【幕間2】 船霊祭 -惹きあうもの-
文字数 5,791文字
一方ロワールは階段を上がり、大広間へと続く廊下を、きょろきょろしながら歩いていた。もとい、よろめいていた。
「ああ、もうっ。何か体が重くて、いつもの感覚で動けないわ」
ロワールは壁に支えを求めるように手をついた。
『あまり無理な動きはしないことね。私達は『船の精霊』。この体は船から離れて動くための、今夜限りのかりそめのものなんだから。わかった?』
「はいはい。いまそれをよぉっく、思い知らされているところよ。お姉様方」
ロワールは寄り掛かっていた壁際から離れ、大きく息をついて廊下の奥へ視線を向けた。廊下には濃紺の絨毯が真直ぐに敷かれており、天井は多面カットが施された水晶のシャンデリアがいくつも吊され、壁際に灯されている銀のランプの光を受けて、それが星のようにきらきらと瞬いている。
なんとも豪奢な廊下だが、ロワールはそれらに興味は感じなかったし目もくれなかった。それよりも、廊下の奥からは、先程から楽しそうな音楽が聞こえてくる。
ロワールはそれに誘われて、エントランスホールの階段を思わず上がってしまったのだった。
「あの音が聞こえる所に、たくさんの人間がいるのがわかるわ。だからきっと……」
シャインもそこにいるはずだ。
――シャインに会える。
そう思った途端、動きにくいこの体の違和感は薄れていった。
自然とつま先に力が入り、床を軽く蹴って前に歩いていく。
「あら、結構簡単じゃない。さっきまでこの足、ちっとも動こうとしなかったのに」
ロワールは急に気分が高揚してきて、思わずにんまりと笑みを浮かべた。
ロワールも含め、船の精霊は、こうして地に足をつけて歩くことをしない。人の姿をとっていても、船にいる時は移動したい場所を念じれば、瞬時にそこへ行くことができるから。
だから『歩く』という動作に慣れるまで、実は一時間ほどかかってしまったのだ。クレセント達が『待ち合わせの時間に遅れるじゃない~』と文句を言うのを、いまいましい思いで聞きながら。
そしてパーティーに着ていくドレスを選ぶのにも時間を食ってしまった。
クレセントとハーフムーンが、まるで着せ替え人形をして遊ぶように、呉服屋の主人を悩ませながら、ロワールに『これはどう?』『こっちの方がかわいいわ』とか言って、とっかえひっかえドレスを持ってくるのだ。
結局ロワールは自分で選んだ。赤い髪の自分には派手かと感じたが、この色でないと嫌だと思った。
それはエルシーアの海のように深い青緑色のドレス。手編みの細かいレースが表に縫い付けられていて、その下から光沢を放つ青緑色のベロアの生地が透かし彫りのように浮かび上がっている。
そして首回りが大きく開いた胸元には、いくつもリボンがついている。
ドレスの丈はくるぶしが隠れるほどだったので、裾を踏み付けて転ぶこともない。
クレセントとハーフムーンはよく似合うと言ってくれた。
この姿をシャインが見たら何というだろうか。
物思いにふけっていたロワールは、つと歩く足を止めた。
眼前には観音開きに開かれた扉があり、天井から降り注ぐ明るいシャンデリアの光の中で、大勢の人間達がくるくると円を描いて回っている。
海軍の男性士官達は全員白い礼装の上に、同じく白いマントを羽織っているので、赤や青など、色とりどりのドレスをまとった女性達が実に華やかに見える。
ロワールの目前では、三十名ほどの男女が互いの肩に腕を回し、軽やかな円舞曲の調べに合わせて、ダンスに興じているまっ最中だった。
その奥には白いテーブルクロスがかかった円卓が幾つも並び、酒や料理を口に運びながら談笑している人々がいるのも見える。
とにかく、ロワールはその場の雰囲気に圧倒されていた。こんなに沢山の人間が集まっている場所へ、来たことがなかったからだ。
「失礼ですが。そこ、ちょっと通して頂けませんかね。お嬢さん 」
「あっ」
不意に背後からやってきた二十代の青年士官に声をかけられ、ロワールは思わず大広間の中に足を踏み入れた。ぴかぴかに磨かれている大理石の床に、足が滑るのではないかと身構える。けれどロワールは転ばずに済んだ。
青年士官は申し訳ないといわんばかりに、にこやかにロワールに向かって軽く会釈すると、そそくさと人込みの中へと消えていった。
