3-16 船酔い
文字数 3,201文字
「グラヴェール艦長!」
ジャーヴィスは鋭く呼び掛けた。
だがシャインは脇目もふらず、階段をかけ下りて行ってしまった。
「副長。ぼーっとしてたら海へ放り出されますぜ!」
荒い息をついて上げ綱を引く水兵のスレインに肩をつかまれ、ジャーヴィスは我に返った。早く帆をたたまなければ、船がいつ転覆するかわからない。
ジャーヴィスはシャインの様子が気掛かりだったが、今は自分の務めを優先させるべく、作業に集中した。
◇◇◇
『どうして地面がこんなに揺れるんだろう……』
割れるように痛む頭を抱えつつ、士官候補生クラウスは海図室の冷たい板張りの壁に背中をもたらせて座り込んでいた。
目の前が物凄く薄暗い……。夜の闇、いやそれ以上の……暗さだ。
おまけにこの揺れ。
袋の中に閉じ込められ、上下に振られるような。
樽の中に入り込んで、坂道を転げ落ちていくような……気持ち悪さ……。
気持ち悪い……。
雨が降る前から、この嫌な揺れは続いていた。
胸に込み上げるそのむかつきは、唾を飲み込むだけで吐き気を誘う。
いや、すでに胃の中のものは全部出してしまった。
濡れた服は体温を奪って、さらに体力を消耗させる……。
「クラウスちゃん! しっかりして」
意識が途切れかけたまさにその時、名前を呼ばれたせいかクラウスは一瞬だけ目を見開いた。そこには鮮やかな紅髪を揺らした少女が、にらみつけるように凝視していたのだ。
「……レイディ?」
途端クラウスは、頬を叩かれる鋭い痛みに、今度ははっきりと意識を取り戻した。
「大丈夫か? クラウス……」
精霊の姿はかき消えて、自分の肩を掴むシャインが、前髪から水滴を零し ながら顔をのぞきこんでいた。
「船酔いだな。こんな大きな嵐は……まだ経験したことないからね。無理もないさ。クラウス、ここにいたら横波にさらわれてしまう。船内へ入るんだ」
シャインがクラウスの手をとった。
だがクラウスは精一杯それに抗った。
「い……嫌です! 中には入りたく……ありませんっ!! ここに、いさせて下さい!」
シャインから手を振りほどいたクラウスは、すっかり力を失って、再び背中を海図室の壁にあずけた。
荒い息を繰り返し、薄い胸が浅く上下に動いている。
シャインは眉を寄せて、困ったようにクラウスを見つめていた。
◇◇◇
クラウスが中に入りたがらない理由はわかっている。
シャインは自分が船に乗った初めの頃を思い出していた。
一週間もすれば船酔いなどたいてい克服する。
だがこうも揺れの激しい時化に遭遇したときはまた別なのだ。
ベテランの船乗りでも、それに悩まされている者は多い。
正直シャインも胃のむかつきを感じていた。
やるべきことの多さに、すっかり忘れていたのだが。
こんなとき船内に入りたがる者はほとんどいないだろう。
シャインも嫌いだった。
船室は空間が圧迫されるような気がする上、空気も淀んだ感じがする。激しい横揺れで眠る事ができないのも明白だ。
けれど、クラウスをこのままにしておくわけにはいかない。
シャインはロープで彼の体を縛り、マストにくくりつけようと思った。海へ落ちる事を考えたら、泣こうがわめこうが断然マシだ。
この激しい風と波の中。船を止めて海へ落ちた人間を回収することなど不可能なのだから。
シャインは左舷の船縁へ寄って、メインマストを支える静索へ結び付けられていた命綱の一つにつかまった。このロープはその端を反対の右舷側へ甲板を横切るように、縛り付けられている。
右足のブーツの中に忍ばせてある細剣を取り出して、シャインは端を切った。
船でロープを切る事は避ける習わしだが、水を吸ったそれは結び目が固くなっており、いちいちほどいている暇はない。
「クラウス、これで君の体を縛るから。そうすれば船外へ落ちる事は避けられる……」
