優之助、拷問に遭う
文字数 6,484文字
はっと目を覚ます。外が明るくなり始めている。
「ここは……」
見慣れた天井、壁、、優之助自身の部屋だ。
霞がかった頭で昨日の事を思い出す。
大坂を目指して歩いたはいいが、目に入る侍全てが追手に見え、とてもまともに歩けなかった。
一度は宿に入ったもののいつ追手が来るかとびくびくし、夜を明かす事なく出てふらふらと家に帰った。
家にいてもいつ坂谷の追手が来るかわからないが、奉行所の者か伝之助が助けに来てくれるかもしれないと思うと外にいるよりはまだ落ち着いた。
うつらうつらと寝ては起きてを繰り返し、今に至る。
俺に逃亡生活は出来へん。そう確信した。
その日は体がだるくだらだらと過ごし、何も起こらなかった。
だが次の日の日が傾く頃、来客があった。
「優之助とやら、いるか」
江戸訛りの言葉、奉行所の者でも伝之助でもない。
裏から逃げようか。
いや、逃げれば問答無用で斬られるかもしれない。
ここは素直に対応しよう。
「はいはい何です」
心臓は跳ねていたが努めて平静を保った声を出し、戸口を開けた。
そこには覆面をした男が数人立っていた。
「まさか本当に家に居るとはな」
先頭の男が意外な口ぶりでそう言うと続けた。
「何も言わずについて来い。そうすればここで殺しはせん」
そう言われては何も抵抗できない。
有無を言わさず連れて行く気だ。
助けを呼ぼうにも近くに民家はない。
それに万が一民家まで辿り着いたところで助かる事はないだろう。
嗚呼、おさき、さらば。
俺は拷問されてある事ない事喋り尽くして殺されるんや。
覆面の男達に囲まれて歩く。
男達は何も喋らない。
予め人通りの少ない道を調べておいたのか、人っ子一人見かけない。
こいつら、慣れてる――今まで何度も人を攫ったに違いない。
縛られていもいないのに男達がぴったりとくっついている為逃げる隙も無い。
人目を避ける為に随分と回り道をしたはずだが、瞬く間に坂谷の屋敷に到着した。
門をくぐると屋敷内ではなく、真っ直ぐに蔵へと向かう。
男達が蔵の戸を開け、優之助の背を押して中に入れると戸を閉めた。
「優之助、よう来たな」
蔵に入ると、坂谷が薄ら笑いを浮かべて蔵の中央に立っていた。
その周りには同じく薄笑いを浮かべた男が何人かいた。
優之助は坂谷達から目を逸らし、周囲を見て顔を引き攣らせた。
天井からは縄を通し人を吊るせるようになっている。
その側には机があり、短刀や鋏、木槌や縄など他にも様々な道具が置いてある。
床や壁には血の染みがいくつもついている。
右手の指は全部無かった――吉沢の言葉を思い出す。
黒木はここで拷問を受けたのであろうか。
考えれば考える程血の気が失せていく。
「ええ顔やないか。奉行所の奴らが屋敷を調べる言うた時は、ここを隠すのに一番困ったわ」
坂谷は薄ら笑いのまま言った。
蔵が拷問部屋の為、寝室の隣部屋が財宝部屋になっていたのだ。
周囲の男達は顔を隠していない。
生きて返すつもりはないと言う事だろうか。
「恐怖で言葉も発せられへんか」
坂谷が言って笑い声を上げると他の男達も笑う。
……あれ?男達の中に一人だけ、何となく見覚えがある男がいる。
「あの……そちらの方は、俺の家に来られましたかね」
優之助が初めて発言したので一瞬場が静まるが、すぐに笑い声が沸き起こる。
「家に来られましたかね、やって」
男達の内の一人が言うとまた笑いが巻き起こる。
「おう、俺はお前の家に行ったで。盗みにも入ったしな」
そうか、こいつが坂谷との約束を交わした紙と金を盗んだのだ。
「俺の事覚えてたんやな」
「覚えてる。あんたは俺の家に来た。確か奉行所の吉沢さんと来た人や」
そう、吉沢と来た。
黒木と違う。その反対側にいたもう一人の人物。
小太りの狐顔で伝之助と言い合いになった奴だ。
名前は確か……金……何とかだ。ついこの前も来たのに思い出せない。
女の名前なら一度聞けば忘れないのに、男の名前は三歩歩くと忘れてしまう。
しかしやはり坂谷と奉行所の人間が繋がっていたのだ。