「ああ、驚いた。でも、私があんなところで立っているのが悪かったわね」
誰かが中に入る時、また邪魔になったら大変だ。
ロワールは急いで出入口のすぐ脇の壁際に立ったが、それ以上前に進む勇気がどうしても湧いてこない。目の前では大勢の男女が実に楽しそうに、マントや華やかなドレスの裾をひらめかせながら舞っているから。
それらをただ呆然と見つめながら、ロワールは今ここに自分がいることが、とてつもなく場違いに思えてきた。クレセントやハーフムーンが側にいてくれたら、自分が何をするべきかきっと教えてくれるだろうが、彼女達も親しい人間に会うためにここへ来たのだから、わざわざそれを邪魔するわけにはいかない。
「そうよ……私は、シャインに会いに来たんだから」
ロワールは大きくうなずいた。
何回かそれを口の中でつぶやくと、心の中の不安は形を潜めたようだった。
思いきって顔を上げ背筋を伸ばし、大広間へと視線を向ける。
シャインはどこだろう。この中にいるはずなのだ。
姿はまだ見えないけれど、ここにいるというのはわかる。
感じる。絶対に。
「あっ……」
ふとロワールはダンスに興じる人々の間に、見知った人間がいることに気が付いた。部屋の中央で、背の高い茶髪の士官と、細身の赤いロングドレスに身を包んだ女性が踊っている。
まぎれもなくそれは、ロワールハイネス号の副長ジャーヴィスと、ファラグレール号の艦長であるリーザだった。
二人の息はぴったりと合っていて、ジャーヴィスの確かで力強いリードにリーザはすっかり身を任せている。普段はきつい印象を感じてしまう彼女だが、今は安心しきったように穏やかで晴れ晴れとした笑みを浮かべている。
曲が何時終わったかわからないほど、二人のダンスは見事なものだった。
ジャーヴィスとリーザは互いの手を取り合い、周囲で拍手を送る他の士官や淑女たちに頭を垂れて礼を返した。
それを見つめながらロワールは、自分の心の中に温かいものが満ちていくのを感じていた。
「ジャーヴィス副長、リーザさんのことが好きなくせに、なんかもう、じれったいなぁ~」
ジャーヴィスとリーザは取り合っていた手を離し、驚いたように顔を見合わせて、ロワ-ルに気付くことなく並んで歩み去っていく。リーザに向けられたジャ-ヴィスの横顔には、普段クールな彼らしくなく、実に照れくさそうな苦笑が浮かんでいた。
ジャーヴィスとリーザはさらに少し奥まで歩いて、そこで待っていたのだろう、金髪を弁髪にした士官と、彼に連れ添うように立っている若い金髪の女性の所で立ち止まった。
まるで今度は二人の番だといわんばかりに、リーザが士官の肩を押すのが見える。
紛れもなくそれはシャインだった。
「……!」
彼も他の士官達と同じように、航海服と同じデザインだが、色は白い礼装に身を包んでいた。けれどマントはどこかに置いてきたのか羽織っていない。
ロワールは思わず右手で口元を押さえ、自分とさほど変わらない(外見)年齢の女性を伴い、こちらへと歩いてくるシャインの姿を見つめた。
シャインが先程ジャーヴィスとリーザが踊っていた場所に陣取ると、ロワールの見知らぬ若い女性が、手袋をはめた手をシャインの肩にそっと乗せた。
シャインはこちらへ背を向けているので、彼がどんな表情を浮かべているのかロワールには見ることができない。けれど、ダンスの相手の女性は、頬を上気させて熱っぽい光をたたえた瞳で、シャインを見上げている。
夢でも見ているような、ふわふわとした危うげな表情で――。
「……」
ロワールは口元を押さえていた手が、自然と拳を作っていることすら気付くことなく、ただシャインの背中を見つめ続けていた。
ふと思い出したのだ。
海軍本部に入る時に見た、ディアナの顔を。
彼女はもともと色白の肌なのだろうが、それを一層青ざめさせて、思いつめた硬い表情で迎えの馬車に乗り込んだ。
シャインは彼女を見送らなかった。彼女はシャインにとって特別な人であるはずなのに。けれど彼は今ここで、何事もなかったように他の女性とダンスに興じようとしている。
一体何があったのだろう。
ディアナの表情に、胸が苦しくなるほどの切なさを感じたせいか、平然としているシャインに、一抹の怒りを覚えずにはいられない。
