3-35 取引
文字数 5,184文字
その後、シャインを乗せたウインガード号は、約ひと月の航海を経てアスラトルへ帰港した。
◇◇◇
「どうするつもりだ? ツヴァイス」
「……どうするつもりとは? グラヴェール参謀司令どの」
ツヴァイスは銀縁の眼鏡をかけ直した。
人目を忍ぶ事ができる唯一の場所。海軍本部内のアドビス・グラヴェールの執務室に呼びつけられたツヴァイスは、不快さを露わにしながら渋々やってきた。
いつもならアドビスの話に取り合わないが、今回だけは特別だった。
「ノーブルブルーは確かにお前の管轄だ。だから、海賊退治に行くのは一向に構わん。だが」
アドビスは優雅に足を組み、応接椅子に肘をのせた。
鋭く光る鷹のような瞳で、正面に座るツヴァイスをじっと見据える。
「どうするつもりだ。ノーブルブルーの船を
ツヴァイスはアドビスの睨みを受け流すように、口元をかすかに歪めて苦笑した。
「私は商船の依頼を受けて、ノーブルブルーを派遣したまで。エルシーアと東方連国を結ぶ貿易航路で、怪し気な船団がいるのを知りつつ、放置などできなかったものですから。それが、何か?」
ツヴァイスは『それが』の部分を強調して、応接椅子のやわらかな背に深々ともたれた。
「闇雲に船を出すだけなら子供にもできる。十分な下調べをすれば、被害を最小限に押さえ、かつ、海賊共を拿捕できたのではないのか?」
「そうおっしゃいますが、商船から情報を独自に集め、あの海域を特定したのは私です。船団の規模も考え対応できるよう備えをして向かわせました。結果はどうであれ、私の指示に落ち度はない!」
アドビスのいつもながら人を無能扱いするその態度には腹が立つ。
だが肝心のアドビスは、まるでそんなことを聞いているのではない、と言いたげに無関心な様子だ。きらりと青灰色の瞳が瞬く。
「ノーブルブルーを襲った者が何者か……お前は知っているのか?」
ツヴァイスはふんと鼻で笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しい質問だったからだ。
「ファスガード号の生き残りの尋問を、取り仕切っているのはあなたのはず。私の方こそあなたにお聞きしたい。私の船を沈め、私の部下達を殺したのは一体何者なんです!」
「それは……」
コンコン!
扉を叩くノックの音がした。
「誰だ?」
アドビスが席を立ちながら返事をした。
「シャイン・グラヴェールです。お召しにより参上しました」
シャインの声を聞いてツヴァイスは、そっと眼鏡に手を触れた。
「入るがいい」
「失礼します」
アドビスは椅子に座らずその場に立ったまま、部屋の中に入ってきたシャインを出迎えた。
「時間通りだな」
シャインは硬い表情で軽く頭を下げた。
ツヴァイスは気にしていない様子を装いながら、横目でじっとシャインを見ていた。
母親譲りの華奢な金髪と、穏やかな光をたたえた青緑の瞳。
ただ歩く、それだけの仕種の中に、心の中に封じ込めたかの人の面影が、鮮やかに呼び覚まされていくのがわかる。苦い後悔と共に。
「こちらが統括将閣下に渡して頂きたい報告書です」
アドビスはシャインから黒い表紙のファイルを受け取った。
「わかった。もういい。私は統括将にこれを早く持って行かねばならん」
「あの」
シャインがいつになく鋭い口調で言葉を発した。
アドビスはファイルを抱えたまま、部屋の奥にある執務椅子まで歩き、そこにひっかけてあった深い緋色のマントを手にした。
「何だ?」
「少しだけツヴァイス司令官と話がしたいのです。ファスガード号とエルガード号を沈めたのは俺ですから……一言報告をさせて下さい」
アドビスは依然応接椅子に座っているツヴァイスを見つめ、足早にシャインの立っている戸口まで歩いてきた。
「いいだろう。ここで好きなだけ話せばいい。ツヴァイスは今晩ジェミナ・クラスへ帰るのでな。それから、統括将より追加の資料を頼まれたら、また連絡する」
「わかりました。ありがとうございます」
シャインは依然硬い表情と淡々とした口調で返事をすると、アドビスに頭を下げた。
「ツヴァイス。用が済んだら警備に連絡して部屋を閉めて行ってくれ。私は当分ここへは戻らぬのでな」