「よう覚えてるやないか。まあこの前も行ったしな。それにしても奉行所が引き上げて家に見に行ったら逃げも隠れもせんとおったからびっくりしたわ。その根性だけは認めたるわ」
違う。根性があるどころか寧ろその逆だ。
逃亡する根性がなかったのだ。
しかしあれは所在確認と、家に居ない場合、自分が優之助を探す為の口実として吉沢に同行してきたのだ。
「あの時言うてた事に答えたるわ。黒木の娘にお前らがやったと吹き込んだんは俺や」
こいつだったのか。
そのせいでりんに殺されかけた。
優之助は狐顔の男を睨みつけた。
「なんや、黙りこくって。何とか言えや。怖くないんかい」
「怖いですよ。滅茶苦茶」
心底怖い。だがこんな奴らに怖がる所を見せてたまるかと思った。
これも伝之助のお陰だろうか。
侍の覚悟を思い出す。
「もうええ。坂谷さん、吊るしましょう」
狐男が言った。
坂谷が頷き声を掛けると、優之助は取り巻く男達に着物を剥がれ、褌一丁にされる。
「や、やめてくれ」
震える声で頼み込むも誰も聞く耳を持ってくれない。
手際よく天井から吊っている縄で後ろ手に縛られ、ぐっと引っ張られる。
縄がぴんと張り、腕が引っ張られる。
「痛い痛い!助けて!」
男達が更に縄を引くと体が浮く。
喚く優之助に構わず、男達は壁の金具に縄を括り付けて固定する。
「俺は一町人です。何でも隠さず喋ります。殴ったりしたら死んでしまうかも知れませんから、何もせんといて下さい!」
侍の覚悟は脆くも崩れ去った。
吊るされただけで舌が溶けた様に何でも話す気になる。
いや、最初から話そうと決めていたではないか。
伝之助など知らない。
あいつは暴れるだけ暴れて消えてしまった。
男の内の一人が壁に立てかけてある木刀を手にする。
「ほんまに歌うんやったらすぐ降ろしたる。けど貝みたいに閉ざすんやったらこうや!」
「ひぃ!」
木刀で背中を打たれる。
もの凄く痛い。
何も言わなかったらこれがどんどん酷くなっていく事は容易に想像できた。
「おい、程々にしとけ」
意外にも坂谷が男を制した。
「なあ優之助。わしらが聞く事、包み隠さず話してくれなお互い困った事になる。ええな」
坂谷の顔に先程の薄ら笑いはない。真顔だ。それが更に恐怖を煽る。
「もちろんです」
疑う余地はない。
「大山伝之助言うたら裏の世界ではちょいと名が通ってる。そんな奴とお前がなんで一緒におるかはこの際どうでもええ。またじっくり聞く。それよりも今はわしの屋敷に入って好き勝手晒した大山はどこに行ったか知りたい」
「それは……」
知らない。
しかし何か言わなければいけない。
ちくしょう、伝之助の奴、これを見越して宿の名前も言わんかったんや。
何か考えなあかん。
「どこに行ったかは俺も知らんのです。ただ、大坂の方に流れるつもりやとは言うてました」
「お前、嘘言うたら承知せんぞ!」
男が木刀を振り上げる。
「やめんかい!」
また坂谷が止める。今は坂谷が有り難い。
「大坂に行く言うたんやな。大坂の何処や」
「それは聞いてません」
明らかに場の雰囲気が悪くなった。
坂谷の顔も険しい。
「しゃあない。やれ」
坂谷の声を合図に待ってましたとばかり、男が優之助の体のあちこちを所構わず木刀で打ち付る。
「痛い!やめてくれ!」
「隠さんと喋らんかい!」横から狐顔の男が言う。
「言います!言います!痛い!痛い!言いますって!」
拷問が止まる。優之助は息を整える。
「前仕事で大坂行った時の宿に行く言うてた」
盛本討伐の際、泊まった宿の名前を言った。
「それはほんまか」
「ほんまです。その後はどこに流れるか知らんけど、とりあえずはそこに行く言うてました」
坂谷は腕を組み思案顔となった。
しかし狐顔の男は優之助を見つめたままだ。
「坂谷さん。こいつ、適当言ってるかも知れませんよ」
「そんな!」
図星なだけに焦った。
「奉行所に勤めるお前がそう言うなら何か思うんか」
「ええ、同心の勘言うかね、何か働くんですわ。やたらと都合よく話しますしね」
しまった。
もう少し渋った方が良かったのか。
