【幕間】ささやかな反抗(2)

文字数 3,108文字

 シャインはゆっくりと立ち上がった。後ろを振り返り、扉を内から閉めるかんぬきの木の棒を真横へさし渡す。外から開けようと思っても、これを外さない限り扉は開かない。そして、暗いろうそくの灯りを頼りに、慎重にワイン蔵の階段を下へ下りていく。
 
 辺りはまったく闇の中で、どこに何があるのかおぼろげにしかわからない。
 シャインは、は虫類の皮膚のように冷たい石壁を伝って、ワイン蔵の奥へ歩いていった。

 そこには棚が置いてあり、上下二段のそれには、シャインの背丈ほどある樽が十個並べられていた。
 シャインは樽の前に行き、手探りで栓を探した。目指すそれを見つけ、ためらうことなく引き抜く。

 一瞬くらっとするほど濃厚で甘酸っぱい香りがしたかと思うと、栓が抜かれた樽からは、ごぼごぼとワインが流れ落ち出した。傷口からあふれる血液のように。
 シャインは続けて隣の樽からも栓を引き抜いた。同じような音を立てて、ワインが流れていく。

 蔵の奥にあったすべての樽の栓を抜き終わり、こもってきたワインの香りにむせながら、鍾乳石の冷たい石壁を伝い、今度は反対側の棚の前に行った。
 手探りを繰り返し、ざっと五十本ほど横向きに並べられたワインのビンを見つけると、それを一本引き抜く。

「派手にいくか……?」

 鼻で小さく笑い、シャインは無造作に前方の闇の中へ放り投げた。
 ガラスが砕ける耳障りな音が、わんわんと蔵の中で反響する。

 また一つ、ビンを手にする。
 放り投げる。石床にビンが落ちて、砕け散る。

 むせ返るワインの濃厚な香りのせいか。
 ビンの割れる音は一種の音楽のようで、実に甘美だ。

 今度は反響する音が途切れないうちに、次のビンを取って遠くに投げる。
 何と心地よい響きであろう。
 
 ドンドンドン!

 ビンを割る音に混じって、ワイン蔵の扉を激しく叩く重い音が聞こえる。がなりたてる群集のように、実に騒々しい。

「シャイン様、一体何をしているのですか!」

 シャインは構わず手にしたビンを放り投げる。
 あの騒がしい音を消し去るために。今度は両手に一本ずつ持ち、階段に向かって投げ付けてみる。

「うわっ……!」

 自分の小さい手にそれは負荷がすぎたのか、投げた反動で体が前のめりに倒れた。床は樽から流れ落ちているワインで満ちていて、口に入ったそれに息が詰まりそうになった。

「ゴホッ! ゴホッ……」

 床に手をついて必死に顔を上げる。辺り一面ワインの海だ。
 口の中を切った時のような、錆びた鉄の味のそれを少し飲んでしまった。

 アドビス達大人が、どうしてこんなものを好んで飲むのか理解できない。シャインは、えも言われぬ吐き気に襲われながら、ひやりとする石壁に手をつき、何とか体を支えた。

「ここを開けて下さい!」

 執事・エイブリーのヒステリックな声が聞こえた。女の悲鳴の様にも聞こえる。扉を狂ったように叩くその音が、頭に響いて割れるように痛い。

 棚を探る手に触れたワインのビンをしっかり握りしめて、シャインは階段めがけて投げ付けた。砕け散るビンの音。それにあわせて低く笑う。

「俺は閉じ込められたんだ。どうして、俺が、自分で、開けることが、できるのかい?」

 もう一つビンを放り投げ、それが砕ける音に唇をゆがめながら、ろうそくの光に照らされた扉を満足げに見つめる。

 鍵は外からしかかけられないが、内側はかんぬきを下ろせるようになっている。かんぬきは扉の真横に渡された木の棒で、それは外から開かれるのをしっかりと阻止している。

 いらいらと扉の取っ手を回す音。口々に自分を呼ぶ数名の使用人の声。
 それを聞きながら、シャインは自分が間違っているなんて、これっぽちも思わなかった。

 すべては、ここに閉じ込めたアドビスが悪いのだ。
 うるさい子供を黙らせるために、あの男が自分で放り込んだのだ。
 都合の悪い話を聞きたくなくて閉じ込めたのだ。
 ここに閉じ込めたことが正当だなんて、絶対に思わせたくなかった。
 
