第21話「ゴリラ八年分ってとこか」
文字数 5,509文字
裕太とセイの兄弟は、乱戦の喧騒から少し離れた場所で向き合っている。
肉親同士の友好的な雰囲気はなく、敵同士の険悪な雰囲気もない、不可思議な空間がそこにあった。
「ねぇ兄さん、僕についてはどういう風に聞かされてる?」
「どうもこうも、自分に弟がいると知ったのがついさっきだ」
セイは、一瞬だけ苦い表情を浮かべるが、すぐにそれを微苦笑にまで薄める。
「母さんについてはどう?」
「あー……確か俺が二歳の時、事故で死んだとか」
「事故、か」
セイの声のトーンが少し落ちるが、今度は表情を変えずに話を続ける。
「事故と言えば事故なんだけどね。母さんが死んだのは僕を産んだから――正確には出産時に出血多量に陥ったから、なんだ」
「それは、医療ミスとかそういう?」
セイがゆっくりと頷く。
「入院していたのは日本有数の大病院で、担当医師も年は若いが腕は良いって評判だったんだけど、僕の出産予定日が恋人の誕生日でね。デートの約束をしていた医者は、出産を予定より数日だけ早めようと、母さんに使う必要の無い子宮収縮剤を投与した」
「子宮収縮剤……?」
「陣痛促進剤とも言うね。出産がスムーズに行かない時なんかに使われる薬なんだけど、副作用が強くて事故も多い。酷い場合は母体の子宮破裂、胎児の死亡や脳性麻痺なんて大事故も起きる。で、僕の時にはそんな一大事が二本立てで発生して、焦った医者は見事に処置をしくじった。そして母さんは出血多量で死に、僕の意識は回復しないままだ」
予想だにしない話が続き、裕太は黙ってセイの言葉に耳を傾ける。
「報せを受けた父さんは、事件を表沙汰にせず、全てを無かったことにしたらしい。そして、死んだ母さんと仮死状態の僕を引き取り、DFIの関連施設へと運び込んだ。そこで母さんの体は冷凍保存され、僕は試作中の生命維持装置に繋がれながら、普通の病院では許可されないであろう蘇生手術や延命手術を何種類も施されたんだ……この辺りの事情は僕が後から自分で調べた事で、父さんは何一つ教えちゃくれなかったけどね」
雲に隠れて月が翳り、語っているセイの表情は窺えない。
「で、情報を集める内に見えて来たのはね、父さんが何をしようとしていて、その為に何をやったのか、だよ。結論から言うと、研究の全ては母さんを甦らせることだけが目的だった。事故で失った最愛の妻を生き返らせようと、科学者があらゆる手段を尽くす――なんてシチュエーションは、字面だけなら感動的だけど、ね……父さんの研究に関連して殺された人間は三桁を超える。わかっているだけで、二百六十三人」
具体的な人数を耳にして、冷え切っていた裕太の心は更に温度を下げる。
「母さんを死なせた担当医は、事件後すぐに退職して行方不明になってるし、その恋人も翌月に失踪してるから、記録に残っていない死者も結構な数がいるんじゃないかな。それに、僕やフレイのように新技術の実験台にされた人間も。ただ、僕の場合は母さんの死に責任があると判断されて、懲罰の意味で怪物にされた可能性もあるけど」
「まさか……」
「そこは兄さんの信じたい方を選べばいい。既に人生ロスタイムに入ってるんだし」
そういえばコイツは、自分の脳を掻き回そうとしてるんだった、と裕太は思い出す。
「ちなみに、父さんの研究成果は――」
言いかけたセイが、唐突に数メートルを飛び退く。
大音量とほぼ同時に、目の前を小さな鉄球の群れが高速で通り過ぎる。
ルナが鉄パイプ銃を発射したらしいが、その弾道は明らかに裕太寄りだ。
「ぅおおいっ!」
「べっ、別にアンタを狙って撃ったんじゃないんだからねっ」
