隠れ家到着
文字数 4,603文字
「や、お聞きしていたおりんさんですね。あら、大山さんもご一緒ですか。なんと、これはお怪我をなすって。すぐに医者を呼びましょう」
宿屋の主、正吉(しょうきち)が驚いて言った。
皺のたくさん入った老人だが、足腰はしっかりしている。
「正吉さあ、医者は――」
「心得てます。淳巳(あつみ)先生をお呼びします」
「かたじけなか」
「ささ、お二人ともこちらへ」
奥の部屋の一室に案内され、座って待つように言われる。
部屋にはりんの為に用意された布団が敷かれている。
伝之助(でんのすけ)は部屋を汚しては悪いと思い、りんに座るよう言って自身は立っている事にした。
りんは自分だけが座る訳に行かないと断り、伝之助に倣って立って待つ。
間も無く正吉と手伝いの女中がぬるま湯と手拭いと替えの着物を用意する。
女中が控えると、りんと正吉は伝之助の着物を脱がし体を拭いてやる。
傷からはまだ血が滲む。
思ったよりは深い傷のようである。
綺麗な布を幾重にも当て、着替えさせる。
伝之助を布団に寝かせると、正吉は一度部屋を去る。
「伝之助さん、傷は……」
りんは伝之助の側に座り、話しかける。
「心配せんでよか。こげなもんすぐ治る」
そう言う伝之助の顔は血の気がなく蒼白い。強がっているのは明白だ。
りんは何か自分に出来る事がないかと考えるが、見守る事しか出来ない。
「入りますよ」
正吉は白湯(さゆ)が入った急須と湯呑を二つ、盆に乗せて部屋に入る。
「改めまして、私はこの宿屋、田島屋(たじまや)を営んでおります正吉言うもんです」
「私は黒木(くろき)りんと申します。この度はお助け頂きありがとうございます。お世話になります」
「いや、大山さんにはこちらこそお世話になってましてね。田島屋を救って下さいました」
皺くちゃの顔で笑う正吉は愛嬌がある。
伝之助を慕う数少ない人間のようだ。
「やめてくいやい正吉さあ。淳巳さあはまだかの」
伝之助は照れ隠しをするように頬をかく。
「お近くですからすぐに参られるでしょう。では淳巳先生が来られたらまた来ます」
正吉が去り、りんは白湯を注ぎ啜った。
体に染みわたる。
伝之助はもっと喉が渇いているはずだ。
伝之助を起こし、飲ませてやる。
白湯を飲ませるとゆっくり布団に寝かせる。
「伝之助さん、何か正吉さんをお助けしたんですか?」
急須から再び白湯を注ぎながら聞く。
「助けたち言うほどでもなか。悪どい浪人どもに乗っ取られちょったのを追っ払っただけじゃ。おいはそん後も正吉さあの好意に甘えて田島屋を使い、隠れ家にさしてもろちょる」
「そうだったんですか。淳巳先生と言うのは?」
「京の薩摩屋敷お抱えの医者での、癖のある爺さんじゃ。じゃっどん腕は確かじゃ。昔京に来た時はおいもよう見てもらっちょった。そん縁で今もこっそり見てもらうとじゃ」
「色々とお知り合いがいてるんですね」
「まあの」
返事と同時に伝之助の顔が歪む。
「痛みますか」
「うんにゃ。大したこつはなか」
あまり喋らせないでおこうとりんはそれ以降口をつぐんだ。
りんが白湯を飲み、伝之助に飲ませると言う事がしばらく続く。
互いに必要以上に会話は交わさなかった。
「失礼します。淳巳先生が来られました」
正吉の声の後、引き戸が引かれる。
正吉の後ろから正吉よりはもう少し若い中高年の男が顔を出す。
この男が淳巳のようだ。
「伝之助、またやらかしたんか」
淳巳は口がへの字口に曲がっている。
りんはさっと自身が座っていた場所を開ける。
淳巳はりんを一瞥すると、構わず伝之助の隣に座った。
りんの事は女中と思っているかもしれない。
「おう淳巳さあ。待っちょったど。はよ見てくいやい」
伝之助が体を起こそうとすると、「起きんでもええ。そのまま寝とけ」と淳巳は手で制し、風呂敷に包まれた荷物を開けて準備を始める。
「お前はほんまに昔から……」
