【幕間2】 船霊祭 -女心-
文字数 2,998文字
ロワールは相変わらずシャインの左腕に自らの右腕を絡めたまま、大広間がある二階とはうってかわり、落ち着いた雰囲気の三階の廊下を歩いていた。
廊下の右側には等間隔に窓があり、左側には同じような造りの木の扉がいくつも並んでいる。シャインはその中の一つの扉に立ち止まり、まるで自分の部屋のようにそれを開けた。
「入って」
「うん」
ロワールはそこでシャインの腕から自らのそれを外し、おずおずと部屋の中へ入った。部屋はこじんまりとした書斎のような感じだった。
深い緋色のカーテンが引かれた窓の前に、アンティーク調の凝った机と肘掛け椅子があり、背の高い本棚がそれらを囲むように、壁際に沿って置かれている。
「この部屋は何なの?」
ぐるりと中を見渡し、ロワールは振り返った。
「閲覧室の一つさ。海軍本部の資料を見るためのね。ちょっと海図を探していたんだ」
扉を閉めたシャインは本棚へと近付き、そこにあった椅子を机の側まで運んだ。
「座って」
「うん」
椅子に腰を下ろして、ロワールはふうと息を吐いた。
やっと落ち着いた気がする。
「疲れたのかい? 無理もないと思うけど」
机の縁に寄り掛かり、シャインがロワールを見つめている。けれどその顔はいまいち精彩に欠けていた。
ロワールは肩に流している鮮やかな紅髪を手で払いのけ、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
「ううん。大丈夫よ。それよりシャイン――さっきはごめんね?」
「えっ?」
「ほら、ダンスの邪魔をしちゃったこと」
「……そのことか」
シャインは普段そうしているように、気にしていない風を装って微笑した。
「あれは俺が悪かったんだ。君のせいじゃない。でも、本当に驚いた。君が――あそこに立っている姿を目にした時は……そうだよ!」
シャインはやおら身をかがめてロワールの顔を覗き込んだ。
「何で君がここにいるんだい? 船の精霊は自分の船から外へ動けないはずだ。一体どうして――?」
ロワールは頬の筋肉がひきつるのを覚えながら、にんまりと笑ってみせた。
「今夜限りの『魔法』ってやつなの。いろいろ大変だったんだけどね」
そこでロワールはシャインに語った。
銀の月ソリンと金の月ドゥリンが一つに重なる『船霊祭』の夜には、大気に大いなる力が満ちて、それを内に取り込む事により、船の精霊は外を歩くための姿を手に入れられるのだと。
「修理ドックに、クレセント号とハーフムーン号っていう海軍の船がいるんだけど、彼女達は毎年その方法で『船霊祭』を楽しんでいるそうなの。それで私も……シャインに会いたかったから、その方法を教えてもらったの」
シャインは黙ったままロワールの話を聞いていた。しかし腑に落ちないのか、何度か首をひねったり瞬きを繰り返したりしている。
「初耳だ。陸 を歩くレイディなんて、きいた事がない」
真顔でそう言うシャインを見て、ロワールはくすりと笑った。
「現に目の前にいるでしょ? まったく。だけどシャインでも知らない事があるんだー。船の精霊とは結構長いつきあいみたいだけど?」
「当然だ。でも――」
シャインの右手が伸びて、それが静かにロワ-ルの頬に触れた。ゆるやかに波打つ紅の髪の房をすっと払う。確かめるように、何度も。
「今夜の君は、船でいつも会う君とは違う。同じように姿ははっきりと見えるけど、今は君に確かに『触れて』いると感じられる。髪の毛一本の質感や重み――滑らかな頬に柔らかな唇の温もりがわかる」
「そりゃそうよ。今の私は船にいる時のように、『魂』の存在じゃないんだから。かりそめとはいえ、外に出歩くための『体』を持っているんだから……」
そう口にして、ロワールは胸に冷たい風が吹き込んでくるような、寂しさと物悲しさを意識した。
自分は人ではない。どんなに望んでも、人になることはできない。
「ねえ、シャイン」
ロワールはシャインの手を取り、頬からそれを離した。シャインが訝しむように目を細める。
「何だい?」
「あのね。シャインに聞きたい事があるの」
ロワールは船の魂であることを、今は忘れる事にした。せっかく人の姿を手に入れて、ロワールハイネス号以外の場所を歩くということができるのだから、それを楽しまなければ意味がないというもの。
しかも今はシャインと二人っきりなのだ。
まさかこんなところまで、間の悪いジャーヴィスが邪魔しに来る事もないだろう。
「私の事、どう思う?」
ロワールは椅子から立ち上がって、くるりとその場で回ってみせた。先程見た、多くの人間達が大広間で踊っていた時のように。
揺れる炎のように鮮やかな紅髪を舞わせ、レースをあしらった深い青緑色のドレスの裾を片手でつまみ、足を後ろに一歩引いてシャインの顔を見上げる。
「ああ。……そのドレス、よく似合ってる」
