逃走
文字数 2,431文字
伝之助は手拭いで左肩を抑え、急ぎ走り抜けていく。
目指すはりんが行く事になる馴染みの宿だ。
予定では敵を撒き、暫く身を隠してから行く予定であったが、負傷した今は少しでも早く行くべきだろう。
敵がつけてきていないか気を付ければ問題ない。
歓楽街を逸れ、森の中へ入る。
しかし思ったように走れず、木に身を隠すと一息つく。
「走りにくか。さて、どげんしたもんかのう」
追手はすぐに来るだろう。
短い方の刀だと応戦できるが、この負傷では数で来られると雑魚にもやられ兼ねない。
「伝之助さん!」
小声だがよく通る声で呼ばれる。
思わず刀の柄に手を掛けて身構える。
「私です、りんです」
一本先の木の陰からりんが顔を出している。
なぜこんな所にいるのだ。
「おはん、ないしちょっとか。鈴味屋におるとちごたか」
「ちょっと早めに出て少し寄り道したんです。そしたら誰かが走ってきて慌てて木の陰に隠れて覗いたら伝之助さんやったんです」
りんは居心地悪そうにそわそわしながら言った。
「早めに出て寄り道じゃと……」
伝之助は目を剥いて驚く。
「気は確かか。こげなとこに来ちょったら坂谷の手のもんに捕まるど」
「捕まっていませんから大丈夫です。ただの寄り道ですから」
「じゃあそん恰好はないか」
髪を結い、襷をかけて袴をつけている。
りんはやる気満々の格好に言い訳が出来ず下を向く。
「もうよか。はよここから離れっど」
りんの行動にとやかく言っている場合じゃない。
「伝之助さん、怪我してるんですか」
りんが驚き、駆け寄ってくる。
「血まみれやないですか!」
血で染まりきった伝之助を見て声をあげる。
「静かにせえ。ほとんど返り血じゃ。怪我しちょんのはこいだけでちょいと斬られただけじゃ。大したこつはなか。そいよかはよ追手が来る前にいっど」
伝之助は左肩の傷を指差して言う。
りんは伝之助を染める血が返り血と知り狼狽えていたが、すぐに正気を取り戻した。
「待って下さい」
りんは自分の手拭いを出し襷を取ると、伝之助の傷に当てて強く巻く。
「応急処置ですけどこれで」
手際がいい。これで止血は出来るだろう。
「あいがとな」
左手を動かしてみる。
大きく腕を振ったり上げたりは支障あるが、握ったり肘の曲げ伸ばしは問題ない。
伝之助は短い方の刀を抜き右手で持つ。
「おいの手、ないがあっても離すな」と、りんに左手を差し出す。
指が長くしなやかだが掌は剣で鍛え上げられごつごつとしている。
その手は返り血か自身の血かで塗れている。
「わかりました」
りんは強く頷き、血に塗れた伝之助の手を迷う事なく握った。
小走りで森を駆ける。
りんが来た事で動かざるを得なくなった。お陰で逃げ果せそうだ。
どれ程走っただろうか。
島薗の光はもう遠くに小さく見えるから結構走ったはずだ。
大きく回って町中を目指している。
方向は合っていると思うが、月明かりのみが頼りの暗い森を駆けるとわからなくなる。
ふと、何かが近付いてくる気配がした。
伝之助は立ち止まり、りんを自分の体の後ろにし身構える。
伝之助の手を強く握るりんの手が僅かに震えている。
すると三人の男が躍り出てきた。坂谷からの追手だ。
「大山!」
一人が伝之助の名を呼ぶと三人とも刀を抜く。
負傷していなければ相手が柄に手を掛けた瞬間斬り掛かる所だが、抜く事を許してしまった。
「おいの手離して一人で逃げ。三人なら何とかなる」
そっとりんに言う。
三人なら何とかなるが、この後何人来るかわからない。
ここで追手を防ぎ、りんだけでも逃がした方がいい。
「嫌です」
伝之助の思惑はその一言で遮られた。
「ないを言うちょるか。こんままじゃと二人ともやられるど」
「私もここにいます。だから早くやっつけて下さい」
「おはんは逃げ」
「何があっても手を離すな言うたやないですか」
「状況言うもんがある」
「嫌です。今は離しますけど、やっつけたらまた手を持ちます」
どう言ってもだめなようだ。
こうなったら意地でも倒さなければいけない。