ぶつぶつ言いながらも淳巳は手際よく伝之助の傷を改める。
「なんじゃ、斬られたんか。どんな状況で斬られた」
「相手が鉄砲撃ったのを避けた時に隙が出来て斬られてしもた」
「相手は何人じゃ」淳巳は伝之助の方を見る事なく手早く作業を続ける。
「一人じゃ。鉄砲撃ったんはちごうやつじゃがやりおうてたんは一人じゃの」
「一人?いくら隙が出来た言うてもお前を斬るとは大したやつやな」
淳巳は言葉では驚いているが、顔を伝之助の方に向ける事も無く手を止める事もない。
「光影流(こうえいりゅう)の遣い手じゃ。確かに腕はよかど。そいで淳巳さあ、刀を振るうには支障はなかか」
淳巳は傷を消毒しながら傷口をよく見る。
「確かに腕はええようやな。見た目より傷は深いけど、綺麗に斬られとるから心配ない。少し縫い合わせば問題ないやろ。けど全力で斬り込む天地流(てんちりゅう)や。治るまで満足に振るえんやろな。今夜は痛むぞ」
少し見ただけで伝之助の剣術流派の事も考え、そこまでわかるのだから腕は確かに良いようだとりんは安心した。
「どげんほどで治る」
「完全にあの長い刀を振るうとなると一月程やろ。お前ならも少し早いかも知らんけどな」
「そげにかかるとか」
「当たり前じゃ。斬られたんやぞ」
「おいはまたあいつとやり合わないかん。そげに待っちょれん」
「じゃあ左手を使わんか、使うならいつも程は満足に振るえんやろがそれでやるかやな」
淳巳は簡単に言い放つがそんな簡単な事ではない。
伝之助は考え込む。
「伝之助さん、また坂谷の所に行くんですか」
心配になり、りんが尋ねる。
「当たり前じゃ。まだないも解決しちょらん。きっちりけりがつくまでおいはやっど。正吉さあ、すまんが刀を研ぎに出しといてくいやい」
「承知しました」
りんは俯く。伝之助は迷いなくまた火に飛び入る気だ。
このまま身を隠して京に近付かず、どこかで静かに暮らしていけばと言う思いが頭をよぎる。
しかしそれは優之助(ゆうのすけ)を見捨てる事になる。
何が最良の選択かわからない。
りんの心配をよそに伝之助は今後の事を考えていた。
沢田祐三郎(さわだゆうざぶろう)……満足に動けず勝てる相手ではない。
だが今となっては沢田を倒したところで解決になるだろうか。
屋敷で沢田を斬り、奉行所に沢田の刀を提供して調べさせれば、問答無用で屋敷に立ち入る事となる。
そうすれば坂谷(さかたに)も潰せただろう。
だが例えこの後沢田を斬り奉行所が調べたとして、坂谷の屋敷を調べる所まで漕ぎつけられるかどうか。
屋敷を調べられたとしても時間差が出来る。
隠蔽する猶予を与える事になる。
坂谷の屋敷で沢田を斬る必要があったのだ。
今後沢田を斬っても坂谷は知らぬ存ぜぬを貫き、逃げ果せるに違いない。
そしてほとぼりが冷めた頃に復讐が始まる。
坂谷自身を斬っても千津(ちづ)や島薗(しまぞの)で働く女達を救えない。
第二の坂谷が現れるだけだ。
島薗に奉行所が入り、島薗自体が変わらないと解決しない。
伝之助の計画は、紙を取り返し坂谷の殺意を証明する事が一つ。
天地流で派手に暴れ、黒木殺しの無実を証明するのが一つ。
沢田を斬り奉行所に黒木殺しの証拠を掴ませるのが一つ。
そしてこれらを武器に奉行所に坂谷を潰させると言うのが思い描いていた事であった。
黒木殺しが沢田以外の者で斬った中に犯人がいれば別だが、十中八九沢田だろう。
つまりあの時坂谷の屋敷で沢田を斬られなかった事でこの計画は破綻した。
こうなった今、当面は奉行所に賭けるしかない。
この度の事で奉行所は坂谷の屋敷を調べるはずだ。
そして調べるのは吉沢が中心となるだろう。
奉行所の捜査と坂谷の隠蔽の勝負となる。
吉沢ならと期待するが奉行所の手札が弱い。
坂谷は完全な被害者として立ち回るだろう。
坂谷もその部下も叩けば埃の出る奴らだが、そこは最小限に抑えるはずだ。