「本当にそう思う?」
ロワールはうれしさのあまり、頬が熱くなるのを感じた。このドレスを選ぶまでどれほどの労力と手間がかかっただろう。シャインは満足そうに微笑していた。
「うん。ロワールハイネス号の船体のペンキと同じ色だ」
「――ペンキ?」
「そう。エルシーア海より青味が強い色だけど。それが?」
シャインの言葉にロワールは体を強ばらせていた。
だがシャインは不思議そうにロワールを見つめている。
「どうかしたのかい? ロワール。口開けたまま、呆然としちゃって――」
「もうっ! そうじゃなくて!!」
ロワールは思わず両手に作った拳を握りしめて叫んでいた。
「シャイン! もっと言い方っていうものがあるでしょ?」
「……言い方?」
「そ、そうよ」
シャインは額に手をやり、眉間を寄せて考え込んでいる。
鈍感なのかわざとなのか。
ロワールはそれに体がむずむずするほどのもどかしさを覚えながら、何故自分がこんな恥ずかしい事を言わなければならないのか、それを疑問に思いつつも口にした。
「ほら、『今日はいつもと違うね』とか、『素敵だね』……とか……ねっ」
語尾がもごもごしてしまったせいだろうか。シャインの顔色は冴えない。
「うーん。君がいつもと違うことは、さっき言ったような気がするけど。そのドレスだって俺の好きな色だし、君によく似合っていると思うよ。それ以上……何を言えばいいのか……」
ロワールは拳を握りしめたまま、疲れたように大きくため息を一つついて再び椅子に座り込んだ。ふくらむドレスの裾をばさばさとさばく。
「はーっ。シャインって、実は女心がまったくわかってないのね。だから、あの銀髪の婚約者さんも泣かせちゃったんでしょ?」
「……えっ?」
ロワールは半分やけになっていた。
シャインに今の自分の姿をみせたくてやってきたというのに。だが彼にとっては、そんなことどうでもいい事なのだろう。
「私も泣きたいわ。もう船に帰ろうかしら」
「……」
沈黙。
ロワールは顔を上げた。シャインが何も言わない事に腹を立てつつ。
だがその感情はすぐさま消えてしまった。
シャインはロワールに背を向けて、机の端に両手をついてうつむいていた。頬にかかる長い前髪を払おうとせず、同じ色をした睫を伏せて、薄い唇を軽く結んでいる。
どうかしたのかと話しかけようとしたとき、ゆっくりとシャインが目を開けた。机の一点をひたと見つめたまま口を開く。
「――彼女に会ったのか?」
ささやくように、けれど押し殺すように吐き出されたその声が、今までのとぼけた彼の雰囲気をかき消した。
廊下の右側には等間隔に窓があり、左側には同じような造りの木の扉がいくつも並んでいる。シャインはその中の一つの扉に立ち止まり、まるで自分の部屋のようにそれを開けた。
「入って」
「うん」
ロワールはそこでシャインの腕から自らのそれを外し、おずおずと部屋の中へ入った。部屋はこじんまりとした書斎のような感じだった。
深い緋色のカーテンが引かれた窓の前に、アンティーク調の凝った机と肘掛け椅子があり、背の高い本棚がそれらを囲むように、壁際に沿って置かれている。
「この部屋は何なの?」
ぐるりと中を見渡し、ロワールは振り返った。
「閲覧室の一つさ。海軍本部の資料を見るためのね。ちょっと海図を探していたんだ」
扉を閉めたシャインは本棚へと近付き、そこにあった椅子を机の側まで運んだ。
「座って」
「うん」
椅子に腰を下ろして、ロワールはふうと息を吐いた。
やっと落ち着いた気がする。
「疲れたのかい? 無理もないと思うけど」
机の縁に寄り掛かり、シャインがロワールを見つめている。けれどその顔はいまいち精彩に欠けていた。
ロワールは肩に流している鮮やかな紅髪を手で払いのけ、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
「ううん。大丈夫よ。それよりシャイン――さっきはごめんね?」
「えっ?」
「ほら、ダンスの邪魔をしちゃったこと」
「……そのことか」
シャインは普段そうしているように、気にしていない風を装って微笑した。
「あれは俺が悪かったんだ。君のせいじゃない。でも、本当に驚いた。君が――あそこに立っている姿を目にした時は……そうだよ!」
シャインはやおら身をかがめてロワールの顔を覗き込んだ。
「何で君がここにいるんだい? 船の精霊は自分の船から外へ動けないはずだ。一体どうして――?」
ロワールは頬の筋肉がひきつるのを覚えながら、にんまりと笑ってみせた。
「今夜限りの『魔法』ってやつなの。いろいろ大変だったんだけどね」
そこでロワールはシャインに語った。
銀の月ソリンと金の月ドゥリンが一つに重なる『船霊祭』の夜には、大気に大いなる力が満ちて、それを内に取り込む事により、船の精霊は外を歩くための姿を手に入れられるのだと。