「確かに」
ツヴァイスはアドビスに背を向けたまま返事をした。
アドビスは軽くうなずき、自室を出て行った。扉が閉まる音と共に、シャインが応接椅子に座っているツヴァイスの元へ歩いてきた。
「申し訳ありませんでした。閣下の船を失う事になってしまって」
「……まずはかけたまえ。船など作ればいくらでも代わりはある」
ツヴァイスは自分の右隣の席をシャインにすすめた。
アドビスのように尋問とかするつもりではない。
だから敢えて正面の席は外した。気軽に話ができるように。
シャインは肘掛けに手を置き、それに体を支えるようにして腰を下ろした。俯いた横顔のこめかみに、じっとりと汗が浮かんでいるのが見える。
海の藻屑となったエルガード号とファスガード号に何があったのか、ツヴァイスも詳細は知らない。シャインがウインガード号でアスラトルに帰ってきたのは僅か三日前の事だ。
「戻ってから休息をとったかね? 顔色が悪いが。あの男は気付きもしなかったな」
親子だというのに、あまりにもそっけなかった先程のやりとりを、ツヴァイスは思い出しながら言った。
「いえ、大丈夫です。報告書をまとめるため……あまり眠っていないだけで。それより」
顔にかかる前髪を両手で払いながら、シャインが言った。
「本当はあなたにお願いがあって、お会いしたかったのです。もちろん、報告もいたしますが」
「願い……?」
ツヴァイスは興味をそそられたようにつぶやいた。
統括将の次の地位、参謀司令官の父親を持つシャインは、望みさえすれば、海軍でできないことはないはずなのだ。
今回起きたノーブルブルー襲撃事件がいい例だ。シャインはロワールハイネス号を海賊に奪われたため、軍法会議でその責任を追求し、しかるべき処罰を受けるはずであった。
だがアドビスの一声でそれが免れた。
戦力外のスクーナー船一隻奪われたことより、ファスガード、エルガード号を渡さなかった事。ファスガード号の乗組員を無事に生還させられた事の方が評価されたのだ。
最も、アストリッド号が沈められた報告を聞いて、急ぎ出したウインガード号がいなければ、本当に生きてエルシーアへ戻れたかはわからないが。
「一体なんだね。君には一度借りがあるから、私の力でなんとかなるのなら、聞いてあげよう」
ツヴァイスの言葉にシャインは穏やかな笑みを向けた。
「ありがとうございます。難しい事ではありません。俺が『ノーブルブルー』へ転属するのを認めていただきたいのです」
「何……?」
今彼は何と言ったのか?
予想もしなかったその言葉に、ツヴァイスは椅子から身を乗り出してシャインを見た。微笑めば母親そっくりなその顔に、父親譲りの頑固さがうかがいしれる瞳がきらめいている。
「直属の上官であるエスペランサ後方司令には、すでに転属の許可をいただいています」
「シャイン。一体何故……? ノーブルブルー以外に外洋艦隊はまだいくつも」
「俺は追わなければならないのです。ヴィズル……いえ、『月影のスカーヴィズ』を」
シャインの口からその名が出たのを聞いたツヴァイスは、度の入っていない眼鏡をゆっくりと外した。
「彼女は死んだはずだ。二十年前に」
「“彼女”は、確かにそうです。だがヴィズルと呼んでいたあの男が、彼女の後を継いでエルシーアに戻ってきたのです。そしてノーブルブルーを襲った……」
「シャイン」
ツヴァイスは薄紫の瞳を細め、鋭い一瞥を放った。
が、シャインはそれにたじろぐ気配はない。
「先程アドビスに渡していた統括将への報告書へ、
「ええ。
淡々と、だが明らかに今までとは違う抑揚でシャインが答えた。
「ツヴァイス司令。あなたはヴィズルが『スカーヴィズ』であったことを、実は御存知だったのではないのですか?」
どこでそんなことを思いついたのか。
口調はやわらかだがシャインは確信している。
ツヴァイスは口元を小さく引きつらせながら、肩を震わせ、笑い出した。
身を前にかがめて、息も絶え絶えになりそうなほどに。
「シャイン……君は本当に……何を言い出すかと思えば……!」
