3-15 歓迎されざるもの

文字数 3,984文字

 明らかに空気が違う。
 ロワールハイネス号を今まで南へ押しやっていた北風はゆるんできたが、新たに歓迎されざる者が近付いてきた。それは夕日が水平線の彼方へ消え去るのを待っていたかのように、風に乗って船の背後から忍び寄ってきたのだった。

 にわかに灰色の重苦しい雲がたちこめ、先を見通せないほどの闇夜が空を支配する。人外の者のうなり声のような荒々しい風が、艦長室から甲板へ上がってきたシャインの前髪をかき乱して通り抜けていった。
 シャインはあまりの激しさに、思わず右手を顔の前にかざし目を閉じた。

「気持ち悪い風。まるで誰かが魔詩(まがうた)を歌っているみたい」

 シャインの隣に並んだロワールは、両手で耳をふさぎつつ嫌悪感もあらわにつぶやいた。

「そうだね」

 ロワールの言うように風の歌声までは聞こえなかったが、シャインは相づちを打つ。かの風は冷気を伴っており、それに身をさらしていると寒さで肌があわだってくるのだ。その感覚は確かに……気持ち悪い。

「風向きはヴィズルの言う通り、南西に変わったな。ロワール、もっと嫌なものがこっちへ来るから、帆をフォアマスト(一番前)の一枚だけにするよ」

 シャインは前方の空を仰ぎ見た。つられるようにロワールも顔を上げる。
 暗い闇の中に潜む、どんよりとした重厚な雲のかたまりが、こちらへどんどん迫ってくるのだ。

 雨雲だ。
 十分とたたないうちに、意志をもったようなそれは追いついてきて、船を荒天の渦中へ引き込むだろう。

「……うん……わかったわ」

 いつになく素直に答えたロワールは、シャインの右腕にひしと自らの腕をからませると、身を寄せるように額を押し付けてきた。

 シャインはこれから迎える本格的な嵐に、ロワールが怯えていることを感じとっていた。

 初めての荒天航海。しかもそれはただの嵐ではないだろう。この海域には何者かの、底知れない敵意がうずまいている。

「ロワール、風の声に耳をかたむけてはいけないよ。だが、連中は君を怖がらせる事しかできないんだ。俺達をここから追い出したくって躍起になっているだけなんだから……気を強く持てば大丈夫だよ」

 ロワールはシャインの腕を捕まえたまま、ゆっくりと顔を上げた。
 その口元は、シャインの言う事に納得が行かないといわんばかりに、への字に曲げられている。水色の瞳までもが、不安を宿したままこちらを見る。

「なんでそんな事がわかるの? シャイン。私……あれに包まれるのが怖い」

 シャインは一瞬眉をひそめたが、小さくうなずくとその場に膝をついて、ロワールの目線と同じ高さになるようにした。少しでも彼女の不安を取り除きたかったから。

「意志を感じるんだ。なんとなくだけどね。母が風を操る術者だったから、俺にもそういうことがわかる力があるのかもしれない。とにかく、連中は俺達が立ち去る事を望んでる。だから、一番欲しい南西風を吹かせてくれてるのさ」

