【幕間2】 船霊祭 -一夜限りの魔法-
文字数 3,495文字
「船霊祭ってのはね、年に一度、銀の月ソリンと金の月ドゥリンが、一つに重なる日に行われるお祭りの事よ」
クレセントはロワールハイネス号の船縁に背中を預けながら、右手に持ったグラスをあおり、中の液体を飲み込んだ。
「そ、それは知ってるわ。わからないのは、何で『船鐘』の所にお酒が置いてあるかってこと」
「ああ~そうか。あなた、初めてだったわね」
ハーフムーンがくすっと笑ってロワールの顔を覗き込む。
その手には空のグラスが握られていた。
「じゃ、教えてあげる。私達は船に対する人間の『想い』がないと生きていけない。言い換えるとそれがある限り、人間みたいに飲食する必要がないわ。でもね、『供物』としては別なの。供物には供えてくれた人々の願いが込められているわ。それを摂取することで、私達はより大きな力を得ることができるの」
「大きな力……?」
ロワールはハーフムーンの言う事にわかったような、わからないような、複雑な表情を浮かべた。
「説明よりまずはこれを飲んでみて」
ハーフムーンがロワールハイネス号の『御神酒』――正確には赤ワインだが――ビンを掴むと左手に持った空のグラスへ傾ける。
仄かに薄桃色に光る液体がグラスに満ちた。
けれどビンのコルクは抜かれておらず、中身は全く減っていない。
「これは何?」
「船霊祭の時だけ効力がある、一夜限りの魔法の元よ」
「魔法の元?」
ますますわけがわからない。
二人の妖艶な船のレイディ達は、戸惑うロワールを見てくすくす笑った。
「ロワール。あなた、会いたい人がいるんでしょ?」
「なっ……! な、なんでそれを」
一瞬その場から飛び上がらんばかりにロワールは身じろぎした。
「私達はお互いの考えぐらい読めるでしょ?」
「それを飲んだら会いに行けるわよ」
ハーフムーンが薄桃色に光る液体に満ちたグラスをロワールに手渡す。
ロワールは無意識の内にそれを受け取った。
「さ、早く」
「……」
ロワールは一瞬ためらったのちに、グラスに唇をつけた。
何かが自分の中に入ってくる。それはふんわりとして温かい。
体を真綿で包まれたように。
でも、何かが変わったという印象は感じない。
グラスを干してロワールは息をついた。
やはり、特に大きな変化は感じない。
「でも……私達は船よ。私達は自分の船から動く事ができない。せいぜい動けても、左右両隣の距離でしょ?」
ロワールはハーフムーンとクレセントを交互に見つめた。
「それに――私が会いたい人は……」
ロワールは思い返していた。
それは三週間前の処女航海の時の事。
ジェミナ・クラスへ向かう行きの航海で、ロワールハイネス号は船客を乗せていた。
ディアナ・アリスティド。
例えるなら冬の空に輝く銀月のような静謐さを持ちながら、その内面には炎の如く熱い想いを秘めている女性。
彼女はシャインが乗っているから、ロワールハイネス号への乗船を希望したのだ。
そしてシャインは約束した。
『船霊祭』の日は共に過ごして欲しいという彼女の望みを叶えることを。
そんな約束を交わしたのは、海賊にディアナの命を危険に晒した負い目からだというのは分かっているが。
「あ、ロワール。彼女を知っていたの?」
意外そうな顔をしたのはクレセントだ。
自分の心を読まれるのはあまりいい気がしない。
むっとしながらロワールは呟いた。
「そういうおば――お姉さまこそ、あの人を知っているの?」
クレセントとハーフムーンは互いの顔を見合わせた。
「そうねー」
ふうと長い吐息をつきハーフムーンが物憂げに瞳を伏せる。
「去年、ひと騒動があったからよく覚えているわ」
「騒動?」
「……」
クレセントも頬に手を添えたまま遠い目をしている。
ロワールは急に怒りを覚えた。
彼女達はロワールの知らない大切なことを知っている。
直感でわかる。
「答えなさいよ。お姉さま方。騒動って一体何? シャインも関係しているの?」
その時、クレセントの細くて形の良い指が、ロワールの頬に静かに触れた。
濡れた黒い瞳がロワールの水色の瞳をのぞきこんでいる。
「去年の船霊祭はエルシーア建国祭と重なって、いつもより来賓の数が少なかったわ。でも王都からコードレック王の一人娘、ミュリン王女が来たのよ。船霊祭の夜、アスラトルの港に集まる船が見たかったらしくって」
