りんの依頼

文字数 4,624文字

次の日、伝之助は田島屋でりんと朝食を食べていた。
左手はまだ頭巾で吊っており、食べにくい事この上ない。

伝之助は薩摩の家老松尾と会った事、坂谷の後ろ盾に彦根の上級武士がついている事、薩摩が介入してくれる事、そして近々りんは薩摩屋敷に移るとの話をした。

松尾に聞いた計画の事はもちろん話さない。
そしてすぐに知れるだろうが薩摩に戻る云々に関してもとりあえずは伏せた。

「偶然とは言え、そんな良いように事が運ぶなんてほんまに良かった」

りんは絶望から希望を見出したように目を輝かす。
伝之助はゆっくり首を振って言った。

「偶然でなか。おはんの父が繋いだ縁じゃ」

黒木が薩摩屋敷で松尾と話していた事を話した。

「そうやったんですか。父上に助けられました」

りんは薄っすらと涙を浮かべる。

「とりあえずおはんに関しては安心出来る。田島屋もな」
「確かにいつまでも正吉さんのお世話になるわけにいきませんものね。それでいつ移りますか」

りんは軟禁状態だが疲れを見せる素振りもなく健気に明るく振る舞う。

「三日程待てち言われた。根回しなり準備なりすっとじゃろ。田島屋から一歩も出られんのは辛かろうが、身のこつは心配なか」
「ありがとうございます。私は大丈夫です」
「じゃ。そいでな、松尾さあは……りんが、どこの誰か分からず薩摩屋敷に入れるわけにいかん言うとじゃ。……どこの誰で、どげん立場かをきっちりする必要があっとじゃ」

伝之助は歯切れ悪く言った。
りんは伝之助の様子に首を傾けたが、すぐに一つ頷く。

「確かに仰る通りですね。それで私はどこの誰で、どの立場で匿ってもらえるんでしょうか」

りんが箸を止めて伝之助を見る。
伝之助はりんをちらっと見たが目を逸らし、頭を掻く。

「いや、こいばかりは仕方んなか。じゃっどんそん時だけじゃ。そう言う口裏合わせじゃ」
「わかりました。して、それはどのような?」

伝之助はりんの視線から逃げるように外を見た。

「おいの妻んなる予定のおなごち言うこつじゃ」

外を見たまま言った。
りんが見ているのがわかるが、目を合わさなかった。

「伝之助さんに嫁入りする前と言うことですか」
「妻んなる予定ち言うたらそう言うこつじゃ。いや、ほんのこてそう言うこつとちごう。そん場のしのぎじゃ。坂谷とのこつが終わり、薩摩屋敷を出る時が来たら終いじゃ」

恥ずかしさを誤魔化し飯をかき込みたいが左手が使えず、箸で掴めるだけ飯を掴んで口に入れた。
そしてりんをそっと見た。

りんは俯いていた。
伝之助は気にしないふりをした。

「いいですよ」

ぽつりとりんが言った。

「よかか。そいなら話は早か」

伝之助は安堵の表情を浮かべて飯を飲み込む。
これでうまく事が運ぶと思ったところで、りんが顔を上げて言った。

「本当に妻になってもいいですよ」

伝之助は一瞬唖然とするも、すぐに「りん、おはん、ない言うちょるか」と慌てる。

「今回の事が終わったら伝之助さんの妻になってもいいと言ってるんです。だからそれまでは嫁入り前です。口裏合わせでもその場凌ぎでもなく、本当に嫁入り前でいいです」

伝之助は混乱した。
まだ飯が口の中にあったら詰めていただろう。

「おはん……ないを馬鹿なこつを……」
「伝之助さん、何があっても俺の手を離すなと言ったやないですか」
「いや、そいはそう言うこつとちごう。りん、よう考え。おいは人斬りぞ」

りんはまた俯いた。

真の薩摩隼人はどれ程荒れた状況であっても何事もないかのように振る舞う。
何事にも動じない伝之助だが、今は荒れた状況に翻弄され、動揺し切っていた。

「おいはな、薩摩で命令に従い人斬りをしちょった。上の命令とあらばよかもんも悪かもんもな。こん度んこつも聞く所によると坂谷の部下を二十六人斬った。おいを狙うもんはようけおる。おいは嫁を貰う資格はなか。おいに嫁ぐてこつは考えるな」

