3-20 ノーブルブルー
文字数 3,344文字
食事が済み、甲板ではごしごしとそれをこするデッキブラシの音がする。
ジャーヴィスはロレアルに頼んで作ってもらった、クラウスの為の粥を持って艦長室の中に入った。
クラウスは先の嵐で冷たい雨に体をさらしたせいか、熱を出して寝込んでしまったのだった。最も、彼なりにシャインが海へ転落する原因の一つを作ってしまったと、自分を責めて精神的にもまいってしまったのだろう。
ジャーヴィスは日が差し込む艦長室の、がらんとした雰囲気に思わず身を強ばらせた。この部屋だけがまるで時間が止まっているようだった。
嵐の前、シャインが書類や本が激しい揺れでばらばらにならないよう、片付けていた光景が目に浮かぶ。何もない執務机は、主を見送ったままの姿でそこにあった。
ジャーヴィスは再びこみ上げた胸のむかつきを押さえつつ、執務机の左側に仕切られた水色のカーテンをそっと引いた。
カーテンの向こうはシャインの個室になっている。ロワ-ルハイネス号で横になって休める場所はここと、ジャーヴィスの部屋しかない。
初めはジャーヴィス自身の部屋でクラウスを休ませてやろうと思ったが、そうすれば自分の寝る場所がなくなってしまう。
シャインの個室を使うことに気はひけたが、病人をハンモックで寝かせるわけにはいかない。実際、穏やかな表情でクラウスは眠っていた。
色白の肌を、頬だけが熱の為に赤みを帯びて。
ジャーヴィスは粥の入った皿を、傍らの読書台の上に置いた。
クラウスの額を軽く拭いてやり、あらたに布を湿らせて再び額に置く。
昨夜は船酔いのせいで一睡もしていないだろう、クラウスの事を考え、ジャーヴィスは粥の皿を取り上げた。
無理に起こすべきではないだろう。
ジャーヴィスは寝台から離れ、艦長室から出ると扉を静かに閉めた。
途端、どっと胃の辺りがむかついてきた。
『私が犯した間違いは、忘れる事などできないだろう。この部屋に入る度、きっと』
ジャーヴィスは扉に背を預け、力なくもたれると目を閉じた。
誰も来ませんように。
ほんの僅かの間でいいから……。
◇◇◇
太陽は西の果ての水平線に沈む。そして再び東から昇る。
朝から昼、そして夜、深夜……船の中の時間はいつも通りに過ぎていく。
ロワールはあれから一向に姿を見せない。
シャインの気配がつかめないのだろうか。
内心そう思いつつ、ジャーヴィスは水兵達に自分の不安を悟られないよう、常に彼らに仕事を与えて、余計な事を考えさせないように努めていた。
あの理不尽な嵐から三日後――。
あと三十分もすれば、日が落ちようという頃。
「副長ー! 見つけました!」
船首で見張りをしていたエリックが、前のめりに体を曲げつつ、後部甲板にいるジャーヴィスの元へ走ってきた。
ヴィズルと立話をしていたジャーヴィスは、息をきらせながらやってきた、エリックの指差す方向へ視線を向ける。
「ああ……いたな」
感慨深気にジャーヴィスがつぶやくと、舵をとっているヴィズルも、右手へ首だけ動かして海を見る。
暗くなるオレンジの空を背景に、二隻の黒い大きな船影が見えた。
間違いない、エルシーア海軍の海賊拿捕専門艦隊、通称「ノーブルブルー」だ。
水兵達は非番の者も含めて皆、右舷の船縁へ集まった。
「大きいっスね……」
エリックが惚れ惚れとしてつぶやいた。
「右側が2等軍艦のファスガード号だ。将官旗がメインマストに上がってる。ヴィズル航海長、そっちへ近付いてくれ」
「わかりましたぜ、副長」
ジャーヴィスの指示に従い、ヴィズルは舵を大きく右へ回す。
その目は徐々に近付いてくる、二隻の軍艦へ向けられたままで。
ノーブルブルーの軍艦は、約三百リール(1リール=1メートル)ほどの間を開けて、並んで波間を漂っていた。船首をこちらへ向けて。
左側にいるのが3等軍艦のエルガード号。
ロワ-ルハイネス号の二倍以上ある船体は木造だが、強度を上げるために銅板を張っている。通称の通り、深い紺色のペンキでそれは塗装されている。
