3-17 非情の海
文字数 3,329文字
「くそっ! ヴィズルの腕は全く大したもんだ」
突風のせいで、帆の風を受ける向きが、いきなり反対になった。
舵を取る人間はそうならないよう、細心の注意を払わなければならないはず。
下手をしたら転覆していた。
ジャーヴィスはその事実にぞっとしながら水兵達を叱咤した。
「急げ! 早く立って帆を畳むんだ」
右舷に傾き濡れて冷たい甲板に足を取られつつ、ジャーヴィスと水兵達は急ぎミズンマストの帆足綱 に取り付いた。
◇◇◇
ミズンマストの帆を縮めつつ風を逃がして、ヴィズルが崩れた船体のバランスをなんとか再び安定させた時。
「いやーーっ!! シャイン!」
船全体にロワールの金切り声が響き渡った。
今まで聞いた事がないほどの悲痛なそれに、ジャーヴィスは身を固くこわばらせた。
一方、襲いかかる波を乗り切るため、次席航海士のグラッドと共に舵輪を握っているヴィズルは、突如勝手にそれが反対にきられる衝動を感じた。
「グラッド! 押さえろ!!」
「……わかってます!」
ヴィズルの肩ほどまである舵輪は、船を旋回させるためじりじりと、信じられない力で動く。
ヴィズルは歯を食いしばって、それに抗った。
うなりを上げる風や雨の強さは依然衰えない。だから……。
「ロワール! 落ち着けったら!! 俺達を海の藻屑にしたいのかっ!!」
「放して! シャインが海に落ちたのよ! 早く引き返して助けて!」
再び切羽詰まったロワールの声が聞こえた。
「なんだって!」
はっと息を飲むグラッドの四角い顔が自分を見たことから、ヴィズルはロワールの声が船中に聞こえていることを悟った。
ギ……ギギ……ギギ……。
ヴィズルは自分の体重をかけて、ともすれば勝手にロワールが回す舵輪を押さえ込む。
「だからって……馬鹿野郎! もう戻れるわけねーだろうロワール! この風と波を見ろ!!」
「嫌! 嫌よ!! あなたのせいでシャインが海へ落ちたんだから! 早く助けないと……私!」
ヴィズルの藍色の瞳が、悔し気に一瞬だけ細められた。
きつくきつく握りしめた舵輪の柄を、さらに砕かんばかりに力を込める。
「駄目だ! 風が強すぎる。ちょっとでも風上へのコースへ向きを変えてみろ。本当の風の力で船がつぶれちまう! 引き返す事が無理だってこと、あんたが一番よくわかってるはずだぜ、ロワール!!」
動揺しているのは彼女だけではない。
そして戻るべきだと、誰もがきっと思っている。
けれど……そこに厳しい現実があることもわかっている。
船の乗員とその安全を守る事を信条とする、船の精霊なら……絶対に。
なんとかして船を回頭させようとするロワールの力が、突如、ふっと舵輪から消えた。
◇◇◇
「副長! レイディが言っていた事は本当でしょうか!」
「艦長が海へ落ちたのなら、早く助けないと」
ミズンマストの帆を畳む手を止め、水兵達はふりかかる海水にびしょぬれの体を震わせながら、ジャーヴィスを見た。
「わからない。これから確認してくる。お前達はとにかく帆を畳むんだ。フォアマストの帆も忘れずにな」
「わかりました」
ジャーヴィスは後部甲板の階段をかけ下りた。
メインマストの帆は畳まれているため、そこまで障害物のない甲板の視界は非常にクリアだ。
そう……メインマストをすぎ、海図室の前方にそびえるフォアマストが見え、じっと海を見張っている水兵エリックの小柄な姿まで。
甲板の上に張り巡らせた命綱につかまりつつ、ジャーヴィスはゆっくりと、だが、はやる心を抑えてメインマストまで歩いた。
あるべき人影がない。
そう、シャインは何かに呼ばれるように自分の脇をすりぬけて、このメインマストまで行ったのを確かに見たのだ。
あれから10分とたっていないというのに。
船の精霊は嘘をつかない。ジャーヴィスは不安を覚えて、周囲を見回した。
高らかな笑い声を思わせる風に混じって、小さなすすり泣きが聞こえたのはメインマストの右舷側へ来た時だった。
「……クラウス!」