「ミュリン王女?」
新たな女性の名前。
ロワールは憮然とした表情でクレセントの言葉を待った。
「その時王女を港にご案内したのが、グラヴェール艦長だったの。あ、まだ去年は中尉だったわね、彼。アリスティド統括将が建国祭の方へ海軍代表として行っていたから、去年は彼の父親のグラヴェール中将が船霊祭の責任者だったわけ」
ハーフムーンがその光景を思い出して、ぱっちりとした目を大きく見開く。
「そうそう。ミュリン王女は大層グラヴェール艦長を気に入って、晩餐会の間中、片時も彼のそばから離れようとしなかったわ」
「なっ……なんですってーー!?」
ロワールは急に夢から醒めたように叫んだ。
確かにこれは去年の話で、ロワールハイネス号――ロワールはまだ存在していない。シャインだって木石ではないので、意中の女性がいれば付き合ったりしているはずだ。
ただロワールにとって衝撃だったのは、王女だかなんだか知らないが、彼女が長い間、シャインのそばにいたということである。
ロワールハイネス号にシャインが乗っていれば、ロワールとて常に同じ時を過ごしているように感じるが、実際はそうではない。
シャインがロワールハイネス号に乗るという事は、海軍本部の命令を受けて任務につくということである。当然のことながら艦長になって日の浅いシャインは、まず仕事を優先させて、頭の中はそのことで一杯だ。
彼が部屋に一人でこもっている時、中を覗いてみると、長椅子に身を預けて応接机に足を投げ出し、目を閉じていたりする。
本当に居眠りをしている時もあるが、大抵は考えをめぐらせていたり、一人でいられる貴重な時間を楽しんだりしているのだ。
ロワールはそれを知っているから、いつも話し掛けるタイミングをうかがっている。シャインの邪魔はしたくない。
けれど――本当はそうじゃない。
「……ホント、あの王女様には圧倒されたわよね」
一言叫んですぐ黙り込んだロワールを尻目に、クレセントとハーフムーンは話を続けていた。
「晩餐会が終わってから、王女は宿舎のアリスティド公爵邸にまで、グラヴェール艦長を連れていくと言い出したんだものねー」
「そうそう。おつきの長官達はオロオロしちゃうし、グラヴェール艦長は王女をなだめるんだけど、元々優しいカオしてるから、ちっとも王女は聞き入れなくて……」
「そ、それでどうしたの!? まさかシャイン、行っちゃったわけ!?」
話があらぬ方向に展開したので、ロワールは目を見開きながらクレセントを肘でこずいた。クレセントはそれに顔をしかめつつ、ぷっと小さく吹き出してロワールを見つめた。
「さすがにそれはマズイでしょ。だって、グラヴェール艦長には婚約者がいるんだから」
「……」
ロワールはますます水色の玻璃のような瞳を見開き、声にならない声で口をぱくぱくさせた。
「こんやくしゃっていうのは――」
「結婚の約束を交した女性がいるってことよ。こう言えばわかるかしら? ロワール?」
ロワールはしばし石像のように体を強ばらせていた。
頭の中が混乱している。
「ねえ、クレセント。ハーフムーン。その……」
「なあに?」
「そのシャインの婚約者って、ひょっとして私の知っている――彼女?」
クレセントとハーフムーンは顔を見合わせた。そして視線が合うと、いたずらっぽい笑みを浮かべてうなずいた。
「自分の目で見てきたらどう?」
「……えっ?」
「自分自身の目で『真実』を確認してきなさい」
クレセントの切れ長の瞳が意味ありげに煌めいた。
「それにあなた、グラヴェール艦長に会いたいんでしょ?」
「そ、それは……そうだけど……」
「今更何を迷う必要があって?」
ハーフムーンが優しく微笑んでいる。
クレセントも頷いている。
「大丈夫よ」
「一緒に私達も行ってあ・げ・る・か・ら」
ロワールは不意に右手をクレセント、左手をハーフムーンにつかまれて、きょろきょろと二人の顔を交互に見つめた。
「どういう意味? 見に行くって? だって、私達は……船から動けるわけじゃ……あっ!」
「いいからいいから。おねえさん達に任せなさーい」
「任せるって、えええーーー!?」
