3-19 いつもと同じ理由(わけ)

文字数 4,238文字

 ロワールハイネス号のフォアマスト前の煙突から、薄い煙が昇りだした。
 香ばしい肉の焼ける臭いが船内を漂い流れていく。
 普段食事の準備は当番制だが、今回は外洋航海なので、専属の料理人が船に乗り込んでいるのだった。

 ジャーヴィスは何よりも食事に気をつかっている。
 船乗りというのは、決して海が好きだというわけではない。生きる術のため、やむを得ず船に乗らざるを得ない、という状況に置かれた者の方が圧倒的に多いのだ。

 確かに自然の見せる美しい姿に胸を打つ時もあるが、海はいつその牙を見せるかわからない。そちらへの畏怖の方が強く、そして水平線しか見えない単調な生活には、やはり、なにか楽しみが必要だった。

 ジャーヴィスはそういう考えを持っていたから、料理人を自分で選ばせてくれるようシャインに頼んだ。
 シャインが快くそれを承諾して、ジャーヴィスに任せたのは当然だったといえる。
 気が滅入るととたん食事の好みが変わるシャインは、あまりそういうことに関心がなかったから。

 かくしてこの外洋航海に出てから、ロワールハイネス号の食卓は、エルシーア海軍の軍艦の中で一番豪勢なものになった。

 アスラトルで船乗り相手の旅館を経営していた、料理長ロレアルの作る料理は、水兵達の間で大好評だった。彼自身も以前は船乗りだったため、その時の経験を生かして、水兵達がどんな物を食べたいか、状況にあわせて料理を作ってくれるからだ。

 船では当直に誰かが立つため、一度に全員が食事をとることができない。
 当直をすませた者達は、時間を告げる船鐘の音が鳴ると共に、こぞって下の食堂へ走るのが最近の日課になっている。

 それはまさにジャーヴィスの目論み通り。
 食堂は常に明るい笑い声が響き、雑談にふける水兵達の憩いの場になっていた。



 ◇◇◇
 


 ジャーヴィスは甲板で眠りこけていた水兵達を起こして回り、下の食堂で遅めの朝食を取るよう命じた。
 それが済んだ後で、ジャーヴィスはすっかり水気を吸って生乾きになっている航海服を、艦長室からみて右舷側にある自室で着替えた。

 水差しから貴重な真水を洗面用の器に注いで顔を洗う。少しは体の塩気が抜けて生まれ変わったような、実にさっぱりした気分だ。
 清潔な航海服に袖を通し、ジャーヴィスはやっと落ち着いてきた自分を感じた。

 後は黒々とした艶を放つ髪を手ぐしで整えてみるが、まだ湿っているせいで上手くまとまらない。左側からだらんと垂れ下がってくる前髪には腹が立つ。いつものことだが。

 ジャーヴィスは軽くため息をついて部屋を出た。
 髪に不満は残るが、濡れ鼠のような先程の格好よりはるかにいい。

 少し口元に笑みを浮かべつつ、ジャーヴィスは後部ハッチの階段の脇を通り過ぎて、下甲板の中程にある食堂へ歩き出した。


 実にいい臭いが鼻をくすぐる。肉が焼ける甘い臭いだ。
 嵐の海との格闘で、自分はかなり空腹を感じていたのかと、ジャーヴィスは苦笑した。だが食堂へ入った途端、ジャーヴィスはその場の状況が信じられなくて、暫し呆然と立ち尽くした。

「どうしたんだ? お前たち……」

 ジャーヴィスは思わずつぶやいた。
 いつもは大声で雑談に興じる水兵達が、皆黙ったまま黙々と料理に口を運んでいる光景が目に飛び込んできたからだ。

 二列の長い木のテーブルに、当直を除く十五人の水兵達が席についているのだが、その表情はどこか思いつめたように暗く、沈みきっている。

 大男のスレインやエルマなども、食が進まないのかガラにもなくため息までついている始末。

 見張りのエリックは物思いにふけりながら、湯気の上がる肉片をフォークでつっ突いて、中々口に入れようとしない。

 しかし、決して料理が不味いわけではないみたいなのだ。
 それはジャ-ヴィス自身、料理人ロレアルの腕を知っているから、分かっているのだが。

「皆、どうした。食事をすませたら、甲板掃除とロープの始末をしなくてはならないんだぞ。あの嵐で無茶苦茶になっているんだ。わかっているだろ?」

 ジャーヴィスは水兵達を鼓舞するため声を張り上げた。
 さらに歩きながら続ける。

「嵐で傷めた所の点検と補修もしなくてはならない。このまま放っておいたら、レイディだって怒るぞ。だから、ちゃんと食べて仕事ができるようにしてくれ」
「……ジャーヴィス副長」

 ぽつりと見張りのエリックがつぶやいた。
 ちょうど彼の隣へジャーヴィスが来たからだ。
 まだ年若いエリックは、ジャーヴィスの顔をまじまじと見つめてきた。
 その黒い瞳にはどこか蔑んだ、暗い輝きが潜んでいる。

「なんで……そんなに明るく振る舞えるんです」
「えっ」

 ジャーヴィスはエリックの言う事に一瞬戸惑った。

「そうですぜ、副長」

 さらにその向い側に座っていた、スレインも憂鬱そうに顔を上げた。
 普段は温和な水兵が、あきらかに自分を批判する目で見ている。

「私が何か……したのか?」

 戸惑いがちに答えるジャーヴィス。
 エリックはやるせない表情を浮かべながら、やおら立ち上がった。

「だって! 艦長が……艦長が海へ落ちて亡くなったというのに、あなたはそれを悼もうとは思わないんですか!? 食事よりまずは、艦長の魂が憩えるよう、海神・青の女王へ祈りを捧げるのが先じゃないんですか!」