ジャーヴィスはメインマストを支える横静索 の下で、膝に顔をうずめて泣いている候補生の姿を見つけた。
近くの上げ綱を握って身の安全を確保してから、ジャーヴィスはクラウスのそばに膝をついた。誰もがそうであるように、クラウスもすっかりずぶ濡れだ。
「クラウス、おい、大丈夫か?」
ジャーヴィスの声にクラウスは小さく体を震わせて、おずおずと顔を上げた。
青色の大きな瞳から涙があふれて、いくつも流れ落ちている。
「ジャーヴィス副長っ……」
クラウスはジャーヴィスにしがみついた。すすり泣きだったそれは、ジャーヴィスの顔を見たせいで安心したのか嗚咽に変わった。
ジャーヴィスがクラウスの肩を抱きしめてやっていたのは、わずかな間だった。
「クラウス、一体何があったんだ、艦長はどうした?」
ジャーヴィスはそっと声をかけた。
候補生が再びパニックに陥らないよう、できるだけ優しく。
クラウスはゆっくりその身をジャーヴィスから放した。依然、手はジャーヴィスの袖をしっかりとつかんでいる。
「僕が船酔いなんてなるから……それで艦長は僕が海に落ちないよう、命綱で縛ってくれて……そうしたら急に甲板が傾いて……」
クラウスは再び身を震わせてすすり泣いた。
彼のほっそりとした腰には、命綱がしっかりと結ばれている。
だからクラウスは助かったのだ。
ジャーヴィスは袖をつかむクラウスの冷えきった手を優しく外した。
「嵐を乗り切るまでここにいろ。わかったな」
涙が止まらないクラウスは、ゆっくりとうなずいて、再び膝に顔をうずめた。
ジャーヴィスは上げ綱につかまりながら立ち上がった。
灰色の海は白い水煙を上げながら、激しい波が逆巻いている。
わかっていても、ジャーヴィスはその波間に目をこらした。
ひょっとしたら……。
認めたくない一心で、その姿が現れる事を期待して。
まばたきすることも忘れて、ジャーヴィスはひたすら海を見つめ続けた。
◇◇◇
激しい雨と風。船を横倒しにしようとする波は夜通し続いて、ジャーヴィス達ロワールハイネス号の乗組員を苦しめた。
だがその南西風に乗り、船は「ノーブルブルー」の待つ海域へ、あと三日という所まで確実に近付いていた。
ロワールハイネス号の白い甲板を、昇りきった太陽の光がさっと照らす。
重苦しい雨雲は遥か後方へ遠ざかり、息を飲む程澄みきった青い空が顔をのぞかせる。
ロワ-ルハイネス号は夜明けと共に弱まってきた風を最大限に受けるため、再び三本のマストすべてに帆を張っていた。
その調整をすませてから、水兵達は風下側の船縁に寄り、膝を抱えて皆眠り込んでいた。
夜通し船を守るために働き詰めだった彼らは、ろくに睡眠も食事もとっていない。そんな乗組員をいたわるように、船は心地よい揺れで走っていた。
まるで大きな揺りかごのように、包み込むように優しく。
ジャーヴィスさえも、フォアマストの後ろにある海図室で、机上に投げ出した腕に頭をのせ眠り込んでいた。海水を吸って濃紺色になった航海服姿のままで。
マストを折らんばかりの風と視界を遮る雨。容赦なくふりそそぐ海水。
船がいつ横倒しになるか、ずっと神経をはりつめさせていた。
やっと風が落ち着いた夜明け前。航路の確認を一番にするため、天測器具の準備をしていたのだが、さすがに泥のような疲労がジャーヴィスを襲ったのだ。
眠り込んでどれほどの時間がたっただろうか。
指一本動かすのも怠惰に思いながら、ジャーヴィスの意識は目覚めつつあった。
ふと漂ってきた、その香りに。
とても良く知った、その香りで。
『何だっただろう……』
未だはっきりしない頭でジャーヴィスは考えた。
目を開けるべきだと思ったが、まぶたの上に何かが乗っているようで重く、体は眠りを求めていた。
しかしいっそう強く漂ってくるその香りに、ジャーヴィスは次の瞬間、目を見開いていた。
「そうだ……シルヴァンティーだ……」
噛みしめるようにつぶやいて、机上から顔を上げたジャーヴィスは、海図室の開け放した右舷側の出入口の床に人影が落ちているのを見た。
