りんの涙

文字数 6,335文字

「と、こう言うわけなんや」

優之助は早速おさきに今置かれている境遇を簡潔に話した。

「それはまた大変な事ですね。優さま、くれぐれも気を付けて下さいな」

おさきは眉根を寄せ、心配してくれる。
おさきの為にも今の状況を打開しなければいけないと言う元気が湧く。

「大丈夫や。俺には伝之助がついてる。それに何も悪い事してへん」

ぐっと胸を張って叩き、笑って見せる。
しかしそれでもおさきは眉根を寄せたままだ。

「そやけど、相手があの坂谷やから……」

そう、あの坂谷だ。
奉行所にも睨まれている。

いくら伝之助がいると言ってもあいつは個人だ。組織には勝てない。
大丈夫じゃないのは一目瞭然だ。

色々噂はあるが、坂谷がどれほど大きな力を持っているかも定かでない。
本当にこの状況を打開できるのだろうか。

優之助は笑顔を張り付かせたまま徐々に下を向いていく。

ふと千津の事を想った。
千津は紫蝶屋で無理矢理働かされている。
坂谷に家族を奪われなければ違う道もあった。

おさきはどうだろう。
鈴味屋では男と寝る事は無いが、働く内容によってはお酌の相手をしなければいけない。
そしておさきはそのお酌の相手をする仕事だ。

おさきだって無理矢理ではないにしろ、盛本に家族を奪われ残された母の為にここで働いている。

それを言うと鈴味屋にしろ島薗にしろ、そこで働かざるを得ない状況で働く者は多数いる。
もちろん鈴味屋では無理矢理引っ張られてきた者は一人もいないが、本意でなく働いている者もいるかもしれない。