「修理ドックに、クレセント号とハーフムーン号っていう海軍の船がいるんだけど、彼女達は毎年その方法で『船霊祭』を楽しんでいるそうなの。それで私も……シャインに会いたかったから、その方法を教えてもらったの」
シャインは黙ったままロワールの話を聞いていた。しかし腑に落ちないのか、何度か首をひねったり瞬きを繰り返したりしている。
「初耳だ。
真顔でそう言うシャインを見て、ロワールはくすりと笑った。
「現に目の前にいるでしょ? まったく。だけどシャインでも知らない事があるんだー。船の精霊とは結構長いつきあいみたいだけど?」
「当然だ。でも――」
シャインの右手が伸びて、それが静かにロワ-ルの頬に触れた。ゆるやかに波打つ紅の髪の房をすっと払う。確かめるように、何度も。
「今夜の君は、船でいつも会う君とは違う。同じように姿ははっきりと見えるけど、今は君に確かに『触れて』いると感じられる。髪の毛一本の質感や重み――滑らかな頬に柔らかな唇の温もりがわかる」
「そりゃそうよ。今の私は船にいる時のように、『魂』の存在じゃないんだから。かりそめとはいえ、外に出歩くための『体』を持っているんだから……」
そう口にして、ロワールは胸に冷たい風が吹き込んでくるような、寂しさと物悲しさを意識した。
自分は人ではない。どんなに望んでも、人になることはできない。
「ねえ、シャイン」
ロワールはシャインの手を取り、頬からそれを離した。シャインが訝しむように目を細める。
「何だい?」
「あのね。シャインに聞きたい事があるの」
ロワールは船の魂であることを、今は忘れる事にした。せっかく人の姿を手に入れて、ロワールハイネス号以外の場所を歩くということができるのだから、それを楽しまなければ意味がないというもの。
しかも今はシャインと二人っきりなのだ。
まさかこんなところまで、間の悪いジャーヴィスが邪魔しに来る事もないだろう。
「私の事、どう思う?」
ロワールは椅子から立ち上がって、くるりとその場で回ってみせた。先程見た、多くの人間達が大広間で踊っていた時のように。
揺れる炎のように鮮やかな紅髪を舞わせ、レースをあしらった深い青緑色のドレスの裾を片手でつまみ、足を後ろに一歩引いてシャインの顔を見上げる。
「ああ。……そのドレス、よく似合ってる」
「本当にそう思う?」
ロワールはうれしさのあまり、頬が熱くなるのを感じた。このドレスを選ぶまでどれほどの労力と手間がかかっただろう。シャインは満足そうに微笑していた。
「うん。ロワールハイネス号の船体のペンキと同じ色だ」
「――ペンキ?」
「そう。エルシーア海より青味が強い色だけど。それが?」
シャインの言葉にロワールは体を強ばらせていた。
だがシャインは不思議そうにロワールを見つめている。
「どうかしたのかい? ロワール。口開けたまま、呆然としちゃって――」
「もうっ! そうじゃなくて!!」
ロワールは思わず両手に作った拳を握りしめて叫んでいた。
「シャイン! もっと言い方っていうものがあるでしょ?」
「……言い方?」
「そ、そうよ」
シャインは額に手をやり、眉間を寄せて考え込んでいる。
鈍感なのかわざとなのか。
ロワールはそれに体がむずむずするほどのもどかしさを覚えながら、何故自分がこんな恥ずかしい事を言わなければならないのか、それを疑問に思いつつも口にした。
「ほら、『今日はいつもと違うね』とか、『素敵だね』……とか……ねっ」
語尾がもごもごしてしまったせいだろうか。シャインの顔色は冴えない。
「うーん。君がいつもと違うことは、さっき言ったような気がするけど。そのドレスだって俺の好きな色だし、君によく似合っていると思うよ。それ以上……何を言えばいいのか……」
ロワールは拳を握りしめたまま、疲れたように大きくため息を一つついて再び椅子に座り込んだ。ふくらむドレスの裾をばさばさとさばく。
「はーっ。シャインって、実は女心がまったくわかってないのね。だから、あの銀髪の婚約者さんも泣かせちゃったんでしょ?」
「……えっ?」
ロワールは半分やけになっていた。
シャインに今の自分の姿をみせたくてやってきたというのに。だが彼にとっては、そんなことどうでもいい事なのだろう。
「私も泣きたいわ。もう船に帰ろうかしら」
「……」
沈黙。
ロワールは顔を上げた。シャインが何も言わない事に腹を立てつつ。
だがその感情はすぐさま消えてしまった。
シャインはロワールに背を向けて、机の端に両手をついてうつむいていた。頬にかかる長い前髪を払おうとせず、同じ色をした睫を伏せて、薄い唇を軽く結んでいる。
どうかしたのかと話しかけようとしたとき、ゆっくりとシャインが目を開けた。机の一点をひたと見つめたまま口を開く。
「――彼女に会ったのか?」
ささやくように、けれど押し殺すように吐き出されたその声が、今までのとぼけた彼の雰囲気をかき消した。