伝之助が言い終わると、りんがばっと顔を上げた。

「でも、伝之助さんは悪い人やとは思いません。少なくとも私が会ってからは悪い人しか斬ってませんし、私を助けてくれました。そりゃ斬る時は怖いけど、伝之助さんの手を握った時からこの人に着いて行こうて思ってました。資格がないとか言わんといて下さい」

物理的に手を離すなと言ったつもりが、精神面でも手を離すなと捉えたのだろうか。
伝之助はさぞ困った。

「りん、おはんの気持ちは嬉しか。じゃっどんおいに着いてきてもないもよかこつはなか。おいの手は血に塗れとる。りんにも危険が付きまとう。おいもいつ死ぬかわからん」

「侍の妻なら当然です。覚悟は出来ています。天国も地獄も行く道をお供します。私は何もいい事があるとか家柄とかお金のあるなしでなく、この人やと思った人と一緒になりたいんです。幸いにも家柄を気にせなあかんような状況と違います。それに私は一度死んだようなもんです。この命、伝之助さんに救われたんやから伝之助さんに差し上げます」

差し上げられても困ると思ったが口には出さなかった。

確かに家柄は互いに気にする事はないだろう。
それで言うと伝之助の方こそどこの馬の骨かわからないのだ。

「わかったわかった。こん話はまた今度じゃ。今は今後のこつを話さんといかん」

伝之助は話を打ち切り、この話題から逃げた。

天地流の剣理は、逃げる事無く相討ち覚悟でも斬り掛かる事だが、こればかりは逃げざるを得なかった。

「はい、わかりました」

りんは素直に従う。意外にも聞き分けがいい。

「兎に角、おはんはおいに嫁入りする前と言うこつじゃ」

りんは頷くと、不思議そうに顔を傾けた。

「どげんかしたか」

伝之助はまた何か言い出さないかと構える。
そしてそれを誤魔化すように味噌汁を啜った。

「いや、薩摩を追われた伝之助さんがなんで薩摩屋敷にお世話になれるんですか。その松尾様と言う方とお知り合いってだけで私を置いてもらえるもんなんでしょうか」

中々鋭いのう……やはり隠し切れんか。
伝之助は味噌汁の茶碗を置いた。

「おいはな、松尾さあに薩摩へ戻り改めて薩摩ん為に働かんかち言われとる」

りんが目を見開き驚く。
さっきからりんは朝食に手がついていない。

「今すぐとちごう。数年後、松尾さあが薩摩に帰る時じゃ。おいは松尾さあが推す重要な人材っちゅうこつじゃ。じゃっでそん嫁になるおはんは薩摩屋敷で面倒を見てくれる」

計画については一切口外するつもりはない。
だが薩摩に戻る話はやはり隠し通せない。

りんは驚いた表情で話を聞いていたが、落ち着きを取り戻すとゆっくりと口を開いた。

「伝之助さん、私も薩摩に行きたい」

今度は伝之助が驚く番だった。
りんはやはり突飛なことを言い出した。

「おはんはまたないを言うちょるか。おいは――」
「もう私に行くとこなんてない」

りんは伝之助の言葉を遮った。

「伝之助さん、私はもう一人です。どこも行く当てもないんです。伝之助さんが嫌なら今ここではっきりと断って下さい。私もその時は諦めます」

伝之助は考えもしなかったが、考えてみる事にした。

りんを見る。

りんは恐らく一般的に可愛らしい女である。
そして素直で侍の娘、いや、あの黒木の娘であるからか性根も据わっている。

目を閉じた。
りんと夫婦となり、薩摩で暮らす様子を想像してみる。

城で勤め、帰れば飯をこしらえ、りんが笑顔で出迎えてくれる。
そうなればどんなにいいかと思うも、自分が何者か改めて認識し躊躇する。

自分の事は一向に構わない。
しかしりんの身に何かあれば、人質に取られたら、或は子どもが生まれその子に何かれば、家に帰ると家族が殺されていると言う事があれば……その原因が自分にあるとすれば耐えられるだろうか。