「そうだ!」

 水兵達は口々に同調した。
 船に乗る以上、それはいつ自分の身にも起るかも知れない不幸な出来事。
 決して他人事ではない。

 水兵達はともかく、ジャーヴィスだってそれは嫌というほど意識している。
 うつむいて鼻を鳴らす彼らの心境を、ジャーヴィスはやっと理解した。
 そして、まだひと月しか共に過ごしていないというのに、シャインがその心を掴んでいたということも。

「すまない……お前達の気持ちに気付かなくて」

 ジャーヴィスはその鋭い瞳を伏せ目がちにして頭を振った。

「なら早く甲板に行きましょうぜ」

 スレインがそう言うと、水兵達は皆がたがたと席を立ちだした。

「……待ってくれ」

 ジャーヴィスは立ち上がった水兵達を制した。
 やおら彼らの顔に不信感がたちのぼる。

「副長! あなたって人は、そこまで冷たかったなんて! 俺、見損ないましたよ!!」

 眉間をしかめたエリックが、ジャ-ヴィスの軍服の袖をぎゅっとつかんだ。

「そうじゃない! 私は……」

 ジャーヴィスはエリックの手をつかんで、そっと自分の服の袖から外した。
 エリックは手を振り解いた。ジャーヴィスを潤んだ目で睨みつつ。

「私は祈りなんて捧げる気はない」

 微塵も迷いを感じさせず、はっきりした口調でジャーヴィスは言った。
 エリックの睨みを真正面で受け止めながら。

「副長っ! 死者をそこまで冒涜するなんて……どうして!!」
「黙れ!」

 先程とはうってかわってジャーヴィスは一喝した。
 その声色の鋭さに、水兵達は反射的に身をすくめた。

「私はこの目で見た事しか信じない。艦長は海へ落ちたかもしれないが、死んだなんて誰かそれを見たのか? えっ?」

 ジャーヴィスは軽く握った拳で、エリックの薄い胸をこづいた。

「お前が見たのか? お前は見張りだからな。だから見ていたんだろうな?」

 まるで裁きを下す天神のように、ジャーヴィスは厳しい表情でエリックを睨みつけた。真っ向から光る青い瞳はガラス玉のようにきらめき、怒りから不安へと変わったエリック自身の顔がうつっている。

「………て、いません」
「何? 聞こえないぞ!」

 ジャーヴィスの視線に耐えきれず、エリックは顔をそむけて半ば叫んだ。

「見ていません!」
「……ふん。じゃあ、お前が見ていたのか? スレイン」

 ジャーヴィスは、自分より頭一つ大きな水兵の側に近付いた。
 ただの大男でしかないスレインは、ジャ-ヴィスの目の中に潜む光を見ただけで冷や汗を浮かべ出した。

「あの時……一緒にミズンマストの帆をたたんでいました。俺が見れるはずが」

 ジャーヴィスはスレインの肩を荒々しくついて、自分を取り巻く水兵達を、じっと見据えた。

「……誰か、見た者はいるのか?」

 沈黙。
 ジャーヴィスの気迫におされて、誰も彼と目をあわせようとしない。
 ジャーヴィスは小さく息を吐いた。

「見た者はいないようだな。だったら……もう少し、私に猶予をくれないか」

 ジャーヴィスの疲れたような、少ししわがれた声だけが辺りに響く。

「レイディが……このロワールハイネス号の『船の精霊』が、艦長は生きていると教えてくれた」

 エリックが涙に濡れたまつ毛をしばたいた。
 鼻を鳴らしていた何名かの水兵達が、ごしごしと袖で顔をこすった。

「本当ですか?」

 ジャーヴィスは目を細めながら、水兵達にうなずいてみせた。

「レイディが嘘を言うとは思えない。でも、艦長が今どこにいるのか……彼女にもわからないそうだ。遠すぎて。だから、もう少し待って欲しい。希望があるかぎり、あの人へ死者への祈りなど……したくないんだ」

 目に入りかけた前髪をかき上げて、ジャーヴィスはつぶやいた。
 信じない者が中にはいるだろう。
 が、ジャーヴィスは、それを責めるつもりは、さらさらなかった。

「そっか、だから船はいつも通りなのか……」

 エリックがぽつりとつぶやき、うれしそうにジャーヴィスへ微笑みかけた。

「艦長が死んだのなら、彼女が平然としていられるわけない!」
「そうだぜ。あの時の叫び声ったら、余りにも悲しくて心臓が止まりそうになったんだもんな」

 大柄な体をゆすりつつ、水兵のエルマはその小さな目を手でこすった。
 あちこちから、水兵達が顔を明るくさせながら、そうだ、そうだ、と口々につぶやく声があがる。

 ジャーヴィスはほっとした。
 内心自分の言う事を信じてくれるか確証がなかっただけに……。

「私が言いたかったのはそれだけだ。わかってくれたら、早く食事を済ませて甲板掃除にかかってくれ。艦長が戻ってきた時、こんな散らかった船内を、お前達は見せられるか?」

 ジャ-ヴィスのその一言で、水兵達はざざっと席に座り直した。
 すっかり冷めてしまった料理に構わず、口の中にかきこんでいく。
 料理長ロレアルが眉をしかめてそれを見ていたが、ジャーヴィスと目が合うと彼はにんまり微笑んだ。

「副長もどうぞ」

 厨房から出てきたロレアルの手には、白い湯気が上る肉料理の皿があった。
 ジュウジュウと肉汁が、心地よい音を立てて誘っている。
 それを見たジャ-ヴィスは、自分がとても空腹だったことを思い出して口元をわずかに歪めた。
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