仕事の内容よりも自分がどう思っているかが大切なのかもしれない。
おさきはどう思っているのだろう。

「おさき、おさきは鈴味屋で働けて幸せか?」

急に話が変わり、おさきが不思議そうな表情を浮かべる。
しかしすぐに満面の笑みとなる。

「私はここで働かせてもろて、ほんまに幸せもんです」

その笑顔を見ると、さっきまでの不安は吹き飛んだ。
代わりに千津を救ってやらねばと言う決意と使命感が湧いた。


結局いつも通り入り浸ってしまい、辺りはすっかりと暗くなっていた。
おさきが表まで送ってくれる。

「ほら、優さま。お足元気をつけて下さい」
「おう。でーじょーぶー」

中々に酔いが回った。
今日は珍しくおさきが最後までついてくれたのに加え、おさきの満面の笑みを見る事が出来て機嫌よく酒を飲み過ぎてしまった。

「また来てくださいな」
「三日に空けず来るわ」

千津を必ず救い出す。
おさきと千津の境遇を重ね合わせ、心にそう誓いながらふらふらと帰路につく。

救い出すのは実質伝之助だが、その手伝いをするから自分も千津を救い出す事には変わりない。

そしてその伝之助と有り難くもない出会いをした橋に差し掛かり、あの時同様川に向かって立小便をする。

「あーあ、よう飲んだわ」

橋の欄干にもたれて夜の冷たい空気を吸う。
酔いを醒ますにはちょうど良い。

今夜も伝之助と出会った日の時の様、月明かりが良く届く。
まるであの時の再現だ。

まさかと思い、河川敷に目を凝らす。
誰もいないし何も起こらない。

「いや、まさかな……」

幾ら状況が似ているからと言って同じ事は起こらないだろう。

そう思った時、ふと風が舞う。
優之助は身震いした。

「なんや、ここで立小便してもたれてたら嫌な予感がするわ。はよ帰ろ」

厄災の根源である伝之助と出会った時もこうして小便をした後に欄干にもたれていたのだ。
再び厄災を招くかもしれない。

早く帰ろう。
そう思い再び帰路につこうと背を向ける。

足を一歩踏み出した所で思わず立ち止まる。

気のせいか、後ろに人の気配がする。
いや、人がいても不思議ではないが、何となく殺気が放たれているような気がする。

そう考えると振り向かずにはいられず、さっと振り向く。
案の定人がおり、こちらを睨みつけている。

「お前、優之助やな」

女の声。声音は柔らかだが口調は鋭く厳しい。

「だ、誰や」

上ずる声で言うも女は無言で近付いてくる。
手元に光る物を持っている。

「な、なんや。誰や!」
取り乱し後ずさる。

まさか、坂谷の手の者か。
探りを入れている事が坂谷に知れ、刺客を差し向けたと言うのか。
女なら油断すると思い、女の刺客を差し向けたのだ。
そうに違いない。

そう確信した途端、優之助は背を向けて走り出した。

「あ、待て!」

酔いは覚めていないが構っていられない。
吐き気を覚えながらふらつく足取りで走る。

またこれか。

そう、あれは伝之助と出会った日だ。
やはりあの橋で立小便をするとろくでもない事が起こる。

しかし今回は女だ。
前回は並みの侍ではなく一級の侍である伝之助だったからいとも簡単に追いつかれたが、今回は大丈夫。
いくら酔っているとは言え逃げ切れるはずだ。

俺の手足は長いんや――必死に手足を動かす。

自宅が見えてくる。明かりがついている。伝之助がいるはずだ。

万が一女が家を突き止めても大丈夫だ。
伝之助は相手が誰でも容赦しないだろう。

勢いよく引き戸を開け、家に転がり込む。

「た、助かった……」

廊下に突っ伏し、荒れた呼吸を整える。

「ないじゃ」
伝之助が居間から顔を出す。

優之助は息を整えながら吐き気と戦う。
その様子を伝之助が呆れて見ている。

「ここがお前の家か」

声に反応して勢いよく振り向くと、開けっ放しの戸口に先程の女がいた。

馬鹿な、そんなはずはない。
いくら飲み食いした後とはいえ本気で走り抜けた。
伝之助ならまだしも、いや、伝之助でなく男ならまだしも女の足でこんなすぐに追いつけるはずがない。