「今はごまかせても、いずれあの人は気付きます。内通者の手引きでアストリッド号やエルガード号に、スカーヴィスの手の者が水兵として乗り込んでいた事を。それができるのは、編成の最終決定者であるあなただけしかいない事に」
ツヴァイスは大きく息を吐いた。
目を伏せて肘掛けに手をおき、指先で軽くこづく。
「私は各船の艦長が出す乗員リストに目を通しただけだ」
「あなたの“腹心”の艦長たちのね。ルウム艦長以外は皆、遠征の前はジェミナ=クラスの警備艦の艦長をしていた。その船に乗っていた水兵達がそっくり、アストリッド号とエルガ-ド号に乗っていたんです。その名簿を見ればもっと、凄い事に気付くでしょう」
ツヴァイスは黙ったまま、薄紫の瞳を細めてシャインを見た。
「皆……ヴィズルのいた東方連国の商船会社からの移籍です。今となっては、その商船会社自体……本当にあるのか怪しいものです」
ツヴァイスは両手で顔を覆った。
再び腹の底から笑いたくなるような気分に襲われた。
「シャイン。君はそんなことを、寝る間も惜しんで調べていたというのか?」
シャインがはっと息を飲んだ。膝の上に乗せられた両手をにぎりしめ、それが小さく震えていた。
「ツヴァイス司令官。あなたの目的は何か俺にはわかりません。しかし、俺が敢えて、これらの事項を報告書に書かなかった意図を察していただきたい」
「敢えて……? 何故?」
ツヴァイスは席を立った。階級を示す金の鎖以外に装飾品はなく、シンプルな黒い将官服は、細身の体型をさらに際立たせている。
「ロワールハイネス号を取り戻すためです。あなたのやった行為を暴露すれば、スカーヴィズは当分身を潜めて、彼女への手がかりが失われてしまいます。ですから、このことを黙っている見返りに、ノーブルブルーへの転属を認めて下さい」
「……シャイン」
ツヴァイスはシャインの座る椅子の前に立つと、おもむろに、航海服の襟首をつかんだ。そのまま勢いに任せて上に引き上げる。
驚きつつも、恐れを抱かず見つめ返す青緑の瞳が、余計ツヴァイスを苛だたせた。
「君は私が思っていたよりずっと愚かだ! そんな船のために、自らの人生を台無しにするつもりか!?」
「彼女を取り戻せるなら構いません。海軍での人生など……俺には必要ありませんから」
『海軍なんて……どうでもいい』
ツヴァイスはシャインの顔を覗きこんだ。
脳裏に何度も忘れようとした、忌わしい光景が浮かんでくる。
『海軍なんて……』
『海軍に入らなければ……あのひとは』
『お願い、行かせて下さい。あの方は私を待っているんです』
「お願いです。行かせて下さい。彼女は俺を待っているんです」
その声にツヴァイスは耳を疑った。
見上げる憂いを帯びた青緑の瞳が、遠い昔に引き戻して行く。そこに宿る毅然とした決意と、一途な思いを無視する事ができなかった。
けれどそのせいで、永遠に失ってしまった……かの人を。
苦く苦しい後悔の日々を、幾年月送った事だろう。
そして後どれくらい送ればよいのだろう。
ツヴァイスは手を震わせながら、そっとシャインの襟元を放した。
「私もね……海軍での人生なんて、どうでもいいのさ」
「ツヴァイス司令……?」
ツヴァイスは自分の答えを待っている、シャインの胸中を察しながら、再び銀縁の眼鏡をかけた。
「今晩ウインガード号で私はジェミナ・クラスに戻る。一緒に来たまえ。転属の手続きは例のごとくアルバールが上手くやる。それでいいのだな?」
「はい。スカーヴィズを追えるのなら、水兵に降格しても構いません」
「――わかった」
迷いを微塵も感じさせないシャインの声に、ツヴァイスは小さくうなずいて、外に出るため扉に向かった。
ふと、足を止める。
後ろからついてきたシャインが、訝しみながら同じように立ち止まった。
「シャイン」
「はい」
すっかり心を決めたその声は、明瞭で実に晴れやかだった。
ツヴァイスはシャインに背を向けたまま呟いた。
「言っておくが……私の秘密を知って君が生きていられるのは、リュイーシャのおかげだ」
「えっ?」
息を飲むシャインに満足感を覚えながら、ツヴァイスは薄紫の目を伏せつつ振り返った。
「彼女の死を二度見るくらいなら……私は自らの破滅を選ぶ。きっと」
【第3話】月影のスカーヴィズ(完)
・・・【後日談】兄と妹 へと続く。
