発、四発、そして五発目を撃とうとした瞬間、右手に鉄の鞭で打たれたような衝撃が走り、銃がはじき飛ばされる。
「あづっ」
苦痛の呻きを漏らしつつも、戦果を確認する――銃弾がセイの体には届いた様子はない。
裕太は痛みを堪え、腰に巻いた流星錘を素早く外すと、回転をつけて真っ直ぐに放つ。
しかしスピードが足りなかったのか、触手によって鎖が簡単に絡め取られ、タングステンの塊は床に叩き落とされてしまう。
鎖を引き戻して次の一撃に持って行こうとするが、触手との力比べに負けて流星錘は強奪され、裕太の背後に投げ捨てられた。
「これで終わりかな、兄さん」
「うるっ、せええええええっ!」
勝ちを確信した様子のセイに、裕太は怒鳴り散らしながら突進してゆく。
「そんな風にブチキレても、何も――」
素手で猛然と突っ込んでくる裕太に呆れながら、セイは触手を使わず捻じ伏せようと身構えるが、もうすぐ手が届くという所で大型ナイフが閃いた。
地下室で撃ち倒した宇野から、裕太が回収しておいた武器だ。
「――へぇ」
破れかぶれの特攻と見せかけて、隠し武器での奇襲をかける。
エウリュス戦でルナが見せた戦法を
「でも、残念ながら努力賞ってとこだね」
束になった触手は、裕太の右肘を殴りつけてナイフを取り落とさせ、背中を打ち据えて呼吸を強制停止させる。
それから腹を二度三度と突いて肺を空にし、足を払って小汚い床へのキスを無理強いした。
「うっが、ぶぁは……ぼふぉ」
「そろそろ、気が済んだ?」
口調は柔らかいが感情の排除された言葉が、突っ伏した裕太の背中に積もる。
「だから……諦めの悪さは超高校級だっ、て言ってんだろっ!」
「そうは言っても――」
裕太は身を起こして中腰になりながら、床をザラつかせている鉄錆だか砂だかを左手で掻き集め、それをセイに向けて投げつけて目潰しを試みる。
簡単に振り払われたが、ちょっとした牽制にはなった。
触手が目潰しを警戒している隙に、裕太はもう一本のナイフを懐から抜き出すと、蛙飛びに似た動きでセイの太腿を狙って斬り上げる。
しかし、浅い。
左の膝辺りに僅かな切り傷を負わせたのと引き換えに、触手の束が殴りつけてくる。
右脇腹、左肩、
最後に急角度で打ち下ろす右ストレートを顔面に受け、裕太は再び床に転がされる。
セイが手加減しているのか、袋叩き状態になりながらも裕太は意識を保っていた。
砂をまぶしたコンクリートの灰色と、そこに広がる粘ついた赤色が視界を占領する。
際限なく湧き上がる恐怖は手足を震わせ、全身の痛みが知覚の大部分を絡めとり、裕太の思考能力に過大なノイズを混入させていた。
散々に見慣れた悪夢の再現――結局、ここに戻ってしまうのか。
自分は何も出来ず、ルナは負けて、伊織も殺された。
脇腹と肩の激しい痛みは、骨に異常が生じていることを告げてくる。
裕太の心は、ゆっくりと
「ここは男らしく覚悟を決めて、僕の作る新世界の
「……新世界、ね。さっきの話だと輪郭すら掴めなかったが……どういうことなんだ」
裕太は気力を振り絞って身を起こし、荒く呼吸しながら床に座り込む。
あらゆる箇所が痛みを主張していて、ふたした瞬間に意識が飛びそうだ。
「簡単な話だよ。誰かが楽をするために、別の誰かが余計な苦労をする状況をなくすだけ」
「いや、それは……目指したからってハイそうですか、と実現するのか」
「元凶を一つ一つ潰す。畸形化した経済による富の偏在、軍事力を背景にした独裁政治、因習や歴史にしか根拠のない不当な差別、思想や宗教を悪用しての民衆統制、そんな諸々を」
初めて聞かされる正しい用法での確信犯の言葉は、絶望に浸されつつあった裕太の精神に、別種のざわめきを混入させていく。