「ツンデレっぽく言うな! ワザとだったら、この続きは法廷に持ち込まれ――」
裕太の抗議は、コンクリを擦る耳障りな金属音で邪魔される。
伊織に倒されたフェイの機械製の左腕が、十数メートル先から飛んで来た音だ。
「セイ君、前座は片付いたみたいだけど、どうするぅ?」
血と何かの液体を浴び、イヤな感じのテカりに身を包んだ伊織が問う。
追い詰められているはずのセイは、つまらなそうな表情でルナと伊織を順に見てから口を開いた。
「……僕はゲームが結構好きでね。勇者が魔王を倒すオーソドックスなRPGなんかも結構やったんだけど、その手のゲームでいつも納得行かなかったのは、魔王サイドの信じ難い詰めの甘さだよ。いずれ脅威になるだろう勇者を放置して、戦力を小出しにしてはレベルを上げさせて、最終決戦では余裕ぶっこいて一人で複数を相手にして、当然ながら負けるマヌケな展開ばっかり。だから僕は、最初から総力戦を仕掛けることにした」
「その総力が壊滅してる件については、どう思ってるんだ」
「残念ながら、主力の登場はこれからなんだよ」
工場の方から複数の銃声が発せられ、飛び退いたルナと伊織はバラバラの方向に駆け出す。
裕太もルナの後を追って走るが、その前に巨大な人影が立ち塞がった。
「妙にデカいのがいるな」
「アレは確か――『エウリュス』だ。コードネームの由来はヘラクレスの子孫と言われるスパルタ王エウリュステネス、見ての通りの能力を与えられたアルケーだ」
「素手でりんごジュース作るのが超得意、とかそんなんか」
「同じ方法で、鰹節から出汁をとれる悪フザケかってレベルの馬鹿力だ。能力クラスは王のレベル5、ランクはA」
エウリュスと呼ばれたその男は、二メートルを優に超える長身と、素手でヒグマを殴り殺せそうな筋肉の所有者で、薄暗い中でもわかる濃いめの顔立ちが異国情緒を漂わせている。
垂峰の研究所へと拉致された時に会った、山田とかいう奴のゴツさにも驚かされたが、エウリュスの肉体スペックが生じさせている威圧感は別次元だった。
「ルナねぇ、どうする?」
「戦いの基本は各個撃破だ――セイはイオに任せて、先ずはコイツを潰すっ!」
腰に差していた白パイプを抜き出すと、先端を地面で擦って放り投げる。
しかし、エウリュスはそれを避けもせず、ルナに向かって突進しながら何気なくパイプを手の甲で弾き飛ばす。
そしてルナの腕を掴むと、濡れタオルの水気を切るような動きで、小さな体を脳天から地面に叩きつけた。
ルナはコンクリートに大規模な亀裂を作り、誰もいない場所で炸裂したパイプは、地面に転がっていた枯れ木に火を点ける。
「大シたこと、なイな」
妙なイントネーションで発せられる日本語は、巨体から想像される通りの低音だった。
そして、つまらなそうな顔でルナの頭を掴んで持ち上げたエウリュスは、その体を五、六メートルの高さまで放り投げ、落下してきたところで右ストレートを叩き込む。
唸りを上げて繰り出された拳はルナの右脇腹を的確に捉え、今度は横方向に数メートルの瞬間移動を強制した。
「どうなってんだ、コイツは……」
ルナの体は見た目こそ小学生サイズだが、改造手術の結果かなりの重量になっている。
それを幼児がぬいぐるみをブン回す感覚で翻弄するエウリュスの怪力ぶりに、裕太の背中には冷たい汗が浮く。
「……ふぅ、噂に違 わず冗談みたいな腕力だな。ざっと見積もって、ゴリラ八年分ってとこか」
数メートルを殴り飛ばされ、着地後に追加で更に数メートル転がされたルナは、血の塊と共にそんなセリフを吐き捨てる。
つい「それ何匹だよ!」と言いかける裕太だが、そんな空気でもないので自重する。