「な、なんでもう追いついたんや」

息も絶え絶えの優之助に余裕をもって呼吸を整えながら女は言った。

「お前の足が遅いからや」

そんなはずは……俺は背が高く手足が長いのに足が遅いんか……

「ないしちょっとかお前ら。優之助、お前またおなごに恨み買うこつでもしよったか?」

そんな優之助の思いなど知る由もなく、伝之助は近付き気のない声を掛ける。

「お前は……まさか、優之助の相方の大山伝之助か」
「おいを知っちょっとか」

「二人揃ってるなら丁度いい」

そう言うと女は腰に差している短刀の鞘を払う。

「覚悟!」と叫び、近くにいる優之助に襲い掛かる。

刺される!――目を強く瞑る。

しかしいつまで経っても刺されない。
恐る恐る目を開けると、伝之助が女の腕を掴んでいた。

一体どうやって距離を詰め、女が優之助を刺すよりも速く手を抑えたのかわからなかった。

「離せ!」
「こげな物騒なもん、おなごが持つな」

女は手を動かそうとしているが微々として動かない。
女が驚いて伝之助を見る。

その隙に伝之助がもう片方の手で短刀を取り上げると、女は憑きものが落ちたように力なく崩れた。

「父上……仇、討てませんでした……」
女は小さく呟く。

「父上?仇?お前、おいらを討ちに来たとか。そげに恨まれるこつしたかの」
「白を切るな!私は黒木保治郎の一人娘、黒木りんや!お前らが父上を殺したんやろ!」

黒木りんと名乗る女が目を潤ませて叫ぶ。
優之助と伝之助は顔を見合わせた。

「おりんさん、ちょっと上がってもろて互いに話そう」

ようやく息の整った優之助が、立ち上がって居間の方を手で示す。

「お前らと話す事なんかない!」
「まあそう言わずに」
「私がどんな……」

りんが涙ぐむ。

「もうよか。ほら、立て。言っとくがおいらはやっちょらん。おいらがやったて話をどこで聞いたか知らんが、おいらも疑われて迷惑しとる。じゃっで疑いを晴らそうちしてる」

りんは戸惑いの表情で伝之助を見る。
言葉を無くしているようだ。

「ほら、はよ立てち。侍の娘がそげなとこにいつまでも座るな」

伝之助に促され、りんはふらふらと立ち上がる。
伝之助と並ぶとりんは伝之助より少し背が低い。

きっと真っ直ぐな性格なのか、今回はそれが空回りしたのだろう。
しかしその空回りで優之助は危うく命を落とすところだった。

「お茶でも淹れるからどうぞ」

優之助が言うもりんは放心したように動かない。

「ほら、いっど。こいつの茶は中々うんまかよ」

伝之助が放心しているりんの背中を押す。

居間へ行き、ちゃぶ台の前に座らせ、茶を用意する。
伝之助が手伝うふりをして優之助に近付く。

「優之助。坂谷からりんの父を殺してくれち依頼されたこつは話すな」

伝之助が耳打ちする。
確かに今聞けば取り乱すかもしれない。
優之助は黙って頷いた。

りんの前に茶を入れた湯呑を置いてやる。
二人が向かいに座るとりんは覚束ない手つきで湯呑を取り、小さく「頂きます」と言った。

しばらく茶を見つめていたが、ゆっくり茶を啜る。
少し落ち着き頭が回転し出したのか目に光が戻った。

こうしてみると中々に可愛らしい女である。
丸顔だが目は大きく、鼻筋が通っておりふっくらとした唇、おさきほどではないが悪くない。
それに丸顔が幼さを感じさせるのか、年は若く見える。

いや、今はそんな事を考えていてはいけない。

「おりんさん。信じてもらえるかわからんけど順を追って説明するわ」

優之助は自分たちの置かれている状況、今やっている事を話す。
なぜ疑われているかは黒木が自分たちを張っていたからだろうと上手く誤魔化した。

「じゃあ二人は本当に父上を……?」
「もちろん手にかけてない。それどころか濡れ衣を着せられそうなってる」
「これは申し訳ございません」

りんはさっと後ろへ下がり、手をついて謝罪する。

優之助はりんに疑われる事なくすぐに信じてもらえたことに胸を撫で下ろした。
りんにはこちらの話を疑う余裕も経験値も無いのかも知れないが、今はそれが吉と出た。

「もうよか。顔上げ。りん、おはんも大変じゃったろ。仕方んなか」

仕方ないて、お前は良いかも知らんけど俺は橋と家とで二度も殺されかけたんやぞ、と言いたい所をぐっと堪えた。
父を殺された娘にこれ以上言うわけにいかない。

「それより俺らが父上をやったと誰に吹き込まれたんやろか」
「そ、それは……」

りんは言い淀んだ。

「父の知り合いか?」

伝之助が言うとりんは小さく頷いた。

「生前父が、俺に何かあれば大山伝之助と言う男の所を訪ねろと言っていました。そして父が殺され、奉行所の方から優之助と大山伝之助がやったと言う線が濃いと聞いて、これはもう間違いないと思いました」

まさか黒木が伝之助を訪ねろと言っていたとは……黒木までもが自分達を疑っていたのだろうか。

それにしても奉行所の連中がりんにそんな事を言ったのか。
奉行所は完全に自分達を疑っているのか。
しょっ引かれるのも時間の問題なのか。

頭の中が悪い方向ばかりに働く。

「伝之助さん、奉行所はそんなに俺らを疑ってるんでしょうか。これは厳しい状況なんちゃいますかね」

不安が胸を埋めていく。
伝之助も珍しく難しい顔をしている。

「厳しい状況は今に始まったこつとちごう」

伝之助はそう言うと、何か考え事をするように顎に手を当てて俯いた。

「おりんさんは奉行所の人から俺らの事を聞いて仇討ちに来たわけや。誰かに焚き付けられたんかな」

もしかすると言った人物はりんをそそのかそうと考えたのかもしれない。

「いえ、誰かに焚き付けられたと言うわけじゃないんです。私には仇を討つ以外に方法が無かった」

りんはそう零し唇を噛みしめると続けた。

「父が亡くなり、私は一人となりました。母は体が弱く、私が幼い内に病で亡くしていました。私は女ですから家の跡取りにもなれず、婿の当てもありませんでした。そこに目を付けた坂谷が家を買い取り、島薗で働く代わりに家に住まわせてやると言うのです。私はもう命を絶とうと思いました。けど、せめて父の仇を討ってからやと思いました。坂谷は毎日のように迫り、家を追い出そうとします。もう私には行く所が無く、時間もありませんでした。それで奉行所の方から聞いたお二人に仇討ちをと思いました」