誰かが外にいる。
ジャーヴィスは椅子から静かに立ち上がった。
突風のせいで、帆の風を受ける向きが、いきなり反対になった。
舵を取る人間はそうならないよう、細心の注意を払わなければならないはず。
下手をしたら転覆していた。
ジャーヴィスはその事実にぞっとしながら水兵達を叱咤した。
「急げ! 早く立って帆を畳むんだ」
右舷に傾き濡れて冷たい甲板に足を取られつつ、ジャーヴィスと水兵達は急ぎミズンマストの
◇◇◇
ミズンマストの帆を縮めつつ風を逃がして、ヴィズルが崩れた船体のバランスをなんとか再び安定させた時。
「いやーーっ!! シャイン!」
船全体にロワールの金切り声が響き渡った。
今まで聞いた事がないほどの悲痛なそれに、ジャーヴィスは身を固くこわばらせた。
一方、襲いかかる波を乗り切るため、次席航海士のグラッドと共に舵輪を握っているヴィズルは、突如勝手にそれが反対にきられる衝動を感じた。
「グラッド! 押さえろ!!」
「……わかってます!」
ヴィズルの肩ほどまである舵輪は、船を旋回させるためじりじりと、信じられない力で動く。
ヴィズルは歯を食いしばって、それに抗った。
うなりを上げる風や雨の強さは依然衰えない。だから……。
「ロワール! 落ち着けったら!! 俺達を海の藻屑にしたいのかっ!!」
「放して! シャインが海に落ちたのよ! 早く引き返して助けて!」
再び切羽詰まったロワールの声が聞こえた。
「なんだって!」
はっと息を飲むグラッドの四角い顔が自分を見たことから、ヴィズルはロワールの声が船中に聞こえていることを悟った。
ギ……ギギ……ギギ……。
ヴィズルは自分の体重をかけて、ともすれば勝手にロワールが回す舵輪を押さえ込む。
「だからって……馬鹿野郎! もう戻れるわけねーだろうロワール! この風と波を見ろ!!」
「嫌! 嫌よ!! あなたのせいでシャインが海へ落ちたんだから! 早く助けないと……私!」
ヴィズルの藍色の瞳が、悔し気に一瞬だけ細められた。
きつくきつく握りしめた舵輪の柄を、さらに砕かんばかりに力を込める。
「駄目だ! 風が強すぎる。ちょっとでも風上へのコースへ向きを変えてみろ。本当の風の力で船がつぶれちまう! 引き返す事が無理だってこと、あんたが一番よくわかってるはずだぜ、ロワール!!」
動揺しているのは彼女だけではない。
そして戻るべきだと、誰もがきっと思っている。
けれど……そこに厳しい現実があることもわかっている。
船の乗員とその安全を守る事を信条とする、船の精霊なら……絶対に。
なんとかして船を回頭させようとするロワールの力が、突如、ふっと舵輪から消えた。
◇◇◇
「副長! レイディが言っていた事は本当でしょうか!」
「艦長が海へ落ちたのなら、早く助けないと」
ミズンマストの帆を畳む手を止め、水兵達はふりかかる海水にびしょぬれの体を震わせながら、ジャーヴィスを見た。
「わからない。これから確認してくる。お前達はとにかく帆を畳むんだ。フォアマストの帆も忘れずにな」
「わかりました」
ジャーヴィスは後部甲板の階段をかけ下りた。
メインマストの帆は畳まれているため、そこまで障害物のない甲板の視界は非常にクリアだ。
そう……メインマストをすぎ、海図室の前方にそびえるフォアマストが見え、じっと海を見張っている水兵エリックの小柄な姿まで。
甲板の上に張り巡らせた命綱につかまりつつ、ジャーヴィスはゆっくりと、だが、はやる心を抑えてメインマストまで歩いた。
あるべき人影がない。
そう、シャインは何かに呼ばれるように自分の脇をすりぬけて、このメインマストまで行ったのを確かに見たのだ。
あれから10分とたっていないというのに。
船の精霊は嘘をつかない。ジャーヴィスは不安を覚えて、周囲を見回した。
高らかな笑い声を思わせる風に混じって、小さなすすり泣きが聞こえたのはメインマストの右舷側へ来た時だった。
「……クラウス!」
ジャーヴィスはメインマストを支える
