3-14 危険な航海

文字数 4,838文字

 艦長室の左右両舷にある窓へ、時折波がノックするような音を立ててぶつかっていく。海の色も碧色からずっと青みを帯びてきた。

 外洋のうねりを伴った波のせいで、船内は大きく左右に横ゆれを繰り返すが、家具類は足の所で釘打ちしているため、横すべりすることはない。

 いつもは資料やファイルを積み重ねているシャインの机上も、今はすっかり片付けられて何もない。

 ジャーヴィスは艦長室の応接椅子に腰掛けて、正面にいるシャインの何時になく浮かない顔を見つめていた。

 どちらかといえば、人を心配させる事に懸念して、本心をなかなか打ち明けようとしない彼が、はた目から見てもわかるほど不安げなのだ。

 余計な気遣いは無用だと、思いきってジャーヴィスが口を開こうとした時、うつむいていたシャインが顔を上げた。


「……ジャーヴィス副長。今回の航海は、ちょっと危険かもしれないんだ」

 ――ちょっと、危険。
 ジャーヴィスは口元へ右手を添えると、目を伏せその意味を考えた。
 そして大真面目につぶやいた。

「お言葉ですが……あなたとの仕事はいつも“危険”に満ちてますよ。処女航海で船が沈みかけた事、本部に内緒で海賊行為を働きかけた事、海賊に船を奪われかけた事……それから」

「ジャーヴィス副長――わかったよ……」

 シャインは組んでいた両手を外し、そのまま困ったように前髪を払った。

「ここは海だ。危険がない航海なんて存在しない」
「おっしゃるとおりです」

 ジャーヴィスは珍しく口元に微笑を浮かべた。
 たまには冗談を言ってみるのも悪くはないと思ったのだ。
 シャインはふっきれたのか、先程まで思いつめたような表情が消えていたから。
 そして、強気な時に見せる鋭い視線をジャーヴィスに向けた。

「……本題に入る。今回の命令は、エルシーアと東方連国の間の公海上にいる、<ノーブルブルー>へ本部の命令書を届ける事だ」

 危険だ、といっておいて。何時もの“使い走り”か。
 ジャーヴィスの脳裏には長い航海ではあるが、のんびりした船旅の光景が浮かんだ。

 なに、難しい事ではない。
 本部が教えてくれた、<ノーブルブルー>のいる緯度と経度へ向かえばいいのだ。
 合流して、艦隊を指揮しているラフェール提督へ命令書を渡して、任務完了。
 たったそれだけ。ただ――それだけ。

「何を恐れているのです? あなたの航海術は決して未熟ではありませんし、外海に慣れている

だっているのです。船が路頭に迷う事はないでしょう」

 一見褒め言葉とも、皮肉とも取れそうなジャ-ヴィスの発言に、シャインは再び目を伏せてうつむいた。

 違う――彼の不安はそんなことではない。
 口を開いたその後で、ジャーヴィスは自分の見当違いを後悔した。

「……俺が心配しすぎているだけかもしれないんだけどね。だけど、本部からも注意されたから、君だけには話しておく」

 真顔に変わったジャーヴィスへ、シャインは穏やかな笑みを向けた。

「ちょうど一週間前……ノーブルブルーの旗艦アストリッド号が、何者かに沈められたそうだ。これから俺達が向かう海域で」

 ……まさか。

 ジャーヴィスは、すぐに言うべき言葉が浮かばず、黙ったままシャインの静かな青緑の瞳を凝視していた。

「驚いただろう? アストリッド号は大砲を100門積んだ1等軍艦だ。海兵隊だって、200名は乗っていただろう。それを沈めるなんて……そんな力を持った一団がいるなんて……俺もすぐには信じられなかった」

 シャインは応接椅子に足を組み、視線を宙にさまよわせた。
 ジャーヴィスもうつむいて、膝の上に置いた自分の手を見た。
 なんて衝撃的なことだろう。
 彼は知らず知らず、唇をかみしめていた。

 アストリッド号を沈めた連中のことはよく分からないが、かの船は海軍の力を示す象徴的な存在だったのだ。

 その一隻だけで、ちょっとした規模の港の城壁を、やすやすと粉砕してしまう火力を持っていたし、二十年前の大海戦で就航した彼女は、多くの海賊船を沈めた船でもあった。
 余談ではあるが、アストリッド号の初代艦長はアドビス・グラヴェールが務めた。


