【幕間2】 船霊祭 -ディアナの後悔-

文字数 4,227文字

 海軍省の本館と別館の間は、ちょっとした散策ができる庭園になっている。三十分もあれば一周できる広さだ。庭園は左右対称の造りで、背の低い庭木や花壇、樹木などが植えられており、中央には小さいが噴水まである。

 シャインは月明かりしか照らさないそのほとりに佇み、涼し気な噴水の水音と、海風が混じった夜気で酒の酔いを冷ましていた。

 もとい――19時から始まった会食が2時間かけてやっと終わったので、適当な理由をでっちあげて、晩餐会のテーブル――貴賓室から逃げてきたのである。
 取りあえず、アドビスに関する縁者や来賓達との挨拶などは済ませたので、これ以上付き合う必要はない。

 食事がすめば後は将官達の自慢話や、王都の近況とか、長くて退屈な話を一方的に聞かされるのが定例なのだ。だから彼等のつれあいである夫人達も貴賓室を離れ、別室で紅茶を片手に、女性同士でうわさ話に花を咲かせたり、あるいは二階の大広間でダンスを楽しんでいたりする。

 庭園には噴水のたてる細やかな水音と、本館の二階の大広間から聞こえてくる円舞曲の調べのみで、他は静まり返っている。
 夜の散歩にしゃれこんでいる男女も何人かみかけたが、庭園は結構広いのですぐに姿は見えなくなり、今は取りあえず近くに人の気配はない。

 シャインは白い礼装のかさばるマントの裾を左腕にかけて、噴水の大理石の縁に腰を下ろすと暗い夜空を眺めた。
 銀の月ソリンと金の月ドゥリン。別名兄弟の月といわれるこの二つの月は、今はぴったりと貼り合わせたようにその位置が重なっている。一つとなった二つの月は、明るさが増した白銀の光を、煌々と地上へ降り注いでいる。

「船霊祭――か」

 元々は船に宿る魂を慰める慰霊の儀式。
 船の魂――。
 シャインは丸い月をぼんやりと眺めながら、ロワールの事を思った。

「今、何をしているんだろう?」

 船の精霊(レイディ)も夜は休むということをシャインは知っていた。
 人の姿をとるにはそれなりの力を使うらしい。だから夜は魂のみの存在となって、器である船鐘の中に戻るのである。

「寂しがってるかな。もう一週間も一人きりだし……」

 ロワールハイネス号は修理のためドックに入っている。
 しかし船の精霊は、船を愛する者の想いで存在が維持されているせいか、さみしがり屋も多いのである。

「一人の夜も今夜限りだけど……」

 シャインはしばし月を見上げたあと、軽く小首を振り、やがてあきらめた微笑を口元にたたえながら立ち上がった。裾を汚さないように左腕にかけておいたマントを再び翻らせ、海軍省の本館の建物の側にある、裏門の方向へ視線を向ける。

 できれば今すぐにでもロワールの待つ修理ドックへ行きたい。
 けれどシャインはその場に立ったまま動かなかった。

 前方に人影を目にしたのである。
 アーチ状に鉄筋を曲げて、青白い花をつけるエルシャンローズを這わせた門の下。
 そこに誰かが立っている。

「遅くなってすみません」

 夜気のようにしっとりとした、けれど明瞭な――若い女性の声。
 芝生に小さく衣擦れの音を立てながら、女性はエルシャンローズのアーチ状になった門をくぐり、噴水の傍らに立つシャインの元へ歩いてきた。白銀の月の光がその姿を優しく照らし出す。

 腰ほどまである長く銀に近い金髪を後ろで一つの三つ編みにして、今宵の夜空のような青いドレスを纏い、肘まである白い長手袋をはめている。彼女が足を踏み出し歩くごとに、そのドレスに縫い付けられている、小さくカットされた金剛石が、星のようにきらきらと瞬いて光った。

「ディアナ様……」

 シャインはそっと頭を垂れて会釈した。
 顔を上げると、女性――ディアナ・アリスティドは、すみれ色の瞳を細めながら、まるで降り注ぐ月の光の化身のように微笑して、シャインの挨拶に応えた。

「一緒に外へ出ようと思っていたら、シャイン様のお姿がいつの間にか貴賓室から消えていたので、私、慌ててこちらに参りました」

「それは申し訳ありませんでした。ちょっと酒の酔いを冷まそうと思って、先に庭園に来ていたのです」

 シャインは慌ててディアナに謝罪した。

「そうだったんですね。今年はあなたと会食の席が離れてしまったから、お話をすることが全然できなくて……食事の時間がとても退屈でした」

「はあ……」

 食事の時間が退屈だったのは、シャインとて同じだったので、ディアナの気持ちは十分理解できた。なんせ周りは名前を知っていても、直接面識のない人達ばかりである。元より話に加わる事はやめて、もっぱら適当に相槌を打ってその場をしのいだシャインだった。

「席が離れてしまったのは仕方ない事ですよ、ディアナ様」

 シャインは肩をすくめて目を伏せた。

「いえ、グラヴェール中将の息子でなかったら、俺はあの場にいることも許されませんし、そうであっても、公爵令嬢である貴女と、こうして話すことなど、とても叶わぬ身分ですから」

「折角こうやって『船霊祭』でお会いしましたのに、随分意地悪なことをおっしゃるのね?」

「えっ……」

 ディアナの口調は暗かった。シャインに会って嬉しそうだった顔も、ありありと失望感に満ちている。
 ディアナはシャインから顔を背け、涼し気な音を立てて水を吹き上げている噴水へ視線を向けた。