近くの上げ綱を握って身の安全を確保してから、ジャーヴィスはクラウスのそばに膝をついた。誰もがそうであるように、クラウスもすっかりずぶ濡れだ。
「クラウス、おい、大丈夫か?」
ジャーヴィスの声にクラウスは小さく体を震わせて、おずおずと顔を上げた。
青色の大きな瞳から涙があふれて、いくつも流れ落ちている。
「ジャーヴィス副長っ……」
クラウスはジャーヴィスにしがみついた。すすり泣きだったそれは、ジャーヴィスの顔を見たせいで安心したのか嗚咽に変わった。
ジャーヴィスがクラウスの肩を抱きしめてやっていたのは、わずかな間だった。
「クラウス、一体何があったんだ、艦長はどうした?」
ジャーヴィスはそっと声をかけた。
候補生が再びパニックに陥らないよう、できるだけ優しく。
クラウスはゆっくりその身をジャーヴィスから放した。依然、手はジャーヴィスの袖をしっかりとつかんでいる。
「僕が船酔いなんてなるから……それで艦長は僕が海に落ちないよう、命綱で縛ってくれて……そうしたら急に甲板が傾いて……」
クラウスは再び身を震わせてすすり泣いた。
彼のほっそりとした腰には、命綱がしっかりと結ばれている。
だからクラウスは助かったのだ。
ジャーヴィスは袖をつかむクラウスの冷えきった手を優しく外した。
「嵐を乗り切るまでここにいろ。わかったな」
涙が止まらないクラウスは、ゆっくりとうなずいて、再び膝に顔をうずめた。
ジャーヴィスは上げ綱につかまりながら立ち上がった。
灰色の海は白い水煙を上げながら、激しい波が逆巻いている。
わかっていても、ジャーヴィスはその波間に目をこらした。
ひょっとしたら……。
認めたくない一心で、その姿が現れる事を期待して。
まばたきすることも忘れて、ジャーヴィスはひたすら海を見つめ続けた。
◇◇◇
激しい雨と風。船を横倒しにしようとする波は夜通し続いて、ジャーヴィス達ロワールハイネス号の乗組員を苦しめた。
だがその南西風に乗り、船は「ノーブルブルー」の待つ海域へ、あと三日という所まで確実に近付いていた。
ロワールハイネス号の白い甲板を、昇りきった太陽の光がさっと照らす。
重苦しい雨雲は遥か後方へ遠ざかり、息を飲む程澄みきった青い空が顔をのぞかせる。
ロワ-ルハイネス号は夜明けと共に弱まってきた風を最大限に受けるため、再び三本のマストすべてに帆を張っていた。
その調整をすませてから、水兵達は風下側の船縁に寄り、膝を抱えて皆眠り込んでいた。
夜通し船を守るために働き詰めだった彼らは、ろくに睡眠も食事もとっていない。そんな乗組員をいたわるように、船は心地よい揺れで走っていた。
まるで大きな揺りかごのように、包み込むように優しく。
ジャーヴィスさえも、フォアマストの後ろにある海図室で、机上に投げ出した腕に頭をのせ眠り込んでいた。海水を吸って濃紺色になった航海服姿のままで。
マストを折らんばかりの風と視界を遮る雨。容赦なくふりそそぐ海水。
船がいつ横倒しになるか、ずっと神経をはりつめさせていた。
やっと風が落ち着いた夜明け前。航路の確認を一番にするため、天測器具の準備をしていたのだが、さすがに泥のような疲労がジャーヴィスを襲ったのだ。
眠り込んでどれほどの時間がたっただろうか。
指一本動かすのも怠惰に思いながら、ジャーヴィスの意識は目覚めつつあった。
ふと漂ってきた、その香りに。
とても良く知った、その香りで。
『何だっただろう……』
未だはっきりしない頭でジャーヴィスは考えた。
目を開けるべきだと思ったが、まぶたの上に何かが乗っているようで重く、体は眠りを求めていた。
しかしいっそう強く漂ってくるその香りに、ジャーヴィスは次の瞬間、目を見開いていた。
「そうだ……シルヴァンティーだ……」
噛みしめるようにつぶやいて、机上から顔を上げたジャーヴィスは、海図室の開け放した右舷側の出入口の床に人影が落ちているのを見た。
誰かが外にいる。
ジャーヴィスは椅子から静かに立ち上がった。