「そうだったのですか……申し訳ありません。冗談などいってられませんでしたね」

 ジャーヴィスは考えなしに言った、先程の軽口を詫びた。
 シャインは片手を上げてそれを制した。

「しかしノーブルブルーは、他に2等軍艦のファスガード号と3等軍艦のエルガード号で編成されていたはずです。アストリッド号を沈めた連中も、無事では済まされないでしょう。むしろ、拿捕したんじゃないんですか?」

 ジャーヴィスの問いに、シャインはわずかに怒りを込めた目を向けた。
 その眼光の厳しさに、ジャーヴィスは思わず身を竦めた。

「だったらこんな心配なんてするものか。ノーブルブルーは逃げたそうだよ。一目散に……。アストリッド号を見捨てるしかなかったそうだ」

「……なんてことだ」


 ジャーヴィスは自分の声が震えている事に驚きながらつぶやいた。
 事の詳細は分からないが、事態はずっと重かった。
 その事実を再認識しながら、ジャーヴィスはシャインの顔を見た。

「願わくは――そんな連中に会う事なく、ノーブルブルーに合流したいね。まだ……彼らが無事ならいいんだけれど」

 シャインは頭を垂れて軽く両手を組み、目を閉じていた。
 エルシーアの守護神アルヴィーズの加護を願う小さな祈りの声を、ジャーヴィスは複雑な思いで聞いていた。


 ◇◇◇


 その日の夜のうちに、ロワールハイネス号はエルシーア領海をすぎた。
 そして、エルシーアと東方連国の間の外洋を東に航海していた。

 ここはどこの国の領海ではない公海だ。
 よって決まった名前を持たない海だった。

 シャイン達エルシーアの人間は<青の女王の海>と呼んでいた。エルシーアの子供なら一度は聞くおとぎ話の中に、かの海神が住まうとされる、海底神殿(水晶の塔)があると伝わっている海だからだ。

 シャインは毎日正午と日没前、そして月が出ている夜は必ず天測をして、ロワールハイネス号の位置を確認していた。今いるのは大海のまっただ中だから。

 アスラトルからジェミナ・クラスへ沿岸にそって航海する場合は、陸地の灯台や島などを、海図と見比べるだけで現在位置を把握できる。

 だがここは四方が見渡す限り海、である。目標物など何もない。
 毎日の天測は現在位置を確認するため、それ以上に、今回の任務であるノーブルブルーが待機しているポイントへ行くために、必要不可欠な日課だった。



 アスラトルを発ってはや十日。その夜は<兄弟の月>、銀色のソリンと金色のドゥリンが、仲良く連れ添って冴えざえとした光を海に投げかけていた。

 いつも通りシャインは、フォアマスト(一番前)の左舷側で天測の準備をしていた。懐中時計の形をした、正確に時刻を合わせた時計の鎖を手首にかけ、水平線と天体の角度を計る装置(六分儀)を、天鵞絨で化粧張りされた箱から、ていねいに取り出す。

 鈍い金古美色の六分儀は、父アドビスが士官学校に入る際に買い与えてくれたものだ。最低十万リュールはするそれは、高価だが船乗り必携の航海器具だ。

 もう七年使っているが手入れは欠かさないため、水平線を見るための望遠鏡部分や、天体を映す三枚の反射鏡は傷一つついていない。

「時間を計ろうか?」

 背後から落ち着いた低い声がした。ヴィズルだ。
 シャインは振り返り、彼より頭一つ分高い航海士の顔を眩し気に見た。
 煌々と降り注ぐ月の光に、銀灰色の髪が反射して輝いていたからだ。
 初めて会った、あの夜のように。

「あと30秒……頼む」

 シャインは専用の時計の鎖を手首から外すと、近付いてきたヴィズルに手渡した。そして六分儀を両手で顔の前に構えると、望遠鏡をのぞいた。

「……よし、0時だ」
「……」

 シャインは深夜0時きっかりの、水平線と月の角度を計測して、その数値を手帳に書き留めた。これから時間毎に月の位置が記載された暦を参照し、船の位置を求める計算をしなくてはならない。
 シャインは六分儀を再びていねいに箱に納め、そのふたの留め金をかけた。