いや、とても耐えられそうにない。
そう思うとりんと一緒になるわけにいかない。
りんの事を思うならば尚更だ。

しかしりんの申し出を断ることができない。
喉まで出かかっているが、言葉にできない。

りんと繋がりが切れる事を体が拒否していると言うのだろうか。
我ながら理解できない。

伝之助はゆっくりと目を開けた。

「とりあえず飯食え」

伝之助がそう言うと、りんは思い出したように朝飯に手を付ける。

「おはんはすぐに話が逸れるの。おいは今後の話をしよっとじゃ」
「すみません……」

りんがしゅんとなる。

「じゃっどん、りんの言うこつはきっちり覚えとく」

りんはぱっと明るくなった。

「ありがとうございます」

断り切れず先延ばしにしてしまった。
りんには期待させたかもしれない。

りんは腹を括っているのに自分の覚悟の無さが情けなく、薩摩侍としてあるまじきだがどうしようもない。

「話戻すど。松尾さあが準備を整えたら淳巳さあ伝いに話が伝わる。そいでおはんは薩摩屋敷に移る。そん後は準備諸々整えば坂谷に仕掛ける」
「どう仕掛けるんです?」

伝之助は考え込む。

「色々考えてっが、正直良い策は思いついちょらん。出来る限り早くち思ちょうがいつになるかもわからんしの。松尾さあにも相談して考える」
「わかりました。あともう一つ、よろしいですか」
「ないじゃ。また話が逸れるとちごうか」

伝之助はりんの言葉に身構える。

「いえ、私の父の事です。やっぱり坂谷が父を……」
りんは言い淀んで俯く。

「直接手に掛けたんは違うやつでも坂谷の引き金じゃろな」
「彦根を薩摩が抑えて、奉行所が坂谷を捕まえるんですよね」
「そうじゃ。うまくいけばな。坂谷は尋問の後、首を斬られるじゃろ」
「父を直接手に掛けた者は?」

伝之助は考えた。
奉行所は黒幕を抑える事を考え、実行した者よりさせた者を優先して捕まえるだろう。
そうすると下手すれば逃げられる。

「うまくいけば奉行所が捕まえて処刑じゃ。じゃっどん下手すれば逃げ果せるかもしらん」
「そんな……」

りんの視線が床に落ちたかと思うと、きっと顔を上げた。

「父の仇は奉行所の皆さんが取ってくれると信じています。けどもし、坂谷を捕えても直接手に掛けた者を捕まえられなかったら伝之助さん、代わりに父の仇を取ってくれませんか」

「ほう。そいはおいに依頼するち言うこつか」
伝之助は片眉をあげる。

「依頼……」
りんが考える。

「依頼でもいいです。父の仇を取って下さい。父を直接手にかけた者を伝之助さんが討って下さい」

にっと伝之助は笑った。
依頼交渉をまとめるのは優之助の役目だがいいだろう。

「よか。そん依頼引き受けっど。そうとなれば奉行所に捕まえられたらいかん。そいつはおいがやる。りんの仇討ちの依頼、確かに引き受けもした」

どちらにしても沢田とは決着をつけなければと思っていた。

「あっ、いや、奉行所が捕らえられなかったらと言う事やったんですけど……」

りんは慌てて言うが、伝之助は首を振り否定する。

「うんにゃ。奉行所がどうこうでんなか。おいはりんの父を手に掛けたもんを斬る」

伝之助は片笑みを浮かべてりんを見る。
りんは戸惑うも「わかりました」と了承する。

「あっでもそうすればきっと父も私達が祝言を上げる事を喜んでくれます」

りんが明るく言うと、伝之助は狼狽える。

「おはん……またか」
「すみません」

りんは爽やかに笑った。

こうして今後の方針は決まったが、思わぬ悩みが出来てしまった。

りんは良い娘だが、良い娘だからこそ自分に嫁入りしてはいけないと思う。
しかしそうは思ってもどうしても断り切る事が出来なかった。
りんに惹かれる自分が心の奥底にいるのかもしれない。


それから三日後に松尾の伝言が届き、りんは薩摩屋敷に移る事になった。

伝之助は時折様子を見に行った。
そして松尾の根回しを待つと言う気を揉むような日々が続いた。
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