3-21 ファスガード号
文字数 3,182文字
ノーブルブルーを指揮するラフェール提督に、本部からの命令書を渡すため、ジャーヴィスは自室でざっと身支度を整えた。
そして暗くなる気持ちを押さえつつ、命令書の入った青い封筒を大事に小脇へ抱えると、甲板へ再び上がった。
辺りは水平線のところだけが、ほんのり赤色に染まって、まもなく夜が訪れようとしている。
ジャーヴィスは見送りにきたヴィズルとエリックに、二言三言、言葉を交わし、海に下ろした雑用艇に乗り込んだ。
水兵スレインの号令と共に、十名の水兵達はオールを出して雑用艇を漕ぐ。
前方に漂うファスガード号は、近付くにつれてその大きさゆえに迫力を増す。
うねりを伴った波にもまれながら、ジャーヴィスの乗った小艇は、コン、と軽くファスガード号の横腹へ当たった。
ジャーヴィスが、そそりたつ壁のような船体を見上げた途端、上から水兵らしき人間の顔が見えて、はらりとロープが落ちてきた。
ファスガード号の左舷船尾側にある舷梯のそばに雑用艇をつけたスレインは、自慢の太い腕に物をいわせて、それをぐっとつかんだ。
引き寄せて、少しでも上下、左右に揺れる小艇の安定を保とうとする。
「副長、どうぞ。……お気をつけて」
「ああ、行ってくる」
ジャーヴィスはそっと立ち上がると、船腹についた舷梯の一つに右手と右足をかけた。ぐっと右足に力を込めて、左足で雑用艇を蹴るように身体を持ち上げ、一つ一つ、それを登っていく。
喫水線から三層に渡ってある、大砲の砲門蓋についた金色の葉のレリーフが、甲板から降り注ぐ停泊灯の白い光を受けて、鈍くきらめくのを見つめながら。
十段ばかりあるそれを上りきったジャ-ヴィスの前には、長銃を携えた海兵隊をずらりと従えて、一人の海軍士官が立っていた。
ジャーヴィスと同じような濃紺色のコートタイプの航海服を身にまとっている。
その士官はジャーヴィスと目が合うと、ヒゲのない顔をわずかに破顔させて微笑した。年は三十五をすぎたぐらいだろうか。
よく鍛えてあるのか、肩幅も広くジャーヴィスより少し背が高い。茶髪の肩まであるくせ毛を一つに結い、同じ色をした瞳がおだやかに光ってこちらを見ている。
「ようこそファスガード号へ。ロワールハイネス号のジャーヴィス中尉ですな」
ジャーヴィスは軽く頭を下げた。
少し、戸惑いつつ。
「確かに私はジャーヴィスですが、何故私の名を?」
ジャーヴィスは思わずそう尋ねながら、相手の士官が右手を差し出したので、ゆっくりと握手を交わした。
「これはこれは……驚かれるのも当然ですな。私はこのファスガ-ド号の副長、イストリアです。あなたをすぐお連れするよう、ルウム艦長に言われていますので、まずはこちらへ」
「……はぁ」
ジャーヴィスは浮かない顔をしつつ、イストリアのがっしりした背中を見失なわないよう、その後について歩いた。
と同時に、イストリアの後ろにいた海兵隊たちが一斉に解散して、中央のメインマスト前にある開口部から第二甲板へ下りていった。
ファスガード号の甲板には、当直中の十数名の水兵達がそれぞれの持ち場について、見張りなり、上げ綱などの点検をしている。
そんな彼らの様子をみながらジャーヴィスは、ファスガード号の大きさに、畏怖に似た気持ちを覚えずにはいられなかった。
ロワールハイネス号とは違い、これは戦うために造られた船だ。嫌でも目につく、等間隔に設置された大砲がそれを物語っている。
ファスガ-ド号は90門の大砲を装備している。ジャーヴィスが歩いている、この上甲板だけでも左右両舷合わせて30門はあるだろう。
商船クラスなら、一回の砲撃で海の藻屑にすることができる。
片舷斉射で上甲板、第二甲板、第三甲板すべての砲を食らう事になろうものならば、浮いていられる船はほとんどない。
