3-29 憎しみの炎
文字数 5,238文字
シャインはヴィズルを見上げた。
口元をぐっと噛みしめ、無言で見下ろしている憮然とした顔を。
シャインは右手に持ったラフェールの剣を握ってはいたが、それを振るう気にはなれなかった。ただ自分を見下ろすヴィズルの顔をじっと見ていた。
沈黙に耐えきれず、視線をそらしたのはヴィズルの方だった。
「お前はいい奴だ。少なくとも、アドビスの息子だってことが信じられない程でね……俺はお前を気に入りかけた」
それを聞いてシャインはふっと笑った。
何だかすごく可笑しかった。
「そうかい。俺も君の事……いい航海士として気に入っていたんだけどね」
蹴られた左脇腹に鈍痛が走って、シャインは顔を歪めた。
「でも、そうじゃなかった」
くっくっくっ……と、今度はヴィズルが低く笑う。
肩を流れ落ちる長い銀髪が、炎を照り返しながら鈍く光った。
「俺を信じていた、なんて言うなよ? 今更? 俺は最初から海軍に紛れ込むために“航海士ヴィズル”という役を演じていただけなんだ。いいか、お前が勝手に俺を信じたんだ!」
「ああ、信じていたいさ。今だってね! あの人のせいで、どうして君がこんなことをしなくてはならないのか、それを聞くまで簡単に殺せると思うな!」
シャインは語気鋭く言い返した。
こんな強がりを言った所で、たいした抵抗にならないのは分かっているが。
ヴィズルがほんの少し、剣に力を加えればそれで終わる。
だからこそ知りたかった。
父アドビスが過去に何をやっていたのか。あるいは、どんな罪を犯していたのか。
ヴィズルがアドビスを憎み続ける理由を、どうしても知りたいと思った。
「ヴィズル。君は、一体何者なんだい?」
物怖じせず正面から見つめるシャインの様子に、ヴィズルがぶるっと身震いをした。睨み付ける夜色の瞳がぐっと細められる。
「確かに、何も知らないまま殺すっていうのも理不尽だな。お前に罪があるとすれは、あの男の息子だったということしかないんだから」
ヴィズルは油断なく剣をシャインに突き付けたまま口を開いた。
「お前の父親……アドビス・グラヴェールは昔、古参のエルシーア海賊の一人“月影のスカーヴィズ”と組んで海軍の仕事をしていた。スカーヴィズはエルシーア海での覇権を握るため、あくどい海賊や、邪魔な同業者をアドビスに売っていたのさ。そいつらを捕まえることで、アドビスの海軍での評価は高まり、奴はあっという間に昇進した。だがこんな関係がいつまでも続けられるはずがない。この二人の末路は、大体想像がつくだろう?」
シャインは信じがたいアドビスの過去に驚きつつ目を伏せた。
数々の功績はそうして築き上げられたものだったとは。
「あの人が、その海賊を裏切ったのか」
小さく鼻で笑うヴィズルの声が聞こえる。
「そういうことだ。だがそれは、スカーヴィズにもいえることだ。エルシーア一の勢力になれば、いずれアドビスと戦わなければなかったからな。けれど、アドビスを愛していたスカーヴィズにその気はなかった。それを知っていてあの男は、過去を消すため彼女を殺した。エルシーア海から去ろうとしていた、二十年前のあの夜に……俺の大切な人の想いを利用して、殺したのさ!」
シャインは黙ったままヴィズルを見上げることしかできなかった。
アドビスが目的を達成させるために、手段を選ばないというやり方は、嫌というほど知っていたから。
返す言葉を必死で探すが、頭が凍ったように働かずどう言えばいいのかわからない。何を言ってもきっと虚しく響くだろう。
ヴィズルと同じ立場だったら、自分も同じ事をするだろうから。
それでもシャインは口を開いた。
「ヴィズル。俺は……」
「何も言うな!」
熱のこもった風に髪をあおらせながら、ヴィズルが一喝した。
「俺があの男を憎む理由は教えてやった。あの夜を境に、“月影のスカーヴィズ”と、多くのエルシーア海賊が海に消えた。ならず者ばかりだったが、俺にとって家族みたいな連中だった。すべてを失った俺に一つだけ残された物は、あの男への恨みだけ。だから今度は、俺が奴からすべてを奪い去ってやる。手始めに奴の作った「ノーブルブルー」を壊滅させて、二十年前の事を、俺は忘れていないと知らしめてやるのさ!」
シャインはヴィズルを見つめたまま身を強ばらせた。
おぼろげながら見えてきたその事実に気付いて。
「アストリッド号を……そのために君が……?」