「それが実現するなら大したもんだが……形になるのに何百年かかるんだ」
「十年――いや、五年もあれば大体の
「……その方法は」
「強制退場。暴力は何も生み出さない、なんて言葉もあるけど、邪魔者を片付けるのに暴力は最も効果的だからね。アルケーさえ量産できれば、無敵の集団が完成する」
確かに、アルケーやフェイの特殊能力なら、暗殺やテロに絶大な効果を発揮しそうだ。
どんな精鋭の軍隊や強大な組織を率いていても、個人の能力には限界がある。
もし今、セイが単身で国会議事堂に突っ込んで行ったとしたら、警備員を蹴散らして居合わせた議員や大臣を軽々と
「ひょっとすると、お前にならそれが出来るのかも知れない。だけど、それを任せるのは危険な気がする……上手く説明できないが」
「やれやれ、だ。そこまで否定されたんじゃ仕方ないね。もう面倒になってきたし、そろそろ話は終わりにしようか」
呆れ顔のセイが、吐き捨てるように言った。
裕太は本能が『逃げろ』と命じるのに従って立ち上がるが、その直後に殺到する触手に取り押さえられ、その場に
「まだ諦めないの、兄さん」
手足と首周りをガチガチに固められた裕太は、驚きを含んだセイの声を聞く。
「その、選択肢、がっ……そもそも用意、されてな……いっ」
触手の圧迫で呼吸に不自由しながらも、裕太は減らず口を叩いて睨み返す。
見下ろしてくるセイの目には、微かにではあるが興味の色が宿っていた。
「この状況なら、もっと他にやることあるんじゃないの。命乞いとか」
「結局、はっ……脳味噌、弄り回されて……死ぬか、狂うかなん、だろ」
「実はね、それを避ける方法もあるんだ。しばらく寝たきりになるかもしれないけど」
そう言いながら、セイは首にかかった触手の締め付けを緩めてくる。
急に回復した呼吸に
信用できるのか――いや、たとえ真実だったとしても、セイの計画に加担していいのか。
絶対的な権威の覇者が、圧倒的な暴力で君臨する、恒久的に平和な世界。
どれだけ想像力を駆使しても、悪い冗談みたいなディストピアしか思い浮かべられない。
「どんな
迷った末に裕太が拒絶の言葉を告げると、セイは冷え切った目を向けてくる。
「僕らがやろうとしているのは、英語で言えば『リーチ・フォー・ザ・ムーン』……わかるかな」
「月に……手を伸ばす?」
「直訳すればそうだけど、届かないものに触れようとする、つまり『不可能に挑戦する』って意味の慣用句だね。だけど、人は月にまで辿り着いた。どんな無謀に思えることでも、能力と覚悟と資金さえあれば、大抵のことは実現できる。そして、その三つを僕らは揃えてる」
色々と反論は思い浮かんだが、言っても仕方ないと判断した裕太は黙り込む。
セイは触手を操作して裕太の首を無理に
「他には、『無理な高望み』とか『ないものねだり』みたいな意味もある……こっちは兄さん用だね。もう希望なんてどこにもないけど、月に手を伸ばしてみる? 届くのは精々、そこで潰れてるフレイ――ルナっていうペーパームーンくらいだろうけど」
ペーパームーン――記念写真の撮影に使うハリボテの月、だったか。
有名映画のタイトルやジャズの曲名を掻き分けて、その記憶に思い至る。
「月、か……お前が目指すには、お似合いだな……セイ」
セイの顔は見えないが、きっと訝しげな表情をしているだろう――そう思いつつ裕太は続ける。
「誰もいなくて寒くて息が詰まる、石と砂の他には何もないような……そんな荒地はどうでもいい。それより、手を伸ばせば握り返してくれるルナがいい」
裕太の答えが予期せぬ方向性のものだったのか、セイは十秒近く無言で固まった。
しかし、わざとらしい笑いを上げながら裕太の胸倉を掴んで引き寄せると、傲然とその言葉を否定しにかかる。