平然と立ち上がったルナを見つめるエウリュスの表情には、さっきまでの退屈さとは若干異なる微熱を孕 んだ興味が混入していた。
「ホぉ、まだやルかね」
剃り上げているらしいハゲ頭を一撫でし、ちょっと嬉しげな調子で言うエウリュス。
それを睨みつけたルナは、前傾姿勢で一直線に駆ける。
右足へのタックル――そう見切ったエウリュスは、顔面を狙っての前蹴りを返す。
ルナはそれを真っ向から受けてしまうが、吹き飛ばされるよりも早く足に取り付き、鼻と耳と口から溢れ出す血もそのままに、握り込んでいた尖ったコンクリ片を膝関節に突き立てる。
「ぶぇばああああああああああっ!」
喉の奥まで血で濁った、ルナの気合の叫びが響き渡る。
「んハっ――無駄ナことを」
だが、エウリュスの右足は分厚い筋肉によって攻撃を無効化し、虚空を蹴り上げてルナを三度目の空中遊泳に送り出すと、体格に似合わぬ身の軽さで回し蹴りを放つ。
背中に直撃を受けたルナは、またしても地面に転がされる。
そんなエウリュスの桁外れな戦闘能力を見せ付けられた裕太は、参戦も逃走もできないままに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
まただ――また、何も出来ないのか。
裕太の心中に無力感が渦巻くが、手足は行動を起こすのを頑なに拒絶する。
「……訂正しとこう。ゴリラ十二年分だ」
根拠のわからない見積もり五割アップを宣言しながら、ルナがまた立ち上がる。
さっきよりも吐き出した血の量は多く、赤色が暗い。
ダメージが大き過ぎて、壊された内臓の回復が追いついてないのかも知れない。
「ふゥはははハはははハは! いぃイぞ、実にイい!」
エウリュスは喜色を隠そうともせず、笑いながら軽やかな足取りでルナに近付く。
恐らくこの大男にとって、戦闘とは一瞬で勝負が決まる退屈な作業でしかなく、相手を殴り殺すだけの単純労働と化していたのだ。
それが今回、ルナという一撃で倒せない敵の登場によって、意味を変えようとしている。
「武器が品切れの最悪なタイミング、そこでオマエみたいなのが出てくるとは、なっ!」
笑顔のエウリュスに向かって、ルナは再び駆ける。
さっきと同じく右足を掴まえに行くような軌道に、エウリュスはカウンターの予備動作として足を引くが、ルナは三歩ほど手前で右前方に跳ぶ。
無人の空間をエウリュスの右足が切り裂いた直後、フェイントに成功して側面に回り込んだルナは、軸足を狙っての水面蹴りを放つ。
膝裏を蹴り抜かれたエウリュスは、体勢を崩して背中から落ちそうになるが、咄嗟に手をついてそれを回避した。
しかし水面蹴りの半回転の後、更に体を一回転させて遠心力を乗せたルナの踵が、エウリュスの顔面を強かに叩く。
「げるぅアぁ!」
奇声と鼻血を噴いて倒れ込んだエウリュスに、ルナは追加の打撃を加えようとする。
この数秒の間で三発目になる蹴りが繰り出されようとするが、その足を掴もうと間合いを計られている気配を察し、ルナはモーションを止めて地面を蹴ると、素早く後退った。
「自分ノ血を見るのモ……久しブりだ」
高い鼻梁 が歪んで血が流れ出ているが、それを大して気にする様子もなく、静かに起き上がって手に付いた赤色を眺めている。
顔の下半分を血に染めながら、凄まじい笑顔を浮かべるエウリュスを一瞥したルナは、自分の攻撃がそれほど効果を発揮していないのを悟り、軽く舌打ちしながら武器になりそうなものを探して周囲に視線を走らせる。
サビの浮いたトタン板に目を留めたルナは、それを拾い上げると手早くクルッと丸め、棍棒 状に仕上げて二度、三度と素振りを繰り返す。