「なるほど、それで仇討ちに来たと言うわけか」

可哀想に、随分と追い詰められたのだろう。

「りん、おはんはこん後どげんする。まさか死ぬ気とちごうか」

そうだ。元々自害を覚悟していたのだ。
当てが外れた今、もう一度犯人を捜すだけの時間がりんにあるのだろうか。

「何とか父の仇だけは討ちたいです。けど……」

りんは目に涙をためる。
決して流してなるものかと懸命に堪える。

この涙はついこの間見た。
そう、千津の涙だ。

もうあんな想いをさせる人をこれ以上増やしたくない。

「りん、行くとこがなかならここんおれ。ここはまだようけ部屋が余っとる。のう優之助」

いつからお前の家になったんやと思うが、りんの事を思うとそうしてやるのがいいだろう。

「男二人やけど気兼ねする事はないで」
頷いて言った。

りんはどう答えようか戸惑っている。

「あっ、せやな。男二人のとこに世話なる言うのは警戒するわな。大丈夫や……って言うてもあまり信用ならんか」
「いや、それは……」

いくら親切に言っても今日初めて会い、それも今日までは父の仇だと思っていた二人だ。
話も完全に信用してもらえたかわからない。

「優之助がないかしよったらおいが叩き斬ったる。安心せぇ」
伝之助が得意気に言う。

安心せぇ?

どうやら自分も含めて警戒されていると気付いていないらしい。安定の馬鹿だ。

「伝之助さんも含めて警戒されてる思いますけど」
「ないを言うか。おいは侍じゃ。そげな恥さらしせん。お前は町でも評判の女たらしで体中から下品さが滲み出ちょる。生ける恥さらしじゃ。警戒されとるんはお前に決まっちょう」

「そないまで言いますか。おかしいな、顔はお上品なんですけどね」
「下品なもんの上に上品なもんがついちょるち、まさに変態じゃの」

ちくしょう……誰が変態や。
言いたい放題言いやがって。

りんがくすっと笑った。

「ありがとうございます。なんだか大丈夫な気がしてきました。それに他に方法はありません。何か解決策が見つかるまでしばらくお世話になります」

りんは手を付き頭を下げた。


その後は伝之助の護衛の下りんの家に行き、荷物をまとめて夜逃げした。

りんはまだ十七になる娘で、優之助と伝之助より八つも下だった。
そんな娘が父を殺され家を追われ、身を売れと追いかけ回される。
なぜこんな目に遭わなければいけないのかと他人事ながら怒りを覚えた。

優之助の家の一室を与えてやると、よほど疲れていたのかりんはすぐに寝入った。


「優之助、りんを千津のようにはさせんど」

伝之助は居間で酒を飲みながら静かに言った。

確かにりんは千津が歩んだ道をなぞっているようだ。
これが坂谷の手口なのだろう

「でも伝之助さん、どないするんですか」

何か妙案でもあるのかと期待する。

「どげんすっかのう」

さすがの伝之助でも有効な策は無いか。

いや、伝之助に策なんてあった事があっただろうか。
こいつはいつも正面突破だ。
嫌な予感がする。

「こげんなりゃあ仕方んなか。坂谷の屋敷に襲撃かけっど」

ほらきた。

「いや、無暗に襲撃かけても何の収穫もありませんよ」
「じゃっでおいが襲撃を掛ける。そん間、お前は坂谷の屋敷に忍び込んであん紙を探せ」
「そんな無茶な……どこにあるかもわからんのに」
「もちろんある程度目星を付けてからじゃ。じゃっどん、悠長にはできんど」

確かに時が経てば経つ程、追い詰められるだろう。
りんの事もいつまでも隠しきれない。

「おりんさんの事は奉行所に頼めませんかね。黒木さんの娘さんなら何とか――」
「してくれるかもしれんの。じゃっどんそいは一時だけで解決とちごう。そいに奉行所を完全に信用するんもどうかの」

伝之助が優之助の言葉を引き継いで言った。

まさか、奉行所に坂谷と繋がっている奴がいるとでも言うのだろうか。
だが、坂谷なら奉行所の人間も抱き込んでいる可能性は十分あると思える。

優之助は黙り込む。

「まあしばらくは情報集めじゃ。お前は千津の所に顔隠して行け。坂谷の屋敷の部屋の配置と護衛の配置でもわかればよか」

伝之助はそう言うと、一気に酒を飲みほした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み