でももう痛いのはたくさんだ。
それにこんな狐男に同心の勘などあるはずがない。口から出まかせに決まっている。
頭に血が上った。
「嘘やったらこないすらすら出るかい!同心の勘やて?笑わせんな!同心として大した事ないくせにお前にそんなもんあらへんわ!」
「何やと!」
「やめ!」
坂谷がまた止めた。
厭らしい笑みを浮かべて近付いてくる。
何やら様子が変だ。
「なあ、優之助。お前の事あまり傷つけたくないんや。わしは女好きやけど、お前みたいな良い顔の男も好きなんや。だからできるだけ傷つけたくない。なあ、話してくれや」
坂谷は優之助の体を指先でそおっと触る。
鳥肌が全開となる。
冗談やない。
俺は男色の気も両刀使いでもない。
普段は顔がいい事を有り難がっていたが、今ばかりはこの美顔を恨んだ。
「生かされても地獄か……」
今までの罰が当たったのだろうか。
親を失望させて弟に迷惑をかけて女を取っ替え引っ替えした罰が。
「もういっその事殺してくれ!痛くないように一瞬で!」
本気でそう叫んだが周りは皆、どっと笑った。
ちくしょう、なんで俺がこんな目に遭わなあかんねん。
俺がお前らに何をしたんや。
お前らはいつもこうやって人を踏み躙ってるんや。
絶対いい死に方しやんぞ。地獄に落ちてまえ。
優之助は屈辱と悔しさに涙を浮かべて歯噛みした。
男達の笑い声が響く。
そんな中、薄らと外から怒声が聞こえてくる事に気付いた。
「なんや。何か外が騒がしいで」
坂谷も気付いたようだ。男達の笑いが止む。
「見てきます」
端にいた男が入口に駆け寄り扉を開ける。
「おい、すぐに扉を開けるな」
狐顔の男が言ったが、すでに両開きの扉の片方は半分ほど開けられている。
男がその空いた扉の隙間から外を伺う。
その瞬間、扉が勢いよく開く。
「坂谷!御用改めじゃ!」
扉の前には吉沢が数人の男達を引き連れて立っていた。
「小金井、お前ここで何してるんや」
狐顔の男、小金井は呆気に取られていた。
「なんで吉沢さんが……」
愕然とした表情で小さく零す小金井を、吉沢は鋭く睨み付ける。
「何の騒ぎや。お前ら奉行所が調子乗ってたらあかんぞ。ええ加減にせんとわしも出るとこ出なあかん」
坂谷は動揺することなく薄ら笑いを浮かべて言った。
その気になれば奉行所にも圧力をかけられるのだろうか。
そうなると今回の事はもうどうしようもない。
「出るとこ出るやと。彦根の藤井利也の事か。そこの小金井の親父のか」
坂谷は笑みを消し、目を見開く。
そこまで調べがついている事に驚いた様子だ。
小金井は彦根の上級武士、藤井利也の妾の子であった。
もちろんお家を継ぐ事は無く、京に出て藤井の口利きで奉行所で勤める事となった。
小金井を京の奉行所に勤めさせ、豪商坂谷と繋ぐ。
そして坂谷が喉から手が出る程欲しいであろう奉行所の情報を流す。
それだけでなく時には裏で糸を引いて奉行所内の情報操作をする。
藤井の目的は、坂谷からそれらの見返りを受け取る事だ。
もちろん小金井もいくらか甘い汁を吸っている。
吉沢はそれらの事を簡潔に言った。
「よう知ってるやないか。ほんなら話が早い。藤井さんに言うて丸く収めてもらうから小金井を引き連れて帰れ。煮るなり焼くなりしたらええ」
小金井は驚いて坂谷を見た。
坂谷は小金井を切ろうとしている。
「坂谷さん、何を言うて……」
「わしは知らん。お前が勝手に仕組んだことや」
「そんな事……父上が許さんぞ」
「藤井さんがわしとお前、どっちに味方しはるやろうな」
坂谷は藤井が自分の味方になると確信していた。
今となっては小金井を切っても差し支えは無い。だが坂谷を切れば金が回ってこなくなる。
藤井はその金で力を得ている私利私欲に塗れた人間なのだ。
その為なら息子と言えども利用価値が無くなれば切り捨てる事を厭わない。
小金井もそれをわかっているのか、悔しそうに歯軋りするのみだった。
「仲間割れはそれまでや。お前ら全員しょっ引くんや」
吉沢が割って入る。
「せやから吉沢さん、話の分からんお方やなあ」