男達は負傷しているとは言え、先程まで恐怖の対象であったあの伝之助だ。
散々目の前で仲間が斬られる様を見せつけられた相手だ。
負傷して女を連れていても油断できる相手じゃないと思ってか、刀を抜いたはいいが斬り掛かれないでいる。
斬り合いでは気が引けた方が不利となる。
「よか、下がっちょれ」
「はい」
りんが後ずさり、その場を離れて行く。
それを見た男の一人が動き出し、りんに向かって走る。
伝之助に立ち向かって無理なら人質を取ればいいと思ったのだ。
伝之助はりんに走りよる男へ、猛禽類(もうきんるい)が獲物を襲うようぱっと飛びつき首を斬る。
男は血を噴き上げて倒れる。
それを皮切りに一人の男は伝之助に斬り掛かるが、恐怖に捉われた剣は鈍りに鈍っている。
腰が引け、切っ先だけで斬ろうとする剣を伝之助は叩き落とし、飛び込みざまに同じく首元を斬る。
斬った相手を振り返る事なく唖然としているもう一人の男へ襲い掛かり、瞬時に袈裟懸けに斬り倒す。
短い刀のおかげか左腕をそれ程使わずに速く強く斬る事が出来た。
奥義である小太刀を仕込まれたのに最後に授けられた刀は刃の長さ二尺以下の脇差など、小太刀として扱う刀ではない。
定寸と言われる刀の刃の長さは二尺三寸、伝之助が普段使う刀は二尺五寸、柄も合わせれば三尺を超える長さだ。
それに対してこの刀の刃の長さは二尺一寸、何とも半端な長さの刀だが薩摩の刀らしく豪快な重ねと幅を持つ。
なぜ角吉(かどきち)が最後にこの一振りを授けたか今わかった気がした。
「いっど」
伝之助は表情一つ変えず、りんに左手を差し出す。
りんの顔は蒼白く震えている。
自分が狙われた事による恐怖か、斬り合いを目の前にしたからか、或は両方かわからないが今は構っていられない。
ここから離れ、少しでも早く逃げ果せなければいけない。
りんは震えに耐えるように伝之助の手を強く握る。
伝之助も離すまいと強く握り返した。
するとりんの心は落ち着き、震えは和らいだ。
「はい」
りんが伝之助の目を見て力強く頷くと、再び走り出した。
目指すはりんが行く事になる馴染みの宿だ。
予定では敵を撒き、暫く身を隠してから行く予定であったが、負傷した今は少しでも早く行くべきだろう。
敵がつけてきていないか気を付ければ問題ない。
歓楽街を逸れ、森の中へ入る。
しかし思ったように走れず、木に身を隠すと一息つく。
「走りにくか。さて、どげんしたもんかのう」
追手はすぐに来るだろう。
短い方の刀だと応戦できるが、この負傷では数で来られると雑魚にもやられ兼ねない。
「伝之助さん!」
小声だがよく通る声で呼ばれる。
思わず刀の柄に手を掛けて身構える。
「私です、りんです」
一本先の木の陰からりんが顔を出している。
なぜこんな所にいるのだ。
「おはん、ないしちょっとか。鈴味屋におるとちごたか」
「ちょっと早めに出て少し寄り道したんです。そしたら誰かが走ってきて慌てて木の陰に隠れて覗いたら伝之助さんやったんです」
りんは居心地悪そうにそわそわしながら言った。
「早めに出て寄り道じゃと……」
伝之助は目を剥いて驚く。
「気は確かか。こげなとこに来ちょったら坂谷の手のもんに捕まるど」
「捕まっていませんから大丈夫です。ただの寄り道ですから」
「じゃあそん恰好はないか」
髪を結い、襷をかけて袴をつけている。
りんはやる気満々の格好に言い訳が出来ず下を向く。
「もうよか。はよここから離れっど」
りんの行動にとやかく言っている場合じゃない。
「伝之助さん、怪我してるんですか」
りんが驚き、駆け寄ってくる。
「血まみれやないですか!」
血で染まりきった伝之助を見て声をあげる。
「静かにせえ。ほとんど返り血じゃ。怪我しちょんのはこいだけでちょいと斬られただけじゃ。大したこつはなか。そいよかはよ追手が来る前にいっど」
伝之助は左肩の傷を指差して言う。
りんは伝之助を染める血が返り血と知り狼狽えていたが、すぐに正気を取り戻した。
「待って下さい」
りんは自分の手拭いを出し襷を取ると、伝之助の傷に当てて強く巻く。