クレセントはバラの花が一気に開くようなまぶしい微笑みを浮かべつつ、ロワールの手を自分の方へ引いた。
クレセントはロワールハイネス号の船縁に背中を預けながら、右手に持ったグラスをあおり、中の液体を飲み込んだ。
「そ、それは知ってるわ。わからないのは、何で『船鐘』の所にお酒が置いてあるかってこと」
「ああ~そうか。あなた、初めてだったわね」
ハーフムーンがくすっと笑ってロワールの顔を覗き込む。
その手には空のグラスが握られていた。
「じゃ、教えてあげる。私達は船に対する人間の『想い』がないと生きていけない。言い換えるとそれがある限り、人間みたいに飲食する必要がないわ。でもね、『供物』としては別なの。供物には供えてくれた人々の願いが込められているわ。それを摂取することで、私達はより大きな力を得ることができるの」
「大きな力……?」
ロワールはハーフムーンの言う事にわかったような、わからないような、複雑な表情を浮かべた。
「説明よりまずはこれを飲んでみて」
ハーフムーンがロワールハイネス号の『御神酒』――正確には赤ワインだが――ビンを掴むと左手に持った空のグラスへ傾ける。
仄かに薄桃色に光る液体がグラスに満ちた。
けれどビンのコルクは抜かれておらず、中身は全く減っていない。
「これは何?」
「船霊祭の時だけ効力がある、一夜限りの魔法の元よ」
「魔法の元?」
ますますわけがわからない。
二人の妖艶な船のレイディ達は、戸惑うロワールを見てくすくす笑った。
「ロワール。あなた、会いたい人がいるんでしょ?」
「なっ……! な、なんでそれを」
一瞬その場から飛び上がらんばかりにロワールは身じろぎした。
「私達はお互いの考えぐらい読めるでしょ?」
「それを飲んだら会いに行けるわよ」
ハーフムーンが薄桃色に光る液体に満ちたグラスをロワールに手渡す。
ロワールは無意識の内にそれを受け取った。
「さ、早く」
「……」
ロワールは一瞬ためらったのちに、グラスに唇をつけた。
何かが自分の中に入ってくる。それはふんわりとして温かい。
体を真綿で包まれたように。
でも、何かが変わったという印象は感じない。
グラスを干してロワールは息をついた。
やはり、特に大きな変化は感じない。
「でも……私達は船よ。私達は自分の船から動く事ができない。せいぜい動けても、左右両隣の距離でしょ?」
ロワールはハーフムーンとクレセントを交互に見つめた。
「それに――私が会いたい人は……」
ロワールは思い返していた。
それは三週間前の処女航海の時の事。
ジェミナ・クラスへ向かう行きの航海で、ロワールハイネス号は船客を乗せていた。
ディアナ・アリスティド。
例えるなら冬の空に輝く銀月のような静謐さを持ちながら、その内面には炎の如く熱い想いを秘めている女性。
彼女はシャインが乗っているから、ロワールハイネス号への乗船を希望したのだ。
そしてシャインは約束した。
『船霊祭』の日は共に過ごして欲しいという彼女の望みを叶えることを。
そんな約束を交わしたのは、海賊にディアナの命を危険に晒した負い目からだというのは分かっているが。
「あ、ロワール。彼女を知っていたの?」
意外そうな顔をしたのはクレセントだ。
自分の心を読まれるのはあまりいい気がしない。
むっとしながらロワールは呟いた。
「そういうおば――お姉さまこそ、あの人を知っているの?」
クレセントとハーフムーンは互いの顔を見合わせた。
「そうねー」
ふうと長い吐息をつきハーフムーンが物憂げに瞳を伏せる。
「去年、ひと騒動があったからよく覚えているわ」
「騒動?」
「……」
クレセントも頬に手を添えたまま遠い目をしている。
ロワールは急に怒りを覚えた。
彼女達はロワールの知らない大切なことを知っている。
直感でわかる。
「答えなさいよ。お姉さま方。騒動って一体何? シャインも関係しているの?」
その時、クレセントの細くて形の良い指が、ロワールの頬に静かに触れた。
濡れた黒い瞳がロワールの水色の瞳をのぞきこんでいる。
「去年の船霊祭はエルシーア建国祭と重なって、いつもより来賓の数が少なかったわ。でも王都からコードレック王の一人娘、ミュリン王女が来たのよ。船霊祭の夜、アスラトルの港に集まる船が見たかったらしくって」