「身分でしたら……私達の間には関係ありませんわ。グラヴェール家は我がアリスティド家よりも、古くからアスラトルの土地を守ってきた貴い家なのですから」

「ディアナ様、それはもう昔の――」

 ディアナが何を言わんとするかシャインは予測がついた。
 けれどディアナはシャインを遮って言葉を続けた。

「あの北部の成金貴族――現国王コードレックの先祖がこの南部へ攻め込んできて、アスラトルはエルシーアという国の一部になりました。けれど戦好きな国王は、さらなる領土拡大をはかって、北の大国シルダリアへ遠征。アスラトルの領民は、多くの穀物と血税を王に搾り取られ、その日の食事にも事欠くような事態になりました。ですが、グラヴェール家の当主は領民のために私財を投げうって、貧困と飢えに苦しむ彼等を救ったのです」

「しかしその結果、我が家だけがシルダリア遠征への出兵命令を拒み、国王の怒りを買いました」

 シャインは淡々とした口調でつぶやいた。

「その時の当主は極刑を免れたものの、アスラトルの領地と屋敷のすべてを没収され、公爵位も失いました。我が家がこの地を治めていたのは、もう二百年も昔の話です。ディアナ様――」

 ディアナが暗に言いたいことはわかる。
 アリスティド家がアスラトル地方の領主となり、公爵位を与えられたのは北方遠征で武勲をあげたせいでもあるが、何よりもグラヴェール家が失脚したからである。

 ディアナはそれに引け目を感じているのだろう。グラヴェール家が失脚しなければ、シャインとディアナの立場は逆だったかもしれない。
 だからディアナは身分違いだからという理由で、シャインに距離を置かれたくなかったのだ。きっと。
 ディアナはうつむいていた顔を上げて、シャインの方に振り返った。

「私があなたに会いに来たのは、迷惑だったでしょうか……」
「ディアナ様」

 シャインは困ったように眉間を寄せた。
 グラヴェール家とアリスティド家は、因縁がないといえば嘘になるが、現在は友好関係にある。海軍統括将はアリスティド公爵の弟だが、アドビス・グラヴェールを参謀司令官に任じたのは彼であるし、アドビスの父親(シャインの祖父)とは親友といえる間柄だった。

 現国王も多くの犠牲を出した過去の北方遠征は、最大の愚行だったと認識し、シャインの祖父が海軍で功績を上げた時に、グラヴェール家はかつて屋敷があったアスラトルの地所を取り戻している。爵位は世襲できない当代限りの騎士位しか与えられなかったが、これもアリスティド公爵の口添えがあったから叶った事だ。

「迷惑だなんて……どうしてそんな風におっしゃるのですか」

 シャインはディアナを安心させようと、できるだけ穏やかな表情を顔に浮かべ、彼女に微笑してみせた。

「先日の航海でご迷惑をおかけしたのは俺の方ですし、去年の船霊祭の時は、貴女に助けていただきました」

 去年の船霊祭ときいて、ディアナのすみれ色の瞳が不意に輝きを増した。
 くすっと小さく笑い声をたてて、ディアナは手袋をはめた両手を胸の前で合わせた。

「お互いにいろいろ大変でしたわよね。去年は――」
「ええ」

 去年の船霊祭の事がシャインの脳裏に浮かび上がってきた。
 去年は――とにかく大変だった。
 王都から王女ミュリンが船霊祭を見に、アスラトルへやってきたからだ。

 しかもシャインはアリスティド統括将自らに、王女をアスラトルの街や港を案内する役目を申し付けられたのだ。
 ディアナも領主の娘として、王女の宿泊する部屋の手配や食事などに気を使う、世話役として側についていた。

「ミュリン王女、可愛らしい方でしたわね」

 意味ありげな言い方で、ディアナが口を開いた。
 シャインはその時の事を思い出し、疲れたように唇を歪めた。

「ディアナ様、あちらの方へ行きませんか? 立話もなんですから」

 シャインは噴水の右手にある、腰を下ろせる大理石の長椅子へディアナを誘い右手を差し出した。
 ディアナはゆっくりとうなずき、
「だからといって、お話を誤魔化そうとしたって無駄ですわよ」と、無邪気な笑みを浮かべてシャインの手を取った。ふわりと長い三つ編みを揺らしながら。

「えっ?」
「私、あの時あんな事を言って、あなたの邪魔をしてしまったのではないかと……気になっていたんです……」
「邪魔、ですか?」

 ディアナとシャインは連れ立って、綺麗に刈り込まれている植木の前に置かれた大理石の長椅子の前まで来た。
 シャインはマントの肩紐を解いてそれを外し、ディアナのドレスが汚れないよう椅子の上に置こうとした。だがディアナは無用だと断り、大理石の長椅子に腰を下ろした。

 シャインも続けて彼女の隣に遠慮がちに座ったが、大理石の長椅子は掃除が行き届いているのか、砂埃のざらつく感触がなかった。

「あんな事って……ディアナ様。俺にはどんなことだったか、いまいち覚えが……」

 ディアナは露な肩をすくめて呆れたようだった。

「ミュリン王女のことです。王女はあなたのことを大層気に入って、王宮に仕官するよう言ったではありませんか」
「……」

 シャインはディアナの顔を見つめながら、やがて深々とうなずいた。
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