もし奉行所が詰め切られなかったらその時は……どんな手を使ってでも坂谷達を潰さなければいけない。
どんな手を使っても、どうなろうとも。
「よか。ひっ飛んだるど……」
伝之助は薄く笑ってそう呟くと、ゆっくりと目を瞑った。
森の中を駆け抜ける。隣にはりんがいる。
段々りんの足が覚束なくなり、遅れ出す。
「りん、しっかりせんか」
伝之助は叱咤するも、りんはどんどん遠くなっていく。
するとりんのすぐ後ろから坂谷の追手が来る。刀を抜いている。
伝之助は刀を抜き、すぐに引き返す。
しかし追手の一太刀の方が速い。このままだとりんが斬られる。
りんの手を繋ぎ、引いてやっていなかったのが心底悔やまれる。
おいはないごてりんの手を離した。自分の手の届くもんも守れんとか。
散々人を斬り、良い者も悪い者も斬った。
自分の中で正義を信じ、信念を持っていたつもりだが偽りのものだと気付き、失った。
京に流れふらふらと生きていたが、自分の手の届く人達だけでも救いたいと思うようになった。
食っていくには働かなければならないと言う事情もあったが、その想いから用心棒を始め、その過程で自分の手の届く人々の為になるよう力を尽くそうと思った。
それが自身に出来る事で、剣を教えてもらった角吉(かどきち)の想いに応える事だと思った。
言わばせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
しかし今は罪滅ぼしと言う後ろ向きなものだけではない。
以前よりも強烈な信念となり、自身がやりたい事であり、やるべき事だと思った。
だがまた失う。
りんも、その後は優之助もやられ、千津は永遠の地獄を味わう。
「伝之助さん!」
伝之助はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫ですか?」
りんが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫じゃ」
何か嫌な夢を見たような気がする。
どんな夢だったろうか。
頭がうまく働かない。まだ夢現で意識が朦朧としている。
「うなされていましたよ。傷が痛むんですか」
傷……確かに傷は痛む。
「そうじゃの」
いつの間にか眠ったようだ。まだ外は暗い。
「淳巳さあと正吉さあは?」
「淳巳先生は帰られました。正吉さんは別室でお休みになられてると思います」
「そうか」
淳巳がいつ帰り、正吉がいつ出て行ったのかも知らなかった。
「お水、いりますか」
言われると喉が渇いている。
「頼む」
りんに手伝ってもらい体を起こす。
りんが水を飲ませてくれる。
「あいがと」
水を飲むとまた横になる。
それにしても傷が痛む。淳巳の言った通りだ。
「伝之助さん。私達、どうなるんでしょうか……」
りんが不安な顔をしている。
さっき見た夢の印象が強烈に襲う。
はっきりと覚えてはいないが手を繋いでやらねばと思う。
「そげな顔すな。おはんはおいが守る。ないも心配いらん。安心せえ」
伝之助はそう言うと、りんの手をそっと握る。
りんは驚いた顔をするも、すぐに安心した顔になる。
「ありがとうございます」
りんは伝之助の手の感触を一つ一つ確かめるようにゆっくり両手で包み握り返す。
りんの安心した顔を見るとまた眠気が襲ってきた。
「おいはもう少し寝っど。おはんももう休め」
りんもさぞかし疲れているはずだ。
「私はここにいます。伝之助さんは私の事を守ってくれました。今は私が見守る番です」
そんな事は気にしなくていいと思うも、もう眠い。
「そうか。好きにせえ」
「はい」
りんは笑顔で頷く。
間もなく眠りに落ちそうになる。しかし傷の痛みが襲う。
「痛みますか」
顔に出ていたのか、りんが尋ねる。
「大丈夫じゃ」
痛むが余計な心配をかけぬよう、とりあえずそう返す。
りんが伝之助の手を擦る。
痛いのは肩の方だが、それでも何となく痛みが和らぐ気がする。