ロープの端を左手に二重に巻き付け、シャインはクラウスに近付いた。
だがクラウスは何を勘違いしたのか、やおらよろめきながら立ち上がった。
真っ青なその顔は血の気がひいて、まるで幽鬼のようだ。
「艦長の命令でも……船内には入りたく……ありません」
「クラウス、立つんじゃない!」
シャインは目の端で、灰色の三角波が船の横腹へ近付くのを見ていた。
「シャイン!」
ロワールの叫び声と共に、船の右舷側へずうんと衝撃が走る。
すでに体力を消耗しているクラウスは、その勢いで甲板に倒れ込んだ。
「クラウス!」
シャインもバランスを崩して甲板へ膝をついたが、左手にロープを巻き付けていたおかげで、それ以上倒れずに済んだ。顔を上げたシャインは、左舷側に傾斜した甲板を小柄なクラウスの体が滑って行くのを見た。
考える事よりも先にシャインは甲板へ腹這いになると、傾斜にそってその身を滑らせ、クラウスの体をつかもうと右手を伸ばした。
「くっ……届かない……」
横向きに背中を丸めた姿勢のクラウスは、かろうじて船縁に引っ掛かって、船外へ投げ出される事だけはまぬがれている。
けれどあと拳ひとつ分ほど手が届かないのだ。体を支えている左手に巻いたロープを放せばいいのだが、再び先程のような波がぶつかってきたら、二人とも海へ投げ出されてしまう。
シャインはロープを振りほどいた。
その時はその時だ。
助けられるのに目の前で横波にさらわれる事だけは……避けなければ。
クラウスの左手首を掴んでこちらへ引き寄せる。ありがたいことに、船が元の体勢に戻るため右舷側へ傾きはじめ、小柄といえど力が抜けて重いその体を動かす手伝いをしてくれた。
ロワールに感謝しつつ、シャインはクラウスに覆い被さるようしてしっかり捕まえた。腕の下でクラウスが身を震わせながら、大きく咳き込む声が聞こえる。
甲板が水平になり、シャインは先程放したロープを再び手にした。だがそれも一瞬で、船は相変わらず左右に傾き、船縁から海水が降り注ぐ。
ロープを手早くクラウスの腰に巻き付けていると、候補生はまぶたを震わせて目を開けた。
「……艦長……ぼ、僕……」
「これで大丈夫だ。クラウス、船に乗ったら誰だって一度は経験することだから、気にすることはない」
口を聞いたクラウスに安堵しつつ、シャインは彼を再び海図室の壁に身をもたれかけさせてやろうと考えた。この冷たい雨風も少しは避けられる。
シャインは依然仰向けのまま、涙目で自分を見るクラウスの手をとった。
すっかり冷えきったそれに、ロープの端をなんとか握らせる。
「いいか、これをちゃんと握っているんだ。わかったね?」
寒さに唇を震わせながら、クラウスはぎこちなくうなずいた。シャインはそれに満足して、ほっとしたような笑みを見せた。
膝をついて揺れる甲板に合わせて重心をとりながら、クラウスの上半身を起こそうと肩へ手をかける。
突如ひと際強い風が、後方ではなく船の左側から吹き込んだ。
ミズンマストの帆が今まで右舷側からそれを受けていたのが、一気に反対の左舷側に変わる。帆を広げるための横に突き出した円材 が、空気を切り裂くように右へ旋回し、ひっぱられた水兵達は、上げ綱を持ったままよろめいて次々と転倒した。
「いけない」
シャインがその光景を目にした時。
すでに甲板は右舷へ傾き、垂直の壁と化していた。
帆のバランスが崩れたせいで、ロワールハイネス号は一気に船首を風下へ落としたのだ。
「艦長っ!」
「……!」
ほとんど悲鳴のようなクラウスの声。
二人は一気に甲板を再び滑り落ちた。
背中を固い船縁にぶつけて、その痛みにシャインは一瞬息をつめた。
体を海に投げ出されないよう、無意識に手を動かし捕まるものを探るが、それらしいものが当たらない。
頭を動かして上を見ると、必死に両手で命綱を握るクラウスが見えた。