喫水線から上にある三層の砲門蓋は閉じられているが、そこには葉っぱを丸くリース状にした、金色のレリーフですべて飾られている。
船の手すり部分やマストも、金古美色のペンキで塗られていて、実に華美な印象をヴィズルは受けた。
エルガ-ド号は三本あるマストに、それぞれ白い帆を上げていたが、それは風をはらんではおらず、ばたばたと波打っている。あきらかにこの海域に留まるためだ。
そして、右側にいる2等軍艦ファスガード号も、エルガード号と同じ仕様の軍艦だった。艤装もこの二隻はまったく同じことから、いわゆる姉妹艦というやつである。
ただ等級が違うのは、それぞれに積まれた大砲の数のせいだ。
2等軍艦ファスガ-ド号は90門。3等軍艦エルガードは64門配備している。
「エリック、信号旗を持ってきてくれ。乗船の許可を求める、水色に白の十字が入ったやつだ」
「わかりました、副長」
俊敏な動きでエリックは後部甲板から下りていき、真下のハッチの物置きから、いわれた旗を手にした。
メインマストにいるスレインを呼んで、旗を上げ綱に縛り付けると、するするとそれをてっぺんまで上げた。
ジャーヴィスは近付きつつあるファスガード号のメインマストを、ひたすら黙って睨んでいた。五分とたたないうちに、緑の小旗がひるがえった。
「……すぐ来い、か」
迫る夕闇を見ながら、ジャーヴィスは軽くため息をついた。
心の準備をする時間もなしだ。
ノーブルブルーを指揮する名高いラフェール提督に、シャインの事を報告しなくてはならない時が来てしまった。
ジャーヴィスはおもむろに、舵を取るヴィズルの隣へいった。
彼は正確に船を近付けながら、食い入るように軍艦を見つめている。
「ヴィズル航海長」
ジャ-ヴィスに声をかけられて、ヴィズルは我に返ったようだった。
「あ……ああ、何か?」
「どうした、お前らしくない。ぼーっとして」
ジャーヴィスの問いにヴィズルは、口元をわずかに歪めてつぶやいた。
「綺麗な船だ……そう思って見てただけさ」
相変わらず横柄な口調だが、ジャーヴィスはあえて怒鳴ろうとは思わなかった。
「私は命令書を持って、ファスガ-ド号に行かなくてはならない。だから、ヴィズル航海長……お前にその間、ロワールハイネス号を任せる」
何時になく真面目な顔でジャ-ヴィスは言った。
ヴィズルは低く口笛を吹いた。
「ようやく俺の事を認めてくれて、うれしいですぜ、ジャ-ヴィス副長」
こちらへ向ける彼の顔は微笑が浮かんでいて、その言葉には偽りがないように思われた。
「……勝手にそう思え」
認めたのではない。
船を任せられる者が他にいないからだ。
心の中でそうつぶやき、ジャーヴィスはヴィズルを一瞥して後部甲板から下りた。
◇◇◇
ジャーヴィスがそんなことを考えているとは微塵にも思わず、小さく鼻歌を口ずさみ、ヴィズルは船首を風上へ立てた。
「ちょっと遅かったんじゃないのか?」
ロワールハイネス号の速度を徐々に落とす。
下の甲板が騒がしくなって、水兵達が一時停船のため、帆桁の向きを調整しだした。帆から風が抜けていき、ロワールハイネス号もまた、ファスガード号の隣へ百五十リールほど寄った所で、波間をゆらゆらと漂う。
「雑用艇を下ろす準備をしろ! 副長がファスガード号へ行くからな」
ばたばたと足音を響かせ、水兵達が海図室の上に設置されているボートを下ろす様を、ヴィズルは舵輪の上に置いた掌に、顎をのせて見つめていた。
「しばらくお休みだぜ、ロワール。ジャーヴィスは朝まで帰らないだろうよ。ま、あんたは俺の言うことなんて、聞こえないんだろうけどな」
褐色の指を伸ばし、ヴィズルは舵輪の握りをそっとなでた。
吸い付くような木の感触は、実によく手に馴染んでくる。昔からずっとこの船に乗っていたような……不思議な感覚と共に。
「いい船だ……俺はあんたが気に入ったぜ」
ヴィズルは愛おしむように、うっとりと目を細め空を見上げた。
まもなく日が沈むそれは、彼自身の紺色の瞳のような色。
その瞳に影が落ちた。
軽やかな羽音が、ヴィズルの耳元へ近付いてくる。