「で、でも……見て、あの波を……私……」
「ロワール」

 シャインは自分の腕を掴むロワールの手を優しく外すと、そのまま右手を彼女の白い頬へ伸ばす。

 こっちを見て欲しかった。自分の気持ちを彼女に伝えたいから。
 正面から見据えるシャインの鋭い眼光に、ロワールがはっと息を飲んだ。

「君には俺がいる。君はひとりじゃない。船を守るためならなんだってする。ここには船を愛するもの達が乗っているんだ。そうだろう?」

 言葉を紡ぐのは苦手だ。
 だからシャインはそれを行動に移すべく、依然不安げに眼差しを返すロワールを一瞥して立ち上がった。

 時間がない。
 あの暗雲に取り囲まれる前に、やらなくてはならない事がたくさんあるのだ。

 メインマスト前にいるジャーヴィスが、自分を見つけてこちらへやってくる。
 シャインは副長の所へ行こうと一歩を踏み出した。

「シャイン!」

 背後から聞こえたロワールの声は、うなりを上げる風に負けないほど力強かった。
 目にかかる前髪を押さえながら、立ち止まったシャインは振り返った。

 ロワールの顔色は青白く、まだ不安の影を引きずっている。だが胸の前で両手をしっかり組み、シャインを見る大きな瞳は凛とした光が宿っていた。

「私も――がんばってみる。こんな風なんかに負けない」
「……ありがとう」

 シャインは青緑の双眸を細め、精一杯の勇気をかき集めてそう言ってくれたロワールに微笑んだ。そして意を決したように後方から迫る暗雲をにらんだ。



 ◇◇◇



「非番の者も甲板に召集して各マストへ配置。その後開口部を閉じてくれ。フォアマストの帆を一段階縮帆して、他は全部下ろすんだ」

 ジャーヴィスはシャインの命令を了解した事を示すために軽くうなずき、後部ハッチへ入っていこうとした。

「そうだ、下の積荷も崩れないよう、危なかったらロープで補強しておいてくれ。水樽が割れてしまったら大変だからね」

「わかりました」

 ジャーヴィスは満足げに微笑してその姿を消した。
 意固地で変に持論をかざす時は手に負えないが、いざとなったら的確な指示を出すシャインを認めたための笑いであった。




 風がだんだん強くなっているのが分かる。
 シャインは縮帆を急がないといけないと感じた。

 空からひとしずくの水滴がシャインの頭に落ちてきて、ついに雨が視界を覆いだした。霧と同じくそれは見通しを悪くする、実にやっかいなものだ。

 暴風を連れてきた雨は、激しく海上を叩く。
 波のしぶきか雨がはじくそれか、判断つきかねないほど真っ白な水煙を上げて。

「命綱を張れ! 船外へ放り出されるぞ!」

 当直の水兵達が予備のロープを取り出して、マストや静索に巻き付けていく。
 船が傾斜して甲板に倒れ込む事があっても、これでどこかにつかまることができる。

 船首、メインマスト、そして後ろのハッチから非番の水兵達が飛び出して来て、ロワ-ルハイネス号の三本あるマストへめいめい向かった。

「すげえ……なんつー波だ」

 船首で見張りをしている水兵のエリックは、フォアマストの右舷側で帆の上げ綱にしがみつきながら海を見ていた。

 彼の仕事は海に漂う障害物を早急に発見することだ。こんな荒天の時でも。
 流木などがぶつかれば、最悪船体に穴があくこともある。
 こちらへ近付く船や、危険な波にも気を配らなくてはならない。

「くそーー何にも見えやしないぜっ!」

 エリックは絶叫した。嗚咽をもらす女性の声のような風に対抗するように。
 目の前を黒い布で覆われたように、雨と闇で視界がきかない。

 はっと気付いた時には、すでに大きな三角波が容赦なく現れて、白い泡を牙のように立てながら船に体当たりしてくるのだ。

 ロワールハイネス号は舳先の先端を、ダイナミックに海中に突っ込ませながら、彼女に襲いかかるそれらをかろうじて乗り切っている。

 そのせいで嫌でも、大きな樽をひっくりかえしたように、エリックは頭から大量の海水を被ってしまう。

 全身びしょ濡れのうえ、吹き付ける冷たい風のせいで、歯ががちがちと鳴った。だらだらと滴り落ちる塩水が目に入って、ひりひりと苛むので見張りどころではない状況だ。

 けれどエリックは上げ綱をひしとにぎりしめて、前方へ目をこらした。
 船では自分の役割をしっかり果たさないと、全員を道連れに海の藻屑へ消えることになる。

「……だ、大丈夫……さ、この船には……レイディがついてるんだからな。彼女も……がんばってるんだもんな」

 エリックは寒さと、船外へ放り出される恐怖に必死に耐えながら、大きくしぶきを上げる舳先を見つめた。



 ◇◇◇



「ヴィズル、フォアマスト以外の帆を下ろしてこれも縮帆する。もう少し辛抱してくれれば舵も取りやすくなるから」

 後部甲板に上がってきたシャインを、ヴィズルはニヤリと微笑を浮かべて見つめた。

 船は波が来る度、ずうんと持ち上げられ、どおんと下に落ちていく。
 横波が船体を押しつけるようにぶつかって、甲板が傾いたので、シャインはミズンマストの静索に手を伸ばし捕まった。両手で体を支えると同時に、海水がどっと入ってくる。

 雨のせいですでに濡れているので、海水を被ろうと気にはしなかったが、シャインは軽く悪態をついて顔をぬぐった。
 ヴィズルは後方から吹きすさぶ風に銀髪をさらしながら、次席航海士のグラッドと共に、ロワ-ル号の舵輪を両手で押さえ込んでいる。

「頼むぜ、舵がもっていかれそうなんだ」

 口では弱気なことをいいつつ、ヴィズルの藍色の瞳はこんな最中でも、いたずらっぽい輝きをたたえている。それを見たシャインは、まだ彼に余裕があるのを看破した。

『心配するな、俺に任せろ』

 ヴィズルの言葉に嘘はないようだった。彼は自分の持てる力を総動員させてロワ-ルハイネス号を沈ませないように、荒れ狂う波から彼女を守っている。

 少し安心したシャインは、下の甲板の様子を見るためヴィズルから離れると、階段の手すりにつかまりつつ前方をうかがった。

 すでに真ん中のメインマストの主帆(メインスル)は畳まれていて、これからミズンマストの帆を下ろすべく、ジャーヴィスと何名かの水兵達が後部甲板へ上がってきた。

 ジャーヴィスも容赦ない海水の洗礼を受けて、濡れ細った栗毛の髪から水滴を滴らせている。息せききって、ジャーヴィスはシャインに報告した。

「艦長、風が強すぎます。フォアマストの帆も下ろして嵐をやり過ごしましょう」

 ジャーヴィスの懸念は自分も同じように感じていた事だ。

「……わかった。その方が舵も波を乗り切る事だけに専念できるね」

 その時、ロワールの声がシャインの耳に飛び込んできた。

「シャイン! メインマストまで来て!!」

 緊迫したその口調に、シャインは一瞬背筋が寒くなった。

「ロワール、どうした?」

 彼女が自分を呼ぶのは何かあったからだ。
 傾いた甲板が元の水平に戻るのを待って、シャインは一気に階段をかけ下りた。
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