「ミュリン王女?」
新たな女性の名前。
ロワールは憮然とした表情でクレセントの言葉を待った。
「その時王女を港にご案内したのが、グラヴェール艦長だったの。あ、まだ去年は中尉だったわね、彼。アリスティド統括将が建国祭の方へ海軍代表として行っていたから、去年は彼の父親のグラヴェール中将が船霊祭の責任者だったわけ」
ハーフムーンがその光景を思い出して、ぱっちりとした目を大きく見開く。
「そうそう。ミュリン王女は大層グラヴェール艦長を気に入って、晩餐会の間中、片時も彼のそばから離れようとしなかったわ」
「なっ……なんですってーー!?」
ロワールは急に夢から醒めたように叫んだ。
確かにこれは去年の話で、ロワールハイネス号――ロワールはまだ存在していない。シャインだって木石ではないので、意中の女性がいれば付き合ったりしているはずだ。
ただロワールにとって衝撃だったのは、王女だかなんだか知らないが、彼女が長い間、シャインのそばにいたということである。
ロワールハイネス号にシャインが乗っていれば、ロワールとて常に同じ時を過ごしているように感じるが、実際はそうではない。
シャインがロワールハイネス号に乗るという事は、海軍本部の命令を受けて任務につくということである。当然のことながら艦長になって日の浅いシャインは、まず仕事を優先させて、頭の中はそのことで一杯だ。
彼が部屋に一人でこもっている時、中を覗いてみると、長椅子に身を預けて応接机に足を投げ出し、目を閉じていたりする。
本当に居眠りをしている時もあるが、大抵は考えをめぐらせていたり、一人でいられる貴重な時間を楽しんだりしているのだ。
ロワールはそれを知っているから、いつも話し掛けるタイミングをうかがっている。シャインの邪魔はしたくない。
けれど――本当はそうじゃない。
「……ホント、あの王女様には圧倒されたわよね」
一言叫んですぐ黙り込んだロワールを尻目に、クレセントとハーフムーンは話を続けていた。
「晩餐会が終わってから、王女は宿舎のアリスティド公爵邸にまで、グラヴェール艦長を連れていくと言い出したんだものねー」
「そうそう。おつきの長官達はオロオロしちゃうし、グラヴェール艦長は王女をなだめるんだけど、元々優しいカオしてるから、ちっとも王女は聞き入れなくて……」
「そ、それでどうしたの!? まさかシャイン、行っちゃったわけ!?」
話があらぬ方向に展開したので、ロワールは目を見開きながらクレセントを肘でこずいた。クレセントはそれに顔をしかめつつ、ぷっと小さく吹き出してロワールを見つめた。
「さすがにそれはマズイでしょ。だって、グラヴェール艦長には婚約者がいるんだから」
「……」
ロワールはますます水色の玻璃のような瞳を見開き、声にならない声で口をぱくぱくさせた。
「こんやくしゃっていうのは――」
「結婚の約束を交した女性がいるってことよ。こう言えばわかるかしら? ロワール?」
ロワールはしばし石像のように体を強ばらせていた。
頭の中が混乱している。
「ねえ、クレセント。ハーフムーン。その……」
「なあに?」
「そのシャインの婚約者って、ひょっとして私の知っている――彼女?」
クレセントとハーフムーンは顔を見合わせた。そして視線が合うと、いたずらっぽい笑みを浮かべてうなずいた。
「自分の目で見てきたらどう?」
「……えっ?」
「自分自身の目で『真実』を確認してきなさい」
クレセントの切れ長の瞳が意味ありげに煌めいた。
「それにあなた、グラヴェール艦長に会いたいんでしょ?」
「そ、それは……そうだけど……」
「今更何を迷う必要があって?」
ハーフムーンが優しく微笑んでいる。
クレセントも頷いている。
「大丈夫よ」
「一緒に私達も行ってあ・げ・る・か・ら」
ロワールは不意に右手をクレセント、左手をハーフムーンにつかまれて、きょろきょろと二人の顔を交互に見つめた。
「どういう意味? 見に行くって? だって、私達は……船から動けるわけじゃ……あっ!」
「いいからいいから。おねえさん達に任せなさーい」
「任せるって、えええーーー!?」
クレセントはバラの花が一気に開くようなまぶしい微笑みを浮かべつつ、ロワールの手を自分の方へ引いた。