「裕太、イオの代理であたしが対人戦闘の実践指導だ。よく見ときな」
月明かりの他、枯れ木に燃え移った火が光源になってはいるが、この薄暗さでよく見ろとはまた難しい注文だ。
そんな裕太の困惑に構わず、ルナは即席のトタン棍棒を手にエウリュスへと歩み寄る。
「レッスンその一、デカブツ相手の時は足を狙う――ってのはまぁ、言うまでもないセオリーだな。けど、セオリーだけに警戒もされるんで、どう予想を裏切るかがポイント」
ルナは、エウリュスと五メートル程の間合いを空けながら話を続ける。
「レッスンその二、出血させる。大量の出血は相手を物理的に弱らせるし、そうでなくても出血を意識させれば気の弱い奴は戦意喪失するし、頭がシンプルな奴は逆上する可能性が高い。殺す気なら首・腹・腿のデカい血管を狙うべきだが、そこまでじゃなかったり、刃物がない場合は鼻を狙え。剥き出しでガードが難しいし、鼻骨は簡単に折れる」
ルナの説明はここまでの流れ通りだったが、目前にいる男が曲がった鼻から鮮血を流し続けているのに、全く動じた様子がないのが説得力を激減させている。
「……おシャべりはモうおワりか?」
「もうちょっと待て――レッスンその三、複数を同時に相手にするのは避ける。コレについては後で詳しく説明しよう。それでレッスンその四、戦闘中だってのにベラベラ語る奴の言葉に耳を貸すと――」
これまでと変わらぬ調子で言いながら、ルナはトタン棍棒をエウリュスにブン投げる。
それと同時に跳んだルナの手には、コブール戦の時にも使った広刃のナイフ。
「――大抵ロクな結果にならない」
唯一の武器を手放したと思わせて隠し武器で攻撃をかける、ルナの二段構えの奇襲は成功するかに見えた。
しかし、エウリュスは作戦を見抜いたのか、拡がりながら飛んで来たトタンを避けもせず、飛び込んできたルナの首を片手で掴むと、そのまま体を持ち上げて気道を塞ぐ。
「うがっ……!」
「ハっ――こンなもノか」
熱気が冷め、倦怠感を漂わせた様子のエウリュスは、右手に込めた力を徐々に強めた。
肉親同士の友好的な雰囲気はなく、敵同士の険悪な雰囲気もない、不可思議な空間がそこにあった。
「ねぇ兄さん、僕についてはどういう風に聞かされてる?」
「どうもこうも、自分に弟がいると知ったのがついさっきだ」
セイは、一瞬だけ苦い表情を浮かべるが、すぐにそれを微苦笑にまで薄める。
「母さんについてはどう?」
「あー……確か俺が二歳の時、事故で死んだとか」
「事故、か」
セイの声のトーンが少し落ちるが、今度は表情を変えずに話を続ける。
「事故と言えば事故なんだけどね。母さんが死んだのは僕を産んだから――正確には出産時に出血多量に陥ったから、なんだ」
「それは、医療ミスとかそういう?」
セイがゆっくりと頷く。
「入院していたのは日本有数の大病院で、担当医師も年は若いが腕は良いって評判だったんだけど、僕の出産予定日が恋人の誕生日でね。デートの約束をしていた医者は、出産を予定より数日だけ早めようと、母さんに使う必要の無い子宮収縮剤を投与した」
「子宮収縮剤……?」
「陣痛促進剤とも言うね。出産がスムーズに行かない時なんかに使われる薬なんだけど、副作用が強くて事故も多い。酷い場合は母体の子宮破裂、胎児の死亡や脳性麻痺なんて大事故も起きる。で、僕の時にはそんな一大事が二本立てで発生して、焦った医者は見事に処置をしくじった。そして母さんは出血多量で死に、僕の意識は回復しないままだ」
予想だにしない話が続き、裕太は黙ってセイの言葉に耳を傾ける。