油断なく剣をつきつけているヴィズルが、肯定するように口元を歪ませる。
そして苦い物を噛み潰したように、顔をしかめ呟いた。
「十分時間をかけて罠を張った。始めからラフェールと数名の士官以外は、俺の昔の仲間を乗り込ませた。みんな三年以上も海軍の水兵として乗っていたんだがな。アストリッドを制圧するのは雑作も無い事だった。エルガードもまた然り。さすがにファスガードは、ルウムの目が厳しくて同じ手を使えなかったが……アドビスが乗っていれば、さぞかし愉快な光景を見ただろう。信じていた人間に裏切られ、殺される者の気持ちがどんなものか……いや、あの男にはそんなものわかるまい……」
ヴィズルは急に口ごもった。
そして頭を振り、真剣な眼差しでシャインを見つめた。
先程まで憎しみにかられていたそれとはうって変わり、憂いのこもった寂し気な目。はたと力が抜けたように、ヴィズルは剣先をシャインの喉元から下げた。
「シャイン……今日を最後に海軍から去れ。それを誓えば見逃してやろう」
「ヴィズル?」
キッとヴィズルの眼差しが再び鋭く光る。
「その名で俺を呼ぶな。俺は“月影のスカーヴィズ”の名を受け継いだ。お前の信じていた“俺”はもういない」
「待ってくれ」
シャインはしばし戸惑った。ヴィズルの突然の心変わりに。
おそらく今置かれたシャインの境遇を、過去の自分と重ね合わせたのだと察するが。
ヴィズルは焦れったそうに舌打ちした。
いら立ちをつのらせて左手に持った長剣を軽く振る。
「あの男の息子だからといって、お前に恨みがあるわけじゃない! だが海軍に留まれば、いずれお前は俺の敵になる。だから、断れば殺す」
あちこちで火が爆ぜる乾いた音が響く。
メインマスト全体が巨大な火柱となって天を焦がしている。
その光景をちらりと見て、シャインはゆっくり首を横に振った。
真実を知ってしまった以上、それを見過ごす事などできなかった。
「君こそエルシーアから立ち去ってくれ、ヴィズル。君が手を下さなくても、間違った事をしたのなら、あの人は自ら犯した罪の報いを必ず受ける」
「何だと?」
鋭い金属音と共に、ヴィズルが剣を握りなおした。
思わずはっと息を飲みながら。
シャインは艦長室の扉に背を預けたまま、自分を睨み付けるヴィズルの視線を受け止めていた。
「あの人を憎む気持ちはわからなくもない。だが俺は、君のした事も許せない。すでにアストリッドとエルガードは沈んだ。ファスガードも間もなくそうなる。君の憎しみが、多くの人を死に至らしめた」
ヴィズルは眉根を寄せたが、大きく表情は崩さなかった。
むしろシャインの言う事がおかしかったのか、口元に微笑をのぼらせた。
「だから……何だ。アドビスはもっと多くの血を流した。それに言わせてもらうが、エルガードを沈めたのはお前だ。ずっと俺についてきてくれた仲間を……お前が殺したんだぜ? シャイン」
「いいや、君のせいだ」
「何だと?」
シャインはやるせない思いで、自分を凝視するヴィズルを見つめた。
呆れたように軽く口を開き、睨み付けるその顔を。
「君が、俺にそうさせた。俺はふりかかる火の粉を払わねばならなかった。君が燃やした“憎しみの炎”を! 俺はファスガード号の者達を守りたかった。だって、彼等には彼等を待っている者がいるからだ」
「シャイン……!」
反論しかけたヴィズルの言葉を、シャインはその一瞥で遮った。
「もちろん君の仲間にも、その帰りを待っている者がいるはず。そして、大切な存在であったはず。君が憎しみに囚われなければ、彼等はもっと違った生き方ができたんじゃないのか? ヴィズル、君だって……!」
「……どうしても俺の邪魔をするのか」
押し殺したヴィズルの声が辺りに重く響いた。
左手に持った剣が炎の反射で錆色に煌めく。
シャインはそっと、ラフェールの剣を持つ右手に力を込めた。
ヴィズルを止めることができない自分の無力さを痛感しながら。
だがそれ以上に譲れないものがある。
シャインはゆっくりと、噛みしめるように呟いた。
「俺にも、大切なものがあるから」
嘲笑に似た吐息が、ヴィズルの口から漏れた。
同時に青白く光る刀身が、熱を帯びた空気と闇を切り裂くように後ろへ引かれる。
ほんの一呼吸の間で自分の喉元までくるであろうそれを、シャインは見つめながら背中に思いきり力を込めていた。
ガタンッ!