坂谷がせせら笑う。
奉行所の男達の中から一人の男が吉沢の横へ出て言い放つ。
「話が分からんのはお前の方だ」
「誰やお前は」
坂谷が眉を寄せて睨みつけると、吉沢が慌てる。
「阿保、この方はお前がおいそれと口を聞ける方やない。薩摩のご家老、松尾幸則様や」
坂谷は目と口をこれでもかと言うほど開く。
「薩摩の家老やと……」
するとぞろぞろと男達が蔵を埋め尽くすように入ってきた。
「藍の羽織の背中に十字紋!なんで薩摩侍が……」
薩摩侍の藍色の羽織の背中には、薩摩の紋である十字紋が大きく描かれている。
「お前から洗いざらい聞き出せばすぐさま藤井を捕らえ、我々が潰す」
松尾はいつもの温厚な顔と違い、目つき鋭く厳しい顔つきで言い放った。
「そんな事……出来るわけ――」
「出来る。薩摩を嘗めるな」
松尾は冷淡な目を向け啖呵を切る。
自身の計画の為に広げてきた人脈が思わぬ所で役にった。
藤井と坂谷の繋がりを探った日々が頭を過る。
藤井は恰幅良く、やってきた悪事が顔に出ている如何にも悪代官の様だ。
家柄が良かった事と悪知恵が働き、金を撒くのがうまく今の地位を確立した。
藤井の悪評は聞くに堪えぬものばかりであった。
藤井の物事の測り方は、男は利用出来るか出来ないか、女は抱けるか抱けないか、であった。
藤井の周りには甘い汁を吸おうと坂谷のような悪徳商人も集まってくる。
その悪徳商人の中に懇意にしている手配師がいる。
その手配師を通して坂谷に多くの浪人を都合していた。
中でも坂谷は沢田と言う浪人を気に入り、重宝した。
藤井は坂谷に多くの人脈を作ってやった。
それらの見返りに多大な金と女を工面させた。
その人脈の内の一つが小金井である。
藤井は小金井を曲がりなりにも我が子であるが、大して役にも立たない男だと見限っていた。
しかし思いの外、利用出来て役に立った。
坂谷の用意する女はあれこれ詮索しなかったが、どれも暗い目のした女であった。
一度部下に調べさせた事があるが、坂谷はあの手この手で攫って来ているようである。
特に武家の娘は島薗でも人気のようで、目を付けたらあらゆる手を使って攫う。
そして自身の屋敷に呼び、仕込む。
藤井にとってはそんな事情はどうでも良かった。
自身に利をもたらすのであれば、他人の事情など知った事ではない。
藤井はただ欲のままに金と女を貪るだけではない。
地位や権力も手に入れたい野心家でもある。
藤井は現在、家老ではないが家老に近い権力を持つ家老格である。
彦根の藩主にもっと取り立ててもらいたいと考えるだけでなく、将軍の御眼鏡にも適いたい。
しかし年ももう若くはない。
焦りからか派手に立ち回り、邪魔者は坂谷が甘く感じる程に卑劣な手を使い、二度と這い上がれないよう外堀を埋めて蹴落とす。
時には暗殺も辞さない。
その為敵が多く、藤井に恨みを持ってはいるが逆らえない者も多数いる。
松尾はそれらの情報を得た後、藤井を敵視する有力者達に藤井と坂谷を潰す事を話した。
腰が引けていた者達も、松尾の根気強い交渉と根回し、そして少々の裏金を回して説得し、外堀を固めた。
これで藤井は潰せる、そう確信していた。
「全員大人しく縄につけ」
吉沢の言葉に奉行と薩摩侍がその場にいた男達を捕らえる。
坂谷はまだ何やら喚いていたが、小金井含め、他の男達は観念したようで無抵抗だった。
優之助はその様子を他人事のように見ていたが、はっとした。
「吉沢さん!はよ降ろして下さい!もう腕が千切れそうです!」
優之助の言葉に皆一瞬手を止め、優之助を見る。
皆そこに優之助がいた事を思い出したように動き出し、縄を解いて降ろして助けてくれた。
「すまんすまん。待たせたな、優之助」
吉沢は笑いながら優之助に着物を渡す。
「もう俺はほんまにあかんと思いましたよ」
「いや、間に合って良かったわ」
「もう何が何だか分かりませんわ。でも助かった。ありがとうございます」
「おうおう」
男達の雑踏の中を見渡すが、伝之助がいない。
「伝之助さんはおらんのですか」
吉沢は陽気に笑っていたのをぐっと引き締めた。