「報せを受けた父さんは、事件を表沙汰にせず、全てを無かったことにしたらしい。そして、死んだ母さんと仮死状態の僕を引き取り、DFIの関連施設へと運び込んだ。そこで母さんの体は冷凍保存され、僕は試作中の生命維持装置に繋がれながら、普通の病院では許可されないであろう蘇生手術や延命手術を何種類も施されたんだ……この辺りの事情は僕が後から自分で調べた事で、父さんは何一つ教えちゃくれなかったけどね」
雲に隠れて月が翳り、語っているセイの表情は窺えない。
「で、情報を集める内に見えて来たのはね、父さんが何をしようとしていて、その為に何をやったのか、だよ。結論から言うと、研究の全ては母さんを甦らせることだけが目的だった。事故で失った最愛の妻を生き返らせようと、科学者があらゆる手段を尽くす――なんてシチュエーションは、字面だけなら感動的だけど、ね……父さんの研究に関連して殺された人間は三桁を超える。わかっているだけで、二百六十三人」
具体的な人数を耳にして、冷え切っていた裕太の心は更に温度を下げる。
「母さんを死なせた担当医は、事件後すぐに退職して行方不明になってるし、その恋人も翌月に失踪してるから、記録に残っていない死者も結構な数がいるんじゃないかな。それに、僕やフレイのように新技術の実験台にされた人間も。ただ、僕の場合は母さんの死に責任があると判断されて、懲罰の意味で怪物にされた可能性もあるけど」
「まさか……」
「そこは兄さんの信じたい方を選べばいい。既に人生ロスタイムに入ってるんだし」
そういえばコイツは、自分の脳を掻き回そうとしてるんだった、と裕太は思い出す。
「ちなみに、父さんの研究成果は――」
言いかけたセイが、唐突に数メートルを飛び退く。
大音量とほぼ同時に、目の前を小さな鉄球の群れが高速で通り過ぎる。
ルナが鉄パイプ銃を発射したらしいが、その弾道は明らかに裕太寄りだ。
「ぅおおいっ!」
「べっ、別にアンタを狙って撃ったんじゃないんだからねっ」
「ツンデレっぽく言うな! ワザとだったら、この続きは法廷に持ち込まれ――」
裕太の抗議は、コンクリを擦る耳障りな金属音で邪魔される。
伊織に倒されたフェイの機械製の左腕が、十数メートル先から飛んで来た音だ。
「セイ君、前座は片付いたみたいだけど、どうするぅ?」
血と何かの液体を浴び、イヤな感じのテカりに身を包んだ伊織が問う。
追い詰められているはずのセイは、つまらなそうな表情でルナと伊織を順に見てから口を開いた。
「……僕はゲームが結構好きでね。勇者が魔王を倒すオーソドックスなRPGなんかも結構やったんだけど、その手のゲームでいつも納得行かなかったのは、魔王サイドの信じ難い詰めの甘さだよ。いずれ脅威になるだろう勇者を放置して、戦力を小出しにしてはレベルを上げさせて、最終決戦では余裕ぶっこいて一人で複数を相手にして、当然ながら負けるマヌケな展開ばっかり。だから僕は、最初から総力戦を仕掛けることにした」
「その総力が壊滅してる件については、どう思ってるんだ」
「残念ながら、主力の登場はこれからなんだよ」
工場の方から複数の銃声が発せられ、飛び退いたルナと伊織はバラバラの方向に駆け出す。
裕太もルナの後を追って走るが、その前に巨大な人影が立ち塞がった。
「妙にデカいのがいるな」
「アレは確か――『エウリュス』だ。コードネームの由来はヘラクレスの子孫と言われるスパルタ王エウリュステネス、見ての通りの能力を与えられたアルケーだ」
「素手でりんごジュース作るのが超得意、とかそんなんか」
「同じ方法で、鰹節から出汁をとれる悪フザケかってレベルの馬鹿力だ。能力クラスは王のレベル5、ランクはA」