◇◇◇
「どうするつもりだ? ツヴァイス」
「……どうするつもりとは? グラヴェール参謀司令どの」
ツヴァイスは銀縁の眼鏡をかけ直した。
人目を忍ぶ事ができる唯一の場所。海軍本部内のアドビス・グラヴェールの執務室に呼びつけられたツヴァイスは、不快さを露わにしながら渋々やってきた。
いつもならアドビスの話に取り合わないが、今回だけは特別だった。
「ノーブルブルーは確かにお前の管轄だ。だから、海賊退治に行くのは一向に構わん。だが」
アドビスは優雅に足を組み、応接椅子に肘をのせた。
鋭く光る鷹のような瞳で、正面に座るツヴァイスをじっと見据える。
「どうするつもりだ。ノーブルブルーの船を
三隻も
失ったのだぞ。アリスティド閣下が、お前の話を聞きたいと言っている。最も、私もだがな」ツヴァイスはアドビスの睨みを受け流すように、口元をかすかに歪めて苦笑した。
「私は商船の依頼を受けて、ノーブルブルーを派遣したまで。エルシーアと東方連国を結ぶ貿易航路で、怪し気な船団がいるのを知りつつ、放置などできなかったものですから。それが、何か?」
ツヴァイスは『それが』の部分を強調して、応接椅子のやわらかな背に深々ともたれた。
「闇雲に船を出すだけなら子供にもできる。十分な下調べをすれば、被害を最小限に押さえ、かつ、海賊共を拿捕できたのではないのか?」
「そうおっしゃいますが、商船から情報を独自に集め、あの海域を特定したのは私です。船団の規模も考え対応できるよう備えをして向かわせました。結果はどうであれ、私の指示に落ち度はない!」
アドビスのいつもながら人を無能扱いするその態度には腹が立つ。
だが肝心のアドビスは、まるでそんなことを聞いているのではない、と言いたげに無関心な様子だ。きらりと青灰色の瞳が瞬く。
「ノーブルブルーを襲った者が何者か……お前は知っているのか?」
ツヴァイスはふんと鼻で笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しい質問だったからだ。
「ファスガード号の生き残りの尋問を、取り仕切っているのはあなたのはず。私の方こそあなたにお聞きしたい。私の船を沈め、私の部下達を殺したのは一体何者なんです!」
「それは……」
コンコン!
扉を叩くノックの音がした。
「誰だ?」
アドビスが席を立ちながら返事をした。
「シャイン・グラヴェールです。お召しにより参上しました」
シャインの声を聞いてツヴァイスは、そっと眼鏡に手を触れた。
「入るがいい」
「失礼します」
アドビスは椅子に座らずその場に立ったまま、部屋の中に入ってきたシャインを出迎えた。
「時間通りだな」
シャインは硬い表情で軽く頭を下げた。
ツヴァイスは気にしていない様子を装いながら、横目でじっとシャインを見ていた。
母親譲りの華奢な金髪と、穏やかな光をたたえた青緑の瞳。
ただ歩く、それだけの仕種の中に、心の中に封じ込めたかの人の面影が、鮮やかに呼び覚まされていくのがわかる。苦い後悔と共に。
「こちらが統括将閣下に渡して頂きたい報告書です」
アドビスはシャインから黒い表紙のファイルを受け取った。
「わかった。もういい。私は統括将にこれを早く持って行かねばならん」
「あの」
シャインがいつになく鋭い口調で言葉を発した。
アドビスはファイルを抱えたまま、部屋の奥にある執務椅子まで歩き、そこにひっかけてあった深い緋色のマントを手にした。
「何だ?」
「少しだけツヴァイス司令官と話がしたいのです。ファスガード号とエルガード号を沈めたのは俺ですから……一言報告をさせて下さい」
アドビスは依然応接椅子に座っているツヴァイスを見つめ、足早にシャインの立っている戸口まで歩いてきた。
「いいだろう。ここで好きなだけ話せばいい。ツヴァイスは今晩ジェミナ・クラスへ帰るのでな。それから、統括将より追加の資料を頼まれたら、また連絡する」
「わかりました。ありがとうございます」
シャインは依然硬い表情と淡々とした口調で返事をすると、アドビスに頭を下げた。
「ツヴァイス。用が済んだら警備に連絡して部屋を閉めて行ってくれ。私は当分ここへは戻らぬのでな」
「確かに」