観音開きの艦長室の扉がきしみながら開く。
支えを失ったシャインの体は、後方へ勢いよく倒れた。
身を貫く冷たい剣の感覚を覚えながら。
「ぐっ……」
頭を固い甲板の板に打ちつけ、一瞬意識が遠くなった。
だがシャインは、目を見開いたまま見つめていた。
自分をのぞきこむように凝視するヴィズルの顔を。
倒れたシャインの右耳をかすめるように剣を床に突き立て、こんな時でも余裕を見せようと、口元に笑みを浮かべている……そのひきつった顔を。
夜色の瞳が意味ありげに細められ、薄い唇の端から赤い雫が静かにこぼれ落ちてゆく。そしてシャインの指からも、その重さをついに支える事ができなくなったラフェールの剣が、身を震わせるかん高い金属音を響かせて床に転がった。
「シャイン……貴様っ……!」
シャインは倒れる際に、剣を持った右手を前方へ突き出していた。
それがヴィズルの左脇腹をかすめ傷を負わせたのだった。
「ヴィズル、君の為だ。ロワールの居場所を俺に教えて、エルシーアから立ち去れ!」
「……嫌、だ」
ヴィズルは傷ついた脇腹を右手で押さえつつ、突き立てた剣を支えにふらりと立ち上がった。苦し気に息をつきながら、その瞳の中には再び炎のような感情がうずまいている。
「シャイン、お前は今から俺の敵だ。今度海で会ったら必ず殺す!」
「ヴィズル!」
銀髪をひるがえして、ヴィズルはシャインの視界から消え去った。
「待て! 話はまだ……!」
シャインは重い体を何とか持ち上げ立ち上がった。
吹き付ける熱風に顔を背けながら甲板へ出る。
ヴィズルの姿はない。ただ、空気までを焼き尽くさんとする炎だけが、闇を照らしながら燃えているだけ。
と、その闇が動いた。
ファスガード号の右舷側の波間。
先程まで彼女の姉妹艦エルガード号がいたその海域に、それとは違った船影が通り過ぎていく。
エルガードより小振りで、商船にしては細めの横帆船。
その船はすべるように静かに東へ去っていく。
「ヴィズル……」
シャインは心に大きな喪失感を抱きながら、見慣れない外国船を見送った。
「グラヴェール艦長!? こっち、こっちです!」
シャインがたたずんだ左舷の船縁の下から声がした。
のぞいてみると、下には十数名の人間が乗り込んだボートが横付けされていて、ファスガード号の副長イストリアが手を振っていた。
「早く逃げて下さい! メインマストが持たない!」
シャインは船縁へ手をかけると体を持ち上げ、その上に立った。
迷う事なく海へ飛び込む。
「さ、手を!」
波は思っていたよりうねりが高く、イストリアが捕まえてくれなかったら、どんどん流されていたかもしれない。
イストリアの他にも何名かボートに乗っていた人間が、シャインの体をつかみボートの中へひきずりこむ。
「櫂を漕げ! 急げ。船が沈む時の渦に巻き込まれるぞ!」
水兵達に命じるイストリアの力強い声を聞きながら、シャインは喘ぎつつ、ゆっくりと顔を上げた。白い煙を上げて炎上するファスガード号の、凄惨な姿がそこにあった。
シャインの見ているまさにその時、彼女のメインマストが上方から崩れ落ちていき、船体が右舷側にどっと傾いて、甲板がみるみる海面に沈んでいく。
ボートの櫂を漕ぐ手を思わず止めて、その場にいた水兵達がどよめきとも、感嘆の声を次々に漏らす。
彼等と同じように沈んでいくファスガード号を見つめていたイストリアは、失意を大きく表しながら、それでいて彼女を讃えるように呟いた。
「いい船だった。まるで、あんたが逃げるまで、沈まないようにこらえていたみたいだった……」
「ええ」
シャインは短く返事をした。
沈みゆくファスガード号の甲板に、白い人影が見えたような気がした。
「彼女は……できるだけ長く浮いていられるよう、がんばると言った……」
もぞもぞと身じろぎする音と共に、大柄なイストリアが振り向いた。
「“船”が、がんばるなんて……言えるわけないのにね」
シャインはうつむいて、濡れた体の震えを止めようと両手で肩を抱いた。
口元をぐっと噛みしめ、無言で見下ろしている憮然とした顔を。
シャインは右手に持ったラフェールの剣を握ってはいたが、それを振るう気にはなれなかった。ただ自分を見下ろすヴィズルの顔をじっと見ていた。