エウリュスと呼ばれたその男は、二メートルを優に超える長身と、素手でヒグマを殴り殺せそうな筋肉の所有者で、薄暗い中でもわかる濃いめの顔立ちが異国情緒を漂わせている。
垂峰の研究所へと拉致された時に会った、山田とかいう奴のゴツさにも驚かされたが、エウリュスの肉体スペックが生じさせている威圧感は別次元だった。
「ルナねぇ、どうする?」
「戦いの基本は各個撃破だ――セイはイオに任せて、先ずはコイツを潰すっ!」
腰に差していた白パイプを抜き出すと、先端を地面で擦って放り投げる。
しかし、エウリュスはそれを避けもせず、ルナに向かって突進しながら何気なくパイプを手の甲で弾き飛ばす。
そしてルナの腕を掴むと、濡れタオルの水気を切るような動きで、小さな体を脳天から地面に叩きつけた。
ルナはコンクリートに大規模な亀裂を作り、誰もいない場所で炸裂したパイプは、地面に転がっていた枯れ木に火を点ける。
「大シたこと、なイな」
妙なイントネーションで発せられる日本語は、巨体から想像される通りの低音だった。
そして、つまらなそうな顔でルナの頭を掴んで持ち上げたエウリュスは、その体を五、六メートルの高さまで放り投げ、落下してきたところで右ストレートを叩き込む。
唸りを上げて繰り出された拳はルナの右脇腹を的確に捉え、今度は横方向に数メートルの瞬間移動を強制した。
「どうなってんだ、コイツは……」
ルナの体は見た目こそ小学生サイズだが、改造手術の結果かなりの重量になっている。
それを幼児がぬいぐるみをブン回す感覚で翻弄するエウリュスの怪力ぶりに、裕太の背中には冷たい汗が浮く。
「……ふぅ、噂に
数メートルを殴り飛ばされ、着地後に追加で更に数メートル転がされたルナは、血の塊と共にそんなセリフを吐き捨てる。
つい「それ何匹だよ!」と言いかける裕太だが、そんな空気でもないので自重する。
平然と立ち上がったルナを見つめるエウリュスの表情には、さっきまでの退屈さとは若干異なる微熱を
「ホぉ、まだやルかね」
剃り上げているらしいハゲ頭を一撫でし、ちょっと嬉しげな調子で言うエウリュス。
それを睨みつけたルナは、前傾姿勢で一直線に駆ける。
右足へのタックル――そう見切ったエウリュスは、顔面を狙っての前蹴りを返す。
ルナはそれを真っ向から受けてしまうが、吹き飛ばされるよりも早く足に取り付き、鼻と耳と口から溢れ出す血もそのままに、握り込んでいた尖ったコンクリ片を膝関節に突き立てる。
「ぶぇばああああああああああっ!」
喉の奥まで血で濁った、ルナの気合の叫びが響き渡る。
「んハっ――無駄ナことを」
だが、エウリュスの右足は分厚い筋肉によって攻撃を無効化し、虚空を蹴り上げてルナを三度目の空中遊泳に送り出すと、体格に似合わぬ身の軽さで回し蹴りを放つ。
背中に直撃を受けたルナは、またしても地面に転がされる。
そんなエウリュスの桁外れな戦闘能力を見せ付けられた裕太は、参戦も逃走もできないままに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
まただ――また、何も出来ないのか。
裕太の心中に無力感が渦巻くが、手足は行動を起こすのを頑なに拒絶する。
「……訂正しとこう。ゴリラ十二年分だ」
根拠のわからない見積もり五割アップを宣言しながら、ルナがまた立ち上がる。
さっきよりも吐き出した血の量は多く、赤色が暗い。
ダメージが大き過ぎて、壊された内臓の回復が追いついてないのかも知れない。
「ふゥはははハはははハは! いぃイぞ、実にイい!」
エウリュスは喜色を隠そうともせず、笑いながら軽やかな足取りでルナに近付く。
