坂谷からの依頼

文字数 6,508文字

優之助はその後も気にはしていたが変わりなく仕事を続けた。

あれ以降、表だって奉行所から接触はなかった。
それもあってか、時が経つと心配も徐々に薄れた。

「じゃっどん人々の悩みちゅうもんはきりがなかのう」

いつしか年を越して三が日も過ぎたある夜、伝之助が溜息交じりに零した。

そう、いつしか年を越した。
伝之助が勝手に住みだしてもう四、五月程になる。
ずっと鬱陶しいと思っていたが、今となっては急に出て行かれると困ると言う所がまたもどかしい。

この日はあちこちで買ってきたつまみをつついて正月に余った酒を飲んでいた。

「仕事が途切れへんのは有り難いですけど、まあそうですね。それより伝之助さん、奉行所の連中、あれから動きは無いですけど大丈夫ですか」

優之助は言って蛸の煮物をつまみ酒を飲む。
伝之助が手酌で酒を注ぐ。

「動きはあっど。黒木がちょいちょい後をつけちょる。じゃっどんおいはいつも撒く。黒木も捕縛術は評判良くても尾行はまだまだじゃの。おいの方が一枚も二枚も上手じゃ」

伝之助は豪快に笑い酒を煽る。

優之助は酒を噴き零しそうになった。
黒木が尾行をしていると言う事に驚いたのだ。

「俺もつけられてるんですかね」
「そりゃそうじゃろ」

伝之助は事も無げに鰯の塩焼きをばりばり食う。

最悪だ。
枕を高くして眠れない。

「誰かがたれ込みに奉行所へ駆け込んだんですかね」
「まあそん可能性はあるの。逆恨みからか、或いはおいらのこつを疎ましく思うもんからか。いずれにせよ、遅かれ早かれきっかけがないであれこげんなっちょったじゃろ。こげなこつしてる以上真っ当にはいけんど。ないに巻き込まれるかわからん」
「俺はただ人の為になりたかっただけやのになあ……」

きっかけはおさきの気を惹きたいと思っての事だが、今は少なからず人々の役に立っている事が誇らしかった。

伝之助は優之助から視線をそらし、酒を飲む。
伝之助も何か思うところがあるのかも知れない。
優之助もやりきれずに酒を煽った。


 
次の日、扉を激しく叩く音で目覚めた。

「なんや……」

頭が重い。
体がだるい。

吐き気はないが決して気分は良くない。
昨日は感極まって飲み過ぎたようだ。

鉛の様な体を鞭打ち、寝室を出て戸口に向かう。

途中、居間を通ると伝之助が茶を啜っていた。

「伝之助さん、起きてたんですか。出てくれたらええのに」
「こいはお前の住まいじゃ。おいが出しゃばって出るわけにはいかん」
「それなんの義理ですか……」

都合のいいように解釈しやがって。
忘れもしない伝之助が居ついた翌朝、こいつは勝手に洗濯をして干していたのだ。

最初から自分の家のように振る舞っておきながら何を今更と思い、戸口へ向かった。

「はいはい、どなたです?」

「こちらは優之助さんのお住まいですか」
男の声で言った。

「そうですけど」
「例のお仕事の依頼の件で参りました」

こんな朝っぱらに?