ロワールは唇をきゅっと噛みしめ、胸に複雑な思いを抱きながら、片時もシャインから視線を外さなかった。
やがて大広間の右手に控えている楽団が音楽を奏で出した。先程よりも伸びやかで、少しテンポがゆっくりな曲だ。それにあわせて、ダンスをする人々が一斉に左回りへ踊りながら移動していく。大広間にそってぐるりと回っていくダンスのようだ。
当然のごとく、シャインがこちらへ近付いてくることをロワールは意識した。曲の音に外れないようステップを踏みながら、相手の女性の腰に手を置き、前を見据えるシャインの横顔が、人々の肩ごしにちらりと見える。
シャインの顔がもっと見たくて、ロワールは壁際に立ったままその場を動かなかった。あと二回ターンをしたら、さらに彼は近付いてくる。
触れることはできないけれど、声をかければ聞こえるぐらいの距離まで。
先程少しだけ見えたシャインの顔は、普段と変わらぬ――うれしいとか、楽しいとか、そういう表情を大きく見せることなく、今はただダンスのことに意識を向けているといった感じだった。
ジャーヴィスとリーザのダンスの方が、情熱的で素敵だったせいか、シャインのそれは下手ではないにしろ、素人目から見ても硬さを感じた。
そんなことを思っているうちに、ロワールの目の前(といっても20歩ぐらいの距離があるが)を、濃い金髪の口ひげを蓄えた男性と、ふくよかな体つきの三十代の女性が、ひらりと濃紺のドレスの裾をひるがえして通り過ぎていった。
それを見てロワールは我に返った。あの二人はシャインの前にいた連中だ。顔を上げたその時、シャインはロワールの正面に最も近付いていた。
その場で一回くるりと回り、大広間を左回りに進むため、顔をまっすぐ前に向けたまま左足を踏み出す。
その時――。
シャインの幾分硬かった表情が、一瞬のうちに強ばった。ややつり上がった青緑の瞳が、いつもよりずっと大きく見開かれている。
ロワールはただ、吸い込まれたようにシャインの瞳を見つめていた。
そう。
ダンスをしているシャインと、壁際でたたずんでいたロワールの目が、ぴたりと合ってしまったのだ。
『……ロワール!?』
驚きのあまり、思わず発したシャインの心の声がはっきりと聞こえた。
同時に、鋭い女性の悲鳴も。
「きゃあぁぁっ!」
ロワールは一瞬出そうになった自分の声を必死になって抑えた。
なんとシャインはその場に立ち止まっていたのだ。ロワールに気を取られて。
しかし、シャインのリードに合わせてステップを踏んでいた相手の女性は、彼が急に立ち止まったことにより、前に出した足の勢いを止められず、前のめりに体が傾いて、それで彼女は悲鳴をあげた。
我に返ったシャインはすぐさま右手を伸ばし、抱え込むようにして女性の体を受け止め、かろうじて床に倒れ伏すのを防いだ。しかしほっとしたのも束の間で、シャインの後ろからは、ダンスをする人間が次々とやってくる。
「なにやってるんだ!」
「ちょっとどいて下さらない?」
踊りの輪が崩れた。シャインはなんとかダンス相手の女性を立たせると、後ろからやってくる人間と肩をぶつけあいながら、いそいそとその場を離れる。
「一体どうなさったんですの!? シャイン様。私、今本当にこわかったですわ」
シャインとダンスをしていた例の女性が、わなわなと青ざめた唇を震わせて叫んでいる。シャインとその女性は、背を向けたロワールから少し離れた壁際へ人目を避けるように歩いていった。
振り向けばそこにはシャインがいる。だがロワールにはそんな勇気がなかった。シャインがロワールの姿を見れば、驚くのはわかりきったことだ。
だからシャインのダンスを中断させた原因は自分にある。
「スディアス財閥令嬢……お怪我はないですか。本当に申し訳ありません」
自分の失態を詫びるシャインの低い声が、その内容をはっきりと聞き取れるくらい近くで聞こえてくる。
そして相手の――財閥令嬢の怒り心頭に満ちたとげとげしい声も。
「怪我はありません。あなたのお陰で。けれど、私、このような恥ずかしい思いをしたのは初めてです」
「すみません。少し――考え事をしていまして。それで……思わず立ち止まってしまい――」
パン!