「無駄だよ……無駄なんだよ、兄さん。もう手は届かない。現実では奇跡なんて起こらない。死に瀕しても特殊能力は発動しない。大切な人が目の前で殺されても何もできない。絶体絶命のピンチに、正義のヒーローが
「――だけど、奇跡の大逆転を演出すべく、殺しても死なない美少女は華麗に登場する」
裕太とセイは、
どうにかして這い出したらしく、血塗れのルナが刺々しい鉄球に寄り掛かっていた。
ボロボロに裂けたツナギが、常人なら即死確定の衝撃を受け止めたことを物語っている。
セイは迷わず裕太を突き放し、ルナを警戒しつつ間合いを取った。
「よくここまで粘ったな、裕太」
「ルッ、ルナねぇ! どうやってあの下から?」
「ん? ああ、ぶつける威力がありすぎたのか、床の方が思いっきりヘコんだんでな。それで隙間ができたから、体に刺さった色々を無理矢理に抜いて、その後でダメージを回復させる作業の繰り返しで何とか」
僅かな隙間で身をよじり続け、自分で傷口を裂きながら強引に抜け出した、という状況なのだろうか――状況が特殊過ぎて想像力が追いつかない。
「ちょっと服はどうにもならない感じだけど、結果的にエロ格好良さが大幅アップしてるから、プラマイゼロと判断しとこう」
「どう考えてもマイナスだ! 大体、その血塗れっぷりにエロを見出せるのは、かなりの上級者だと思うぞ」
「揃いも揃って往生際の悪い……」
忌々しげに漏らすセイに、ルナは血で湿った髪を掻き上げながら返す。
「命懸けの場面で潔くしろとか、アホかお前は。武士かお前は。現代社会を丸ごと叩き壊した後で、戦国時代にでも逆行させる気か?」
「このまま歪な世界を放っておけば、やがて取り返しのつかない場所で行き詰る。その程度は君もわかるだろ、フレイ。なのに、兄さん一人のために見て見ぬふりをするのか?」
裕太を数秒見つめた後、視線をセイに戻してルナは答える。
「あたしの選択に、そんな意識は混ざってない……とは言えない。だけど、それよりもっとデカいのはね、アンタを信用しきれないんだよ、セイ」
何かを言いかけたが、思い直したようにセイは口を噤む。
「もしかして、アンタのやり方で本当に世界を変えられるかも知れない。神様役だって、意外と器用にこなせるんじゃないかと思う。だけど、その世界でもしアンタが狂った時、その暴走を誰がどうやって止めるんだ?」
セイの表情が僅かに引き攣るのを横目に、ルナは血の混じった唾を吐いてから続ける。
「そんなコトにはならない、とでも言いたそうだな。しかしな、正気は保てたとしても、どれだけ
セイからの反論はなく、小さく歯軋りの音が鳴る。
ルナが早口で並べ立てた疑問点が、自分がセイの主張に抱いた違和感にそっくりで、裕太は半ば無意識に何度も頷いていた。
「それと、な――」
低い声で言いながら、ルナが走り出した。
「家族や仲間を簡単に切り捨てられる奴に、見ず知らずの他人を救えるワケがないっ!」
危険度が高いと認識したらしく、触手は駆け寄ってくるルナに殺到する。
それを跳んでかわしたルナの手首には、細いワイヤーが巻き付いて地面に伸びている。
ワイヤーが伸び切った直後、破裂音と爆発音を混合したような大音量が響く。
「クレイモアかっ!」
事態を察知してセイが叫ぶ。
完全に間違った使い方で作動させられた対人地雷は、爆風と共に数百の鉄球をバラ撒いた。
触手の群れはセイを守ろうと壁を形成し、迫り来る鉄球群を防ぐ。
ルナが動くと同時に流星錘を回収しに走った裕太は、折れた骨が軋むのを歯を食い縛って耐え、拾い上げたそれをハンマー投げのようにしてセイに
着地したルナは、再生の間に合わない傷口から流れ散る血を無視して駆け、流星錘への対処で崩れた触手の壁の内側へと潜り込むと、セイの体を抱くようにしがみついた。