3-33 残されし者達(1)
文字数 2,621文字
シャインは無意識のうちに暗い階段を昇り、ウインガード号の上甲板に出ていた。
後方から吹く風はウインガード号の大きな四角い帆を膨らませ、小気味よく船を走らせている。夜空はどこまでも黒く、遠く、そして二つの金と銀の月が小さく並んで昇っていた。
シャインはどこに意識を向けるわけでもなく、人気のない後部甲板の左舷側へと近付いた。
双子の月は出ているのに、そこから見える海は波濤のきらめき一つなく、まるで夢で見た闇の海のようだ。
シャインは船縁から身を乗り出して黒い海面を見下ろした。
ひたすら目をこらした。
整える事を忘れた髪が肩から滑り落ち視界を覆った。
シャインはそれを右手で押さえ付け、再び食い入るように海を覗き込んだ。
何も見えない。
見えるはずがない。
こんなに暗くては――。
何か、明かりを持ってこないと……。
『それ以上身を乗り出すと危ないわよ』
背後で女の声がした。
『もっとも、自殺志願なら止めないわ。飛び込むなら何か重しを体につけないと、すぐ浮かび上がって死に損なう。砲弾がいいわ。あなたの後ろにいくつも転がってる。それを足にくくりつけたらどう?』
誰だ?
シャインの意識は海から逸れた。同時に、自分が思っていた以上に、船縁から身を乗り出していた事に気付いた。船が波に持ち上げられた拍子に、シャインの足が宙に浮く。
「――くっ!」
シャインは咄嗟に両手に力を込めた。このままでは海に落ちてしまう。
船縁に爪を立て、前のめりに体が引きずられていく事に必死で抗う。やがて船が波を乗り越えた。
「うわっ!」
船が元の水平に戻ろうとする反動で、シャインの体は後方へ倒れた。
甲板に投げ出される格好でひっくり返る。
「……」
一体自分は何をしていたのか。
暗い海を覗き込んで、何を見ようとしていたのか。
打ちつけた後頭部に広がる鈍い痛みと、言い様のない虚しさだけがシャインを満たす。シャインは甲板に寝転がったまま、右手を目蓋に載せた。
『何だ。最初から死ぬ勇気もないんじゃない。だったら声なんかかけるんじゃなかったわ』
シャインは目を閉じたまま息を吐いた。
さっきから誰かが自分に話しかけてくる。
こっちは誰とも話などする気がないというのに。
甲板は石のように冷たくて気持ちがよかった。
子供の頃、実家の庭にあった古い大理石の長椅子を思い出す。眠れない夜はいつもその椅子の上で寝転がって、地上に降り注ぐ満天の星を見ていた。
そうすれば何時しか穏やかな眠りが訪れた。
このまま目を閉じていれば眠れそうな気がした。
『ふうん。そうやって現実から目を逸らして生きていくのね。あなたは』
『違う……俺は……』
シャインは声に答えながらも、自分の意識が眠りの淵へ滑り落ちていくのを止めようとしなかった。
眠りは辛い現実からの逃避だ。
だから三日間それを拒み続けてきたけれど、澱のように溜まった疲労は体を蝕み限界だと悲鳴を上げている。今日は起きているのに白昼夢を見ているような、そんな危うい感覚をずっと引きずっている。
『どんなに自分を責めたって、誰もあなたを助けることはできない』
気配がした。
シャインを見下ろしているのか、先程よりずっと近くで声が聞こえる。
『助けなんか、求めていない』
『嘘つき』
『嘘なんか、ついてない』
『助けを求める事は恥ずかしい事じゃないわ』
『俺に、構うな。これは俺の問題だ。だから救いなんかいらない』
『ほら本音が出た。救いが欲しいんじゃない?』
『……去れ』
『嫌よ』
『……』
まるでだだをこねる子供みたいだ。
馬鹿らしい。
シャインは自分に呼び掛ける声を一切無視することに決めた。
救いが欲しい?