「応急処置ですけどこれで」
手際がいい。これで止血は出来るだろう。
「あいがとな」
左手を動かしてみる。
大きく腕を振ったり上げたりは支障あるが、握ったり肘の曲げ伸ばしは問題ない。
伝之助は短い方の刀を抜き右手で持つ。
「おいの手、ないがあっても離すな」と、りんに左手を差し出す。
指が長くしなやかだが掌は剣で鍛え上げられごつごつとしている。
その手は返り血か自身の血かで塗れている。
「わかりました」
りんは強く頷き、血に塗れた伝之助の手を迷う事なく握った。
小走りで森を駆ける。
りんが来た事で動かざるを得なくなった。お陰で逃げ果せそうだ。
どれ程走っただろうか。
島薗の光はもう遠くに小さく見えるから結構走ったはずだ。
大きく回って町中を目指している。
方向は合っていると思うが、月明かりのみが頼りの暗い森を駆けるとわからなくなる。
ふと、何かが近付いてくる気配がした。
伝之助は立ち止まり、りんを自分の体の後ろにし身構える。
伝之助の手を強く握るりんの手が僅かに震えている。
すると三人の男が躍り出てきた。坂谷からの追手だ。
「大山!」
一人が伝之助の名を呼ぶと三人とも刀を抜く。
負傷していなければ相手が柄に手を掛けた瞬間斬り掛かる所だが、抜く事を許してしまった。
「おいの手離して一人で逃げ。三人なら何とかなる」
そっとりんに言う。
三人なら何とかなるが、この後何人来るかわからない。
ここで追手を防ぎ、りんだけでも逃がした方がいい。
「嫌です」
伝之助の思惑はその一言で遮られた。
「ないを言うちょるか。こんままじゃと二人ともやられるど」
「私もここにいます。だから早くやっつけて下さい」
「おはんは逃げ」
「何があっても手を離すな言うたやないですか」
「状況言うもんがある」
「嫌です。今は離しますけど、やっつけたらまた手を持ちます」
どう言ってもだめなようだ。
こうなったら意地でも倒さなければいけない。
男達は負傷しているとは言え、先程まで恐怖の対象であったあの伝之助だ。
散々目の前で仲間が斬られる様を見せつけられた相手だ。
負傷して女を連れていても油断できる相手じゃないと思ってか、刀を抜いたはいいが斬り掛かれないでいる。
斬り合いでは気が引けた方が不利となる。
「よか、下がっちょれ」
「はい」
りんが後ずさり、その場を離れて行く。
それを見た男の一人が動き出し、りんに向かって走る。
伝之助に立ち向かって無理なら人質を取ればいいと思ったのだ。
伝之助はりんに走りよる男へ、猛禽類(もうきんるい)が獲物を襲うようぱっと飛びつき首を斬る。
男は血を噴き上げて倒れる。
それを皮切りに一人の男は伝之助に斬り掛かるが、恐怖に捉われた剣は鈍りに鈍っている。
腰が引け、切っ先だけで斬ろうとする剣を伝之助は叩き落とし、飛び込みざまに同じく首元を斬る。
斬った相手を振り返る事なく唖然としているもう一人の男へ襲い掛かり、瞬時に袈裟懸けに斬り倒す。
短い刀のおかげか左腕をそれ程使わずに速く強く斬る事が出来た。
奥義である小太刀を仕込まれたのに最後に授けられた刀は刃の長さ二尺以下の脇差など、小太刀として扱う刀ではない。
定寸と言われる刀の刃の長さは二尺三寸、伝之助が普段使う刀は二尺五寸、柄も合わせれば三尺を超える長さだ。
それに対してこの刀の刃の長さは二尺一寸、何とも半端な長さの刀だが薩摩の刀らしく豪快な重ねと幅を持つ。
なぜ角吉(かどきち)が最後にこの一振りを授けたか今わかった気がした。
「いっど」
伝之助は表情一つ変えず、りんに左手を差し出す。
りんの顔は蒼白く震えている。
自分が狙われた事による恐怖か、斬り合いを目の前にしたからか、或は両方かわからないが今は構っていられない。
ここから離れ、少しでも早く逃げ果せなければいけない。
りんは震えに耐えるように伝之助の手を強く握る。
伝之助も離すまいと強く握り返した。
するとりんの心は落ち着き、震えは和らいだ。
「はい」
りんが伝之助の目を見て力強く頷くと、再び走り出した。