ロワールは背後から聞こえたその鋭い音に、全身が震えるほどの衝撃を感じ、たまらず振り返った。それは実際大きな音ではなかったが、ロワールには、耳元で両手を打ち鳴らされた時のように強く聞こえたのだ。
目に入ってきた光景は、両目に涙を一杯に溜めた財閥令嬢が、右手を振り下ろした姿勢でシャインをにらみつけている所だった。
シャインは乱れた前髪を払おうともせず、うなだれたまま令嬢の前に立っている。
「そんな見えすいた言い訳で私の事を侮辱なさるなんて……あんまりだとは思いませんか!?」
財閥令嬢の声にシャインがそっと頭を起こした。
「あなたを? とんでもない! 俺はそんなつもりでは――」
財閥令嬢は肩に流れ落ちる金髪を振り乱す程の勢いで、激しく首を左右に振った。
「いいえ、これは侮辱です。ダンスをしているのは私なのに、その時だけは私を見ていて欲しかったのに! あなたは他の女性に気を取られました」
すっと財閥令嬢の指が前方に伸ばされたかと思うと、それはシャインから少し離れた所に立っているロワールへと向けられた。
同時に財閥令嬢は、ひたとロワールへ凍りつくような鋭い視線を投げ付けた。
可憐な外見からは想像できないぐらい、敵意に満ちた、恐ろしい視線だった。
「ご覧になっていたのはあの赤毛の女性でしょう? シャイン様!」
「ああ、もうっ。何か体が重くて、いつもの感覚で動けないわ」
ロワールは壁に支えを求めるように手をついた。
『あまり無理な動きはしないことね。私達は『船の精霊』。この体は船から離れて動くための、今夜限りのかりそめのものなんだから。わかった?』
「はいはい。いまそれをよぉっく、思い知らされているところよ。お姉様方」
ロワールは寄り掛かっていた壁際から離れ、大きく息をついて廊下の奥へ視線を向けた。廊下には濃紺の絨毯が真直ぐに敷かれており、天井は多面カットが施された水晶のシャンデリアがいくつも吊され、壁際に灯されている銀のランプの光を受けて、それが星のようにきらきらと瞬いている。
なんとも豪奢な廊下だが、ロワールはそれらに興味は感じなかったし目もくれなかった。それよりも、廊下の奥からは、先程から楽しそうな音楽が聞こえてくる。
ロワールはそれに誘われて、エントランスホールの階段を思わず上がってしまったのだった。
「あの音が聞こえる所に、たくさんの人間がいるのがわかるわ。だからきっと……」
シャインもそこにいるはずだ。
――シャインに会える。
そう思った途端、動きにくいこの体の違和感は薄れていった。
自然とつま先に力が入り、床を軽く蹴って前に歩いていく。
「あら、結構簡単じゃない。さっきまでこの足、ちっとも動こうとしなかったのに」
ロワールは急に気分が高揚してきて、思わずにんまりと笑みを浮かべた。
ロワールも含め、船の精霊は、こうして地に足をつけて歩くことをしない。人の姿をとっていても、船にいる時は移動したい場所を念じれば、瞬時にそこへ行くことができるから。
だから『歩く』という動作に慣れるまで、実は一時間ほどかかってしまったのだ。クレセント達が『待ち合わせの時間に遅れるじゃない~』と文句を言うのを、いまいましい思いで聞きながら。
そしてパーティーに着ていくドレスを選ぶのにも時間を食ってしまった。
クレセントとハーフムーンが、まるで着せ替え人形をして遊ぶように、呉服屋の主人を悩ませながら、ロワールに『これはどう?』『こっちの方がかわいいわ』とか言って、とっかえひっかえドレスを持ってくるのだ。
結局ロワールは自分で選んだ。赤い髪の自分には派手かと感じたが、この色でないと嫌だと思った。
それはエルシーアの海のように深い青緑色のドレス。手編みの細かいレースが表に縫い付けられていて、その下から光沢を放つ青緑色のベロアの生地が透かし彫りのように浮かび上がっている。