沈黙に耐えきれず、視線をそらしたのはヴィズルの方だった。
「お前はいい奴だ。少なくとも、アドビスの息子だってことが信じられない程でね……俺はお前を気に入りかけた」
それを聞いてシャインはふっと笑った。
何だかすごく可笑しかった。
「そうかい。俺も君の事……いい航海士として気に入っていたんだけどね」
蹴られた左脇腹に鈍痛が走って、シャインは顔を歪めた。
「でも、そうじゃなかった」
くっくっくっ……と、今度はヴィズルが低く笑う。
肩を流れ落ちる長い銀髪が、炎を照り返しながら鈍く光った。
「俺を信じていた、なんて言うなよ? 今更? 俺は最初から海軍に紛れ込むために“航海士ヴィズル”という役を演じていただけなんだ。いいか、お前が勝手に俺を信じたんだ!」
「ああ、信じていたいさ。今だってね! あの人のせいで、どうして君がこんなことをしなくてはならないのか、それを聞くまで簡単に殺せると思うな!」
シャインは語気鋭く言い返した。
こんな強がりを言った所で、たいした抵抗にならないのは分かっているが。
ヴィズルがほんの少し、剣に力を加えればそれで終わる。
だからこそ知りたかった。
父アドビスが過去に何をやっていたのか。あるいは、どんな罪を犯していたのか。
ヴィズルがアドビスを憎み続ける理由を、どうしても知りたいと思った。
「ヴィズル。君は、一体何者なんだい?」
物怖じせず正面から見つめるシャインの様子に、ヴィズルがぶるっと身震いをした。睨み付ける夜色の瞳がぐっと細められる。
「確かに、何も知らないまま殺すっていうのも理不尽だな。お前に罪があるとすれは、あの男の息子だったということしかないんだから」
ヴィズルは油断なく剣をシャインに突き付けたまま口を開いた。
「お前の父親……アドビス・グラヴェールは昔、古参のエルシーア海賊の一人“月影のスカーヴィズ”と組んで海軍の仕事をしていた。スカーヴィズはエルシーア海での覇権を握るため、あくどい海賊や、邪魔な同業者をアドビスに売っていたのさ。そいつらを捕まえることで、アドビスの海軍での評価は高まり、奴はあっという間に昇進した。だがこんな関係がいつまでも続けられるはずがない。この二人の末路は、大体想像がつくだろう?」
シャインは信じがたいアドビスの過去に驚きつつ目を伏せた。
数々の功績はそうして築き上げられたものだったとは。
「あの人が、その海賊を裏切ったのか」
小さく鼻で笑うヴィズルの声が聞こえる。
「そういうことだ。だがそれは、スカーヴィズにもいえることだ。エルシーア一の勢力になれば、いずれアドビスと戦わなければなかったからな。けれど、アドビスを愛していたスカーヴィズにその気はなかった。それを知っていてあの男は、過去を消すため彼女を殺した。エルシーア海から去ろうとしていた、二十年前のあの夜に……俺の大切な人の想いを利用して、殺したのさ!」
シャインは黙ったままヴィズルを見上げることしかできなかった。
アドビスが目的を達成させるために、手段を選ばないというやり方は、嫌というほど知っていたから。
返す言葉を必死で探すが、頭が凍ったように働かずどう言えばいいのかわからない。何を言ってもきっと虚しく響くだろう。
ヴィズルと同じ立場だったら、自分も同じ事をするだろうから。
それでもシャインは口を開いた。
「ヴィズル。俺は……」
「何も言うな!」
熱のこもった風に髪をあおらせながら、ヴィズルが一喝した。
「俺があの男を憎む理由は教えてやった。あの夜を境に、“月影のスカーヴィズ”と、多くのエルシーア海賊が海に消えた。ならず者ばかりだったが、俺にとって家族みたいな連中だった。すべてを失った俺に一つだけ残された物は、あの男への恨みだけ。だから今度は、俺が奴からすべてを奪い去ってやる。手始めに奴の作った「ノーブルブルー」を壊滅させて、二十年前の事を、俺は忘れていないと知らしめてやるのさ!」
シャインはヴィズルを見つめたまま身を強ばらせた。
おぼろげながら見えてきたその事実に気付いて。
「アストリッド号を……そのために君が……?」
油断なく剣をつきつけているヴィズルが、肯定するように口元を歪ませる。
そして苦い物を噛み潰したように、顔をしかめ呟いた。