「あいつはもう一仕事しとる」
「ここは……」
見慣れた天井、壁、、優之助自身の部屋だ。
霞がかった頭で昨日の事を思い出す。
大坂を目指して歩いたはいいが、目に入る侍全てが追手に見え、とてもまともに歩けなかった。
一度は宿に入ったもののいつ追手が来るかとびくびくし、夜を明かす事なく出てふらふらと家に帰った。
家にいてもいつ坂谷の追手が来るかわからないが、奉行所の者か伝之助が助けに来てくれるかもしれないと思うと外にいるよりはまだ落ち着いた。
うつらうつらと寝ては起きてを繰り返し、今に至る。
俺に逃亡生活は出来へん。そう確信した。
その日は体がだるくだらだらと過ごし、何も起こらなかった。
だが次の日の日が傾く頃、来客があった。
「優之助とやら、いるか」
江戸訛りの言葉、奉行所の者でも伝之助でもない。
裏から逃げようか。
いや、逃げれば問答無用で斬られるかもしれない。
ここは素直に対応しよう。
「はいはい何です」
心臓は跳ねていたが努めて平静を保った声を出し、戸口を開けた。
そこには覆面をした男が数人立っていた。
「まさか本当に家に居るとはな」
先頭の男が意外な口ぶりでそう言うと続けた。
「何も言わずについて来い。そうすればここで殺しはせん」
そう言われては何も抵抗できない。
有無を言わさず連れて行く気だ。
助けを呼ぼうにも近くに民家はない。
それに万が一民家まで辿り着いたところで助かる事はないだろう。
嗚呼、おさき、さらば。
俺は拷問されてある事ない事喋り尽くして殺されるんや。
覆面の男達に囲まれて歩く。
男達は何も喋らない。
予め人通りの少ない道を調べておいたのか、人っ子一人見かけない。
こいつら、慣れてる――今まで何度も人を攫ったに違いない。
縛られていもいないのに男達がぴったりとくっついている為逃げる隙も無い。
人目を避ける為に随分と回り道をしたはずだが、瞬く間に坂谷の屋敷に到着した。
門をくぐると屋敷内ではなく、真っ直ぐに蔵へと向かう。
男達が蔵の戸を開け、優之助の背を押して中に入れると戸を閉めた。
「優之助、よう来たな」
蔵に入ると、坂谷が薄ら笑いを浮かべて蔵の中央に立っていた。
その周りには同じく薄笑いを浮かべた男が何人かいた。
優之助は坂谷達から目を逸らし、周囲を見て顔を引き攣らせた。
天井からは縄を通し人を吊るせるようになっている。
その側には机があり、短刀や鋏、木槌や縄など他にも様々な道具が置いてある。
床や壁には血の染みがいくつもついている。
右手の指は全部無かった――吉沢の言葉を思い出す。
黒木はここで拷問を受けたのであろうか。
考えれば考える程血の気が失せていく。
「ええ顔やないか。奉行所の奴らが屋敷を調べる言うた時は、ここを隠すのに一番困ったわ」
坂谷は薄ら笑いのまま言った。
蔵が拷問部屋の為、寝室の隣部屋が財宝部屋になっていたのだ。
周囲の男達は顔を隠していない。
生きて返すつもりはないと言う事だろうか。
「恐怖で言葉も発せられへんか」
坂谷が言って笑い声を上げると他の男達も笑う。
……あれ?男達の中に一人だけ、何となく見覚えがある男がいる。
「あの……そちらの方は、俺の家に来られましたかね」
優之助が初めて発言したので一瞬場が静まるが、すぐに笑い声が沸き起こる。
「家に来られましたかね、やって」
男達の内の一人が言うとまた笑いが巻き起こる。
「おう、俺はお前の家に行ったで。盗みにも入ったしな」
そうか、こいつが坂谷との約束を交わした紙と金を盗んだのだ。
「俺の事覚えてたんやな」
「覚えてる。あんたは俺の家に来た。確か奉行所の吉沢さんと来た人や」
そう、吉沢と来た。
黒木と違う。その反対側にいたもう一人の人物。
小太りの狐顔で伝之助と言い合いになった奴だ。
名前は確か……金……何とかだ。ついこの前も来たのに思い出せない。
女の名前なら一度聞けば忘れないのに、男の名前は三歩歩くと忘れてしまう。
しかしやはり坂谷と奉行所の人間が繋がっていたのだ。