「早く開けたらどうだい? 急がないと、当主の大事なワインを、全部駄目にしてしまうよ?」

 絶句する執事のうめき声がした。当然だろう。このワイン蔵に入っているそれらは、歴代当主達が集めた年代物も眠っている。どうでもいいことだ。自分にとっては。

「シャイン様、お止め下さい! そんなことをして、一体何になるのです! 第一危のうございます! お怪我でもされたら私は……!」

 返事の代わりにビンを放り投げる。あっさりとそれは砕け散った。
 むせ返るワインの香りがさらに強くなったようだ。樽のくすぶった古い臭いと相まって、空気を吸うと胸が苦しい。

 何故か不安定に揺れる体に違和感を覚えながら、手探りでワインのビンを探すと、棚には今触った一本しか残っていなかった。

「これで終わりか。つまらないな……」

 ビンを右手に持ち、ワインの海に体を晒すのが嫌で、下から四段ばかり階段を上がるとシャインは腰を下ろした。体は冷えきっているのに、何故か気分だけは高揚していた。ワインの香りのせいで酔ってしまったのかも知れない。

 手にしたビンを横向きに置いて、シャインは膝を抱えた。
 アドビスはきっと後悔するはずだ。自分をここへ閉じ込めたことを。
 自分は、いつまでも大人しく言うことを聞く、小さな子供ではないのだ。
 
 冷たくなった手から力が抜けて、ワインのビンが横向きのまま階段を転げ落ちていった。澄んだ音を響かせながら。

 顔をあげた時、それはすでに闇に飲まれて、ビンが砕けるような音を聞いた気がした。

 そして、すべてが唐突に何も見えなくなった。
 感じなくなった。
 寄り掛かった壁の冷たさも。なにもかも――。



   ◇◇◇



『お前がこんな馬鹿なことをするとは、思わなかった』

 どこか遠くの方で自分に話しかける、低い、かすれ気味の男の声。
 シャインは未だ沈む意識の淵で、なんとなくそれを聞いていた。

 ワイン蔵から出してもらえたみたいだが、恐らく執事のエイブリーが扉を斧で叩き壊したのだろう。内側からかんぬきをかけておいたのだから、そうでもしないと開けられるはずがない。

『どこまで私を困らせる……』

 小さな嘆息――。

 アドビスがシャインの寝台へ近付く気配がして、先程よりもその声が近く、明瞭に聞こえた。
 
『そんなに知りたいのなら、教えてやろう。私がお前の母を死に追いやった。私があのひとを殺したのだ。だから彼女の事を聞かれるのは、非常に不愉快だ。けれど……』

 寝台の傍らへ膝をついたアドビスが、そっとシャインの額に手を触れ、節くれたごつい指で髪をすいていく。

 思いがけないその行為と告白に、シャインは身を強ばらせていた。
 目を開けることが怖かった。

 ここにいるのは、本当にアドビスなのだろうか。心臓の鼓動が早さを増して、シャインはえもいわれぬ不安で一杯になった。

 その時、アドビスが何かをシャインの手の中に握らせた。
 冷たい金属の輪の感触がする。――指輪。

『今回だけは私の負けを認めよう。リュイーシャの形見だ。お前が持つがいい。だが二度とこんな手が、私に通じると思うな』

 きつい口調とは裏腹に、触れているアドビスの手はとても温かかった。
 あの冷たいワイン蔵へ引っ張っていった時のような、荒々しいそれとはまったく違う、大きくて優しい――父親の手。
 
 シャインは指を動かし、そっとアドビスの手を握りしめた。
 振り解かれると思ったそれは、いつまでもシャインの手を包み込むように、放さないでいてくれたのだった。
 心地よい、穏やかな眠りに落ちていくまで。




【幕間】ささやかな反抗 ―完―

         
      ・・・【第3話本編】へと続く

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