「十分時間をかけて罠を張った。始めからラフェールと数名の士官以外は、俺の昔の仲間を乗り込ませた。みんな三年以上も海軍の水兵として乗っていたんだがな。アストリッドを制圧するのは雑作も無い事だった。エルガードもまた然り。さすがにファスガードは、ルウムの目が厳しくて同じ手を使えなかったが……アドビスが乗っていれば、さぞかし愉快な光景を見ただろう。信じていた人間に裏切られ、殺される者の気持ちがどんなものか……いや、あの男にはそんなものわかるまい……」
ヴィズルは急に口ごもった。
そして頭を振り、真剣な眼差しでシャインを見つめた。
先程まで憎しみにかられていたそれとはうって変わり、憂いのこもった寂し気な目。はたと力が抜けたように、ヴィズルは剣先をシャインの喉元から下げた。
「シャイン……今日を最後に海軍から去れ。それを誓えば見逃してやろう」
「ヴィズル?」
キッとヴィズルの眼差しが再び鋭く光る。
「その名で俺を呼ぶな。俺は“月影のスカーヴィズ”の名を受け継いだ。お前の信じていた“俺”はもういない」
「待ってくれ」
シャインはしばし戸惑った。ヴィズルの突然の心変わりに。
おそらく今置かれたシャインの境遇を、過去の自分と重ね合わせたのだと察するが。
ヴィズルは焦れったそうに舌打ちした。
いら立ちをつのらせて左手に持った長剣を軽く振る。
「あの男の息子だからといって、お前に恨みがあるわけじゃない! だが海軍に留まれば、いずれお前は俺の敵になる。だから、断れば殺す」
あちこちで火が爆ぜる乾いた音が響く。
メインマスト全体が巨大な火柱となって天を焦がしている。
その光景をちらりと見て、シャインはゆっくり首を横に振った。
真実を知ってしまった以上、それを見過ごす事などできなかった。
「君こそエルシーアから立ち去ってくれ、ヴィズル。君が手を下さなくても、間違った事をしたのなら、あの人は自ら犯した罪の報いを必ず受ける」
「何だと?」
鋭い金属音と共に、ヴィズルが剣を握りなおした。
思わずはっと息を飲みながら。
シャインは艦長室の扉に背を預けたまま、自分を睨み付けるヴィズルの視線を受け止めていた。
「あの人を憎む気持ちはわからなくもない。だが俺は、君のした事も許せない。すでにアストリッドとエルガードは沈んだ。ファスガードも間もなくそうなる。君の憎しみが、多くの人を死に至らしめた」
ヴィズルは眉根を寄せたが、大きく表情は崩さなかった。
むしろシャインの言う事がおかしかったのか、口元に微笑をのぼらせた。
「だから……何だ。アドビスはもっと多くの血を流した。それに言わせてもらうが、エルガードを沈めたのはお前だ。ずっと俺についてきてくれた仲間を……お前が殺したんだぜ? シャイン」
「いいや、君のせいだ」
「何だと?」
シャインはやるせない思いで、自分を凝視するヴィズルを見つめた。
呆れたように軽く口を開き、睨み付けるその顔を。
「君が、俺にそうさせた。俺はふりかかる火の粉を払わねばならなかった。君が燃やした“憎しみの炎”を! 俺はファスガード号の者達を守りたかった。だって、彼等には彼等を待っている者がいるからだ」
「シャイン……!」
反論しかけたヴィズルの言葉を、シャインはその一瞥で遮った。
「もちろん君の仲間にも、その帰りを待っている者がいるはず。そして、大切な存在であったはず。君が憎しみに囚われなければ、彼等はもっと違った生き方ができたんじゃないのか? ヴィズル、君だって……!」
「……どうしても俺の邪魔をするのか」
押し殺したヴィズルの声が辺りに重く響いた。
左手に持った剣が炎の反射で錆色に煌めく。
シャインはそっと、ラフェールの剣を持つ右手に力を込めた。
ヴィズルを止めることができない自分の無力さを痛感しながら。
だがそれ以上に譲れないものがある。
シャインはゆっくりと、噛みしめるように呟いた。
「俺にも、大切なものがあるから」
嘲笑に似た吐息が、ヴィズルの口から漏れた。
同時に青白く光る刀身が、熱を帯びた空気と闇を切り裂くように後ろへ引かれる。
ほんの一呼吸の間で自分の喉元までくるであろうそれを、シャインは見つめながら背中に思いきり力を込めていた。
ガタンッ!