「ヴィズル、一緒に海図室へ来てくれるかい? 現在位置を出したら、今後の針路を決めたいんだ」

「いいぜ」

 ヴィズルは時計をシャインに返しながら、微笑をうかべてうなずいた。
 彼は十年以上も外海を航海しているだけあって、船位置を出す計算がとても早かったのだ。それに加えて、正確でもある。

 二人は海図室で計算を始め、検算もして、同じ数字であることを確認した。
 それをもとに、シャインはペンをインク壷にひたすと、平行定規で海図に印をつけた。

「やっぱり……かなり南に流されているな」

 三日前、二日前……、シャインの引いた線はどんどん南下していた。
 左右に揺れるランプの光に照らされたそれを見ながら、シャインは小さく息を吐いた。

「そろそろ北上しないと、ノーブルブルーの待つポイントを通り過ぎ、引き返す針路をとることになる。そうなったら……十日は無駄にしてしまうね」

 帆船は風任せ。
 決して望む通りの方向へ、船を進めることができない場合がほとんどだ。

 その時、横から伸びてきたヴィズルの褐色の指が、すすっと海図をなぞった。今の位置からさらに南へ下りた所で、軽く海図を叩く。

「ここから風向きが北から南西に変わる。この時期はいつもな。これを利用すれば無理なく北上して、多分……三日以内に目的のポイントへ行けるだろう」

 シャインは安堵したように、ヴィズルの顔を見た。
 彼を今回の航海に連れてきて、本当によかったと思った。

「それはいいな。今の海域では北風が強すぎて、南下するしかないようだしね」

 うれしげなシャインの顔を、じっとヴィズルは見つめていた。
 何か考えがあるような、複雑な表情で。
 シャインはそれにひっかかるものを覚え、いぶかしげに目を細めた。

「何か……問題でも?」

 ヴィズルは戸惑ったように、一瞬シャインから視線をそらした。

「いや、ただ、あそこは……海が荒れるのさ。こんな小さな船で乗り切れるかふと……心配になってな」

 ヴィズルの指は、神経質そうにとんとんと、海図を叩いている。
 シャインはヴィズルが迷っている事に気がついた。
 経験豊かな彼が、待ち構えている危険のせいで、ためらっているのだ。

「でも、それしか方法はないわけだ。違うかい?」

 にやっと、ヴィズルは口元を歪めた。
 まるでシャインの無謀さをあざ笑うように。

「行くのかい?」

 シャインは自分が試されているような気がした。

「もちろんだ。だから……君を雇ったんだ」

 ヴィズルはうつむいて、小さく肩を震わせた。
 そして次の瞬間、挑発的な藍色の目でシャインを見据え肩を軽く叩いた。

「ははは……! そうこなくてはな。遠回りなんてしていられるか! 俺とあんたが組んで季節物を運べば、一獲千金も夢じゃないぞ。シャイン、軍人なんかやめて俺の船に乗れよ。いつだって歓迎するぜ」

 シャインは思ってもみなかったヴィズルの言葉に驚いていた。

「……俺は」

 視線を海図に落とし、シャインは顔を伏せた。
 心の中でそうできれば、どんなにいいだろうかと思いながら。
 けれど、アドビスが自分を解放しない限り、叶わぬことでもあった。

「いつか、そうなったらいいね」

 ヴィズルは顔をしかめて、小さく舌を鳴らした。

「……いつか、か。まあ、しかたねぇな。あんたは……複雑な立場みたいだしな」
「ヴィズル……」

 あっさり自分の心境を看破されて、シャインは気まずそうにうつむいた。

「まあいい、あんたは腹を決めた。俺の腕を見込んだからには、この船は絶対に沈ませない。俺の……航海長としての誇りにかけてな」

 先程までの自信なさげな表情はどこへやら。
 うって変わって、ヴィズルはシャインの肩をつかむと、その藍色の瞳をきらめかせて呟いた。

「心配するな。俺に任せろ」

 その一言は、今のシャインにとって力強く心に響いた。
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