「よう覚えてるやないか。まあこの前も行ったしな。それにしても奉行所が引き上げて家に見に行ったら逃げも隠れもせんとおったからびっくりしたわ。その根性だけは認めたるわ」
違う。根性があるどころか寧ろその逆だ。
逃亡する根性がなかったのだ。
しかしあれは所在確認と、家に居ない場合、自分が優之助を探す為の口実として吉沢に同行してきたのだ。
「あの時言うてた事に答えたるわ。黒木の娘にお前らがやったと吹き込んだんは俺や」
こいつだったのか。
そのせいでりんに殺されかけた。
優之助は狐顔の男を睨みつけた。
「なんや、黙りこくって。何とか言えや。怖くないんかい」
「怖いですよ。滅茶苦茶」
心底怖い。だがこんな奴らに怖がる所を見せてたまるかと思った。
これも伝之助のお陰だろうか。
侍の覚悟を思い出す。
「もうええ。坂谷さん、吊るしましょう」
狐男が言った。
坂谷が頷き声を掛けると、優之助は取り巻く男達に着物を剥がれ、褌一丁にされる。
「や、やめてくれ」
震える声で頼み込むも誰も聞く耳を持ってくれない。
手際よく天井から吊っている縄で後ろ手に縛られ、ぐっと引っ張られる。
縄がぴんと張り、腕が引っ張られる。
「痛い痛い!助けて!」
男達が更に縄を引くと体が浮く。
喚く優之助に構わず、男達は壁の金具に縄を括り付けて固定する。
「俺は一町人です。何でも隠さず喋ります。殴ったりしたら死んでしまうかも知れませんから、何もせんといて下さい!」
侍の覚悟は脆くも崩れ去った。
吊るされただけで舌が溶けた様に何でも話す気になる。
いや、最初から話そうと決めていたではないか。
伝之助など知らない。
あいつは暴れるだけ暴れて消えてしまった。
男の内の一人が壁に立てかけてある木刀を手にする。
「ほんまに歌うんやったらすぐ降ろしたる。けど貝みたいに閉ざすんやったらこうや!」
「ひぃ!」
木刀で背中を打たれる。
もの凄く痛い。
何も言わなかったらこれがどんどん酷くなっていく事は容易に想像できた。
「おい、程々にしとけ」
意外にも坂谷が男を制した。
「なあ優之助。わしらが聞く事、包み隠さず話してくれなお互い困った事になる。ええな」
坂谷の顔に先程の薄ら笑いはない。真顔だ。それが更に恐怖を煽る。
「もちろんです」
疑う余地はない。
「大山伝之助言うたら裏の世界ではちょいと名が通ってる。そんな奴とお前がなんで一緒におるかはこの際どうでもええ。またじっくり聞く。それよりも今はわしの屋敷に入って好き勝手晒した大山はどこに行ったか知りたい」
「それは……」
知らない。
しかし何か言わなければいけない。
ちくしょう、伝之助の奴、これを見越して宿の名前も言わんかったんや。
何か考えなあかん。
「どこに行ったかは俺も知らんのです。ただ、大坂の方に流れるつもりやとは言うてました」
「お前、嘘言うたら承知せんぞ!」
男が木刀を振り上げる。
「やめんかい!」
また坂谷が止める。今は坂谷が有り難い。
「大坂に行く言うたんやな。大坂の何処や」
「それは聞いてません」
明らかに場の雰囲気が悪くなった。
坂谷の顔も険しい。
「しゃあない。やれ」
坂谷の声を合図に待ってましたとばかり、男が優之助の体のあちこちを所構わず木刀で打ち付る。
「痛い!やめてくれ!」
「隠さんと喋らんかい!」横から狐顔の男が言う。
「言います!言います!痛い!痛い!言いますって!」
拷問が止まる。優之助は息を整える。
「前仕事で大坂行った時の宿に行く言うてた」
盛本討伐の際、泊まった宿の名前を言った。
「それはほんまか」
「ほんまです。その後はどこに流れるか知らんけど、とりあえずはそこに行く言うてました」
坂谷は腕を組み思案顔となった。
しかし狐顔の男は優之助を見つめたままだ。
「坂谷さん。こいつ、適当言ってるかも知れませんよ」
「そんな!」
図星なだけに焦った。
「奉行所に勤めるお前がそう言うなら何か思うんか」
「ええ、同心の勘言うかね、何か働くんですわ。やたらと都合よく話しますしね」
しまった。
もう少し渋った方が良かったのか。
でももう痛いのはたくさんだ。