おさきから話を聞いていない。
と言うことはおさきから仲介を得ていないのだろう。
だがもしかすると昨日の夜遅くに話を通した客なのかもしれない。

まあ何でもいい、とりあえず開けよう。

戸口を開けると二人の男が立っていた。

「すんませんな。わしは坂谷言うもんです。今日は折り入ってお願いがあり参上しました」

男を見て目が覚めた。

中背でよく肥えた五十を越える男。
くりっとした小さな目だが目つきは鋭く、目の周りは黒ずんでいる。
ふくよかな顔の輪郭からは穏やかな様子は微塵もなく威圧感がある。

坂谷(さかたに)恵一郎(けいいちろう)……商人だが姓を名乗る事を許され、島薗の支配者と言われる男だ。
あの花街に巣くう闇の元凶である男。

緊張が走る。
その坂谷が直々に何の用だ。

「坂谷さんてあの坂谷さんやないですか。直々に何ですか」

優之助は表情を硬くした。

「実は折り入ってお願いしたい事がありまして、ここではなんですけど……」
「ああ、そうですね」

中に入れようと半身になった所で思い留まった。

「あの、坂谷さん。ここには紹介で来られましたか」
「いや、噂を聞きつけて直接参りました」

どうしよう、おさきの紹介じゃない。
伝之助を呼んでこようか。

「それは困りましたね。ここは仲介先から紹介してもらってやってるんですわ」

対峙しては怖くて言えないので半身のまま言ってみた。

「仲介ですか。ほんなら仲介通してなかったらどないなるんです?」

坂谷の眉間に皺が寄る。
身が竦みそうになる。

「それは……お引き取り願う事になりますかね」

辛うじて言い切った。

「そうですか。それは仲介先に融通してもらわなあかんな。じゃあ出直しましょか。確か仲介は、あの京でも有名な料理屋、鈴味屋のおさき言うお人やったかな」

坂谷は眉間に皺を寄せたまま腕を組む。

融通してもらう……こいつらはおさきを仲介している事も既に知っている。

おさきにどんな迷惑がかかるかわからない。
我ながら浅はかだった。

「いや、せっかくこうしてあの坂谷さんがお越しになられた。どうぞ上がって下さい」
「それはかたじけない」

かたじけないやと。
断られへんの承知の上やないか。

優之助は心の中で毒づいた。

坂谷と付き人の男が上がり込む。

付き人の男は布で顔を覆っており素顔がわからない。
一言も喋らないし坂谷も敢えて紹介しない。

ただただ唯一見える目元だけが鋭い眼光を放っている。
その他わかる事は身体つきが良く、背は優之助と変わらない程高い。

優之助は先を歩き居間へと向かった。
伝之助がいるから最悪、何とかしてくれるだろうと高を括る。

「伝之助さん、お客さんです。坂谷さん。こちらは一緒に働いてる大山伝之助さんです」

坂谷の眉がぴくりと動く。

「ほう。この方が大山さんですか。お噂は聞いています」

坂谷のように裏の世界に顔が広い人間なら伝之助の名ぐらい聞いた事があるのだろう。

そんな伝之助はちらりと一瞥しただけで構わず茶を啜る。

頼むからそう言う態度は止めてくれ――心の中で願うも、その願いは伝之助に届きそうにない。

「さ、どうぞ座って下さい」

坂谷と付き人の男が伝之助の向かいに座ると、優之助は茶を入れる。
その間、誰も何も話さない。

坂谷と、一応付き人の男の前にも茶を出す。
優之助は伝之助の隣に座り、丸いちゃぶ台を挟んで向かい合う形となった。

「この度は急な訪問ですみません。仲介を挟まなあかんのは知ってるんですけどいかんせん、事が事で出来るだけ知ってる人間を少のうしたかったんです」

坂谷から切り出すと、伝之助は茶を啜るのをやめ、口を開いた。

「仲介が無かか。そいは受けれんのう」

この阿保、いらん事言うな。
優之助は心の中で悪態づく。

「まあまあ、こうして朝早くに自ら出向いてくれはったんですから話ぐらいは聞きましょ」

優之助が取りなすと、「まあよか」と意外にもあっさり引き下がる。
そっと安堵の溜息をつく。

「かたじけない。お二人が庶民の恨み辛みを引き受け、その復讐を果たしてる言うんを聞きましてな。わしもお願いしたくて上がったんですわ」

恨み辛みを引き受け復讐?
その噂は尾に鰭がついている。

しかし坂谷が恨み辛みとは……逆に人からたくさん買っていそうだと思ったが、特に訂正はせず先を促した。

「はあ、坂谷さんにもそないな相手がいらっしゃいますか」
「いてるんですわ。相手がちょっと厄介なんですけどね」

坂谷でも消せない相手がいるのだろうか。

「おはんが手を焼く相手ち言うたら奉行所ん人間か」
「さすが大山さん、勘が鋭い。奉行所の人間で消してほしいもんがいてるんです」

奉行所の人間だと……そんな事できるはずがない。

「ないごて奉行所の人間を消す。逆恨みは引き受けんど」

そうだ。
邪魔だからとか逆恨みと言った暗殺は引き受けない。

「とんでもない。まあ話を聞いて下さい」

坂谷は茶を啜り喉を潤すと話し始めた。

「今、島薗では奉行所による大々的な取り締まりが行われてます。追い込みかけられ、死んだ仲間もいます。なんで死んだかて?そりゃあ仕事がうまくいかんようなって川に身を投げたんですわ。わしが目をかけてた奴なんです。可愛がってた部下の命を奪われ黙ってる事は出来ません。わしは今島薗に追い込みかけてるのに中心なってる同心を殺ってほしい思てるんです。奴の名前は黒木保治郎。あいつだけは許せん」