そして首回りが大きく開いた胸元には、いくつもリボンがついている。
ドレスの丈はくるぶしが隠れるほどだったので、裾を踏み付けて転ぶこともない。
クレセントとハーフムーンはよく似合うと言ってくれた。
この姿をシャインが見たら何というだろうか。
物思いにふけっていたロワールは、つと歩く足を止めた。
眼前には観音開きに開かれた扉があり、天井から降り注ぐ明るいシャンデリアの光の中で、大勢の人間達がくるくると円を描いて回っている。
海軍の男性士官達は全員白い礼装の上に、同じく白いマントを羽織っているので、赤や青など、色とりどりのドレスをまとった女性達が実に華やかに見える。
ロワールの目前では、三十名ほどの男女が互いの肩に腕を回し、軽やかな円舞曲の調べに合わせて、ダンスに興じているまっ最中だった。
その奥には白いテーブルクロスがかかった円卓が幾つも並び、酒や料理を口に運びながら談笑している人々がいるのも見える。
とにかく、ロワールはその場の雰囲気に圧倒されていた。こんなに沢山の人間が集まっている場所へ、来たことがなかったからだ。
「失礼ですが。そこ、ちょっと通して頂けませんかね。
「あっ」
不意に背後からやってきた二十代の青年士官に声をかけられ、ロワールは思わず大広間の中に足を踏み入れた。ぴかぴかに磨かれている大理石の床に、足が滑るのではないかと身構える。けれどロワールは転ばずに済んだ。
青年士官は申し訳ないといわんばかりに、にこやかにロワールに向かって軽く会釈すると、そそくさと人込みの中へと消えていった。
「ああ、驚いた。でも、私があんなところで立っているのが悪かったわね」
誰かが中に入る時、また邪魔になったら大変だ。
ロワールは急いで出入口のすぐ脇の壁際に立ったが、それ以上前に進む勇気がどうしても湧いてこない。目の前では大勢の男女が実に楽しそうに、マントや華やかなドレスの裾をひらめかせながら舞っているから。
それらをただ呆然と見つめながら、ロワールは今ここに自分がいることが、とてつもなく場違いに思えてきた。クレセントやハーフムーンが側にいてくれたら、自分が何をするべきかきっと教えてくれるだろうが、彼女達も親しい人間に会うためにここへ来たのだから、わざわざそれを邪魔するわけにはいかない。
「そうよ……私は、シャインに会いに来たんだから」
ロワールは大きくうなずいた。
何回かそれを口の中でつぶやくと、心の中の不安は形を潜めたようだった。
思いきって顔を上げ背筋を伸ばし、大広間へと視線を向ける。
シャインはどこだろう。この中にいるはずなのだ。
姿はまだ見えないけれど、ここにいるというのはわかる。
感じる。絶対に。
「あっ……」
ふとロワールはダンスに興じる人々の間に、見知った人間がいることに気が付いた。部屋の中央で、背の高い茶髪の士官と、細身の赤いロングドレスに身を包んだ女性が踊っている。
まぎれもなくそれは、ロワールハイネス号の副長ジャーヴィスと、ファラグレール号の艦長であるリーザだった。
二人の息はぴったりと合っていて、ジャーヴィスの確かで力強いリードにリーザはすっかり身を任せている。普段はきつい印象を感じてしまう彼女だが、今は安心しきったように穏やかで晴れ晴れとした笑みを浮かべている。
曲が何時終わったかわからないほど、二人のダンスは見事なものだった。
ジャーヴィスとリーザは互いの手を取り合い、周囲で拍手を送る他の士官や淑女たちに頭を垂れて礼を返した。
それを見つめながらロワールは、自分の心の中に温かいものが満ちていくのを感じていた。
「ジャーヴィス副長、リーザさんのことが好きなくせに、なんかもう、じれったいなぁ~」