観音開きの艦長室の扉がきしみながら開く。
支えを失ったシャインの体は、後方へ勢いよく倒れた。
身を貫く冷たい剣の感覚を覚えながら。
「ぐっ……」
頭を固い甲板の板に打ちつけ、一瞬意識が遠くなった。
だがシャインは、目を見開いたまま見つめていた。
自分をのぞきこむように凝視するヴィズルの顔を。
倒れたシャインの右耳をかすめるように剣を床に突き立て、こんな時でも余裕を見せようと、口元に笑みを浮かべている……そのひきつった顔を。
夜色の瞳が意味ありげに細められ、薄い唇の端から赤い雫が静かにこぼれ落ちてゆく。そしてシャインの指からも、その重さをついに支える事ができなくなったラフェールの剣が、身を震わせるかん高い金属音を響かせて床に転がった。
「シャイン……貴様っ……!」
シャインは倒れる際に、剣を持った右手を前方へ突き出していた。
それがヴィズルの左脇腹をかすめ傷を負わせたのだった。
「ヴィズル、君の為だ。ロワールの居場所を俺に教えて、エルシーアから立ち去れ!」
「……嫌、だ」
ヴィズルは傷ついた脇腹を右手で押さえつつ、突き立てた剣を支えにふらりと立ち上がった。苦し気に息をつきながら、その瞳の中には再び炎のような感情がうずまいている。
「シャイン、お前は今から俺の敵だ。今度海で会ったら必ず殺す!」
「ヴィズル!」
銀髪をひるがえして、ヴィズルはシャインの視界から消え去った。
「待て! 話はまだ……!」
シャインは重い体を何とか持ち上げ立ち上がった。
吹き付ける熱風に顔を背けながら甲板へ出る。
ヴィズルの姿はない。ただ、空気までを焼き尽くさんとする炎だけが、闇を照らしながら燃えているだけ。
と、その闇が動いた。
ファスガード号の右舷側の波間。
先程まで彼女の姉妹艦エルガード号がいたその海域に、それとは違った船影が通り過ぎていく。
エルガードより小振りで、商船にしては細めの横帆船。
その船はすべるように静かに東へ去っていく。
「ヴィズル……」
シャインは心に大きな喪失感を抱きながら、見慣れない外国船を見送った。
「グラヴェール艦長!? こっち、こっちです!」
シャインがたたずんだ左舷の船縁の下から声がした。
のぞいてみると、下には十数名の人間が乗り込んだボートが横付けされていて、ファスガード号の副長イストリアが手を振っていた。
「早く逃げて下さい! メインマストが持たない!」
シャインは船縁へ手をかけると体を持ち上げ、その上に立った。
迷う事なく海へ飛び込む。
「さ、手を!」
波は思っていたよりうねりが高く、イストリアが捕まえてくれなかったら、どんどん流されていたかもしれない。
イストリアの他にも何名かボートに乗っていた人間が、シャインの体をつかみボートの中へひきずりこむ。
「櫂を漕げ! 急げ。船が沈む時の渦に巻き込まれるぞ!」
水兵達に命じるイストリアの力強い声を聞きながら、シャインは喘ぎつつ、ゆっくりと顔を上げた。白い煙を上げて炎上するファスガード号の、凄惨な姿がそこにあった。
シャインの見ているまさにその時、彼女のメインマストが上方から崩れ落ちていき、船体が右舷側にどっと傾いて、甲板がみるみる海面に沈んでいく。
ボートの櫂を漕ぐ手を思わず止めて、その場にいた水兵達がどよめきとも、感嘆の声を次々に漏らす。
彼等と同じように沈んでいくファスガード号を見つめていたイストリアは、失意を大きく表しながら、それでいて彼女を讃えるように呟いた。
「いい船だった。まるで、あんたが逃げるまで、沈まないようにこらえていたみたいだった……」
「ええ」
シャインは短く返事をした。
沈みゆくファスガード号の甲板に、白い人影が見えたような気がした。
「彼女は……できるだけ長く浮いていられるよう、がんばると言った……」
もぞもぞと身じろぎする音と共に、大柄なイストリアが振り向いた。
「“船”が、がんばるなんて……言えるわけないのにね」
シャインはうつむいて、濡れた体の震えを止めようと両手で肩を抱いた。