「あいがとな、りん」
今度は痛むことなくすっと眠りに落ちた。
宿屋の主、正吉(しょうきち)が驚いて言った。
皺のたくさん入った老人だが、足腰はしっかりしている。
「正吉さあ、医者は――」
「心得てます。淳巳(あつみ)先生をお呼びします」
「かたじけなか」
「ささ、お二人ともこちらへ」
奥の部屋の一室に案内され、座って待つように言われる。
部屋にはりんの為に用意された布団が敷かれている。
伝之助(でんのすけ)は部屋を汚しては悪いと思い、りんに座るよう言って自身は立っている事にした。
りんは自分だけが座る訳に行かないと断り、伝之助に倣って立って待つ。
間も無く正吉と手伝いの女中がぬるま湯と手拭いと替えの着物を用意する。
女中が控えると、りんと正吉は伝之助の着物を脱がし体を拭いてやる。
傷からはまだ血が滲む。
思ったよりは深い傷のようである。
綺麗な布を幾重にも当て、着替えさせる。
伝之助を布団に寝かせると、正吉は一度部屋を去る。
「伝之助さん、傷は……」
りんは伝之助の側に座り、話しかける。
「心配せんでよか。こげなもんすぐ治る」
そう言う伝之助の顔は血の気がなく蒼白い。強がっているのは明白だ。
りんは何か自分に出来る事がないかと考えるが、見守る事しか出来ない。
「入りますよ」
正吉は白湯(さゆ)が入った急須と湯呑を二つ、盆に乗せて部屋に入る。
「改めまして、私はこの宿屋、田島屋(たじまや)を営んでおります正吉言うもんです」
「私は黒木(くろき)りんと申します。この度はお助け頂きありがとうございます。お世話になります」
「いや、大山さんにはこちらこそお世話になってましてね。田島屋を救って下さいました」
皺くちゃの顔で笑う正吉は愛嬌がある。
伝之助を慕う数少ない人間のようだ。
「やめてくいやい正吉さあ。淳巳さあはまだかの」
伝之助は照れ隠しをするように頬をかく。
「お近くですからすぐに参られるでしょう。では淳巳先生が来られたらまた来ます」
正吉が去り、りんは白湯を注ぎ啜った。
体に染みわたる。
伝之助はもっと喉が渇いているはずだ。
伝之助を起こし、飲ませてやる。
白湯を飲ませるとゆっくり布団に寝かせる。
「伝之助さん、何か正吉さんをお助けしたんですか?」
急須から再び白湯を注ぎながら聞く。
「助けたち言うほどでもなか。悪どい浪人どもに乗っ取られちょったのを追っ払っただけじゃ。おいはそん後も正吉さあの好意に甘えて田島屋を使い、隠れ家にさしてもろちょる」
「そうだったんですか。淳巳先生と言うのは?」
「京の薩摩屋敷お抱えの医者での、癖のある爺さんじゃ。じゃっどん腕は確かじゃ。昔京に来た時はおいもよう見てもらっちょった。そん縁で今もこっそり見てもらうとじゃ」
「色々とお知り合いがいてるんですね」
「まあの」
返事と同時に伝之助の顔が歪む。
「痛みますか」
「うんにゃ。大したこつはなか」
あまり喋らせないでおこうとりんはそれ以降口をつぐんだ。
りんが白湯を飲み、伝之助に飲ませると言う事がしばらく続く。
互いに必要以上に会話は交わさなかった。
「失礼します。淳巳先生が来られました」
正吉の声の後、引き戸が引かれる。
正吉の後ろから正吉よりはもう少し若い中高年の男が顔を出す。
この男が淳巳のようだ。
「伝之助、またやらかしたんか」
淳巳は口がへの字口に曲がっている。
りんはさっと自身が座っていた場所を開ける。
淳巳はりんを一瞥すると、構わず伝之助の隣に座った。
りんの事は女中と思っているかもしれない。
「おう淳巳さあ。待っちょったど。はよ見てくいやい」
伝之助が体を起こそうとすると、「起きんでもええ。そのまま寝とけ」と淳巳は手で制し、風呂敷に包まれた荷物を開けて準備を始める。
「お前はほんまに昔から……」
ぶつぶつ言いながらも淳巳は手際よく伝之助の傷を改める。
「なんじゃ、斬られたんか。どんな状況で斬られた」