坂谷は一息に話し終えると、眉根を寄せる。
しかし伝之助の顔は冷ややかだ。

「ないごてそげに追い込みをかけられっとか」

確かにその通りだ。
こいつは肝心な所を言っていない。

「そんなもん、悪者をでっち上げて自分の評価を上げようとしてんと違いますか」

横にいた狐顔ならまだしも、黒木にそんな邪まな気があるとは思えない。
大方、島薗の悪評を聞きつけようやく奉行所が動き出したといった所だろう。

「もちろん報酬は弾みます。今日は半金の百両をお持ちしました」
「半金で百両!」

優之助は目を剥いた。

坂谷は付き人の男に箱に入った金を出させる。

箱の中で金色に輝く大枚に驚く。
半金で百両……成功すれば二百両。

二百両あれば何が出来るだろうか。
何だって出来るのではないか。

「報酬はお一人百両で合わせて二百両。なので半金の百両です。引き受けて下さいますね」

正直迷う金額だ。
と言いたい所だが金で人の命を左右する訳にはいかない。

いや、どうせ逆恨みだから調査の結果、実行に移すわけにはいかないと言って金だけ頂くか。

「仕舞え、そげなもん」

大金を目の前に全く動じず伝之助が言う。
優之助はあれこれ策を巡らせていたが伝之助の一言で打ち破られた。

「ほう、引き受けませんか」

坂谷の目が鋭くなる。
嫌な空気が漂う。

「金出せば我がの思い通りなるち思うな。そいに正当な理由での復讐かどうかもわからん」
「面白い事を言う。金を出せば思い通りにならん事はなんもない。正当な理由である事はさっき話したやないか」

坂谷が丁寧な物言いをやめた。

「そいなら金を置いて行け。おいらが調べて判断する。正当とちごたら金は返さんど」
「そんな自分らの匙加減でどうにでもなるような事してるんか」
「お前らみたいな逆恨みを引き受けん為に釘を刺すとじゃ。後ろめたいこつがある奴はそいで依頼を引き下げる。わかったら金持ってさっさと帰れ」

伝之助が手を振って言い放つ。

「お前、口の利き方に気を付けろ」

一言も喋らなかった付き人の男が静かに口を開いた。

伝之助は坂谷から付き人の男に視線を向けると、口元に笑みを浮かべた。

「お前こそ気ぃつけぇ。人前で顔も見せれんやっせんぼがふて態度晒すな。坂谷の腰巾着が」

「なんだと!」
「落ち着け」

男が立ち上がろうとするのを坂谷が制す。

この男、案外短気なようだ。
渋々男は座り直す。

「この金を差し出したら依頼を引き受け調査をし、実行するか判断すると言う事ですな」

坂谷の目が光る。
こいつは何を企んでいるのだろう。

「そげんこつなるの。ただ人の命が関わっとる。そん時は半金だけとちごう。不当な理由であれば全額貰うち釘刺したこつもあっど」

おさきから依頼を受けた仇討ちの時だ。

あの時は半金を受け、それは依頼を引き受けた以上成功しようが失敗しようが返さない。
そしてその依頼が私利私欲に塗れた復讐なら残りの金も回収すると言う話だった。

あれ以来仇討ちの依頼は無かったから嘘や不当な理由なら半金を返さないと言うだけであったが、人の命が懸かるのだ。
当然そこまでするべきだ。

「それで結構。ほんなら半金を渡し、この金は何があっても返さん。残りの金は不当な理由での依頼の場合、復讐は実行せず金だけを支払う。そういう事でよろしいな」
「じゃ」
「ほんなら依頼を引き受けて下さい」

馬鹿な。こいつ、本気か。
そんなややこしい事に巻き込まれたくない。

「ちょっと待って下さい。勝手に話を進められたら困ります。坂谷さん、本気ですか。こっちが不当やと判断したら金は返さんわ、残りの金を貰うわって事ですよ」
「ようわかってますがな。そこまで譲って依頼する言うてますんや。まだ何かありまっか」