それにこんな狐男に同心の勘などあるはずがない。口から出まかせに決まっている。
頭に血が上った。
「嘘やったらこないすらすら出るかい!同心の勘やて?笑わせんな!同心として大した事ないくせにお前にそんなもんあらへんわ!」
「何やと!」
「やめ!」
坂谷がまた止めた。
厭らしい笑みを浮かべて近付いてくる。
何やら様子が変だ。
「なあ、優之助。お前の事あまり傷つけたくないんや。わしは女好きやけど、お前みたいな良い顔の男も好きなんや。だからできるだけ傷つけたくない。なあ、話してくれや」
坂谷は優之助の体を指先でそおっと触る。
鳥肌が全開となる。
冗談やない。
俺は男色の気も両刀使いでもない。
普段は顔がいい事を有り難がっていたが、今ばかりはこの美顔を恨んだ。
「生かされても地獄か……」
今までの罰が当たったのだろうか。
親を失望させて弟に迷惑をかけて女を取っ替え引っ替えした罰が。
「もういっその事殺してくれ!痛くないように一瞬で!」
本気でそう叫んだが周りは皆、どっと笑った。
ちくしょう、なんで俺がこんな目に遭わなあかんねん。
俺がお前らに何をしたんや。
お前らはいつもこうやって人を踏み躙ってるんや。
絶対いい死に方しやんぞ。地獄に落ちてまえ。
優之助は屈辱と悔しさに涙を浮かべて歯噛みした。
男達の笑い声が響く。
そんな中、薄らと外から怒声が聞こえてくる事に気付いた。
「なんや。何か外が騒がしいで」
坂谷も気付いたようだ。男達の笑いが止む。
「見てきます」
端にいた男が入口に駆け寄り扉を開ける。
「おい、すぐに扉を開けるな」
狐顔の男が言ったが、すでに両開きの扉の片方は半分ほど開けられている。
男がその空いた扉の隙間から外を伺う。
その瞬間、扉が勢いよく開く。
「坂谷!御用改めじゃ!」
扉の前には吉沢が数人の男達を引き連れて立っていた。
「小金井、お前ここで何してるんや」
狐顔の男、小金井は呆気に取られていた。
「なんで吉沢さんが……」
愕然とした表情で小さく零す小金井を、吉沢は鋭く睨み付ける。
「何の騒ぎや。お前ら奉行所が調子乗ってたらあかんぞ。ええ加減にせんとわしも出るとこ出なあかん」
坂谷は動揺することなく薄ら笑いを浮かべて言った。
その気になれば奉行所にも圧力をかけられるのだろうか。
そうなると今回の事はもうどうしようもない。
「出るとこ出るやと。彦根の藤井利也の事か。そこの小金井の親父のか」
坂谷は笑みを消し、目を見開く。
そこまで調べがついている事に驚いた様子だ。
小金井は彦根の上級武士、藤井利也の妾の子であった。
もちろんお家を継ぐ事は無く、京に出て藤井の口利きで奉行所で勤める事となった。
小金井を京の奉行所に勤めさせ、豪商坂谷と繋ぐ。
そして坂谷が喉から手が出る程欲しいであろう奉行所の情報を流す。
それだけでなく時には裏で糸を引いて奉行所内の情報操作をする。
藤井の目的は、坂谷からそれらの見返りを受け取る事だ。
もちろん小金井もいくらか甘い汁を吸っている。
吉沢はそれらの事を簡潔に言った。
「よう知ってるやないか。ほんなら話が早い。藤井さんに言うて丸く収めてもらうから小金井を引き連れて帰れ。煮るなり焼くなりしたらええ」
小金井は驚いて坂谷を見た。
坂谷は小金井を切ろうとしている。
「坂谷さん、何を言うて……」
「わしは知らん。お前が勝手に仕組んだことや」
「そんな事……父上が許さんぞ」
「藤井さんがわしとお前、どっちに味方しはるやろうな」
坂谷は藤井が自分の味方になると確信していた。
今となっては小金井を切っても差し支えは無い。だが坂谷を切れば金が回ってこなくなる。
藤井はその金で力を得ている私利私欲に塗れた人間なのだ。
その為なら息子と言えども利用価値が無くなれば切り捨てる事を厭わない。
小金井もそれをわかっているのか、悔しそうに歯軋りするのみだった。
「仲間割れはそれまでや。お前ら全員しょっ引くんや」
吉沢が割って入る。
「せやから吉沢さん、話の分からんお方やなあ」
坂谷がせせら笑う。