ツヴァイスはアドビスに背を向けたまま返事をした。
アドビスは軽くうなずき、自室を出て行った。扉が閉まる音と共に、シャインが応接椅子に座っているツヴァイスの元へ歩いてきた。
「申し訳ありませんでした。閣下の船を失う事になってしまって」
「……まずはかけたまえ。船など作ればいくらでも代わりはある」
ツヴァイスは自分の右隣の席をシャインにすすめた。
アドビスのように尋問とかするつもりではない。
だから敢えて正面の席は外した。気軽に話ができるように。
シャインは肘掛けに手を置き、それに体を支えるようにして腰を下ろした。俯いた横顔のこめかみに、じっとりと汗が浮かんでいるのが見える。
海の藻屑となったエルガード号とファスガード号に何があったのか、ツヴァイスも詳細は知らない。シャインがウインガード号でアスラトルに帰ってきたのは僅か三日前の事だ。
「戻ってから休息をとったかね? 顔色が悪いが。あの男は気付きもしなかったな」
親子だというのに、あまりにもそっけなかった先程のやりとりを、ツヴァイスは思い出しながら言った。
「いえ、大丈夫です。報告書をまとめるため……あまり眠っていないだけで。それより」
顔にかかる前髪を両手で払いながら、シャインが言った。
「本当はあなたにお願いがあって、お会いしたかったのです。もちろん、報告もいたしますが」
「願い……?」
ツヴァイスは興味をそそられたようにつぶやいた。
統括将の次の地位、参謀司令官の父親を持つシャインは、望みさえすれば、海軍でできないことはないはずなのだ。
今回起きたノーブルブルー襲撃事件がいい例だ。シャインはロワールハイネス号を海賊に奪われたため、軍法会議でその責任を追求し、しかるべき処罰を受けるはずであった。
だがアドビスの一声でそれが免れた。
戦力外のスクーナー船一隻奪われたことより、ファスガード、エルガード号を渡さなかった事。ファスガード号の乗組員を無事に生還させられた事の方が評価されたのだ。
最も、アストリッド号が沈められた報告を聞いて、急ぎ出したウインガード号がいなければ、本当に生きてエルシーアへ戻れたかはわからないが。
「一体なんだね。君には一度借りがあるから、私の力でなんとかなるのなら、聞いてあげよう」
ツヴァイスの言葉にシャインは穏やかな笑みを向けた。
「ありがとうございます。難しい事ではありません。俺が『ノーブルブルー』へ転属するのを認めていただきたいのです」
「何……?」
今彼は何と言ったのか?
予想もしなかったその言葉に、ツヴァイスは椅子から身を乗り出してシャインを見た。微笑めば母親そっくりなその顔に、父親譲りの頑固さがうかがいしれる瞳がきらめいている。
「直属の上官であるエスペランサ後方司令には、すでに転属の許可をいただいています」
「シャイン。一体何故……? ノーブルブルー以外に外洋艦隊はまだいくつも」
「俺は追わなければならないのです。ヴィズル……いえ、『月影のスカーヴィズ』を」
シャインの口からその名が出たのを聞いたツヴァイスは、度の入っていない眼鏡をゆっくりと外した。
「彼女は死んだはずだ。二十年前に」
「“彼女”は、確かにそうです。だがヴィズルと呼んでいたあの男が、彼女の後を継いでエルシーアに戻ってきたのです。そしてノーブルブルーを襲った……」
「シャイン」
ツヴァイスは薄紫の瞳を細め、鋭い一瞥を放った。
が、シャインはそれにたじろぐ気配はない。
「先程アドビスに渡していた統括将への報告書へ、
そのことも書いたのか
?」「ええ。
そのことまでは
」淡々と、だが明らかに今までとは違う抑揚でシャインが答えた。
「ツヴァイス司令。あなたはヴィズルが『スカーヴィズ』であったことを、実は御存知だったのではないのですか?」
どこでそんなことを思いついたのか。
口調はやわらかだがシャインは確信している。
ツヴァイスは口元を小さく引きつらせながら、肩を震わせ、笑い出した。
身を前にかがめて、息も絶え絶えになりそうなほどに。
「シャイン……君は本当に……何を言い出すかと思えば……!」