救いなど何処にもない。
あの選択を覆す事は誰にもできない。
だから俺は、すべてを受け入れるしかない。
『そうね。死の苦しみは一瞬だけ。でも生きていれば、それは一生続く』
シャインは突如胸の上に氷がのせられたような冷たさを感じた。
手だ。
胸の上に置かれた手からシャツ越しに、しんしんとした冷気が伝わってくる。まるで心臓の鼓動をじわじわと止めようと言わんばかりに。
思わず両目を見開くと、目の前には青白い月光に照らされた、見知らぬ若い女の顔があった。さらさらと流水のような音を立てて、漆黒の長い髪がむきだしの肩の上に流れ落ちている。
その髪は長く女自身がひきずる影のよう。黒い古風なドレスをまとった女はシャインの傍らに跪き、肘までの長い黒手袋をはめた手をシャインの左胸に置いて、顔を覗き込んでいた。
黒い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、鏡を思わせる透き通った銀。
淡い紫の紅を引いた唇からは、朽ちた薔薇の香りがした。
『あなたはどちらを選ぶ?』
女は人間離れした美しい顔に上品な笑みを浮かべ、銀の瞳を細めた。
『選ぶ……?』
『そう』
今日のシャインは夢と現の狭間を行き来している。
自分が起きているのか、それとも眠ってしまったのかがわからない。
けれど軍艦であるウインガード号に、そもそも女性は乗っていない。
いや。
いるとすれば、ただひとりだけ。
『俺に何の用だ?』
シャインは再び目蓋が塞がるのを感じた。反射的にそれに抗う。
何故だかわからないが、この冷たい眠りに身を任せたら二度と目が醒めないような気がしたのだ。
そこで右手を上げようとしたが、いつしか全身に広がった寒気のせいか、指一本動かせない事に気がついた。
『声をきいたの。魂が叫ぶ嘆きの声を』
女の髪が小波のように揺れ、朽ちた薔薇の香りがさらに強くなった。
それを吸い込む度に、体から力が失われていく。
抗う気力が失せていく。
『それは……俺じゃない』
女は静かにうなずいた。
『わかってるわ。でもこの声は、ずっとあなたに付きまとう。あなたが生きている限り――ずっと』
女の銀の瞳が星のように瞬いた。
『どちらを選ぶの? 苦痛からの解放の死? それとも……』
黒い長手袋をはめた女の右手が音もなく伸びて、青ざめたシャインの額にかかる乱れ髪をそっと払う。
女の手は水のように冷たかったが優しかった。
シャインは不思議な感覚を覚えながら、女の瞳を見つめた。
『どちらを選べばいい?』
口には出さず、鏡のように光る銀の瞳にそう問いかける。
『えっ?』
シャインの頬に触れる女の指がぎこちなく固まった。
『声を聞いたんだろう? 彼女達の声を。多くの人間と道連れに、エルガードとファスガードを殺したのはこの俺だ』
後方から吹く風はウインガード号の大きな四角い帆を膨らませ、小気味よく船を走らせている。夜空はどこまでも黒く、遠く、そして二つの金と銀の月が小さく並んで昇っていた。
シャインはどこに意識を向けるわけでもなく、人気のない後部甲板の左舷側へと近付いた。
双子の月は出ているのに、そこから見える海は波濤のきらめき一つなく、まるで夢で見た闇の海のようだ。
シャインは船縁から身を乗り出して黒い海面を見下ろした。
ひたすら目をこらした。
整える事を忘れた髪が肩から滑り落ち視界を覆った。
シャインはそれを右手で押さえ付け、再び食い入るように海を覗き込んだ。
何も見えない。
見えるはずがない。
こんなに暗くては――。
何か、明かりを持ってこないと……。
『それ以上身を乗り出すと危ないわよ』
背後で女の声がした。
『もっとも、自殺志願なら止めないわ。飛び込むなら何か重しを体につけないと、すぐ浮かび上がって死に損なう。砲弾がいいわ。あなたの後ろにいくつも転がってる。それを足にくくりつけたらどう?』
誰だ?