その体を飲み込むように、灰色の口を開ける大波が迫ってくるのも。
シャインの視界は白い闇に閉ざされた。
ジャーヴィスは鋭く呼び掛けた。
だがシャインは脇目もふらず、階段をかけ下りて行ってしまった。
「副長。ぼーっとしてたら海へ放り出されますぜ!」
荒い息をついて上げ綱を引く水兵のスレインに肩をつかまれ、ジャーヴィスは我に返った。早く帆をたたまなければ、船がいつ転覆するかわからない。
ジャーヴィスはシャインの様子が気掛かりだったが、今は自分の務めを優先させるべく、作業に集中した。
◇◇◇
『どうして地面がこんなに揺れるんだろう……』
割れるように痛む頭を抱えつつ、士官候補生クラウスは海図室の冷たい板張りの壁に背中をもたらせて座り込んでいた。
目の前が物凄く薄暗い……。夜の闇、いやそれ以上の……暗さだ。
おまけにこの揺れ。
袋の中に閉じ込められ、上下に振られるような。
樽の中に入り込んで、坂道を転げ落ちていくような……気持ち悪さ……。
気持ち悪い……。
雨が降る前から、この嫌な揺れは続いていた。
胸に込み上げるそのむかつきは、唾を飲み込むだけで吐き気を誘う。
いや、すでに胃の中のものは全部出してしまった。
濡れた服は体温を奪って、さらに体力を消耗させる……。
「クラウスちゃん! しっかりして」
意識が途切れかけたまさにその時、名前を呼ばれたせいかクラウスは一瞬だけ目を見開いた。そこには鮮やかな紅髪を揺らした少女が、にらみつけるように凝視していたのだ。
「……レイディ?」
途端クラウスは、頬を叩かれる鋭い痛みに、今度ははっきりと意識を取り戻した。
「大丈夫か? クラウス……」
精霊の姿はかき消えて、自分の肩を掴むシャインが、前髪から水滴を
「船酔いだな。こんな大きな嵐は……まだ経験したことないからね。無理もないさ。クラウス、ここにいたら横波にさらわれてしまう。船内へ入るんだ」
シャインがクラウスの手をとった。
だがクラウスは精一杯それに抗った。
「い……嫌です! 中には入りたく……ありませんっ!! ここに、いさせて下さい!」
シャインから手を振りほどいたクラウスは、すっかり力を失って、再び背中を海図室の壁にあずけた。
荒い息を繰り返し、薄い胸が浅く上下に動いている。
シャインは眉を寄せて、困ったようにクラウスを見つめていた。
◇◇◇
クラウスが中に入りたがらない理由はわかっている。
シャインは自分が船に乗った初めの頃を思い出していた。
一週間もすれば船酔いなどたいてい克服する。
だがこうも揺れの激しい時化に遭遇したときはまた別なのだ。
ベテランの船乗りでも、それに悩まされている者は多い。
正直シャインも胃のむかつきを感じていた。
やるべきことの多さに、すっかり忘れていたのだが。
こんなとき船内に入りたがる者はほとんどいないだろう。
シャインも嫌いだった。
船室は空間が圧迫されるような気がする上、空気も淀んだ感じがする。激しい横揺れで眠る事ができないのも明白だ。
けれど、クラウスをこのままにしておくわけにはいかない。
シャインはロープで彼の体を縛り、マストにくくりつけようと思った。海へ落ちる事を考えたら、泣こうがわめこうが断然マシだ。
この激しい風と波の中。船を止めて海へ落ちた人間を回収することなど不可能なのだから。
シャインは左舷の船縁へ寄って、メインマストを支える静索へ結び付けられていた命綱の一つにつかまった。このロープはその端を反対の右舷側へ甲板を横切るように、縛り付けられている。
右足のブーツの中に忍ばせてある細剣を取り出して、シャインは端を切った。
船でロープを切る事は避ける習わしだが、水を吸ったそれは結び目が固くなっており、いちいちほどいている暇はない。
「クラウス、これで君の体を縛るから。そうすれば船外へ落ちる事は避けられる……」