「今はごまかせても、いずれあの人は気付きます。内通者の手引きでアストリッド号やエルガード号に、スカーヴィスの手の者が水兵として乗り込んでいた事を。それができるのは、編成の最終決定者であるあなただけしかいない事に」
ツヴァイスは大きく息を吐いた。
目を伏せて肘掛けに手をおき、指先で軽くこづく。
「私は各船の艦長が出す乗員リストに目を通しただけだ」
「あなたの“腹心”の艦長たちのね。ルウム艦長以外は皆、遠征の前はジェミナ=クラスの警備艦の艦長をしていた。その船に乗っていた水兵達がそっくり、アストリッド号とエルガ-ド号に乗っていたんです。その名簿を見ればもっと、凄い事に気付くでしょう」
ツヴァイスは黙ったまま、薄紫の瞳を細めてシャインを見た。
「皆……ヴィズルのいた東方連国の商船会社からの移籍です。今となっては、その商船会社自体……本当にあるのか怪しいものです」
ツヴァイスは両手で顔を覆った。
再び腹の底から笑いたくなるような気分に襲われた。
「シャイン。君はそんなことを、寝る間も惜しんで調べていたというのか?」
シャインがはっと息を飲んだ。膝の上に乗せられた両手をにぎりしめ、それが小さく震えていた。
「ツヴァイス司令官。あなたの目的は何か俺にはわかりません。しかし、俺が敢えて、これらの事項を報告書に書かなかった意図を察していただきたい」
「敢えて……? 何故?」
ツヴァイスは席を立った。階級を示す金の鎖以外に装飾品はなく、シンプルな黒い将官服は、細身の体型をさらに際立たせている。
「ロワールハイネス号を取り戻すためです。あなたのやった行為を暴露すれば、スカーヴィズは当分身を潜めて、彼女への手がかりが失われてしまいます。ですから、このことを黙っている見返りに、ノーブルブルーへの転属を認めて下さい」
「……シャイン」
ツヴァイスはシャインの座る椅子の前に立つと、おもむろに、航海服の襟首をつかんだ。そのまま勢いに任せて上に引き上げる。
驚きつつも、恐れを抱かず見つめ返す青緑の瞳が、余計ツヴァイスを苛だたせた。
「君は私が思っていたよりずっと愚かだ! そんな船のために、自らの人生を台無しにするつもりか!?」
「彼女を取り戻せるなら構いません。海軍での人生など……俺には必要ありませんから」
『海軍なんて……どうでもいい』
ツヴァイスはシャインの顔を覗きこんだ。
脳裏に何度も忘れようとした、忌わしい光景が浮かんでくる。
『海軍なんて……』
『海軍に入らなければ……あのひとは』
『お願い、行かせて下さい。あの方は私を待っているんです』
「お願いです。行かせて下さい。彼女は俺を待っているんです」
その声にツヴァイスは耳を疑った。
見上げる憂いを帯びた青緑の瞳が、遠い昔に引き戻して行く。そこに宿る毅然とした決意と、一途な思いを無視する事ができなかった。
けれどそのせいで、永遠に失ってしまった……かの人を。
苦く苦しい後悔の日々を、幾年月送った事だろう。
そして後どれくらい送ればよいのだろう。
ツヴァイスは手を震わせながら、そっとシャインの襟元を放した。
「私もね……海軍での人生なんて、どうでもいいのさ」
「ツヴァイス司令……?」
ツヴァイスは自分の答えを待っている、シャインの胸中を察しながら、再び銀縁の眼鏡をかけた。
「今晩ウインガード号で私はジェミナ・クラスに戻る。一緒に来たまえ。転属の手続きは例のごとくアルバールが上手くやる。それでいいのだな?」
「はい。スカーヴィズを追えるのなら、水兵に降格しても構いません」
「――わかった」
迷いを微塵も感じさせないシャインの声に、ツヴァイスは小さくうなずいて、外に出るため扉に向かった。
ふと、足を止める。
後ろからついてきたシャインが、訝しみながら同じように立ち止まった。
「シャイン」
「はい」
すっかり心を決めたその声は、明瞭で実に晴れやかだった。
ツヴァイスはシャインに背を向けたまま呟いた。
「言っておくが……私の秘密を知って君が生きていられるのは、リュイーシャのおかげだ」
「えっ?」
息を飲むシャインに満足感を覚えながら、ツヴァイスは薄紫の目を伏せつつ振り返った。
「彼女の死を二度見るくらいなら……私は自らの破滅を選ぶ。きっと」
【第3話】月影のスカーヴィズ(完)
・・・【後日談】兄と妹 へと続く。