ジャーヴィスとリーザは取り合っていた手を離し、驚いたように顔を見合わせて、ロワ-ルに気付くことなく並んで歩み去っていく。リーザに向けられたジャ-ヴィスの横顔には、普段クールな彼らしくなく、実に照れくさそうな苦笑が浮かんでいた。
ジャーヴィスとリーザはさらに少し奥まで歩いて、そこで待っていたのだろう、金髪を弁髪にした士官と、彼に連れ添うように立っている若い金髪の女性の所で立ち止まった。
まるで今度は二人の番だといわんばかりに、リーザが士官の肩を押すのが見える。
紛れもなくそれはシャインだった。
「……!」
彼も他の士官達と同じように、航海服と同じデザインだが、色は白い礼装に身を包んでいた。けれどマントはどこかに置いてきたのか羽織っていない。
ロワールは思わず右手で口元を押さえ、自分とさほど変わらない(外見)年齢の女性を伴い、こちらへと歩いてくるシャインの姿を見つめた。
シャインが先程ジャーヴィスとリーザが踊っていた場所に陣取ると、ロワールの見知らぬ若い女性が、手袋をはめた手をシャインの肩にそっと乗せた。
シャインはこちらへ背を向けているので、彼がどんな表情を浮かべているのかロワールには見ることができない。けれど、ダンスの相手の女性は、頬を上気させて熱っぽい光をたたえた瞳で、シャインを見上げている。
夢でも見ているような、ふわふわとした危うげな表情で――。
「……」
ロワールは口元を押さえていた手が、自然と拳を作っていることすら気付くことなく、ただシャインの背中を見つめ続けていた。
ふと思い出したのだ。
海軍本部に入る時に見た、ディアナの顔を。
彼女はもともと色白の肌なのだろうが、それを一層青ざめさせて、思いつめた硬い表情で迎えの馬車に乗り込んだ。
シャインは彼女を見送らなかった。彼女はシャインにとって特別な人であるはずなのに。けれど彼は今ここで、何事もなかったように他の女性とダンスに興じようとしている。
一体何があったのだろう。
ディアナの表情に、胸が苦しくなるほどの切なさを感じたせいか、平然としているシャインに、一抹の怒りを覚えずにはいられない。
ロワールは唇をきゅっと噛みしめ、胸に複雑な思いを抱きながら、片時もシャインから視線を外さなかった。
やがて大広間の右手に控えている楽団が音楽を奏で出した。先程よりも伸びやかで、少しテンポがゆっくりな曲だ。それにあわせて、ダンスをする人々が一斉に左回りへ踊りながら移動していく。大広間にそってぐるりと回っていくダンスのようだ。
当然のごとく、シャインがこちらへ近付いてくることをロワールは意識した。曲の音に外れないようステップを踏みながら、相手の女性の腰に手を置き、前を見据えるシャインの横顔が、人々の肩ごしにちらりと見える。
シャインの顔がもっと見たくて、ロワールは壁際に立ったままその場を動かなかった。あと二回ターンをしたら、さらに彼は近付いてくる。
触れることはできないけれど、声をかければ聞こえるぐらいの距離まで。
先程少しだけ見えたシャインの顔は、普段と変わらぬ――うれしいとか、楽しいとか、そういう表情を大きく見せることなく、今はただダンスのことに意識を向けているといった感じだった。
ジャーヴィスとリーザのダンスの方が、情熱的で素敵だったせいか、シャインのそれは下手ではないにしろ、素人目から見ても硬さを感じた。
そんなことを思っているうちに、ロワールの目の前(といっても20歩ぐらいの距離があるが)を、濃い金髪の口ひげを蓄えた男性と、ふくよかな体つきの三十代の女性が、ひらりと濃紺のドレスの裾をひるがえして通り過ぎていった。
それを見てロワールは我に返った。あの二人はシャインの前にいた連中だ。顔を上げたその時、シャインはロワールの正面に最も近付いていた。
その場で一回くるりと回り、大広間を左回りに進むため、顔をまっすぐ前に向けたまま左足を踏み出す。