「相手が鉄砲撃ったのを避けた時に隙が出来て斬られてしもた」
「相手は何人じゃ」淳巳は伝之助の方を見る事なく手早く作業を続ける。
「一人じゃ。鉄砲撃ったんはちごうやつじゃがやりおうてたんは一人じゃの」
「一人?いくら隙が出来た言うてもお前を斬るとは大したやつやな」
淳巳は言葉では驚いているが、顔を伝之助の方に向ける事も無く手を止める事もない。
「光影流(こうえいりゅう)の遣い手じゃ。確かに腕はよかど。そいで淳巳さあ、刀を振るうには支障はなかか」
淳巳は傷を消毒しながら傷口をよく見る。
「確かに腕はええようやな。見た目より傷は深いけど、綺麗に斬られとるから心配ない。少し縫い合わせば問題ないやろ。けど全力で斬り込む天地流(てんちりゅう)や。治るまで満足に振るえんやろな。今夜は痛むぞ」
少し見ただけで伝之助の剣術流派の事も考え、そこまでわかるのだから腕は確かに良いようだとりんは安心した。
「どげんほどで治る」
「完全にあの長い刀を振るうとなると一月程やろ。お前ならも少し早いかも知らんけどな」
「そげにかかるとか」
「当たり前じゃ。斬られたんやぞ」
「おいはまたあいつとやり合わないかん。そげに待っちょれん」
「じゃあ左手を使わんか、使うならいつも程は満足に振るえんやろがそれでやるかやな」
淳巳は簡単に言い放つがそんな簡単な事ではない。
伝之助は考え込む。
「伝之助さん、また坂谷の所に行くんですか」
心配になり、りんが尋ねる。
「当たり前じゃ。まだないも解決しちょらん。きっちりけりがつくまでおいはやっど。正吉さあ、すまんが刀を研ぎに出しといてくいやい」
「承知しました」
りんは俯く。伝之助は迷いなくまた火に飛び入る気だ。
このまま身を隠して京に近付かず、どこかで静かに暮らしていけばと言う思いが頭をよぎる。
しかしそれは優之助(ゆうのすけ)を見捨てる事になる。
何が最良の選択かわからない。
りんの心配をよそに伝之助は今後の事を考えていた。
沢田祐三郎(さわだゆうざぶろう)……満足に動けず勝てる相手ではない。
だが今となっては沢田を倒したところで解決になるだろうか。
屋敷で沢田を斬り、奉行所に沢田の刀を提供して調べさせれば、問答無用で屋敷に立ち入る事となる。
そうすれば坂谷(さかたに)も潰せただろう。
だが例えこの後沢田を斬り奉行所が調べたとして、坂谷の屋敷を調べる所まで漕ぎつけられるかどうか。
屋敷を調べられたとしても時間差が出来る。
隠蔽する猶予を与える事になる。
坂谷の屋敷で沢田を斬る必要があったのだ。
今後沢田を斬っても坂谷は知らぬ存ぜぬを貫き、逃げ果せるに違いない。
そしてほとぼりが冷めた頃に復讐が始まる。
坂谷自身を斬っても千津(ちづ)や島薗(しまぞの)で働く女達を救えない。
第二の坂谷が現れるだけだ。
島薗に奉行所が入り、島薗自体が変わらないと解決しない。
伝之助の計画は、紙を取り返し坂谷の殺意を証明する事が一つ。
天地流で派手に暴れ、黒木殺しの無実を証明するのが一つ。
沢田を斬り奉行所に黒木殺しの証拠を掴ませるのが一つ。
そしてこれらを武器に奉行所に坂谷を潰させると言うのが思い描いていた事であった。
黒木殺しが沢田以外の者で斬った中に犯人がいれば別だが、十中八九沢田だろう。
つまりあの時坂谷の屋敷で沢田を斬られなかった事でこの計画は破綻した。
こうなった今、当面は奉行所に賭けるしかない。
この度の事で奉行所は坂谷の屋敷を調べるはずだ。
そして調べるのは吉沢が中心となるだろう。
奉行所の捜査と坂谷の隠蔽の勝負となる。
吉沢ならと期待するが奉行所の手札が弱い。
坂谷は完全な被害者として立ち回るだろう。
坂谷もその部下も叩けば埃の出る奴らだが、そこは最小限に抑えるはずだ。
もし奉行所が詰め切られなかったらその時は……どんな手を使ってでも坂谷達を潰さなければいけない。