実際、喫水線に近い第三甲板の20門は、波が高い時は砲門蓋を開ける事ができないので、滅多に発砲する事はないのだが。
イストリアはまっすぐ船尾の後部甲板へ、ジャーヴィスを連れていった。
そこはロワールハイネス号のものよりがっしりした階段が左右両端にあり、それを上ると巨大な二重舵輪を操作する、船尾楼(指揮所)になっている。
イストリアは階段を上がらず、中間にある両開きの扉の前に立った。
唐草模様のレリーフが施されているそれは、木目を生かした質素なもので、砲門蓋のように金色のペンキで色はつけられていない。
手入れが行き届いているその扉は、軽い力で押したイストリアの手で、きしみ声一つ上げず奥へ向かって開いた。
「どうぞお入りください」
イストリアにうながされて、ジャーヴィスは先に部屋の中へ入った。
中はどうやら艦長室らしい。
手前に豪勢な一組の応接セットと、その奥には艦長の執務机が設置されている。さらにその背後には大きな窓があった。
部屋には壁際に置かれた二つばかりのランプが、オレンジ色の光で室内をやさしく照らしていたが、一人の人物が執務机に置かれた同様のそれに、火を着けようとしていた。
ジャーヴィスより明るめのコバルトブルーの色をした、見覚えのある航海服をまとっていて、身軽そうな、ほっそりした体型をしている。
だがうつむいているため、長い金色の前髪が滑り落ちて顔が見えない。
ジャーヴィスは命令書の入った封筒を思わず胸の前に抱いて、息をするのも忘れたように、その人物を凝視した。
こめかみが、どくどくと早鐘を打つように脈打っている。
部屋の中がさらに明るさを増し、ランプに火を灯し終わった金髪の人物は、顔を上げてジャーヴィスの方に振り向いた。
「やあ、来たね。また会えてうれしいよ」
落ち着き払ったその声は、なんと心地よい安心感を伴っているのだろう。
シャイン・グラヴェールは、ランプの光を受けて輝く前髪をそっとかき上げて、はにかみながら微笑んだ。まるで聖者のように。
そしてゆっくりと、こちらへ近付いてきた。
ジャーヴィスは体の震えを押さえるべく、命令書を抱える腕に力を込めた。
「そんな……平然と歩いて来ないで下さい」
心の底からシャインの身を案じていた。
ロワールに言われなくても、この目で見ない限り、彼が死んだなど、認めるつもりはなかったから。
絶望的な状況だったにも関わらず、目の前にいるシャインはぴんぴんしていて、緊張感のないその顔を見ると脱力しそうだ。
ジャーヴィスは僅かばかり、それに怒りを感じてシャインをにらんだ。
「どんなに心配したか……わかってますか?」
驚きと安心感で、ジャーヴィスはその場から動けずにいた。
「ああ」
近付いてきたシャインが、じっとこちらの顔をのぞきこんだのは一瞬の間だった。
エルシーアの海を思い出させるシャインの澄んだ瞳に、ジャーヴィスは無事を喜ぶ気持ちよりも、自らの犯した過ちが脳裏に蘇るのを感じた。
その負い目を見抜いたのか、シャインは黙ったまま両腕を広げてジャ-ヴィスの背中に回した。左肩にシャインの額が当たる感覚がはっきりとわかる。
「心配をかけた。すまない。だけどこうして生きてるよ……ジャーヴィス副長」
「本当に、あなたって人は……」
口ではそんな事を言いつつ、ジャーヴィスは右手を伸ばしてシャインの左肩に触れた。
―――幽霊じゃない。
本当に、そこにいる。
「やだなあ。まだ、疑っているのかい?」
シャインが笑いながら、ジャーヴィスの背中をかなり強めに叩いた。
すこしは加減すればいいのに、この痛みも本物だ。
背中の衝撃に、ジャーヴィスは一瞬息を詰めて大きく咳き込んだ。
シャインが慌てて回した腕を解いたのは言うまでもない。
「よかったですなあ、グラヴェール艦長」