シャインの意識は海から逸れた。同時に、自分が思っていた以上に、船縁から身を乗り出していた事に気付いた。船が波に持ち上げられた拍子に、シャインの足が宙に浮く。
「――くっ!」
シャインは咄嗟に両手に力を込めた。このままでは海に落ちてしまう。
船縁に爪を立て、前のめりに体が引きずられていく事に必死で抗う。やがて船が波を乗り越えた。
「うわっ!」
船が元の水平に戻ろうとする反動で、シャインの体は後方へ倒れた。
甲板に投げ出される格好でひっくり返る。
「……」
一体自分は何をしていたのか。
暗い海を覗き込んで、何を見ようとしていたのか。
打ちつけた後頭部に広がる鈍い痛みと、言い様のない虚しさだけがシャインを満たす。シャインは甲板に寝転がったまま、右手を目蓋に載せた。
『何だ。最初から死ぬ勇気もないんじゃない。だったら声なんかかけるんじゃなかったわ』
シャインは目を閉じたまま息を吐いた。
さっきから誰かが自分に話しかけてくる。
こっちは誰とも話などする気がないというのに。
甲板は石のように冷たくて気持ちがよかった。
子供の頃、実家の庭にあった古い大理石の長椅子を思い出す。眠れない夜はいつもその椅子の上で寝転がって、地上に降り注ぐ満天の星を見ていた。
そうすれば何時しか穏やかな眠りが訪れた。
このまま目を閉じていれば眠れそうな気がした。
『ふうん。そうやって現実から目を逸らして生きていくのね。あなたは』
『違う……俺は……』
シャインは声に答えながらも、自分の意識が眠りの淵へ滑り落ちていくのを止めようとしなかった。
眠りは辛い現実からの逃避だ。
だから三日間それを拒み続けてきたけれど、澱のように溜まった疲労は体を蝕み限界だと悲鳴を上げている。今日は起きているのに白昼夢を見ているような、そんな危うい感覚をずっと引きずっている。
『どんなに自分を責めたって、誰もあなたを助けることはできない』
気配がした。
シャインを見下ろしているのか、先程よりずっと近くで声が聞こえる。
『助けなんか、求めていない』
『嘘つき』
『嘘なんか、ついてない』
『助けを求める事は恥ずかしい事じゃないわ』
『俺に、構うな。これは俺の問題だ。だから救いなんかいらない』
『ほら本音が出た。救いが欲しいんじゃない?』
『……去れ』
『嫌よ』
『……』
まるでだだをこねる子供みたいだ。
馬鹿らしい。
シャインは自分に呼び掛ける声を一切無視することに決めた。
救いが欲しい?
救いなど何処にもない。
あの選択を覆す事は誰にもできない。
だから俺は、すべてを受け入れるしかない。
『そうね。死の苦しみは一瞬だけ。でも生きていれば、それは一生続く』
シャインは突如胸の上に氷がのせられたような冷たさを感じた。
手だ。
胸の上に置かれた手からシャツ越しに、しんしんとした冷気が伝わってくる。まるで心臓の鼓動をじわじわと止めようと言わんばかりに。
思わず両目を見開くと、目の前には青白い月光に照らされた、見知らぬ若い女の顔があった。さらさらと流水のような音を立てて、漆黒の長い髪がむきだしの肩の上に流れ落ちている。
その髪は長く女自身がひきずる影のよう。黒い古風なドレスをまとった女はシャインの傍らに跪き、肘までの長い黒手袋をはめた手をシャインの左胸に置いて、顔を覗き込んでいた。
黒い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、鏡を思わせる透き通った銀。
淡い紫の紅を引いた唇からは、朽ちた薔薇の香りがした。
『あなたはどちらを選ぶ?』
女は人間離れした美しい顔に上品な笑みを浮かべ、銀の瞳を細めた。
『選ぶ……?』
『そう』
今日のシャインは夢と現の狭間を行き来している。
自分が起きているのか、それとも眠ってしまったのかがわからない。
けれど軍艦であるウインガード号に、そもそも女性は乗っていない。
いや。
いるとすれば、ただひとりだけ。
『俺に何の用だ?』
シャインは再び目蓋が塞がるのを感じた。反射的にそれに抗う。
何故だかわからないが、この冷たい眠りに身を任せたら二度と目が醒めないような気がしたのだ。
そこで右手を上げようとしたが、いつしか全身に広がった寒気のせいか、指一本動かせない事に気がついた。
『声をきいたの。魂が叫ぶ嘆きの声を』
女の髪が小波のように揺れ、朽ちた薔薇の香りがさらに強くなった。
それを吸い込む度に、体から力が失われていく。
抗う気力が失せていく。
『それは……俺じゃない』
女は静かにうなずいた。
『わかってるわ。でもこの声は、ずっとあなたに付きまとう。あなたが生きている限り――ずっと』
女の銀の瞳が星のように瞬いた。
『どちらを選ぶの? 苦痛からの解放の死? それとも……』
黒い長手袋をはめた女の右手が音もなく伸びて、青ざめたシャインの額にかかる乱れ髪をそっと払う。
女の手は水のように冷たかったが優しかった。
シャインは不思議な感覚を覚えながら、女の瞳を見つめた。
『どちらを選べばいい?』
口には出さず、鏡のように光る銀の瞳にそう問いかける。
『えっ?』
シャインの頬に触れる女の指がぎこちなく固まった。
『声を聞いたんだろう? 彼女達の声を。多くの人間と道連れに、エルガードとファスガードを殺したのはこの俺だ』