奉行所の男達の中から一人の男が吉沢の横へ出て言い放つ。
「話が分からんのはお前の方だ」
「誰やお前は」
坂谷が眉を寄せて睨みつけると、吉沢が慌てる。
「阿保、この方はお前がおいそれと口を聞ける方やない。薩摩のご家老、松尾幸則様や」
坂谷は目と口をこれでもかと言うほど開く。
「薩摩の家老やと……」
するとぞろぞろと男達が蔵を埋め尽くすように入ってきた。
「藍の羽織の背中に十字紋!なんで薩摩侍が……」
薩摩侍の藍色の羽織の背中には、薩摩の紋である十字紋が大きく描かれている。
「お前から洗いざらい聞き出せばすぐさま藤井を捕らえ、我々が潰す」
松尾はいつもの温厚な顔と違い、目つき鋭く厳しい顔つきで言い放った。
「そんな事……出来るわけ――」
「出来る。薩摩を嘗めるな」
松尾は冷淡な目を向け啖呵を切る。
自身の計画の為に広げてきた人脈が思わぬ所で役にった。
藤井と坂谷の繋がりを探った日々が頭を過る。
藤井は恰幅良く、やってきた悪事が顔に出ている如何にも悪代官の様だ。
家柄が良かった事と悪知恵が働き、金を撒くのがうまく今の地位を確立した。
藤井の悪評は聞くに堪えぬものばかりであった。
藤井の物事の測り方は、男は利用出来るか出来ないか、女は抱けるか抱けないか、であった。
藤井の周りには甘い汁を吸おうと坂谷のような悪徳商人も集まってくる。
その悪徳商人の中に懇意にしている手配師がいる。
その手配師を通して坂谷に多くの浪人を都合していた。
中でも坂谷は沢田と言う浪人を気に入り、重宝した。
藤井は坂谷に多くの人脈を作ってやった。
それらの見返りに多大な金と女を工面させた。
その人脈の内の一つが小金井である。
藤井は小金井を曲がりなりにも我が子であるが、大して役にも立たない男だと見限っていた。
しかし思いの外、利用出来て役に立った。
坂谷の用意する女はあれこれ詮索しなかったが、どれも暗い目のした女であった。
一度部下に調べさせた事があるが、坂谷はあの手この手で攫って来ているようである。
特に武家の娘は島薗でも人気のようで、目を付けたらあらゆる手を使って攫う。
そして自身の屋敷に呼び、仕込む。
藤井にとってはそんな事情はどうでも良かった。
自身に利をもたらすのであれば、他人の事情など知った事ではない。
藤井はただ欲のままに金と女を貪るだけではない。
地位や権力も手に入れたい野心家でもある。
藤井は現在、家老ではないが家老に近い権力を持つ家老格である。
彦根の藩主にもっと取り立ててもらいたいと考えるだけでなく、将軍の御眼鏡にも適いたい。
しかし年ももう若くはない。
焦りからか派手に立ち回り、邪魔者は坂谷が甘く感じる程に卑劣な手を使い、二度と這い上がれないよう外堀を埋めて蹴落とす。
時には暗殺も辞さない。
その為敵が多く、藤井に恨みを持ってはいるが逆らえない者も多数いる。
松尾はそれらの情報を得た後、藤井を敵視する有力者達に藤井と坂谷を潰す事を話した。
腰が引けていた者達も、松尾の根気強い交渉と根回し、そして少々の裏金を回して説得し、外堀を固めた。
これで藤井は潰せる、そう確信していた。
「全員大人しく縄につけ」
吉沢の言葉に奉行と薩摩侍がその場にいた男達を捕らえる。
坂谷はまだ何やら喚いていたが、小金井含め、他の男達は観念したようで無抵抗だった。
優之助はその様子を他人事のように見ていたが、はっとした。
「吉沢さん!はよ降ろして下さい!もう腕が千切れそうです!」
優之助の言葉に皆一瞬手を止め、優之助を見る。
皆そこに優之助がいた事を思い出したように動き出し、縄を解いて降ろして助けてくれた。
「すまんすまん。待たせたな、優之助」
吉沢は笑いながら優之助に着物を渡す。
「もう俺はほんまにあかんと思いましたよ」
「いや、間に合って良かったわ」
「もう何が何だか分かりませんわ。でも助かった。ありがとうございます」
「おうおう」
男達の雑踏の中を見渡すが、伝之助がいない。
「伝之助さんはおらんのですか」
吉沢は陽気に笑っていたのをぐっと引き締めた。
「あいつはもう一仕事しとる」