扉のそばで二人を見ていたファスガード号副長イストリアは、涙もろいのか、上着のポケットから取り出したハンカチで、そっと目元をぬぐっていた。
そして暗くなる気持ちを押さえつつ、命令書の入った青い封筒を大事に小脇へ抱えると、甲板へ再び上がった。
辺りは水平線のところだけが、ほんのり赤色に染まって、まもなく夜が訪れようとしている。
ジャーヴィスは見送りにきたヴィズルとエリックに、二言三言、言葉を交わし、海に下ろした雑用艇に乗り込んだ。
水兵スレインの号令と共に、十名の水兵達はオールを出して雑用艇を漕ぐ。
前方に漂うファスガード号は、近付くにつれてその大きさゆえに迫力を増す。
うねりを伴った波にもまれながら、ジャーヴィスの乗った小艇は、コン、と軽くファスガード号の横腹へ当たった。
ジャーヴィスが、そそりたつ壁のような船体を見上げた途端、上から水兵らしき人間の顔が見えて、はらりとロープが落ちてきた。
ファスガード号の左舷船尾側にある舷梯のそばに雑用艇をつけたスレインは、自慢の太い腕に物をいわせて、それをぐっとつかんだ。
引き寄せて、少しでも上下、左右に揺れる小艇の安定を保とうとする。
「副長、どうぞ。……お気をつけて」
「ああ、行ってくる」
ジャーヴィスはそっと立ち上がると、船腹についた舷梯の一つに右手と右足をかけた。ぐっと右足に力を込めて、左足で雑用艇を蹴るように身体を持ち上げ、一つ一つ、それを登っていく。
喫水線から三層に渡ってある、大砲の砲門蓋についた金色の葉のレリーフが、甲板から降り注ぐ停泊灯の白い光を受けて、鈍くきらめくのを見つめながら。
十段ばかりあるそれを上りきったジャ-ヴィスの前には、長銃を携えた海兵隊をずらりと従えて、一人の海軍士官が立っていた。
ジャーヴィスと同じような濃紺色のコートタイプの航海服を身にまとっている。
その士官はジャーヴィスと目が合うと、ヒゲのない顔をわずかに破顔させて微笑した。年は三十五をすぎたぐらいだろうか。
よく鍛えてあるのか、肩幅も広くジャーヴィスより少し背が高い。茶髪の肩まであるくせ毛を一つに結い、同じ色をした瞳がおだやかに光ってこちらを見ている。
「ようこそファスガード号へ。ロワールハイネス号のジャーヴィス中尉ですな」
ジャーヴィスは軽く頭を下げた。
少し、戸惑いつつ。
「確かに私はジャーヴィスですが、何故私の名を?」
ジャーヴィスは思わずそう尋ねながら、相手の士官が右手を差し出したので、ゆっくりと握手を交わした。
「これはこれは……驚かれるのも当然ですな。私はこのファスガ-ド号の副長、イストリアです。あなたをすぐお連れするよう、ルウム艦長に言われていますので、まずはこちらへ」
「……はぁ」
ジャーヴィスは浮かない顔をしつつ、イストリアのがっしりした背中を見失なわないよう、その後について歩いた。
と同時に、イストリアの後ろにいた海兵隊たちが一斉に解散して、中央のメインマスト前にある開口部から第二甲板へ下りていった。
ファスガード号の甲板には、当直中の十数名の水兵達がそれぞれの持ち場について、見張りなり、上げ綱などの点検をしている。
そんな彼らの様子をみながらジャーヴィスは、ファスガード号の大きさに、畏怖に似た気持ちを覚えずにはいられなかった。
ロワールハイネス号とは違い、これは戦うために造られた船だ。嫌でも目につく、等間隔に設置された大砲がそれを物語っている。
ファスガ-ド号は90門の大砲を装備している。ジャーヴィスが歩いている、この上甲板だけでも左右両舷合わせて30門はあるだろう。
商船クラスなら、一回の砲撃で海の藻屑にすることができる。
片舷斉射で上甲板、第二甲板、第三甲板すべての砲を食らう事になろうものならば、浮いていられる船はほとんどない。
実際、喫水線に近い第三甲板の20門は、波が高い時は砲門蓋を開ける事ができないので、滅多に発砲する事はないのだが。