「だから次の嵐も……俺が守ってやるよ」
ジャーヴィスはロレアルに頼んで作ってもらった、クラウスの為の粥を持って艦長室の中に入った。
クラウスは先の嵐で冷たい雨に体をさらしたせいか、熱を出して寝込んでしまったのだった。最も、彼なりにシャインが海へ転落する原因の一つを作ってしまったと、自分を責めて精神的にもまいってしまったのだろう。
ジャーヴィスは日が差し込む艦長室の、がらんとした雰囲気に思わず身を強ばらせた。この部屋だけがまるで時間が止まっているようだった。
嵐の前、シャインが書類や本が激しい揺れでばらばらにならないよう、片付けていた光景が目に浮かぶ。何もない執務机は、主を見送ったままの姿でそこにあった。
ジャーヴィスは再びこみ上げた胸のむかつきを押さえつつ、執務机の左側に仕切られた水色のカーテンをそっと引いた。
カーテンの向こうはシャインの個室になっている。ロワ-ルハイネス号で横になって休める場所はここと、ジャーヴィスの部屋しかない。
初めはジャーヴィス自身の部屋でクラウスを休ませてやろうと思ったが、そうすれば自分の寝る場所がなくなってしまう。
シャインの個室を使うことに気はひけたが、病人をハンモックで寝かせるわけにはいかない。実際、穏やかな表情でクラウスは眠っていた。
色白の肌を、頬だけが熱の為に赤みを帯びて。
ジャーヴィスは粥の入った皿を、傍らの読書台の上に置いた。
クラウスの額を軽く拭いてやり、あらたに布を湿らせて再び額に置く。
昨夜は船酔いのせいで一睡もしていないだろう、クラウスの事を考え、ジャーヴィスは粥の皿を取り上げた。
無理に起こすべきではないだろう。
ジャーヴィスは寝台から離れ、艦長室から出ると扉を静かに閉めた。
途端、どっと胃の辺りがむかついてきた。
『私が犯した間違いは、忘れる事などできないだろう。この部屋に入る度、きっと』
ジャーヴィスは扉に背を預け、力なくもたれると目を閉じた。
誰も来ませんように。
ほんの僅かの間でいいから……。
◇◇◇
太陽は西の果ての水平線に沈む。そして再び東から昇る。
朝から昼、そして夜、深夜……船の中の時間はいつも通りに過ぎていく。
ロワールはあれから一向に姿を見せない。
シャインの気配がつかめないのだろうか。
内心そう思いつつ、ジャーヴィスは水兵達に自分の不安を悟られないよう、常に彼らに仕事を与えて、余計な事を考えさせないように努めていた。
あの理不尽な嵐から三日後――。
あと三十分もすれば、日が落ちようという頃。
「副長ー! 見つけました!」
船首で見張りをしていたエリックが、前のめりに体を曲げつつ、後部甲板にいるジャーヴィスの元へ走ってきた。
ヴィズルと立話をしていたジャーヴィスは、息をきらせながらやってきた、エリックの指差す方向へ視線を向ける。
「ああ……いたな」
感慨深気にジャーヴィスがつぶやくと、舵をとっているヴィズルも、右手へ首だけ動かして海を見る。
暗くなるオレンジの空を背景に、二隻の黒い大きな船影が見えた。
間違いない、エルシーア海軍の海賊拿捕専門艦隊、通称「ノーブルブルー」だ。
水兵達は非番の者も含めて皆、右舷の船縁へ集まった。
「大きいっスね……」
エリックが惚れ惚れとしてつぶやいた。
「右側が2等軍艦のファスガード号だ。将官旗がメインマストに上がってる。ヴィズル航海長、そっちへ近付いてくれ」
「わかりましたぜ、副長」
ジャーヴィスの指示に従い、ヴィズルは舵を大きく右へ回す。
その目は徐々に近付いてくる、二隻の軍艦へ向けられたままで。
ノーブルブルーの軍艦は、約三百リール(1リール=1メートル)ほどの間を開けて、並んで波間を漂っていた。船首をこちらへ向けて。
左側にいるのが3等軍艦のエルガード号。
ロワ-ルハイネス号の二倍以上ある船体は木造だが、強度を上げるために銅板を張っている。通称の通り、深い紺色のペンキでそれは塗装されている。
喫水線から上にある三層の砲門蓋は閉じられているが、そこには葉っぱを丸くリース状にした、金色のレリーフですべて飾られている。