その時――。
シャインの幾分硬かった表情が、一瞬のうちに強ばった。ややつり上がった青緑の瞳が、いつもよりずっと大きく見開かれている。
ロワールはただ、吸い込まれたようにシャインの瞳を見つめていた。
そう。
ダンスをしているシャインと、壁際でたたずんでいたロワールの目が、ぴたりと合ってしまったのだ。
『……ロワール!?』
驚きのあまり、思わず発したシャインの心の声がはっきりと聞こえた。
同時に、鋭い女性の悲鳴も。
「きゃあぁぁっ!」
ロワールは一瞬出そうになった自分の声を必死になって抑えた。
なんとシャインはその場に立ち止まっていたのだ。ロワールに気を取られて。
しかし、シャインのリードに合わせてステップを踏んでいた相手の女性は、彼が急に立ち止まったことにより、前に出した足の勢いを止められず、前のめりに体が傾いて、それで彼女は悲鳴をあげた。
我に返ったシャインはすぐさま右手を伸ばし、抱え込むようにして女性の体を受け止め、かろうじて床に倒れ伏すのを防いだ。しかしほっとしたのも束の間で、シャインの後ろからは、ダンスをする人間が次々とやってくる。
「なにやってるんだ!」
「ちょっとどいて下さらない?」
踊りの輪が崩れた。シャインはなんとかダンス相手の女性を立たせると、後ろからやってくる人間と肩をぶつけあいながら、いそいそとその場を離れる。
「一体どうなさったんですの!? シャイン様。私、今本当にこわかったですわ」
シャインとダンスをしていた例の女性が、わなわなと青ざめた唇を震わせて叫んでいる。シャインとその女性は、背を向けたロワールから少し離れた壁際へ人目を避けるように歩いていった。
振り向けばそこにはシャインがいる。だがロワールにはそんな勇気がなかった。シャインがロワールの姿を見れば、驚くのはわかりきったことだ。
だからシャインのダンスを中断させた原因は自分にある。
「スディアス財閥令嬢……お怪我はないですか。本当に申し訳ありません」
自分の失態を詫びるシャインの低い声が、その内容をはっきりと聞き取れるくらい近くで聞こえてくる。
そして相手の――財閥令嬢の怒り心頭に満ちたとげとげしい声も。
「怪我はありません。あなたのお陰で。けれど、私、このような恥ずかしい思いをしたのは初めてです」
「すみません。少し――考え事をしていまして。それで……思わず立ち止まってしまい――」
パン!
ロワールは背後から聞こえたその鋭い音に、全身が震えるほどの衝撃を感じ、たまらず振り返った。それは実際大きな音ではなかったが、ロワールには、耳元で両手を打ち鳴らされた時のように強く聞こえたのだ。
目に入ってきた光景は、両目に涙を一杯に溜めた財閥令嬢が、右手を振り下ろした姿勢でシャインをにらみつけている所だった。
シャインは乱れた前髪を払おうともせず、うなだれたまま令嬢の前に立っている。
「そんな見えすいた言い訳で私の事を侮辱なさるなんて……あんまりだとは思いませんか!?」
財閥令嬢の声にシャインがそっと頭を起こした。
「あなたを? とんでもない! 俺はそんなつもりでは――」
財閥令嬢は肩に流れ落ちる金髪を振り乱す程の勢いで、激しく首を左右に振った。
「いいえ、これは侮辱です。ダンスをしているのは私なのに、その時だけは私を見ていて欲しかったのに! あなたは他の女性に気を取られました」
すっと財閥令嬢の指が前方に伸ばされたかと思うと、それはシャインから少し離れた所に立っているロワールへと向けられた。
同時に財閥令嬢は、ひたとロワールへ凍りつくような鋭い視線を投げ付けた。
可憐な外見からは想像できないぐらい、敵意に満ちた、恐ろしい視線だった。
「ご覧になっていたのはあの赤毛の女性でしょう? シャイン様!」