イストリアはまっすぐ船尾の後部甲板へ、ジャーヴィスを連れていった。
そこはロワールハイネス号のものよりがっしりした階段が左右両端にあり、それを上ると巨大な二重舵輪を操作する、船尾楼(指揮所)になっている。
イストリアは階段を上がらず、中間にある両開きの扉の前に立った。
唐草模様のレリーフが施されているそれは、木目を生かした質素なもので、砲門蓋のように金色のペンキで色はつけられていない。
手入れが行き届いているその扉は、軽い力で押したイストリアの手で、きしみ声一つ上げず奥へ向かって開いた。
「どうぞお入りください」
イストリアにうながされて、ジャーヴィスは先に部屋の中へ入った。
中はどうやら艦長室らしい。
手前に豪勢な一組の応接セットと、その奥には艦長の執務机が設置されている。さらにその背後には大きな窓があった。
部屋には壁際に置かれた二つばかりのランプが、オレンジ色の光で室内をやさしく照らしていたが、一人の人物が執務机に置かれた同様のそれに、火を着けようとしていた。
ジャーヴィスより明るめのコバルトブルーの色をした、見覚えのある航海服をまとっていて、身軽そうな、ほっそりした体型をしている。
だがうつむいているため、長い金色の前髪が滑り落ちて顔が見えない。
ジャーヴィスは命令書の入った封筒を思わず胸の前に抱いて、息をするのも忘れたように、その人物を凝視した。
こめかみが、どくどくと早鐘を打つように脈打っている。
部屋の中がさらに明るさを増し、ランプに火を灯し終わった金髪の人物は、顔を上げてジャーヴィスの方に振り向いた。
「やあ、来たね。また会えてうれしいよ」
落ち着き払ったその声は、なんと心地よい安心感を伴っているのだろう。
シャイン・グラヴェールは、ランプの光を受けて輝く前髪をそっとかき上げて、はにかみながら微笑んだ。まるで聖者のように。
そしてゆっくりと、こちらへ近付いてきた。
ジャーヴィスは体の震えを押さえるべく、命令書を抱える腕に力を込めた。
「そんな……平然と歩いて来ないで下さい」
心の底からシャインの身を案じていた。
ロワールに言われなくても、この目で見ない限り、彼が死んだなど、認めるつもりはなかったから。
絶望的な状況だったにも関わらず、目の前にいるシャインはぴんぴんしていて、緊張感のないその顔を見ると脱力しそうだ。
ジャーヴィスは僅かばかり、それに怒りを感じてシャインをにらんだ。
「どんなに心配したか……わかってますか?」
驚きと安心感で、ジャーヴィスはその場から動けずにいた。
「ああ」
近付いてきたシャインが、じっとこちらの顔をのぞきこんだのは一瞬の間だった。
エルシーアの海を思い出させるシャインの澄んだ瞳に、ジャーヴィスは無事を喜ぶ気持ちよりも、自らの犯した過ちが脳裏に蘇るのを感じた。
その負い目を見抜いたのか、シャインは黙ったまま両腕を広げてジャ-ヴィスの背中に回した。左肩にシャインの額が当たる感覚がはっきりとわかる。
「心配をかけた。すまない。だけどこうして生きてるよ……ジャーヴィス副長」
「本当に、あなたって人は……」
口ではそんな事を言いつつ、ジャーヴィスは右手を伸ばしてシャインの左肩に触れた。
―――幽霊じゃない。
本当に、そこにいる。
「やだなあ。まだ、疑っているのかい?」
シャインが笑いながら、ジャーヴィスの背中をかなり強めに叩いた。
すこしは加減すればいいのに、この痛みも本物だ。
背中の衝撃に、ジャーヴィスは一瞬息を詰めて大きく咳き込んだ。
シャインが慌てて回した腕を解いたのは言うまでもない。
「よかったですなあ、グラヴェール艦長」
扉のそばで二人を見ていたファスガード号副長イストリアは、涙もろいのか、上着のポケットから取り出したハンカチで、そっと目元をぬぐっていた。