船の手すり部分やマストも、金古美色のペンキで塗られていて、実に華美な印象をヴィズルは受けた。
エルガ-ド号は三本あるマストに、それぞれ白い帆を上げていたが、それは風をはらんではおらず、ばたばたと波打っている。あきらかにこの海域に留まるためだ。
そして、右側にいる2等軍艦ファスガード号も、エルガード号と同じ仕様の軍艦だった。艤装もこの二隻はまったく同じことから、いわゆる姉妹艦というやつである。
ただ等級が違うのは、それぞれに積まれた大砲の数のせいだ。
2等軍艦ファスガ-ド号は90門。3等軍艦エルガードは64門配備している。
「エリック、信号旗を持ってきてくれ。乗船の許可を求める、水色に白の十字が入ったやつだ」
「わかりました、副長」
俊敏な動きでエリックは後部甲板から下りていき、真下のハッチの物置きから、いわれた旗を手にした。
メインマストにいるスレインを呼んで、旗を上げ綱に縛り付けると、するするとそれをてっぺんまで上げた。
ジャーヴィスは近付きつつあるファスガード号のメインマストを、ひたすら黙って睨んでいた。五分とたたないうちに、緑の小旗がひるがえった。
「……すぐ来い、か」
迫る夕闇を見ながら、ジャーヴィスは軽くため息をついた。
心の準備をする時間もなしだ。
ノーブルブルーを指揮する名高いラフェール提督に、シャインの事を報告しなくてはならない時が来てしまった。
ジャーヴィスはおもむろに、舵を取るヴィズルの隣へいった。
彼は正確に船を近付けながら、食い入るように軍艦を見つめている。
「ヴィズル航海長」
ジャ-ヴィスに声をかけられて、ヴィズルは我に返ったようだった。
「あ……ああ、何か?」
「どうした、お前らしくない。ぼーっとして」
ジャーヴィスの問いにヴィズルは、口元をわずかに歪めてつぶやいた。
「綺麗な船だ……そう思って見てただけさ」
相変わらず横柄な口調だが、ジャーヴィスはあえて怒鳴ろうとは思わなかった。
「私は命令書を持って、ファスガ-ド号に行かなくてはならない。だから、ヴィズル航海長……お前にその間、ロワールハイネス号を任せる」
何時になく真面目な顔でジャ-ヴィスは言った。
ヴィズルは低く口笛を吹いた。
「ようやく俺の事を認めてくれて、うれしいですぜ、ジャ-ヴィス副長」
こちらへ向ける彼の顔は微笑が浮かんでいて、その言葉には偽りがないように思われた。
「……勝手にそう思え」
認めたのではない。
船を任せられる者が他にいないからだ。
心の中でそうつぶやき、ジャーヴィスはヴィズルを一瞥して後部甲板から下りた。
◇◇◇
ジャーヴィスがそんなことを考えているとは微塵にも思わず、小さく鼻歌を口ずさみ、ヴィズルは船首を風上へ立てた。
「ちょっと遅かったんじゃないのか?」
ロワールハイネス号の速度を徐々に落とす。
下の甲板が騒がしくなって、水兵達が一時停船のため、帆桁の向きを調整しだした。帆から風が抜けていき、ロワールハイネス号もまた、ファスガード号の隣へ百五十リールほど寄った所で、波間をゆらゆらと漂う。
「雑用艇を下ろす準備をしろ! 副長がファスガード号へ行くからな」
ばたばたと足音を響かせ、水兵達が海図室の上に設置されているボートを下ろす様を、ヴィズルは舵輪の上に置いた掌に、顎をのせて見つめていた。
「しばらくお休みだぜ、ロワール。ジャーヴィスは朝まで帰らないだろうよ。ま、あんたは俺の言うことなんて、聞こえないんだろうけどな」
褐色の指を伸ばし、ヴィズルは舵輪の握りをそっとなでた。
吸い付くような木の感触は、実によく手に馴染んでくる。昔からずっとこの船に乗っていたような……不思議な感覚と共に。
「いい船だ……俺はあんたが気に入ったぜ」
ヴィズルは愛おしむように、うっとりと目を細め空を見上げた。
まもなく日が沈むそれは、彼自身の紺色の瞳のような色。
その瞳に影が落ちた。
軽やかな羽音が、ヴィズルの耳元へ近付いてくる。
「だから次の嵐も……俺が守ってやるよ」