ロープの端を左手に二重に巻き付け、シャインはクラウスに近付いた。
だがクラウスは何を勘違いしたのか、やおらよろめきながら立ち上がった。
真っ青なその顔は血の気がひいて、まるで幽鬼のようだ。
「艦長の命令でも……船内には入りたく……ありません」
「クラウス、立つんじゃない!」
シャインは目の端で、灰色の三角波が船の横腹へ近付くのを見ていた。
「シャイン!」
ロワールの叫び声と共に、船の右舷側へずうんと衝撃が走る。
すでに体力を消耗しているクラウスは、その勢いで甲板に倒れ込んだ。
「クラウス!」
シャインもバランスを崩して甲板へ膝をついたが、左手にロープを巻き付けていたおかげで、それ以上倒れずに済んだ。顔を上げたシャインは、左舷側に傾斜した甲板を小柄なクラウスの体が滑って行くのを見た。
考える事よりも先にシャインは甲板へ腹這いになると、傾斜にそってその身を滑らせ、クラウスの体をつかもうと右手を伸ばした。
「くっ……届かない……」
横向きに背中を丸めた姿勢のクラウスは、かろうじて船縁に引っ掛かって、船外へ投げ出される事だけはまぬがれている。
けれどあと拳ひとつ分ほど手が届かないのだ。体を支えている左手に巻いたロープを放せばいいのだが、再び先程のような波がぶつかってきたら、二人とも海へ投げ出されてしまう。
シャインはロープを振りほどいた。
その時はその時だ。
助けられるのに目の前で横波にさらわれる事だけは……避けなければ。
クラウスの左手首を掴んでこちらへ引き寄せる。ありがたいことに、船が元の体勢に戻るため右舷側へ傾きはじめ、小柄といえど力が抜けて重いその体を動かす手伝いをしてくれた。
ロワールに感謝しつつ、シャインはクラウスに覆い被さるようしてしっかり捕まえた。腕の下でクラウスが身を震わせながら、大きく咳き込む声が聞こえる。
甲板が水平になり、シャインは先程放したロープを再び手にした。だがそれも一瞬で、船は相変わらず左右に傾き、船縁から海水が降り注ぐ。
ロープを手早くクラウスの腰に巻き付けていると、候補生はまぶたを震わせて目を開けた。
「……艦長……ぼ、僕……」
「これで大丈夫だ。クラウス、船に乗ったら誰だって一度は経験することだから、気にすることはない」
口を聞いたクラウスに安堵しつつ、シャインは彼を再び海図室の壁に身をもたれかけさせてやろうと考えた。この冷たい雨風も少しは避けられる。
シャインは依然仰向けのまま、涙目で自分を見るクラウスの手をとった。
すっかり冷えきったそれに、ロープの端をなんとか握らせる。
「いいか、これをちゃんと握っているんだ。わかったね?」
寒さに唇を震わせながら、クラウスはぎこちなくうなずいた。シャインはそれに満足して、ほっとしたような笑みを見せた。
膝をついて揺れる甲板に合わせて重心をとりながら、クラウスの上半身を起こそうと肩へ手をかける。
突如ひと際強い風が、後方ではなく船の左側から吹き込んだ。
ミズンマストの帆が今まで右舷側からそれを受けていたのが、一気に反対の左舷側に変わる。帆を広げるための横に突き出した
「いけない」
シャインがその光景を目にした時。
すでに甲板は右舷へ傾き、垂直の壁と化していた。
帆のバランスが崩れたせいで、ロワールハイネス号は一気に船首を風下へ落としたのだ。
「艦長っ!」
「……!」
ほとんど悲鳴のようなクラウスの声。
二人は一気に甲板を再び滑り落ちた。
背中を固い船縁にぶつけて、その痛みにシャインは一瞬息をつめた。
体を海に投げ出されないよう、無意識に手を動かし捕まるものを探るが、それらしいものが当たらない。
頭を動かして上を見ると、必死に両手で命綱を握るクラウスが見えた。
その体を飲み込むように、灰色の口を開ける大波が迫ってくるのも。
シャインの視界は白い闇に閉ざされた。