恐らくこの大男にとって、戦闘とは一瞬で勝負が決まる退屈な作業でしかなく、相手を殴り殺すだけの単純労働と化していたのだ。
それが今回、ルナという一撃で倒せない敵の登場によって、意味を変えようとしている。
「武器が品切れの最悪なタイミング、そこでオマエみたいなのが出てくるとは、なっ!」
笑顔のエウリュスに向かって、ルナは再び駆ける。
さっきと同じく右足を掴まえに行くような軌道に、エウリュスはカウンターの予備動作として足を引くが、ルナは三歩ほど手前で右前方に跳ぶ。
無人の空間をエウリュスの右足が切り裂いた直後、フェイントに成功して側面に回り込んだルナは、軸足を狙っての水面蹴りを放つ。
膝裏を蹴り抜かれたエウリュスは、体勢を崩して背中から落ちそうになるが、咄嗟に手をついてそれを回避した。
しかし水面蹴りの半回転の後、更に体を一回転させて遠心力を乗せたルナの踵が、エウリュスの顔面を強かに叩く。
「げるぅアぁ!」
奇声と鼻血を噴いて倒れ込んだエウリュスに、ルナは追加の打撃を加えようとする。
この数秒の間で三発目になる蹴りが繰り出されようとするが、その足を掴もうと間合いを計られている気配を察し、ルナはモーションを止めて地面を蹴ると、素早く後退った。
「自分ノ血を見るのモ……久しブりだ」
高い
顔の下半分を血に染めながら、凄まじい笑顔を浮かべるエウリュスを一瞥したルナは、自分の攻撃がそれほど効果を発揮していないのを悟り、軽く舌打ちしながら武器になりそうなものを探して周囲に視線を走らせる。
サビの浮いたトタン板に目を留めたルナは、それを拾い上げると手早くクルッと丸め、
「裕太、イオの代理であたしが対人戦闘の実践指導だ。よく見ときな」
月明かりの他、枯れ木に燃え移った火が光源になってはいるが、この薄暗さでよく見ろとはまた難しい注文だ。
そんな裕太の困惑に構わず、ルナは即席のトタン棍棒を手にエウリュスへと歩み寄る。
「レッスンその一、デカブツ相手の時は足を狙う――ってのはまぁ、言うまでもないセオリーだな。けど、セオリーだけに警戒もされるんで、どう予想を裏切るかがポイント」
ルナは、エウリュスと五メートル程の間合いを空けながら話を続ける。
「レッスンその二、出血させる。大量の出血は相手を物理的に弱らせるし、そうでなくても出血を意識させれば気の弱い奴は戦意喪失するし、頭がシンプルな奴は逆上する可能性が高い。殺す気なら首・腹・腿のデカい血管を狙うべきだが、そこまでじゃなかったり、刃物がない場合は鼻を狙え。剥き出しでガードが難しいし、鼻骨は簡単に折れる」
ルナの説明はここまでの流れ通りだったが、目前にいる男が曲がった鼻から鮮血を流し続けているのに、全く動じた様子がないのが説得力を激減させている。
「……おシャべりはモうおワりか?」
「もうちょっと待て――レッスンその三、複数を同時に相手にするのは避ける。コレについては後で詳しく説明しよう。それでレッスンその四、戦闘中だってのにベラベラ語る奴の言葉に耳を貸すと――」
これまでと変わらぬ調子で言いながら、ルナはトタン棍棒をエウリュスにブン投げる。
それと同時に跳んだルナの手には、コブール戦の時にも使った広刃のナイフ。
「――大抵ロクな結果にならない」
唯一の武器を手放したと思わせて隠し武器で攻撃をかける、ルナの二段構えの奇襲は成功するかに見えた。
しかし、エウリュスは作戦を見抜いたのか、拡がりながら飛んで来たトタンを避けもせず、飛び込んできたルナの首を片手で掴むと、そのまま体を持ち上げて気道を塞ぐ。
「うがっ……!」
「ハっ――こンなもノか」
熱気が冷め、倦怠感を漂わせた様子のエウリュスは、右手に込めた力を徐々に強めた。