どんな手を使っても、どうなろうとも。
「よか。ひっ飛んだるど……」
伝之助は薄く笑ってそう呟くと、ゆっくりと目を瞑った。
森の中を駆け抜ける。隣にはりんがいる。
段々りんの足が覚束なくなり、遅れ出す。
「りん、しっかりせんか」
伝之助は叱咤するも、りんはどんどん遠くなっていく。
するとりんのすぐ後ろから坂谷の追手が来る。刀を抜いている。
伝之助は刀を抜き、すぐに引き返す。
しかし追手の一太刀の方が速い。このままだとりんが斬られる。
りんの手を繋ぎ、引いてやっていなかったのが心底悔やまれる。
おいはないごてりんの手を離した。自分の手の届くもんも守れんとか。
散々人を斬り、良い者も悪い者も斬った。
自分の中で正義を信じ、信念を持っていたつもりだが偽りのものだと気付き、失った。
京に流れふらふらと生きていたが、自分の手の届く人達だけでも救いたいと思うようになった。
食っていくには働かなければならないと言う事情もあったが、その想いから用心棒を始め、その過程で自分の手の届く人々の為になるよう力を尽くそうと思った。
それが自身に出来る事で、剣を教えてもらった角吉(かどきち)の想いに応える事だと思った。
言わばせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
しかし今は罪滅ぼしと言う後ろ向きなものだけではない。
以前よりも強烈な信念となり、自身がやりたい事であり、やるべき事だと思った。
だがまた失う。
りんも、その後は優之助もやられ、千津は永遠の地獄を味わう。
「伝之助さん!」
伝之助はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫ですか?」
りんが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫じゃ」
何か嫌な夢を見たような気がする。
どんな夢だったろうか。
頭がうまく働かない。まだ夢現で意識が朦朧としている。
「うなされていましたよ。傷が痛むんですか」
傷……確かに傷は痛む。
「そうじゃの」
いつの間にか眠ったようだ。まだ外は暗い。
「淳巳さあと正吉さあは?」
「淳巳先生は帰られました。正吉さんは別室でお休みになられてると思います」
「そうか」
淳巳がいつ帰り、正吉がいつ出て行ったのかも知らなかった。
「お水、いりますか」
言われると喉が渇いている。
「頼む」
りんに手伝ってもらい体を起こす。
りんが水を飲ませてくれる。
「あいがと」
水を飲むとまた横になる。
それにしても傷が痛む。淳巳の言った通りだ。
「伝之助さん。私達、どうなるんでしょうか……」
りんが不安な顔をしている。
さっき見た夢の印象が強烈に襲う。
はっきりと覚えてはいないが手を繋いでやらねばと思う。
「そげな顔すな。おはんはおいが守る。ないも心配いらん。安心せえ」
伝之助はそう言うと、りんの手をそっと握る。
りんは驚いた顔をするも、すぐに安心した顔になる。
「ありがとうございます」
りんは伝之助の手の感触を一つ一つ確かめるようにゆっくり両手で包み握り返す。
りんの安心した顔を見るとまた眠気が襲ってきた。
「おいはもう少し寝っど。おはんももう休め」
りんもさぞかし疲れているはずだ。
「私はここにいます。伝之助さんは私の事を守ってくれました。今は私が見守る番です」
そんな事は気にしなくていいと思うも、もう眠い。
「そうか。好きにせえ」
「はい」
りんは笑顔で頷く。
間もなく眠りに落ちそうになる。しかし傷の痛みが襲う。
「痛みますか」
顔に出ていたのか、りんが尋ねる。
「大丈夫じゃ」
痛むが余計な心配をかけぬよう、とりあえずそう返す。
りんが伝之助の手を擦る。
痛いのは肩の方だが、それでも何となく痛みが和らぐ気がする。
「あいがとな、りん」
今度は痛むことなくすっと眠りに落ちた。