優之助に対しても坂谷の態度が崩れる。
最初の丁寧な物言いはない。

「それは……」

何が狙いや。
依頼を引き受けさせるだけでいいんか。

こんな素人目で見てもわかるぐらい逆恨みの依頼を持ってくるとは……これを引き受けたらどうなるんや。

「優之助さんあんた、ごちゃごちゃ言うのはよろしくないで。あんまりごねられたらこっちも出るとこ出なあかん」

坂谷の声音が低くなり、恫喝の色が滲み出る。

「あんたの実家、桜着屋言う呉服屋でえらい繁盛してるみたいやな。親父さんは一代で立派な店にしてええ腕の商売人や。けどな、商売の汚いとこを知らん。二代目なるあんたの弟も親父に負けず劣らずやけどまあ汚いとこを知らんのは一緒や。わしは商売の汚いとこはよう知ってる。ちょっと覗きにいってもええんやで」

坂谷は下品な薄ら笑いを浮かべる。
優之助は拳を握り締める。

こいつ、さっきからおさきの事をちらつかせたり今度は実家か。
ここに来るまでにこっちの事はしっかり調べているようだ。
そして弱味に付け込みねじ伏せてくる。

「もうよか。引き受けっど。優之助、紙と筆を持ってきて今言うたこつ全部書け」

優之助は渋々立ち上がり紙と筆を用意する。
依頼内容とその理由、報酬を書き、半金の百両は失敗に終わっても返さない事、不当な理由の場合は復讐も実行せずに残りの金も回収する事を書いた。

この依頼を引き受けなかった場合、坂谷が実家の桜着屋に行く事も書いてやった。
何かの予防線になると考えたのではなく、単に腹が立ったからだ。

「なんや、おもろいこと書きますな」
「ええ、きっちり依頼を引き受けるにあたった経緯まで書かんといけませんので。この内容でいいならここに坂谷さんの名を書いて下さい」
「ふん。まあええやろ」

坂谷は達筆の様な筆捌きを見せ、辛うじて読める汚い字で書いた。

「よし。これでわしの依頼は引き受けてもらった。ほんなら金を」

先程の箱を手で押しやる。
本当に百両が手に入った。

「確かに受け取りました。ほんならさっそく調査します。結果はまた追って知らせます」
「わかった。それでええ」

坂谷はそうと決まると立ち上がり、もう用は無いと言わんばかりにさっさと戸口に向かう。

去る前に付き人の男は伝之助に睨みをくれたが、伝之助は無視であった。


優之助は居間へ戻ると大きく一息ついた。

「朝からどっと疲れましたわ。朝飯も食ってないし腹も減った。伝之助さん、飯にしましょ」

伝之助は黙って頷き、共に飯の準備をする。

飯の用意が出来ると、手を合わせ食べ始める。
優之助は漬物で飯を頬張って言った。

「伝之助さん、あんな依頼、引き受けて大丈夫ですかね。奉行所の人を殺してくれって尋常じゃないですよ。まあ脅しかけてきてたから引き受けざるをえませんでしたけど……どう見ても逆恨みやし依頼内容は完全に暗殺ですよね。やっぱ大丈夫じゃないですよね」

伝之助は静かに味噌汁を啜り、ゆっくりと飲み込む。

「優之助、口にもの入れて喋るな」
「……すみません」

ちくしょう、こいつに礼儀作法の事を言われると無性に腹が立つ。

「まあ、大丈夫なわけがなか。ないか裏がある。そいにどうやら復讐を果たすよりもこん依頼を引き受けさせるこつが目的みたいじゃったのう」
「それ俺も思いました」

あの様子からして本気で黒木の暗殺を依頼しに来たとは思えない。

坂谷からすると大金ではないかもしれないが、半金で百両もの異常な報酬を用意して引き受けさせたい依頼……考えれば考えるほど恐ろしい裏がありそうだ。

「きっちり調べるこつが今のおいらに出来るこつじゃ」

調べるしか出来ないのだろうか。
他の手を考える。

「そうや、黒木さんに言うのはどうでしょう」

もはや自分たちの手には負えないのであれば奉行所を巻き込めばいい。
黒木が島薗を探っていると言うなら尚更都合がいい。

「そいもありじゃの。まあ言うかどうかは黒木の出方次第じゃな」
「そうですね。あっ、あの金どないしましょか」

坂谷が置いていった百両はそのまま居間にある。
百両もあれば散々遊び惚けられる。

「手を付けずに置いとけ。お前、間違っても使うなよ。毎日数えるからの」

ちくしょう。
何両かくすねようと思っていたのに。

結果的に坂谷からの依頼は、優之助の嫌な予感が的中することになる。
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